数字は証言する データで見る太平洋戦争
1941年12月8日、日本は戦争に踏み切った。「短期決戦による早期講和」を独善的に夢想し、ハワイ・真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲攻撃。しかし、「宣戦布告前のひきょうなだまし打ち」と憤激した世論を背景に、“世界の工場”米国は戦時体制に速やかに移行する。国民生活を犠牲にした動員をかけても、国内総生産(GDP)では米国の4分の1以下。一流国とは名ばかりの日本にそもそも、総力戦に耐えるほどの国力があったのか。データをひもといてみた。【高橋昌紀/デジタル報道センター】
第一次世界大戦後のアジア・太平洋地域の国際秩序は「ワシントン体制」を根幹としていた。1922年に締結された九カ国条約(日本、米国、イギリス、オランダ、フランス、イタリア、ベルギー、ポルトガル、中華民国)を軸に、中国の「主権尊重」「門戸開放」「機会均等の原則」が定められた。
この国際秩序に挑戦したのが日本だった。1929年10月の「暗黒の木曜日」(ニューヨーク証券取引所=ウォール街=での株価大暴落)に端を発したといわれる30年代の世界大恐慌によって、先進国は自国勢力圏の囲い込みによる経済のブロック化を進めていた。日本は資源を求め、「生命線」と位置付けた中国大陸への進出を強化する。
日本と米国の国力 = 1940年の実質国内総生産(GDP)
出典:「世界経済の成長史1820~1992年」アンガス・マディソン著
日中開戦後の1938年11月には公爵・近衛文麿を首班とする内閣が「東亜新秩序」声明を発表。日本と満州、中国による経済圏「日満支ブロック」の形成をうたい、その後の「大東亜共栄圏」へとつながっていく。しかし、この〝侵略行為〟は中国に権益を持っている米英の反発を招いた。第一次世界大戦の講和条約を軸とする「ベルサイユ体制」の打破を掲げたナチス・ドイツと同様、日本は国際秩序の破壊者とみなされるようになる。
戦力物資を海外に依存する日本の国力の実態は頼りないものだった。国力の基礎指標となる実質国内総生産(GDP)で、1940年の日本は2017億6600万ドル。米国の9308億2800万ドルの4分の1以下であり、イギリスの3156億9100万ドルにも及ばない。(数値は「世界経済の成長史1820~1992年」)
日本と米国の鉄と石炭の生産 = 1940年
出典:「日本の鉄鋼統計」「鉄鋼統計要覧」日本鉄鋼連盟 / 「日本長期統計総覧」日本統計協会など
日本と米国の発電量 = 1940年
出典:「Energy Statistics Yearbook」国連など
日本と米国の自動車保有台数 = 1940年
出典:「世界自動車統計年報」日本自動車工業会
重工業の差は歴然としていた。「鉄は国家なり」(ビスマルク)の言葉通り、鉄の生産能力は国力に直結する。1940年の粗鋼生産量を比べると、日本の685万6000トンに対し、米国は約9倍の6076万6000トンに達する。
生産活動に必要な発電量は日本の347億キロワット時に対し、米国は1799億キロワット時。民力の指標にもなる自動車保有台数は日本の15万2000台に対し、米国は3245万3000台だった。
相手の野戦戦力を戦場で撃滅すれば戦争自体に勝利できる、ナポレオン型の戦争の時代は去っていた。近代国家同士の消耗戦では、総合的な国力に基づいた継戦能力が勝敗を決する。前線に戦力を投入する能力を破壊しない限り、1会戦程度の戦勝では相手国を屈服させることはできない。
第一次世界大戦でドイツが最終的に降伏せざるを得なかった要因は戦場での直接的な敗北ではなく、
などによる国力の疲弊にあった。そして、長期戦に耐えるだけの軍事的、経済的支援を連合国側に与えられる米国を敵に回したことにあった。
南雲忠一中将指揮の日本海軍機動部隊は真珠湾攻撃で、米太平洋艦隊の戦艦4隻を撃沈するなどの戦果を上げた。しかし、米国は沈没・座礁した戦艦3隻を引き揚げ、前線に復帰させる。攻撃から約2年半後の1944年6月。南雲中将には既に率いる空母もなく、サイパン島で陸上部隊を指揮していた。米上陸部隊を支援する艦隊を遠望し、つぶやいたという。
「真珠湾で沈めた艦がいるね……」
日本はまだ、欧米のような重工業国の段階には達していなかった。このことは主要な輸出品に顕著に表れており、1940年の輸出額(36億5600万円)のうち、生糸(4億4606万円)、綿織物(3億9913万円)、衣類(1億3859万円)でほぼ4分の1を占めていた。
産業構造においても、十分な工業化には至っていなかった。同年の国民所得(309億7300万円)における経済活動別の割合をみると、製造業は最多の30.0%。一方で、農業も19.1%を占めている。
日本の主要輸出品 = 1940年
出典:「外国貿易月表」財務省 / 「日本統計年鑑」総務省など
日本の経済活動別国民所得 = 1940年
出典:「国民所得白書」内閣府
日本の戦争経済の実態を調査するため、米国のハリー・トルーマン大統領は終戦直後に「アメリカ合衆国戦略爆撃調査団」を派遣した。その調査によると、日本の重工業と軽工業の製品比率は1930年には38.2%対61.8%だった。構造転換を目指した努力によって、1937年には57.8%対42.2%と逆転。ただし、各種原料の確保は「依然として日本の工業生産を制約する要因」だった。日本が重工業化のために進出した満州と中国・華北地方からの資源輸入は限定的だったと指摘したうえで、同調査団は次のように結論づけている。
「日本の軍事工業は比較的小さくかつ新しく建設されたものであるから能力には余力というものがなかった。兵器生産の経験や他に大量生産の産業も少ない日本では、工業的機械学的に熟練した労働力を作り上げることができなかった。これは後日経済が大規模な戦闘のため逼迫(ひっぱく)したとき、熟練の不足、創意の不足、即席にものをつくる能力の欠如を意味していた」
「要するに日本という国は本質的には小国で、輸入原料に依存する産業構造を持てる貧弱な国であって、あらゆる型の近代的攻撃に対して無防備だった。手から口への、全くその日暮らしの日本経済には余力というものがなく、緊急事態に処する術(すべ)がなかった」
「日本の経済的戦争能力は限定された範囲で短期戦を支え得たにすぎなかった。蓄積された武器や石油、船舶を投じてまだ動員の完了していない敵に対し痛打を浴びせることは出来る。ただそれは一回限り可能だったのである。このユニークな攻撃が平和をもたらさないとき、日本の運命は既に定まっていた」
戦前の日本の主要な貿易相手は米国、イギリス、オランダなどの「仮想敵国」だった。3国への市場依存度は高く、特に外貨獲得の主力産品である生糸は96%(1930年)を米国に輸出していた。その利益で輸入した綿花を織物などに加工し、次にイギリス領インド、オーストラリアなどに輸出した。ここでの利益は機械類、鉄鋼、原料などの購入に充てられ、日本の重工業化を進めてきた。
すなわち、
という構造だ。
日本は、自らの経済ブロックと位置付ける満州、中国には工業製品と機械類などを輸出し、農産物と鉱物などを輸入していた。ただし、この貿易は大幅な輸出超過だった。石油はもちろん、銃弾の製造に必要な銅、航空機などの製造に必要なアルミニウムの原料ボーキサイトなどの戦略物資は依然として、米国やイギリス、オランダなどに頼らなければならなかった。
主要輸出品の輸出先(金額による百分比)=1930年
主要輸入品の輸入先(金額による百分比)=1930年
※海峡植民地は、マラッカ、ペナン、シンガポールなど、マレー半島のイギリス領植民地。
オランダ領インドは現在のインドネシア。
出典:「外国貿易月表」財務省
こうした日本の貿易構造を既に戦前に解き明かした経済学者の名和統一・大阪商科大学(現大阪市立大学)教授は、著書「日本紡績業と原綿問題研究」で「英米との衝突は悲劇的であらねばならぬ」と喝破したうえで、「日本が大陸政策強化の準備として、重工業・軍事工業生産力拡充に焦慮すればする程、世界市場への依存、原料輸入は増大すると云(い)う循環を示した。ここに日本経済の深憂が存ずる」と分析していた。1935年の貿易額を国別(植民地だった朝鮮、台湾を除く)にみると、さらに依存度が分かる。
1935年の貿易額
輸出:24億9900万円
輸入:24億7200万円
日本の対米国貿易の推移 輸出入総額に対する百分比
出典:「日本長期統計総覧」日本統計協会など
日本の中国侵略は米国を刺激し、1939年7月に「日米通商航海条約」破棄の通告を受ける。「日満支」経済ブロックを強化してきたとはいえ、1935年時点での輸出総額に占める米国の割合は21.4%、輸入総額では32.7%に達していた。実際の条約破棄は規定上6カ月後とされたが、米国の通告は日本の主力輸出品である生糸、絹製品の相場を大暴落させ、国家経済に深刻な打撃を与えたという。
特に最重要の戦略物資である石油において、米国との関係悪化は致命的だった。1940年の世界生産に占める米国の割合は実に62.6%。日本銀行所有の金準備を取り崩すなどし、日本は特別輸入などによる原油の備蓄に努める。全面禁輸までの“駆け込み輸入”を続け、1940年時点での輸出総額に占める米国の割合は低下したが、逆に輸入総額では増加することになった。戦争に必要な物資を最大の仮想敵国に依存するという矛盾をはらみつつ、1941年当初には2085万7000バレルの在庫を確保することができた。
世界の原油生産 = 1940年
出典:「石油開発資料」石油鉱業連盟 / 「内外石油資料」石油連盟など
一方、1940年9月の北部仏印進駐、日独伊三国軍事同盟の調印などで、米国はさらに硬化していく。1941年5月に海軍軍令部は海軍省なども参加した「対米持久作戦」の図上演習を実施。「海軍は開戦後2カ年半の作戦をまかなえる燃料を蓄えているが、米英の全面禁輸を受けた場合、4、5カ月以内に南方武力行使を行わなければ主として燃料の関係上戦争遂行ができなくなる」との結論を出したという。
ここにいたり、オランダ領ボルネオの油田地帯を中心とする南方地域の資源獲得(いわゆる「南進論」)は明確となる。1941年8月。前月の南部仏印進駐を受け、米国は石油の対日輸出全面禁止を通告してきた。そのまさに4カ月後、日本は真珠湾攻撃に踏み切る。
日本の原油輸入と生産、在庫高
出典:陸海軍石油委員会 / 単位:千バレル
米国の対日輸出全面禁止を受け、1941年の日本の原油の輸入は激減した。「12月8日」後の南方資源地域の占領は順調に進み、1942、43年の輸入(いわゆる「還送」)は右肩上がりとなる。しかし、米海軍は日本本土と海外を結ぶシーレーンの破壊を、軍事戦略の最優先の一つに据えていた。
大西洋では同盟国・独海空軍のUボートとコンドル爆撃機がイギリス、ソ連向けの輸送船団に大打撃を与えているという戦訓があったにもかかわらず、艦隊決戦主義の日本海軍は海上護衛を軽視。そのため、米潜水艦と航空機による日本商船の被害は激増していく。
1945年1月に海軍は起死回生の輸送作戦「南号作戦」を発起するが、計15船団延べ45隻の商船のうち、20隻が撃沈された。事実上、南方からの輸送は途絶。日本の原油在庫は減少の一途をたどる。一方で、南方の油田地帯では積み出しができないため、湧き出す石油を燃やしていたという。
国家として、近代戦争を遂行できるのか――。対米関係が緊張の度合いを増すなかで、日本の政府・軍関係者もまた、データに基づいた調査を試みていた。
1940年2月ごろ、陸軍の秋丸次朗主計中佐が中心となり、軍民合同の経済調査班が発足した。この「秋丸機関」は日本、英米、ドイツ、ソ連の計4班で研究。1941年9月末までに
との報告を出した。
国民生活を犠牲にしても、財政的に日本は米国に劣る。英米班に所属した経済学者の故・有沢広巳(元法政大総長)は回顧している。
「日本が約50%の国民消費の切り下げに対し、アメリカは15~20%の切り下げで、その当時の連合国に対する物資補給を除いて、約350億ドルの実質戦費をまかなうことができ、それは日本の7.5倍にあたる」
秋丸中佐は陸軍部内の幹部会議で、こうした内容を示した。統帥部トップの杉山元(げん)参謀総長は内容を「おおむね完璧」と認める。しかし、「その結論は国策に反する。従って、本報告の謄写本は全部ただちにこれを焼却せよ」と命じたという。
◇
「陸軍中野学校」を創設し、謀略戦の専門家である岩畔豪雄(いわくろ・ひでお)大佐は在米日本大使館に赴任し、非公式の日米交渉に参画。1941年8月に帰国すると、政財界の有力者らに対米戦の無謀さを説いて回った。政府・軍の最高指導部による「大本営政府連絡会議」では、独自調査に基づいた米国との国力差を示すデータを公表する。
「総合戦力は10対1。大和魂をふるっても日本は勝てる見込みはない」と締めくくった。ところが、岩畔大佐は翌日には東条英機陸相から直々に、カンボジアの駐屯部隊への転属を命じられた。東京駅に見送りに来た人々に対し、岩畔大佐は「もし生きて再び東京へ帰ってくるときがあるとすれば、東京駅はきっと廃虚になっていることだろうね」と語った。
内閣直属の「総力戦研究所」(1941年4月設立)は「模擬内閣」を組閣し、机上演習を行っている。「閣僚」に就任したのは平均年齢33歳の研究員36人。いずれも中央省庁、陸海軍、日銀、民間、報道機関などの将来の幹部候補で、それぞれが出身母体のデータを活用するなどし、日本が石油獲得のために南進した場合の国家レベルでの影響をシミュレートした。
その結果、対米関係は悪化するが、国力的に開戦は不可能――との「閣議決定」を下す。それでも対米戦に踏み切った場合は「船舶被害増大によりシーレーン崩壊」「長期戦になり石油備蓄消耗」「中南米諸国との外交途絶」などに至ると判定。最終的には「ソ連が米国と連携し、対ソ関係が悪化」し、模擬内閣は「総辞職」した。
1941年8月、東京・永田町の首相官邸大広間。近衛文麿首相をはじめとする閣僚らに、研究員たちは「閣議報告」を行った。ストレートな表現は避けられたが、結論は明白だった。終始熱心にメモをとっていた東条英機陸相は発言したという。「日露戦争で勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります。戦というものは、計画通りにいかない」。そう強調しながら、最後に付け加えた。
「なお、この机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口外してはならぬ」
「米国は巨大なボイラーのようなものだ。その下に火がたかれると、無限の力が作り出される」(エドワード・グレイ、第一次世界大戦時の英外相)
米国には孤立主義の伝統がある。1941年であっても、平和を求める機運は強かった。国内にはドイツやイタリアからの移民が多く、両国と交戦するソ連は共産主義国家だった。議会では1年期限の徴兵法の延長法案が通過したが、わずかに1票差だった。イギリス、中華民国を援助する民主党・ルーズベルト外交への批判は強く、ホワイトハウス前では反戦運動家がピケを張っていたという。
真珠湾攻撃について、ピュリツァー賞作家で歴史家のバーバラ・タックマンは指摘する。「日本人は米国民を一つとなし、国を挙げて戦争にかりたてうるたった一つのことをした」。イギリス、オランダ、フランスの植民地への攻撃ならば、米国を戦争に引き込むことにはならなかっただろう、と。そのことを日本人が理解できなかったことは「愚行の要素となる文化的無知とも呼べるもののせいだった」とみる。
「日本人は自分たちの基準で米国を判断して、米国政府はいつでも好きなときに自国を戦争に駆り立てられると思い込んだ」
「大ばくちに賭けた」
「この衝動はあらがいがたい支配の夢、壮大な自負、貪欲に発していた」
日本と米国の国民総生産(GNP)の動態比較(1940年を100として)
出典:「日本戦争経済の崩壊」アメリカ合衆国戦略爆撃調査団
無謀な対米宣戦に踏み切った原因の一つとして、タックマンは日本の文官たちが軍部に譲歩してしまったことを挙げた。「どんな征服でもできそうに思われるファシスト権力の壮大な気分」に陥った。日本人は現状維持で満足することができず、「身分不相応な野心の囚(とら)われ人」になっていた。
領土への直接攻撃を受け、「巨大なボイラー」は目を覚ました。太平洋艦隊が壊滅しても、フィリピンを失陥しても、「リメンバー・パールハーバー」が国民を鼓舞した。1944年の国民総生産(GNP)で、日本は1940年比1.24倍の成長を達成した。ところが、米国は1940年比1.65倍に急拡大。国際政治のリアリズムによって、各国は次々と連合国陣営に参じた。日本は世界の孤児となる。終戦時には世界52カ国(政権未承認国含む)が大日本帝国に宣戦布告・国交断交していた。
日付は宣戦布告日 / ※は断交。日付は断交日 / 出典:外務省外交資料館
12月8日 | アメリカ イギリス オーストラリア ニュージーランド カナダ 南アフリカ連邦 コロンビア※ コスタリカ ドミニカ ニカラグア グアテマラ ホンジュラス |
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12月9日 | パナマ エルサルバドル ハイチ キューバ |
12月10日 | オランダ |
12月20日 | ベルギー |
5月22日 | メキシコ |
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1月17日 | イラク |
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12月4日 | ボリビア |
1月27日 | リベリア |
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9月22日 | フィンランド※ |
10月31日 | ルーマニア※ |
11月7日 | ブルガリア※ |
政権未承認国
2月9日 | エクアドル |
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2月12日 | ペルー |
2月13日 | パラグアイ |
2月14日 | ベネズエラ |
2月22日 | ウルグアイ |
2月23日 | トルコ |
2月26日 | エジプト シリア |
2月27日 | レバノン |
2月28日 | イラン |
3月1日 | サウジアラビア |
3月27日 | アルゼンチン |
4月12日 | スペイン※ チリ |
5月23日 | デンマーク※ |
6月6日 | ブラジル |
6月26日 | ギリシャ |
7月11日 | ノルウェー |
8月9日 | ソビエト連邦 モンゴル |
欧州時間の12月7日日曜日。真珠湾攻撃の知らせを受けたその晩の思いをイギリス首相ウィンストン・チャーチルは記す。
「かくして、われわれはついにその戦争に勝ってしまった。(中略)ヒトラーの運命は定まった。ムッソリーニの運命は定まった。日本人に到(いた)っては、みじんに砕かれるであろう」
「東においてえらいめに遭うことを予想した。が、そういうことはみな束(つか)の間の一様相にすぎぬであろう。(中略)多くの大不幸、測り知れぬ犠牲と苦難は前途に横たわっていたが、結末についてはもはや疑いはなかった」
「満身これ感激と興奮という状態で私は床につき、救われて感謝に満ちた者の眠りを眠った」
真珠湾攻撃という選択肢しか、日本にはなかったのか。元防衛大学校長で、歴史家の五百旗頭真さんに聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】
日本が真珠湾攻撃に踏み切った1941年12月8日、それは欧州の東部戦線でドイツ軍によるモスクワ攻略の失敗が明らかになった直後でした。近代戦の要は首都攻略です。これにより、ソ連が早期降伏する見込みはなくなり、ドイツは対イギリスの西部戦線も抱え、第一次世界大戦と同様に「二正面作戦」に陥った。日本はドイツ、イタリアと三国軍事同盟(1940年9月)を締結することで、米国やイギリスをけん制しようとしましたが、頼みの綱のドイツが致命的な敗北を被ったわけです。
歴史に「もしも」はありません。しかし、ドイツ敗退との戦況が対米開戦の決定前に伝われば、日本政府にどのような影響を与えたでしょうか。その場合、日本は...
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