2014/6/12
「日本に渡来したイスラエル人 その1」
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-566.htmlさまより了解を得て転載・解説
関連URL.......ドーマン(九字)図形と陰陽学
http://web.archive.org/web/20071227143313/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/1102.html
イスラエル12支族の興亡史
http://web.archive.org/web/20071229084108/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/872.html
ヘブライ文化史専攻の歴史学者・小辻誠祐博士の『ユダヤ民族』は昭和40年に公刊された。セファルディムとアシュケナジムについての説明は、ケストラー説が出る前だからさすがに苦しいが、全体として博士の学者的誠意と永年の研讃が伝わってくる良著と思う。
しかし、次の記述となると、どうであろう。「イスラエル王国が紀元前722年にアッシリアのサルゴン王に滅ぼされた時、多数の住民が虜囚としてアッシリアにつれ去られていった。ところが、彼らはその後ばったりと行くえを絶って、〔失われたイスラエルの10の支族〕としてしばしば好事家の怪説の対象となっている。日本の論者の中には彼らをもって日本人の先祖であるとする向きもあるが、★まじめな学問的考証にめぐまれぬ巷間の思いつきとしか思われない。彼らはいずれ現在のイランやイラク地方の住民の中に吸収されていったものであろう。」(青文字は落合)
断言の背後には、小辻博士が「まじめな学問的考証」と自負するところの近代的方法論がある。そう言うと、ほとんどの史家から、イスラエル族渡来説のごときは伝統的考証法においても論外だ、と非難されよう。
秦利勝をユダヤ人景教徒とする佐伯好郎博士の説も、史学界は受け入れない。佐伯説に景教の伝播と秦氏の渡来についての時間的矛盾があるにしても、秦氏の出自をイスラエル族と観る分には特に矛盾はあるまい。しかしながら、史家はそんなことより、〔ユダヤ人の渡来〕説そのものをハナから荒唐無稽と見ているのである。
★これ偏えに彼らが借り物史観から脱却できていない証拠である。もしそれ汝らにして真の史家たらむと欲すれば、宜しく国内を巡り巷間に史的伝承を拾ふべし。虚言を伝ふる古文献にすがるばかりでは史実は遂に分からぬ。
そこで史的伝承の1例を挙げよう。例の『周蔵手記』には外科医・渡辺政雄から聞いた上田家伝承を記す。聞いた時期は大正末年と思われる。政雄の祖母・渡辺ウメノは丹波穴太村の上田家から出た。出口王仁三郎の実父・上田吉松の従兄弟にあたる。ウメノが公家・堤家の嫡男・哲長と親しくなって生んだ子の、さらに子供と称する政雄は、同じく堤哲長の孫にあたる周蔵とは、表向き従兄弟の間柄となる。
伝承では、上田家は古代に渡来したユダヤの末裔で、本姓を海部(アマベ)といい、丹後一之宮の篭神社(元伊勢与謝の宮)の宮司の一族である。アマベは丹後半島に上陸し、各地を開拓して“近江の伊勢”まで勢力を伸ばした。アマベは全国海人の頭となり、伊勢の海女が手拭いに付ける護符のドーマン(格子模様)とセーマン(五芒星)もユダヤがもたらしたもの、とのことである。
驚いたことに、★昭和50年代に滋賀県守山市伊勢町という所で宅地造成中に、大規模な弥生村落がたまたま発見され、伊勢遺跡と名付けられた。規模はクニといえるほど大きく、ここには弥生時代の王がいた筈だと史家は言う。以後も発掘が進み、平成15年には竪穴建物が出土したが、1世紀末から2世紀初めの築造と見られ、弥生時代の方形建物としては最大の規模である。生活臭がないから祭殿と見られ、様式は伊勢神宮の神明作りと似ている。
建物の長さの単位が22.5センチで、漢尺であるから、漢ないし朝鮮半島との関わりが見て取れる。朝鮮半島経由で渡来したアマベは、丹後半島の与謝を出発し、以後各地を開拓してはクニと祭殿(イセ)を建設していった。到達点の伊勢皇太神宮だけを残して、あとは元伊勢として扱われたから、篭神社が「元伊勢根元の宮」と自称し、伊勢神官の本家と主張するのも宜なるかな。
伊勢遺跡の遺物から、ここに達したのは紀元前後と分かるが、与謝から守山に至るまで何百年を経たのであろうか。守山の伊勢宮も元伊勢の1つなのだから、神明作りであって当然である。昭和50年代まで、こんなものが隠れていたことは史家も全く知らなかった。これを以て上田伝承が裏付けられたことを潔く認めるべきである。
アマベの渡来時期は縄文末期と思われる。「縄文文化に生きていた人々が、ある日突然、弥生文化を取り入れた」との説が近年台頭したが、弥生人渡来の経緯は必ずしも明らかでない。江上波雄の騎馬民族説の枕に、漢帝国の成立を受けて対漢交易民族の倭人が、商売のために朝鮮の南端と日本に渡った、と述べているだけである。
伊勢遺跡は弥生文化そのものである。ゆえに、これを基準に「縄文社会が、アマベの渡来によって、弥生社会に移行した」と考えた方が良いものと思う。倭人の統率者をアマベと観れば、江上説とも矛盾しない。渡来の時期は、伊勢遺跡の始まりから適当な時間を遡った ― 紀元前3〜4世紀あたりと見当をつけてはどうだろうか。
それはともかく、渡来したのは南朝ユダヤ2支族ではなく、北朝イスラエル10支族のようで、アマベの祭祠イセはイスラエルの謂であろう。
砂漠の遊牧民の神・ヤアウエに帰依した南朝とは違い、北朝では地祇(農業神)のバアルやアシュトラ、ミトラの崇拝が本流であった。イセの宮の本来の祭神ホアカリ(天火明命)は別称天照国照彦で、その名の通り太陽神と見られるが、伊勢皇太神宮が国家の太廟となる際、内宮の祭神として女神化し天照大神に改変したが、太陽神たる性格に変化はない。ホアカリの実体は、牛角を生やした天空神バアル、ないしその子の太陽神ミトラと考えられる。ミトラはマイトレーヤで、仏教に入って弥勒仏とされる。
さて、年末に書庫を整理していたら、月海黄樹著『竜宮神示』という本が見つかった。10年ほど前に山窩を研究していた時、著者が山窩(サンカ)の家系と称するのに興味を持ち、購入したが、どうしたことか未読であった。多分、同じ著者のもう1冊『稀代の呪術師・秀吉の正体』という本だけで満足してしまったような気がする。著者は高野山関係の山伏の家系で山窩の血筋であると自称する。祖父が赤い羽織を一着に及んで持山の見回りをする時には、山民衆が土下座して迎えた話を著者から直接聞いた人もいる。
この書は大本教の尊師・出口王仁三郎の予言について述べたもので、内容については措くが、「王仁三郎の出自の穴太村という所は、穴太衆という海人の石工集団がいたところである。その土着の名家である上田家は生粋の海人族〔朝廷に漁業をもってつかえる1族。漁業のみならず石工、製鉄、木師などの職人集団を形成した〕であった」と述べており、さらに「王仁三郎の説いた〔国常立大神はトルコのエルサレムから来た〕には、海人族上田家に伝えられる何らかの口伝が影響していたのかもしれない」と、期せずして上田伝承の存在に触れているのには驚いた。
また、「海部家の口伝では、神武天皇は、応神天皇、崇神天皇と同一人物であるとし、古事記においては3世紀頃の天皇とされる応神天皇の時代に、朝鮮・北九州の合衆国の王・応神天皇が大和に東征するに至り云々」と、海部家の伝承にも触れている。3天皇同体説は、私の現在の仮説とはやや異なるが、それはともかく、いかにも海部家・上田家の内情に詳しいような著者の口ぶりである。
それもその筈、仄聞ではあるが、月海女史は渡辺政雄の子孫としての認知を(上田家側に)求めたらしい。認知されれば、上田の血族として何かと優遇されるらしいが、結果は聞いていない。
大正末年頃に『周蔵手記』に書き留められた上田家伝承の内容が、60年後に伊勢遺跡として発見され、その10年後に月海黄樹の著書に発現した。こういう口伝が各地各家にあり、原初の純粋さを失っていても、史実の片鱗はどこかに必ず残っているのだから、史家は、遺跡を掘ったり古文書を捲るのも必要だが、同様な労力を口碑の採集と分析にかけて貰いたい。それもせずに、「まじめな学問的考証にめぐまれぬ巷間の思いつきとしか思われない」などと澄ましておってはいかぬのではないか。
それはさて、『周蔵手記』には「流れついたるユダヤ」というだけで、支族までは明らかでないが、月海女史のこれに対する見解は明快である。前掲書は出口王仁三郎の予言の解説が主旨で、王仁三郎の予言を称揚するための作為、いわば山窩史観を随所に感じるが、傍論としてヘブライ族に関する独自の見解を披瀝しており、その方は甚だ面白い。
曰く、そもそも、バビロン虜囚から解放されたヘブライ族は、ダビデ王の代にヤアウエの神殿を建てて帰依するが、一神教と多神教の溝が拡がり、その子ソロモン王の代には10支族が反乱してイスラエル王国を建てた。彼らの信仰はバアルとアシュトラ(イシュタル)およびミトラで、他のオリエント民族とも宗数的な差異はなかったから、紀元前722年イスラエル王国の消滅後、彼等は他民族の間に自然に混入していった。ここが唯一神ヤアウエに拘泥した南朝ユダヤと違う点であり、日本に渡来したのは無論イスラエル族である。
さらに、11世紀までのユダヤ人は、ヤアウエ以外の神も祀る多神教徒であった。現在の旧約聖書は11世紀以後の成立か、それ以前のものをユダヤー神数を基盤にして書き直したもので、聖書に出てくる神も、ある場合は明らかにヤアウエでなくバアルを指している、と指摘する。甚だ論理的で肯綮に当たる。小生のごときは、聖書にあまり馴染まぬから、逆に聖書なぞ百万遍も考究し尽くされたものと、テンから思っていたので、まさに驚天動地である。
ルシファーについても首肯すべき説を唱えている。太陽神と混同されることもあるバアルは、本来天空神で、エジプトではオリオン三星、ヘブライでは明けの明星(金星)を以て象徴されていたが、ヤアウエ信仰が強化したユダヤとキリスト教を国教化したローマで、堕天使ルシファーと見倣されるようになった、というのである。ワンワールド首脳の信仰対象と私が推定するルシファーは、金星バアルでもある。
イスラエル族の護符ドーマン(格子紋)が水神として、セーマン(五芒星)が金星女神として象徴するイシュタルをユダヤ数とキリスト教が悪魔に落とした仕打ちが中世人類の不幸を招いたのである。
不思議なことにこのセーマン・ドーマンは日本の海女さんのお守りとして使われている。
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-567.html
丹後一宮籠神社の宮司・海部家の分家で、丹波桑田郡穴太村の小幡神社を守ってきた上田家は、円山応挙(上田主水)と出口王仁三郎(上田鬼三郎)を出したことで知られる。上田家には古来イスラエル族の日本渡来に関する伝承が伝わっていた。上田家の血を引く外科医・渡辺政雄から聞いた伝承を、吉薗周蔵は手記中の★「別紙記載」として書き残した。以下では、それを★「上田伝承」とする。
上田伝承は「上田はアヤタチの一族である。アヤタチとは後に付けた名前で、本姓はアマベと言い、日本に流れ着いたユダヤの子孫である。アマベとは海人で、日本の海を支配した人のこと」から始まる。アヤタチについては後日論究するとして、まず政雄の謂うユダヤがヘブライ族の北朝イスラエルを指すことを銘記すべきである。ヘブライ族を指して当時も今も、欧米俗流が「ジュイッシュ」、日本でも「ユダヤ」と呼ぶが、その俗語を政雄は用いただけであり、伝承の内容からしても、南朝ユダのことではあり得ないので、以下ではイスラエルとする。
関連URL...........
詳しくは...........アヤタチとサンカ1〜5参照
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http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1021
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1022
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http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1024
セムとシュメルの混血児アブラハムを始祖として、メソポタミアのウルに発祥したヘブライ族は、神の召命でカナーンに向かい、食料を求めて入ったエジプトで奴隷化されたが、モーゼの指導で脱出し、その後はカナーンにあって民族団結により隆盛を誇るが、ソロモン王の死後に分裂した。ヤアウエ1神教に傾くユダ2支族に対して、シュメル起源のバアル・イシュタル・ミトラ神の信仰を棄てない北方10支族が反乱し、独立してイスラエル王国を建てたからである。
イスラエルはやがてアッシリアに征服され、その民は、史家から行方不明とされる。実情は当時の慣習として、民族全体が征服者の奴隷として連行され、民族の一体性と主体性を失って周辺民族に溶け込んだのだ。彼らが奉じたバアル中心の多神教がオリエントの普遍的信仰のため、周辺諸族との宗教的障壁が低かったこともある。この点、新バビロニアに滅ぼされたユダの民が、バビロン虜囚後において唯一神ヤアウエの信仰を却って強化したため、民族の一体性を失わなかったのは、むしろ例外なのである。
上田伝承は、アマベのほか、物部も宇佐も渡来イスラエル族だと語る。同様の趣旨は、月海黄樹が『日本神道に封印された古代ユダヤの暗号』にも述べているが、穴太村・上田家の血筋を称する月海女史の言なれば、平仄が合って当然か。また、籠神社の極秘伝にも「当社の祭神ホアカリと物部氏の石切神社の祭神ニギハヤヒは同体なり」とある、と聞く。要するに、海部氏と物部氏はイスラエル系の同族というのであるが、宇佐については後述する。
ホアカリを祀る籠神社の別名は元伊勢根元の宮(イセ=イスラエルか?)である。その祭神ホアカリは、別名天照国照彦が示す通りの太陽神で、太陽神バアルの垂迹たるべき筋合だが、後代に男性を表す「彦」が取り去られて天照大神となり、性転換されて伊勢神宮の内宮に祀られた。因みに「籠神社の秘伝にホアカリが実はヤアウエという」との記事をインターネットで見たが、これは論者が「ユダヤ神ならばヤアウエの他にない」と速断、誤解したものであろう。イスラエル族は、実は多神教なのである。
アマベ渡米の事情について、上田伝承は詳述しないが、月海著『龍宮神示』には「海人の王国として現在、認識されているものは、丹後、俳誌、丹波の範囲。出雲、若狭湾・琵琶湖周辺。紀伊半島の海岸添い(沿い)。四国・九州の海岸添い(沿い)一円、伊勢、尾張等の地域で、古代日本にはこうした海人王国が大和朝廷と並んで点在していた」と述べる。
確かに、海部郡の名は尾張・紀伊・豊後の三国にあり、海部郷は阿波国那珂郡・上総国市原郡・越前国坂井郡・丹後国熊野郡・伯貴国会見郡・筑前国怡土郡・同那珂郡・同宗像郡と六国八郡にわたって散在している。紀伊国を例に取れば、今は名草郡と合併し海草郡となった海部郡は、凹凸の激しい紀伊半島の紀伊水道側の突端部にとびとびに散在する村や浦で構成されていた。海部郡(郷)とは、海人の住む漁村だけを括った行政区画に冠した地名で、渡来海人たちが漁業の適地を選んで展開した地区を海辺(部)と称したものである。上田伝承にいう「日本の海を支配した」とは、まさにアマベが全国の「海部」の人民を支配した、と謂う意味になる。
月海はさらに説く「その中心であった丹後王国に関しては、・・・まず海人には渡来の伝承が受け継がれている。海人伝承では、海人たちは、日本に従来いた原住民とは違い、船を漕いで海の向こうから渡ってきた人たちである」。
これと、同根の上田伝承とを一体として見ると、「アマベは海人の頭として、海人を引き連れて丹後半島に渡来し、全国の海部の人民を支配した」となり、ここで海人渡来伝承の全体がはっきりする。
ところが、上田伝承によれば「アマベは初め丹後半島のあたりから始まり、勢力範囲を拡大して伊勢まで伸ばした。この伊勢は近江の伊勢のこと」とある。アマベの開拓前線が到達した「近江の伊勢」が滋賀県守山市の伊勢遺跡を指すことは前号で述べたが、弥生遺跡として全国でも最大規模の伊勢集落はBC50〜紀元0年にかけて出現し、2世紀に最盛期を迎えたと見られる。これが典型的弥生集落である事実は、海人集団が弥生文化の発展に主体的に関わったことを示し、換言すれば、近畿地方の弥生集落は海人集団が建設したことを示す、となる。これも過言ではあるまい。
一方、月海も前掲著で「丹後に海人の王国が築かれた後、海人たちは各地に都市国家を形成すべく、日本中に広がっていった」と語る。つまり、海人集団は海部地域に留まらず、内陸部に都市国家を作り、周辺を耕作して農業展開を図ったという。その1つが上田伝承に出てくる「近江の伊勢」である。当然なのだろうが、平仄が合う。
このような海人集団が、日本列島に来て初めて弥生式稲作農業を学んだとは思えない。つまり、彼らは純粋な海人ではなく、半漁半農民と見るべきである。換言すれば、半農半漁集団の渡来を直接原因として日本社会が縄文文化から弥生文化に移行したわけで、海人集団こそ弥生文化の主体ということになる。
この海人集団にぴたりと当てはまるものは、いわゆる倭人である。江上波雄によれば、雲南に発祥して長江を下り、華南の沿岸で越人と混淆した倭人は、元来水田稲作と沿岸漁業を得意とした。漢民族相手に水産物などを商い、深い交易関係にあった倭人は、前漢の朝鮮半島侵出に呼応して、朝鮮南岸から北九州にかけて渡来してきた。
落合思うに、倭人は形質や民族習慣を見ても明らかに北方モンゴロイド系で、イスラエル族の後裔ではあり得ない。とすると、★海人集団なるものの実態は、少数のアマベ即ちイスラエル系海人が多数の半農半漁民即ち倭人を率いたものではないのか。且つ、江上のいう「交易」こそアマベの専業で、漁労は倭人が専従したのではないか。つまり、「海人」の語は狭義に、即ちイスラエル族のアマベに限定して用いるのが善いと考える。
ともかくも、江上の騎馬民族説は、少なくとも導入部分については正しいことがこれで証明された。江上の倭人論の根拠が何かは実は興味ある問題なのだが、暫く措くとして、かように古伝承と考古学的物証が揃う例は珍しく、歴史研究において【古伝承重用すべし】という証左としても意義が大きいものと思う。
守山市の伊勢遺跡に残る「近江のイセのクニ」は前1世紀に出現した。本家たる丹後海人王国の出現は、さらに数世紀を遡る筈である。その時期が弥生文化の発祥と同期することは、以上により明らかであろう。
ところで月海は、前掲文に続き、「・・・その中で、3世紀頃に現れた丹後王国のニギハヤヒは、大和の土着勢カ・ナガスネヒコと姻戚となり、大和を統治していた」と語るので、しばらく耳を傾けてみよう。
「3世紀に現れた丹後王朝の王族ニギハヤヒは、大和の斑鳩の峯(現在の生駒)に下り、上着勢力であるナガスネヒコと婚姻関係を結んで大和を統治していた。そこに西から侵入してきた勢力があった」
まず、ここまでは首肯できる。丹後王国は数百年も存続して周囲に発展したが、3世紀に出た王族ニギハヤヒがヤマト地方まで勢力を伸ばし、土着勢力と同盟して大和を統治したとの意味である。ニギハヤヒは、太陽神ホアカリと同体の神様ではなく、3世紀に現れたアマベ家の英雄なのだ。月海が「物部は海部の分家」と言うのは、ヤマト入りしたニギハヤヒ系を、アマベ本家と区別して物部と呼んだとの意味だろう。
近江のイセ集落は前1世紀に出現し、伊勢遺跡が物語るように2世紀末にはクニの規模にまで発展した。ところがアマベの前線は、その頃やっとヤマトに到達した。近江に比べて時間を掛けたのに連合政権止まりだったのは、土酋・ナガスネヒコが頑張ったからである。
天孫神話では、天孫の子であるニギハヤヒは、天孫族の先駆けとして降臨しながら、ナガスネヒコの妹婿となり、義兄と同盟して天孫軍に抵抗した。しかし戦いに利非ず、ニギハヤヒはナガスネヒコを殺して天孫(神武)軍に帰順し(出羽に逃れ)た。その子孫が物部氏であるという。
これは典型的な偽史だと思う。ニギハヤヒがアマベの王族ならば、3世紀になって高天原(朝鮮)から降臨(渡来)した天孫族には含まれない筋合である。また、ニギハヤヒが天孫軍の先駆けだとしたら、アマベの王族ではあり得ない。唯一の統一理論は、両者ともイスラエル族で、アマベ系を古渡り、天孫を新渡りとする説だが、空論に過ぎないだろう。
とにかく、弥生社会の生成発展は、海部・倭人は勿論、先住縄文系も混血系も力を合わせた賜物である。3世紀といえば弥生時代も晩期で、国津神ナガスネヒコを首長に仰ぐヤマトの土着民は弥生社会に生きていた。国津神と天津神の区別は、朝鮮渡来の古墳系人が自らを天孫になぞらえたものであり、アマベも倭人も縄文系も、なべて国津神とされたフシがある。しかし、ナガスネヒコは素より天孫ではなく、アマベでもないようだ。それならヤマトの弥生文化を生成・発展させたのは誰か?
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-568.html
イスラエル10支族の子孫アマベ(海部氏)は海人で、倭人集団を率いて日本列島に渡来し、沿岸の漁業適地に海部郷を設けて根拠地としたが、さらに内陸部に進んで各地に農業集落【イセ】を建設した。このことが列島を縄文社会から弥生社会に移行させたとの私見を、前月号で述べた。
海部1族の丹波穴太村・上田氏の血筋を称する月海黄樹が、海人伝承を紹介した(以下 -「月海伝承」という)中に「アマベが建てた丹後海人王国の王族ニギハヤヒが2世紀に大和の土着勢力と同盟して大和地方を支配した云々」とあることも紹介した。
丹後半島に始まり各地に集落の建設を進めた海部氏が、近江守山でイセの建設に着手したのは、遺跡調査の結果から紀元前50年ころとされる。しかし大和への進出は近江よりずっと遅れたらしく、月海伝承は「ニギハヤヒが大和でナガスネヒコとの連立政権を立てたのは3世紀のこと」と言う。この「三世紀」を原伝承ではどう言うのか、気にかかるが、一応このまま聞いておこう。
ナガスネヒコは国津神、すなわち天孫降臨以前の先住民であるが、渡来人の海部から見ても先住民というから、明らかに縄文系だが、列島来の土着民なのか、海部氏に先んじて渡来したシュメルなのかは、分からない。別の古伝に「ナガスネヒコの兄の安日彦が奥羽に逃れて安倍氏の祖となった」とあるが、安倍氏はエミシの族長で縄文族の代表格だから、この点でも符合する。史書に名の見えない安日彦を後世の仮設とする説もあるが、もしそうだとしても、ナガスネヒコが縄文系だからこそ、そんな仮設(仮説)も可能だったわけだ。
関連記事........日本人シュメール起源説の謎
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%AA%AC&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=
ともかくナガスネヒコは、ニギハヤヒと同盟する以前から大和の支配者であった。尤も、古代社会には1地方を排他的に支配する政治権力は存立せず、他にも多数の部族が各自の族長を立てて並立していた。例えば賀茂族、三輪族あるいはクズ(国栖)族がそれである。
大和地方は銅鐸文化圏であった。弥生文化の精粋たる銅鐸は前1世紀に現れ、2世紀に全盛を極め、3世紀の半ばに忽然と消えた。その興亡の時期が伊勢遺跡とまったく一致するのは、天孫東征により弥生社会が一転して古墳社会に改まった事実の反映だから当然である。★重要文物たる銅鐸を天武朝の官撰史書が完全に無視したのは、天孫族以外の優れた文化の存在を否定するためと見る外はない。
それでは銅鐸文化の担い手は誰であったか。神道考古学の大場磐雄は、銅鐸の分布と三輪・賀茂両氏族の分布が重なることから三輪・賀茂の両氏族と判断したが、肯綮にあたる。
両氏族は、オオクニヌシないしオオモノヌシの子孫を称し、縄文系とは見えないが、信仰対象がホアカリ・ニギハヤヒでないから、海部・物部と同じイスラエル族ではあるまい。つまり非海部系の倭人と見るのが妥当であろう。
海部が倭人を引率して渡来したことを前に強調したが、すべての倭人が海部系という意味ではない。他にも越人系・呉人系・任那系などの諸部族が、個別の事情は未詳だが、それぞれのルートにより陸続と渡来したものと思われる。
ともかく、大和地方には三輪や賀茂などの出雲系倭人が早くから根を下ろしていて、ニギハヤヒの侵入に抵抗した。3世紀といえば弥生時代も最晩期で、大和では縄文族も倭人文化を受入れ、弥生社会として成熟していた。そこへ侵入したニギハヤヒは、非海部系倭人の抵抗を感じ、縄文族長ナガスネヒコの妹婿となり同盟し、連立政権の樹立にまで漕ぎ着けたのであろう。
天孫神話では「ニギハヤヒは天孫軍の先駆けとして天磐船によってヤマトに降臨した」というが、鉱物製の輸送機器に乗って空中から降下するなぞあり得ない。★「岩」は古代には堅固の意味で用いられたし、また「降臨」は侵入の意味と解する外はない。つまり、ニギハヤヒは堅固大型の外航船で、当時深く湾入していた大阪湾から大和に上陸したので、丹後から地続きに歩兵で攻めてきたのではない。
(★ブロガー注:岩→磐は、堅固の意。と『辞統』にもある。石(盤=円く大きな平な器)製の盤を磐といったという興味深い記述もある。)
以上から、ニギハヤヒは月海伝承にいうごとく、丹後古王国を継いだ伝統的勢力ではなく、「西からの新勢力」と見るべきである。天孫神話がニギハヤヒを天孫軍の先駆けというのは、明らかに虚説だが、嘘の中にも真があり、遠方から来たことは事実だろう。また元伊勢根元の宮たる籠神社の秘伝に「ニギハヤヒはホアカリと別名ながら同体」とあるが、この伝承は各地で強調され、確かな根拠があると見てよい。しかしながら物部氏は、海部氏の分家にしては漁民性(第1次産業)よりも、軍事・祭祀性(高次産業)が強い。物部氏は、海部と同族ではあるが、丹後海部の分家ではなく、新に渡来したイスラエル族と見るのが至当であろう。
天孫史観は、縄文系や倭人らを地祇(国津神=天孫降臨以前の先住民)と位置づけたが、海部ホアカリと物部ニギハヤヒをば天孫系譜に嵌め込んだ。あるいは海部の系譜を奪って天孫が入り込んだというべきか、とにかく海部・物部と天孫族の系譜を統合した。その無理を反映して、官撰史書には、相互矛盾があるが、大概は次のようである。
「ニギハヤヒとホアカリ(火明)は同体で、弟が二二ギ。二二ギにはホデリ(火照)、ホスセリとホヲリ(別名ヒコホホデミ)の3子がいたが、末子のホヲリが兄との抗争に克ち、その孫イハレヒコが初代神武天皇となる。敗れたホスセリ(これをホデリとする説もある)の子孫は隼人族となって、ホヲリの子孫たる皇室に永久に仕える事を誓う云々」
海人ホアカリの弟として天孫二二ギを嵌め込み、次に二二ギの子として、ホアカリの同体ホデリと、その別名ホスセリヲを嵌め込み、天孫ヒコホホデミとの3兄弟としたところがミソである。
ホアカリをホアカリ、ホデリ、ホスセリの3体に分けたのは、3者を混淆することにより、海部の事跡を隼人の事跡にすり替えるためであろう。官撰史書において、天孫史観と矛盾する海部古王国の存在を完全否定する一方、隼人の存在は認めて、抹殺した海部の受皿としても利用したのである。隼人はインドネシア系で、海部とは民族が違うがどちらも海人で、混淆し易いと観たものだろう。こうして、天孫と海人の系譜統合による万世一系の皇統譜の中で、天孫正統化の根拠を造ったのである。
ところが、折角の天孫神話も、あいにく他の古伝と合致しない。例えば三角寛が採集した山窩伝承では、山窩の祖先をホアカリと言いながら、別のところで「ホアケの隼人を召して云々」なぞという(三角寛『サンカの社会』)。
ホアケはホアカリの訛りだが、同じく隼人の祖というから、ホアカリ(ホアケ)とホスセリが同体とばれてしまう始末である。長男ホデリも、伯父ホアカリと同体だから、影が薄くて存在感がない。ホアカリを3体に分けた折角のトリックも、かくのごとく、他の古伝に照らすと随所に破綻が見えるのだ。
海部氏古伝(上田伝承と月海伝承)は海人渡来を伝えるから、天孫降臨を根幹的事績とする天孫史観とは根本的に相容れない。ゆえに史書官撰の主旨は海部氏古伝の排除にあったが、それは銅鐸黙殺より悪質な史実改変であった。
ホアカリを海部氏の祖神とする説もあるが、人格神ではなく海部氏が参じたシュメル由来の天空(太陽)神だと思う。これに対してニギハヤヒは人格神で、物部氏の興隆をもたらした実在の英雄であろう。朝鮮半島から渡来したニギハヤヒは、大和にナガスネヒコとの連立政権を立てた余勢で、イセ建設に行き詰まった海部氏を救済して、部族統合したため、海部氏側に同族・分家説が残ったのではないか。
月海伝承の続きは、「この時(3世紀)西方から大和に侵入してきた勢力があった」とする。これはいわゆる神武東征の実年代を3世紀とする史学の定説とも符合するもので、天孫史観と海部古伝の結節点となる。つまり、西方からの侵入=神武東征説の究明により古代史の真相が浮かび上がる筋合だが、それには海部古伝の尊重と吟味が欠かせまい。
西からの侵入勢力について、月海伝承は「それが古事記に記されている神武天皇(崇神人皇=応神天皇)である。神武の正体は九州某王朝の入婿となった渡来人」という。
神武・崇神・応神の3天皇を同体というのだが、在位時期の違う3天皇が同体だとすれば、最後の応神だけが実在天皇で、先行する神武・崇神は架空天皇となる理屈だ。しかし、崇神については、別名ハツクラシラスが国の創治者を意味するところから、三輪王朝を創始した実在人皇との見方が史家間でも有力である。
応神は河内王朝を創始した実在天皇で、河内王朝の成立がもたらした政治的・社会的衝撃により、弥生社会が古墳文化に移行したことは、考古学的にも証明される。応神が河内王朝に先行する三輪王朝を創始した崇神と同体でありえないのは明らかであろう。崇神と同じハツクニシラスの美称を与えられた神武については、崇神と同体と見ても良いと思うが、ここでは深い議論を避けたい。
翻って3世紀の畿内を見ると、海部氏が拓いた守山の伊勢集落は、2世紀にはムラの域を脱し、王(キミ)が支配するクニの段階に達していたことが遺跡調査で確認された。海部氏の本拠・丹後に、縄文→弥生時代にかけて、月海のいう海部古王国が成立していたのは疑うまでもない。大和でも同じような様相がある。ここに存在した崇神創業の三輪王朝は、弥生→古墳にまたがる過渡期の王朝と思われるが、うんと遡れば、古く渡来したシュメル族が、縄文時代に神武王朝を開いていたと見ても不自然ではない。天孫王朝に先行する縄文・弥生の王朝の存在は、口碑・古伝もあって隠せない。
応神の開いた天孫王朝は継体以前に早くも途絶え、天武朝の史書官撰までにはさらに何度か王朝が交替した。史官はそれを百も承知で、縄文→弥生→応神→継体→以後と各王朝を直列に接続して万世一系モデルを創った。その際、神武と崇神は先行王朝の創業者として別格に扱われたのだろう。
あるいは、史官が応神の天孫王朝創業を尊重する余り、その偉業を先行王朝に投影して、実在した神武・崇神を応神の別名同体と見做した、とも考えられる。ホアカリと同様、応神を3体分けして神武・崇神に割り振ったわけで、3天皇同体説も、この意味でなら理解できる。
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