2014/6/12
「日本に渡来したイスラエル人 その2」
九州王朝についてマー君とスー君の考察
騎馬民族征服王朝説
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一時間19分に注目.....南九州3000年の繁栄
上野原遺跡について
順番にお読みください
古代イスラエルと日本
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/800.html
日本に渡来したイスラエル人 その1
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/801.html
ラビトケイヤかく語りぬ
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/245
ヘブライ人はアジア人だった
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/338
日本の正体
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/1689
山口県田布施の怪
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/1193
泉湧寺の謎
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/1696
関連記事:金正恩の母親は?
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/698.html
平城天皇天皇と上皇
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/1762
日本の始祖はどこからどのように
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/1202
金玉先生天皇を語る
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/2612
天皇はどこから来たのか
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/268.html
南朝革命.......本当の天皇は誰ですか?
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/636.html
裏天皇についてのコメント
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/561.html
代表的な帰化系氏族
http://www42.tok2.com/home/oaksnet/yamatojin1.htm
博士がいかに馬鹿であるかの「竹内文書」の例
http://www42.tok2.com/home/oaksnet/takeuchi.htm
神社に潜む謎の勢力=竹内文書を知る手掛かりに.......簡単に言いましょう。竹内文書は1/3オカルトを混じらせることで(偽書と思わせることで)出版が許可された。
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/228.html
古史古伝でのウガヤ朝存続期間
http://www42.tok2.com/home/oaksnet/ugaya.htm
ウガヤ朝って一体何でしょうか?
蘇我氏に関する報道
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013020902000236.html
関連URL..........シュメール(キ・エンギ)語で書かれた古事記
http://www42.tok2.com/home/oaksnet/kojiki2.htm
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-569.htmlさまより了解を得て転載・解説
紀元前722年、アッシリアに滅ぼされたイスラエル10支族の末裔が東方に流れ、縄文末期の丹後半島に上陸、海部氏を称して海民を支配し、丹後古王国を建てた。右は丹後国龍神社神官の海部家と分家の丹後穴太村の上田家に伝わる伝承として月海黄樹が紹介したもので、天孫神話とは矛盾するが、その根底は却って信ずべきものと、これまで述べてきた。
天武朝に始まる史書官撰は、天孫族を列島支配者として正統化することを眼目とし、先行諸王朝の系譜に応神天皇を接続する一方で、先行王朝を卑小化するため海部氏の祖・ホアカリを無視した。ニギハヤヒは子孫の物部一族の存在が大き過ぎて無視できず、天孫族に留めはしたが嫡流から外し、皇統譜上の位置を曖昧にした。そのため物部一族は天孫族中の異端とされ、実質的に国津神(先住民)として扱われた。海部氏の子孫は、直系の海部・上田家の他は、大半が同族の物部氏を称して生きてきた。
官撰以外にも史書はあった。平安中期に成立した『先代旧事本紀』がそれで、日本書紀・古事記とあわせて官撰史書の三部作と考えられた時期もあったが、実は物部氏が編んだ史書で、ニギハヤヒとホアカリを同体とした点が特色である。
同書は官撰皇統譜を否定せず、むしろ迎合したうえで、物部氏をそこに嵌め込んだもので、見ようでは物部系譜を奪還したとも言える。江戸中期までは官撰史書よりも尊重されていたが、水戸光圀や伊勢貞丈によって偽書扱いされ、以来名のある史家は言及を避けてきた。
事ほど左様に、官撰の権威は時とともに増大する。江上波雄が戦後発表した騎馬民族説は、海部伝承から応神襲来と列島征服の部分を抜き出したものと見られるが、一時は国史界に衝撃を与えたものの、今や当初の勢いを失いつつあるようで、やがて官撰史書に権威負けしてしまいそうだ。
かく言う落合も、最近まで物部史観の意義を知らず、先月まで『先代旧事本紀』を官撰史書の異種と見ていたから、他家を批判できない。しかし以前経営していた東興書院で、古伝ホツマツタヱの解説書『神代巻秀真政伝』と入門書『ホツマツタヱ入門』を出版したのは、官撰史書にない説得性を感じたからで、ことに天照大神を男神とする点に感動した。
「ホンマ(真実)を伝える書」と題するこの書は、天照大神(男神)の事績を詠った叙事詩で、官撰史書が女系優位の倭人に迎合して天照大神を女神に改変したような不純性は見られない。尤も純粋だからこそ、『先代旧事本紀』と同様、時々の権力を憚ったものと思われる。
だが、龍神社をコモリ神社と読み「神武天皇を育てた子守神を祀った」と説く点などを見ると、起源が海部伝承と異なるようで、そういえば十数年前、『ホツマツタヱ入門』を龍神社に寄贈したら、神官・海部氏から内容について抗議を受けた。結局、この書の本質は、純粋な天孫史観に立つ一種の聖書というべきであろう。
海部・物部史観の重要性は認むべきだが、月海黄樹を通じた海部・上田家の伝承(月海伝承)には俯に落ち難い点がある。それは神武・崇神・応神の3天皇同体の説で、要するに 「海部家の口伝では、神武天皇は応神天皇、崇挫天皇と同一人物であるとし、古事記においては3世紀頃の天皇とされる応神天皇の時代に、朝鮮・北九州の合衆国の王・応神天皇が大和に東征するに至り・・・」(月海黄樹著『龍宮神示』)という辺りである。
皇統譜は、縄文を含む先行の諸王朝を直列に接合し、すべての王朝を同一血統と見なし、その後へ天孫族の応神天皇を接続して万世一系とした。応神の河内王朝が数代で絶えた後を継体の新王朝に繋ぎ、以後も何度か交代した諸王朝をすべて同一の血統で繋いだ。つまり、応神の河内王朝以後も縄文以来の【同一血筋】で繋ぎ、皇統万世一系の史観いわゆる血のミトスを貫徹したのである。
皇統譜上で太祖に位置づけられた神武だが、現実の皇室とは同じ血統でないから、皇室が宗廟に奉祀するのは筋が通らない。皇室も、内心では神武を観念的存在と意識したから、神武の陵墓とか神宮は古来建てられなかった。今の橿原神宮は、宇都宮藩による文久の修陵の際に、種々の論議で決定した御陵候補地に、維新後の東京王朝が創設したものだ。
ところが天照大神については神武とは扱いが全然違う。天照大神は元もと天照国照彦と呼ばれた男神で、海部氏がイセの宮に祀っていた太陽神ホアカリのことだから、海部氏とその支配下の海民・倭人の崇敬を受けて当然で、倭人が主流をなす国民の間では、伊勢信仰は今日も盛んである。古来、伊勢神宮を「国家の大廟」と尊称し、応神を祀る宇佐八幡宮を「皇室の祖廟」と区別して呼んだのは、そのあたりを反映したものと思われるが、伊勢・ハ幡信仰の隆盛に対して、神武信仰というのは政治的主張を除けば、聞いたことがない。
崇神を『古事記』は第10代天皇とするが、史家は実在した初代の天皇という。大和地方に古来、崇神陵と伝わる壮大な陵墓が存在していて、物証もある(「行燈山古墳」或いは景行陵と目される「王の塚」)。官撰史書が崇神の没年干支を戌寅とするのも疑う必要なく、実年は紀元258年ないし318年と推定されている。崇神が神武と同じくハツクニシラス(国家創立者)と呼ばれる所以は、3世紀の大和で垂仁・景行と続く三輪王朝を始めたことにあるが、これは同じ時期に文化的変移が発生し、大和地方が弥生文化から古墳文化に移行したとする考古学的知見と符合するから、崇神と三輪王朝の実在はなおさら否定しうべくもない。
ところが月海伝承は「ニギハヤヒが大和でナガスネヒコとの連立政権を立てたのは3世紀のことで、この時西方から侵入してきた勢力があった」という。そのまま受け取れば、3世紀の大和に、ニギハヤヒ・ナガスネヒコの連立政権とは別に崇神の三輪王朝が存立したことになるが、有り得まい。
前月号では、ナガスネヒコを縄文系、ニギハヤヒをイスラエル系の新渡来民とする私見を述べたが、崇神の出自についても、ここに私見を示したい。曰く、崇神はニギハヤヒと同体である、と。
月海伝承は、ニギハヤヒは丹後古王国の海部氏と同族の大和の大王と言い、崇神(神武・応神と同体)は西方からの侵攻勢力というから、両者は真っ向から対立するが、私見は同体と見るのである。天孫神話に「ニギハヤヒは天孫軍の先駆けで大和へ降りたが、ナガスネヒコに籠絡された」とあるのも「応神の軍事侵攻に先立ち、崇神がナガスネヒコと同盟して三輪王朝を樹てた史実を天孫神話に投影したもの」と見るわけである。さらに言えば、崇神の三輪王朝は、土着部族と婚姻を通じて培った交易力を基盤とした商事政権で、ナガスネヒコの役割は軍事保護者、いうなれば傭兵だと思う。
崇神の出自はイスラエル支族だが、中でも秦始皇帝の国土統一を支えた胡商呂不韋の一族の泰氏だと思う。泰氏の一派は先秦の滅亡後、秦人を率いて朝鮮半島の南端に流移し、そこで立てた秦韓が華僑的商事政権だったことは、当時の支那史書からも窺うことができる。
秦氏は2世紀頃からぽつぽつと北九州に渡来し、筑前の宇佐郷で縄文族の宇佐君と通婚し、自ら宇佐氏を称した。この説の根拠は、上田家の血筋を引く渡辺政雄が吉薗周蔵に伝えた上田家伝である。「海部も物部も元はユダヤであり、他には宇佐がいて、元々日本人だったが婚姻を重ねてユダヤとなった。宇佐ハ幡」と、渡辺が語った通りを周蔵は記録した (『吉薗周蔵手記・別紙記載』)。
秦氏は宇佐から豊後に拡がり、その支配地は秦韓に似せて 「秦王国」と呼ばれたが勿論商事政権であった。ニギハヤヒは秦韓の所在する任那から外航用船舶(天磐船)で来航した秦氏後続隊の頭領か、ないしは宇佐で生まれたその子であろう。先遣任務を帯びて大和に入り、ナガスネヒコと交易拠点設置に関する協約を結び、妹を娶って同盟した。ニギハヤヒが舶来物資と一緒にまたらした半島南端の文化は、3世紀の大和の弥生社会を急速に変えたが、今日では古墳文化と呼ばれている。
以上の私見は、月海のいう3天皇同体説すなわち「古事記においては3世紀頃の天皇とされる応神天皇の時代に、朝鮮・北九州のの合衆国の王・応神天皇が大和に東征するに至り・・・」と、どう整合するのか。
皇統譜では第15代天皇とされる応神は、月海の言うように「古事記においては3世紀頃の天皇とされる」が、今日の史学は官撰史書の年代を、干支二巡すなわち120年分繰り上げたものと見ており、応神が4世紀に実在したことはまず疑いない。応神が始めた河内王朝の実在も、応神陵・仁徳陵・履中陵の巨大陵墓群が証明して余りがある。
以上から見ると、前掲文で月海が「古事記においては3世紀頃とされる」とわざわざ強調したのは、自分は応神の実年代を4世紀と見る、との意味だろう。おそらく海部家口伝が応神3世紀説を明言するため、それとの調和に苦しみ、上記の表現を用いざるを得なくなったものか。つまり海部家口伝が、官撰史書の重圧に押されて解釈の歪みを来し、いつしか応神3世紀説が固まってしまい、応神と3世紀に実在した崇神が重なってしまい、両者を同体と解釈せざるを得なくなってしまったものではないだろうか。
月海伝承の合理的な解釈は、「ニギハヤヒがナガスネヒコと同盟して大和に連合政権を建てたのは3世紀のことで、4世紀になり、西方から応神が侵攻してきた」とするしかないだろう。三輪王朝の首長の名は代々ニギハヤヒで、3代目・景行の代に応神軍が西から侵攻してきた。景行ニギハヤヒはナガスネヒコ(これも世襲名)との同盟軍を率いて戦うが、早々と義兄を裏切り、東征軍に投降した。これは宇佐の秦王国からの指令によるものではないかとも思える。
魏・呉・蜀の抗争の余波で満洲では騎馬民族が興隆し、その1つが満洲奥地から半島を南下した。応神は元々騎馬族の亡命政権で、半島南端では辰王と称していたが、押し出される形で九州に来襲した。侵入者の応神を、宇佐の秦氏が入婿にした。応神は辰王自身ないし秦氏との間の子で、これに軍権まで与えたのは、秦氏伝統の傭兵戦略には違いない。しかし、その奥には、半島時代すでに辰王と秦韓の間に特別な関係があったと思う。
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-570.html
前月の論考で対象とした月海伝承は、さらにいう。
「3世紀頃、朝鮮半島では騎馬民族の侵入が起こり、当時朝鮮と連合国家であった九州には、この乱を逃れて朝鮮民族が多数移住してきた」(月海黄樹著『龍宮神示』)。
ここで「朝鮮民族の移住」と言うが、朝鮮なる地域概念はもともと朝鮮半島北部から南満洲地域を指し、中心は鴨緑江以北の吉林省周辺である。半島の南半部は部族国家が割拠しており、「韓」と呼ばれて朝鮮の地域概念には含まれなかった。政治的に未統一で民族を形成していなかった半島の各部族を、「朝鮮民族」と総称するのは俗語である。
つまり、月海がここでいう朝鮮民族とは、半島南端からの渡来民の総称で、その実体は秦氏と秦人であった。秦氏はイスラエル支族の1支流であり、秦人(ハタビト)とは、その支配下にあった諸民族、すなわち西域民族・ツングース族さらに半島在住の倭人らを含む雑多な人的集団を指したものである。ついでに言えば、月海は「朝鮮との連合国家」というが、国家的状態にない半島からの渡来民と、九州原住民との混住状態を「連合国家」というのは過言で、これも俗語として解すべきである。
月海伝承は続く。「その中で九州にある王朝の入婿になったのが神武天皇であった。そのことは、神武天皇と同一人物であるとされる崇神天皇の名がミマキイリヒコ・イニエ(任那からの入婿)であることからも推察できる」(前掲著)。
3世紀のシナ大陸は3国鼎立の動乱の渦中で、満洲から半島北部にかけても、北方民族が乱立・抗争を始めた。その中でトルコ系騎馬民族の1部族が朝鮮半島を南下した。半島の南端には当時騎馬民の一種が駐屯しており、首領を辰王と称したので辰韓と称されていた。辰韓は南下してきた同族に追われ、球撞きのように弾き出されて北九州に侵攻した。
関連URL.........サンカとゴシェン その4
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/303.html
『トルコはかつてオスマントルコと呼ばれた。
オスマンリ:かれらの最大の挑戦は,遊牧社会を異質的な環境へ移動させ,そこで動物でなしに,異種の人間社会を支配するという,新しい問題ととりくまなければならないことであった。その離れ業はオトマン奴隷家族であった。つまり,バーディシャー(解説:オスマン帝国はパーディシャーを元首号とし、しばしば皇帝とされますが、ガージャール朝ではバーディシャーは地方領主の号)の人間家畜を管理する人間番犬を選び訓練することであった。かれらは出来るだけ人間性を捨てて動物性を身につけたり,単線的な本能的行動にもっぱら心を向けるという,驚くべきことをやってのけた。
羊,山羊を飼育する畜産民は,子羊が生まれると,一年以内に雄は種付け用を少し残し,後は殺して食べる。ごくわずかの雄を去勢して群れの先導役にさせる。それを人間支配の技術に転用するのが去勢の意味。シオン長老の議定書(プロトコール)第18議定書より。これこそがバーディシャー由来の人間家畜の管理術。
『キリスト教は,シリア社会に属していた人々を先祖とする民俗からきたものである。シリア世界の一半を形づくっていたイランは,ミトラ教を提供した。イシス崇拝は,エジプト世界の征服された北半分から来たものである。アナトリアの大母神キュペレの崇拝は,多分,当時,宗教を除く他のすべての社会的活動の面において,死滅してからすでに久しい時を経ていた,ヒッタイト(Hittite)社会からもたらされたものとみなされる』』
以上が辰王の九州侵攻の真相であり、これを100年以上も遡るミマキイリヒコの渡来と混同してはならない。ミマキイリヒコなる人物は、2世紀後半に天磐舟と名付けた武装商船に乗り、任那を発して北九州に到来したイスラエル支族の1人で、そこで同族の宇佐氏に迎えられた。
宇佐氏とはそも何ものか。吉薗周蔵は大正末年、穴太村・上田家の外孫にあたる外科医・渡辺政雄から聞き取った上田伝承を、手記の「別紙記載」に記しているが、それには
「(渡)辺サン云ハルニ、自分ハ 京都(=丹波のこと)ノ アヤタチノ一族 デアルガ、アヤタチト云フハ 後ニ ツケタル姓デアリ、元ハ 海部ト云フ姓デアッタ由」で始まる。
「他ニハ 物部ト云フ姓ガアル。又 宇佐ト云フ姓モアッテ 全テガ ユダヤノ血デアリ アヤタチノ元デアル由。コノ中デ 宇佐ハ 元 婚姻ニヨッテ ユダヤトナッタル姓デアル由(宇佐八幡宮)」で始まる。
他に物部と宇佐がいる。宇佐氏は元来は先住の日本人だったが、婚姻を重ねて中身がイスラエル支族に置き代わった、と辺(ナベ)さんは、周蔵に教えたのである。
2世紀当時の日本列島には、先住縄文系のほか、イスラエル支族と彼らが率いてきた海民・倭人らが共存していた。後者が数百年前に渡来したために、日本列島は縄文文化から弥生文化に移行したのである。弥生も晩期に差しかかった2世紀には人口も倭人系の方が勝り、縄文族との混血も進んでいたが、渡来系の海部氏側から「元来の」日本人と称えるから縄文族を措いてありえない。
宇佐氏は、豊前国の宇佐郡を本拠とし、代々宇佐国造として宇佐神社を祀ってきた。宇佐神社の本来の祭神は、筑前の海人族・駒形氏が奉祀したことで知られる航海女神である。すなわち、イチキシマヒメ、タギリヒメ、タギツヒメの3姉妹神で、世に宗像3女神と呼ばれるが、駒形一族だけが専有する女神ではない。中心神格のイチキシマヒメは、シュメルでイシュタルと呼ばれ、オリエント諸国ではアシュタルテと呼ばれた水の女神、航海神である。イシュタルの信仰は、有史以来世界中に行き渡り、ことに海南島を本拠とする媽祖として、その信仰は、台湾はじめ東南アジアの海人から、今も厚い崇敬を受けている。この女神は、わが国においては古来【弁天信仰】として栄え、全国の小高い丘の上ことに海の見える所には必ず弁天の小祠がある。どの弁天社も、本当の祀神はイツクシマヒメであって、仏説の弁財天ではない。弁天と並んで盛んな観音信仰も、対象は仏説の観世音菩薩ではない。シナ道教で崇敬される観音古仏(南海古仏)も同じで、実は弁天(媽祖)であると見てよい。ことほど左様に、イシュタル信仰は、道教・神道・仏教で、装いを変えて民衆の間に浸透しているのである。胸形君と後述の池守系宇佐氏は、ともに縄文系の海民で、遠祖のシュメル以来、イシュタルを祀っていたわけである。
世に言うところ古来・宇佐氏の系図に2本あり、高魂命を祖とするもの、天三降命を祖とするもの、これである。後者から出たウサツヒコは神武東征期の人物で、16代目から池守氏を称し、天武朝朱鳥元(686)年に宇佐姓を賜わった。これに対し、元明朝に僧・法蓮が宇佐公の姓を賜わり、二つの宇佐氏が生まれたが、法蓮は渡来人の系統だから、池守氏の方が宇佐氏の本来の後裔と考えられている。天三降命は独立系の神で、縄文系の神とみて良い。
上田伝承が謂う「宇佐氏の血統に潜入したユダヤ」とは、いわゆる秦氏を措いてあるまい。上田伝承が、渡来イスラエル支族として、アマベ・モノノベと並べてウサ氏を論じながら、秦氏に言及しないのが不自然だし、逆に、宇佐氏を秦氏のことと解すると、すべて平仄が合う。
秦始皇帝は朧姓の秦王の子でなく、実父は秦王を支援した胡商の呂不韋であったという。前722年のイスラエル亡国後、シナには多くのイスラエル支族が流人したが、その1つが呂氏であった。始皇帝による秦帝国の樹立は、シナ世界のワンワールド化で、ワンワールドの特性は法治主義で、頭脳と財力が支配する世界をもたらすが、これこそイスラエル族が欣求した楽土であった。シナに流移したイスラエル支族と「シナのユダヤ人」と俗称される客家(ハッカ)との関連は、極めて考究に値するが、ここでは触れない。とにかく、呂氏がイスラエル支族であったことは間違いないのである。
秦帝国が劉氏(漢)によって滅びた後、秦帝国の建国に携わってきた呂氏一族は朝鮮半島に逃れ、以後は秦氏と改称したものと考えられる。その目的は「秦」のブランド化であろうか。半島に移った秦氏(呂氏)は、半島南端部の任那ないし伽耶と呼ばれた地域に交易拠点を設けた。その実状は、柵を巡らして望楼を置いた都市国家で、秦韓と呼ばれたが、指導者が秦氏で、これに従った秦人は、西域系・ツングース系・倭人系らの雑多な商工民団で、その中に拠点防備に当たるガードマン(傭兵)も当然混入していた。
楽韓に定住してほどなく、秦氏の一部は秦人を率いて日本列島への渡来を図る。やがて豊前の宇佐郷に住み着くが、移住が円滑に進んだのは、宇佐の地に古来土着していた縄文系宇佐氏とウマが合ったからである。
縄文人の人口的主流は南方モンゴロイドであったが、その昔渡来してきたシュメル族が混住し、両者の混血も進んでいた。宇佐郷の縄文系宇佐氏は、前述のイシュクル(イチキシマヒメ)信仰を保持していたことから、縄文人の中でもシュメル的要素を色濃く残していた部族と思われる。つまり縄文系宇佐氏はシュメルとセムの混血民族として誕生したイスラエル族とは、血統的にも文化的にも相通ずるものがあった故に、その一派たる秦氏が渡来してきた時には、迎えるにやぶさかでなく、積極的に通婚もし、その結果、縄文系宇佐氏の実体が急速に秦氏に入れ替わったわけである。前述したように、宇佐氏の系譜に2本あるというのは、宇佐氏の血統の変遷ないし交替を、どこかで反映したものではないかと思われる。
日本列島には、ホアカリ信仰の海部氏が、すでに紀元前3〜4世紀ころ(推定)に丹後に上陸し、古王国を建て、各地に農業集落のイセを建設していた。渡来イスラエル支族としては2番手の秦氏は、宇佐で縄文族宇佐氏と通婚して勢力を涵養したが、任那から渡来してきた同族のニギハヤヒを女婿とし、これを支援して大和地方に送り込み、ナガスネヒコとの同盟政権を建てさせた。ニギハヤヒは後の天孫神話では天孫系譜に取り込まれ、天孫ニニギの兄弟ながら異端の神とされて、物部氏の祖となる。一方、その実像の方は、皇統第10代のミマキイリヒコイニエ=崇神天皇とされたのである。
その後も陸続と渡来してきた秦氏は、もはや宇佐氏の枠なぞにとらわれず、秦氏そのものを名乗り、豊前を秦王(シンワウ)の国と呼んだ。秦氏がその後、同族の海部氏を併呑しまた物部氏を凌駕して、列島の経済権をほとんど牛耳るに至るのは、3世紀末〜4世紀初(推定)に来襲した騎馬民族の辰王を迎えたからである。縄文系宇佐氏の有していた宇佐神官祭祀権を握った秦氏は、祭神を辰王(の子?)のホムダワケ(応神天皇)と母オホタラシヒメ(神功皇后)に変えたうえ、ヒメ(比売)神を合祀する形とした。ヒメ神とは、いうまでもなく従来の主祭神・ムナカタ3女神のことで、ここにオリエント以来海人族が尊んだ女神イシュタルは、言うべくもなきほど卑小・形骸化されたのである。
九州に来襲した辰王の1族を、海人族が騎馬族と意識したことは間違いない。上田伝承には「朝鮮カラ追ハレタル騎馬族ガ 日本ヲ襲ヒ、海人ラハ 朝鮮カラ来タル 応神天皇ナドニヨッテ、海ヅタヒニ 僻地ヘト追ハレタノガ 海人トノコト」とある。辰王を応神天皇とする説もあるが、いかに秦氏の手厚い支援を受けたとしても、来日1世の代で天孫王朝を創業するのは無理と思う。上の「来タル」は、応神天皇その人が渡来したと普通は読むが、父親が来日して日本で生んだ息子の場合も、これで通じる。応神の即位に先立ち、母のオホタラシヒメの治世が異常に長いのも、応神が来日2世であったことを示唆していまいか。
秦氏が辰王を迎えたのは、特種の血統性によるもの、と私見は見ている。つまり、天孫族とは何か、である。
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-571.html
戦前の教科書歴史は皇国史観に立ち、民族の起源を天孫神話に求めた。天神・アマテラスの血を承けた天孫二二ギの子孫が万世一系の皇室として、永久に皇国日本を治め、また臣民には天神地祇の子孫たる神別、皇宗の分岐たる皇別、渡来人たる諸蕃の3種類が居るが、それぞれ対等で、天皇にお仕えして大和民族を形成しているというものである。
政治的方便としては有効かも知れぬが、20世紀はかかる鎖国的史観の通用する時代ではなかった。敗戦により天孫神話が否定され、皇国史観は逼塞した。代わって登場した弥生倭人史観を象徴するのが登呂遺跡と志賀島金印とおよび騎馬民族征服王朝説である。
登呂遺跡は紀元100年頃の弥生後期の遺跡で、昭和18年静岡市で軍事工場の敷地を整備中、たまたま発見された。昭和22年から再発掘され、続々発表される遺物は敗戦に打ちひしがれた国民に大いなる希望を与えた。要するに皇国史観を否定されて祖先を見失った国民に対し、新たな精神の拠り所として弥生史観を与えたのである。
遺物中で注目すべきは、
@コメには水田種の温帯性ジャポニカ以外に陸稲種の熱帯性ジャポニカが混じっていること、
A土器が縄文武と弥生式の混在するいわゆる「接触式」であることで、これらは登呂文化が「縄文要素を残した弥生文化」なることを明示しており、縄文族が倭人と、その水田稲作技術・弥生武土器などの文化を受容することにより、縄文社会が急速に弥生社会に移行した史実を証明している。
静岡市の登呂遺跡がムラの段階であるのに対し、滋賀県守山町の近江伊勢遺跡はクニの水準に達している。本稿が主張してきたように、近江伊勢遺跡はイスラエル族の流民たる海部氏が建設したクニで、王は海部一族だが、生産民の大半は海部氏が江南から連れてきた倭人で、海部と混血した者が官僚層の臣(おみ)となったと思う。近江伊勢遺跡は、竪穴式住居の壁に煉瓦を使用するなど弥生遺跡中の異例だが、これは地名の「イセ」が示す通り海部氏直轄領だったためにイスラエル的要素が濃いのであろう。
これに対して登呂遺跡では弥生文化中に潜むイスラエル的要素が減退し、その代わり縄文的要素が混在しているわけで、これからして登呂の住民は倭人が主体で、縄文族との混血も居たものと思われる。海部郡海部郷は丹後・越前・伯耆の山陰地方と豊後・筑前の北九州のほか、阿波・紀伊・尾張など西日本各地に分布するが、東日本では上総だけである。これを見るに海部氏が直接ムラ・クニ作りに関与したのは主として西日本で、東日本では倭人が主体となってムラ作りを進めたようで、理由は何といっても人数であろう。人口構成では、キミ層の純イスラエル族はごく少数で、倭人との混血のオミ層もその数多からず、人口の大半のタミ層は倭人が占めたものと思う。
皇国史観はイスラエル族渡来を完全に否定したから、今日でも国民の大多数はそれを聞いてもなかなか信じない。祖先が天孫ならぬ倭人と聞かされた国民の関心は、直ぐに志賀島金印と魏志東夷伝倭人条に誘導された。志賀島金印に関しては本稿で宮崎市定の話を紹介しつつ、その偽造なることを論究したが、その後千葉大教授三浦佑之が『金印偽造事件』を著し、且つ最近『新潮45』において拙論を敷衍された。教授は小生よりもずっと以前から、金印に疑念を持たれていたと言う。その偽造なることの科学的証明は、学界にその意思さえあれば、直ぐにもできよう。
志賀島金印を支えたのは後漢書と魏志東夷伝倭人条で、前者は官撰史書、後者は官撰地誌で一応の参考にはなるが、中華思想が国民の歴史観念を誤導する点に問題がある。倭人条などよりも国民を驚かせたのは騎馬民族征服王朝説で、東京大学教授・江上波夫が昭和23年に初めて唱え、古墳時代の前期と後期では副葬品が一変し、前期には祭祀具が多かったが後期には馬具が多くなると指摘して、おおよそ次のような説を建てた。
九州王朝の考察
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/653.html
即ち「4世紀前半に騎馬族の夫余族が南下し、南朝鮮から北九州に渡って来て九州王朝(崇神天皇)を建てたが、九州王朝の応神天皇が5世紀の始め頃に大和に入り、河内王朝を作った」というものである。
本稿は江上説と異なり、「崇神」を3世紀に大和地方で土着縄文族のナガスネヒコと共同政権を建てたニギハヤヒの同人異名と考える。ニギハヤヒ実在論に立つから、ニギハヤヒが架空ならばそれまでだが、論者も物部氏の実在は否定できず、その祖先(ないし祖神)としてのニギハヤヒを否定し得べくもあるまい。ただし本稿の主旨はニギハヤヒが別名を崇神
と称したと言うのではない。崇神とは数世紀も後の諡(おくりな)で、それを贈られた官撰史書上の大王は、時代・血統・事跡などいずれを取っても史実には合致しないから、単純な崇神不在説も誤りではない。だが、史官が崇神天皇に仕立て上げたモデルたる大王は実在したとみるべきで、人心が実在感を持つニギハヤヒを無視しえない史官が皇統譜に取り込み、血統・人格を皇統譜の都合に合わせて変改し、崇神天皇としたものと見るのが至当である。本稿は、ニギハヤヒを海部とは別派のイスラエル系で宇佐から入ったものと考え、崇神天皇のモデルと見たが、江上教授のごとく、九州に実在した夫余系某王を崇神のモデルと考えても絶対に不可ではない。ただし、その場合はニギハヤヒ本人と、大和の崇神陵の被葬者のことを合理的に説明することが必要である。
ともかく騎馬王朝説が弥生史観と共鳴したのは、征服王朝の支配者は騎馬族であっても、被支配民の大半を倭人と見た点にある。江上説は、前漢が朝鮮半島に進出して楽浪郡を置いた時、これに対応して倭人の1部が対漢交易の目的で朝鮮半島南端部に移住し、同時に北九州に渡来したとしており、倭人渡来説を包含している。そもそも歴史はかかる大スケールで見ないと本質を洞察できないもので、江上学説は一般国史学者の域を超えた理論として過言ではないが、同時に不審は、ここまで洞察した江上教授になぜ縄文文化が見えなかったかである。それは多分、江上の方法論に原因するものと思う。蓋し江上説にはネタ元がいて、ネタ元が教えたのは縄文以来の歴史伝承のうち倭人渡来と騎馬族来襲の部分だけであった。そのネタ元こそイスラエル流民の渡来伝承を代々伝えてきたアヤタチで、もし夫れ海部氏の本家か分家の丹波穴太村上田家の関係者でないとすれば、物部氏の末裔ないし宇佐秦氏の直系ということではないだろうか。
イスラエル遺民のなかでも、海部氏が3世紀以後振わないのは騎馬族に対して正面から抵抗したためで、「応仁3年全国で海士の反乱が相次ぐ」と史書に記す通り、海人の全国的な抵抗は騎馬族の軍事行動により制圧され、各地のイセ集落は焼亡を免れず、生き残った海部氏も大半は僻地に隠れ、同族の物部氏を偽装同化したものと思う。その証拠は、海部の祖神ホアカリが物部の祖神ニギハヤヒと同体なりとする伝承が各地に根強く存在するからで、この古伝承は同じイスラエル系から派生した両氏が、氏族統合したことを裏付けていよう。
騎馬民の渡来・征服後も、物部氏はなお強盛であった。渡来してきた夫余族は、統治権を正統化するために海部・物部の神話を借用してスキタイ的天孫降臨説に結び付け、日本建国の神話を拵えたが、その関係で、両氏の歴史上の位置を故意に卑小視せざるを得なかった。武力反抗した海部氏はほとんど無視したが、一方の大族たる物部氏を無視できず、天孫神統譜土に物部氏を支流として編入するとともに、縄文時代からの土着豪族を国津神として神別に編入した。秦人は弓月君の引率民として、秦氏ともども諸蕃に編入された。
イスラエル族の中でも秦氏は海部・物部氏と異なり、数世紀にわたり任那地方に僑居して交易国家・楽韓を建てていた。仄聞するところ、渡来某民族には山渡人・海渡人の区別があるという。蓋し海部氏が華南から海上を渡って丹後に至り、物部氏も巨艦天磐船を操ってどこからか渡来してきたのに対し、秦氏は西域から大陸内部を流移して遂に日本列島に至ったもので、例の区別は或いはイスラエル系に2種あることを意味するものかも知れぬ。ともあれ、秦氏が任那の1角に楽韓を建てていた頃、近所に騎馬族の1派が駐屯し辰韓と呼ばれていた。両者は元来別の民族で、分かれて住んでいたが、巷に溢れるどの史書にも楽韓=辰韓としているのは、音通によるものだろうが、用字が違う以上意味は異なる筈である。
辰韓の辰王1族を江上は夫余族と断ずるが、スキタイの末裔と思われる。広義のトルコ系で、同族に追われて満洲から南下し、半島南部に駐屯していた。武力と智略が売り物の騎馬族は生産活動が苦手で交易民族と共生することが多い。共存関係にある楽韓を防護するために、隣接して設けたキャンプが辰韓であろう。何しろ秦氏は、西戎の秦を支援して始皇帝を擁立した呂不韋の子孫で、由来性格的に政権の表面に立つのを好まず、誰にせよ武力に優れた者を王者として奉り、自らは傍らで経済活動・文化活動に勤しむ道を取った。これこそワンワールド・バンカー的性格の発現とも言えよう。
その後も南下を活発化する同族に圧された辰王は日本渡来を決心し、秦氏が以前から秦人を連れて入植していた北九州に入る。居ること数年、天磐船の纜(ともづな)を解いた辰王が平和裡に大和に入ってニギハヤヒになったとの考えも絶対に不可能ではない。その場合は本稿従来の立場、すなわちニギハヤヒ崇神を宇佐の秦氏が庇護した新来イスラエル族とする見方を変改し、宇佐秦氏の養子となった辰王、とするのにやぶさかではないが、要するにニギハヤヒの本質を商権と見るか軍権と見るかであって、決着を急ぐことはあるまい。
関連URL..........伊藤博文
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
伊藤の生まれた周 防 国(すおうのくに)日本の旧国(令制国)のひとつ。現在の山口県東南部にあたる。
熊毛郡(くまげぐん)は、山口県東部の郡である。
人口32,228人、面積119.63km²、人口密度269人/km²。(2012年9月1日、推計人口)
以下の3町を含む。
上関町(かみのせきちょう)
田布施町(たぶせちょう)
平生町(ひらおちょう)
注:田布施は朝鮮人部落
問題はむしろ東征者の八幡大神応神で、江上は@辰王崇神の子孫と断定するが、その他に、A辰韓に残っていた夫余王1族の新来者、B辰王を圧迫して任那を追い出した扶余族系の新来者、とも考えられる。九州から大和に入りニギハヤヒを破って出羽に敗走させたイハレヒコ(神武天皇)のモデルとなった応神の出自は何か。それはニギハヤヒが誰かによって筋立てが徴妙に異なるが、すべてがあり得る。なかでも月海のいう3天皇同体の説に最も近いのは@であろう。
いずれにせよ、応神はスキタイ系の夫余族に違いはなく、これ以上の詮索は取りあえず無用であろう。
スキタイ系の関連URL..........
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb204.html
●江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」と「日ユ同祖論」は、これまでお互いに何の関係もなく、それぞれ別個に日本文化の特質と天皇制国家のルーツを追求する仮説とみなされてきたが、これを歴史哲学的に分析してみると、仮説構造の特徴においてかなりの共通点があることに気付く。
●「騎馬民族征服王朝説」は、実際には、スメラミコトといわれた天皇が古代シュメールの王家に由来する可能性を暗黙の前提として組み立てられており、アッシリア帝国に滅ぼされた北イスラエル王国(10支族王朝)の王家と天皇家との関わりを明らかにするため、騎馬民族スキタイ人の移動経路を追及したものと見る研究家もいる。
江上波夫氏は、天皇制の遠い起源が北方ユーラシアのステップ地帯にあると考え、ここから満州・朝鮮を南下した扶余族系の騎馬民族が、ひとまず任那に「辰王国」を建てた後、九州に上陸して大和へ東征し、日本国家の基礎をつくったと想定したわけだが、その時期は、崇神天皇から応神天皇に至る数人の天皇が在位したと記されている4〜5世紀のこととされる。
●一方、ユダヤのラビ(ユダヤ教指導者)であるサミュエル・グリンバーグは、早くから古代イスラエルの失われた10支族の一つ、ガド族がシルクロードを経てアジアに向かい、天皇家の祖先として日本に渡来したと唱え、『大和民族はユダヤ人だった』の著者ヨセフ・アイデルバーグもまた、天皇家の祖先ないし日本の有力氏族が大和朝廷を樹立したのは4〜5世紀の頃であったとみなしていた。
更に、多くの研究家によってヘブライ集団ではないかと注目されている「秦氏」一族(10万人以上)が、応神天皇の招きによって百済から渡来したのは、高句麗と倭が朝鮮半島の宗主権を巡って激しい戦いを演じていた4世紀末〜5世紀初頭のことであった。
●このように、支配民族の渡来ルートとその時期は、「騎馬民族征服王朝説」も「日ユ同祖論」も4〜5世紀の朝鮮半島に求められ、前者で紀元前8世紀のスキタイ民族にまでさかのぼられた支配民族のルーツは、後者においては紀元前8世紀に滅亡した北イスラエル王国の10支族に求められる。
なお、ここで注意してほしいのは、朝鮮半島は大和民族にとって単に「経由地点」に過ぎなかったのであり、日本人と朝鮮人は異なる民族である可能性が高いという点である。
●ところで、北朝イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅亡(紀元前722年)した頃、スキタイ系騎馬民族は北方ユーラシア大陸を支配していた。彼らは、イスラエル10支族を連行したアッシリア帝国にも、たびたび戦いを挑み、ときには騎馬の機動力を駆使して、アッシリア帝国内にまで深く侵入し、甚大なダメージを与えている。
このスキタイ系騎馬民族の侵入によって、アッシリア帝国は徐々に国力を低下させ滅亡の道へ至ったとされている。
一般にスキタイ民族はアーリア系と言われているが、実際は多くの民族によって構成されていたという。チンギス・ハーンのモンゴル帝国内では、モンゴル族以外にアーリア系白人をはじめ、中国の漢民族、そしてセム系のユダヤ人まで存在していたことが知られている。
また一般に騎馬民族は、チュルク系、モンゴル系、スキタイ系などと区分されているが、実際は、その境界はあいまいにされている。その意味で、当時、スキタイ民族とイスラエル10支族は同盟関係、もしくは合流があったのではないかと推測する研究家がいるのである。
このスキタイ民族の勢力範囲であるが、スキタイ系特有の墳墓である「積石塚」は、北方ユーラシア大陸のアルタイ地方のみならず、西はヨーロッパ、東は朝鮮半島にまで及んでいる。そして、それと全く同じ構造をもつ墳墓が、この日本列島から1500基以上も見つかっているとのことである。
●かのモンゴル帝国は「騎馬民族国家」であったが、モンゴル族は西はメソポタミア地方北部から東は朝鮮半島まで、またたくまに勢力下におさめている。そして、チンギス・ハーンの孫のフビライは、大船団を組んで日本に2度も襲いかかっている。また、似たようなことは平安時代にもあって、このときは東北アジアの騎馬民族「女真族(じょしんぞく/ジュルチン)」が襲来し、「刀伊の禍」が起こっている。
よって、日本に騎馬民族が襲来することは、長い目で見れば、決して珍しい現象ではないと言えよう。
●またユーラシア大陸をながめるときに「シルクロード」という存在は無視できないものであるが、古来、このシルクロード貿易を独占していたのはユダヤ人の商人(絹商人)であったことが、一般によく知られている。
更に、イスラエル共和国の「テルアビブ民族博物館」に展示してあるJ・P・プロイス博士の著書『古代開封之清真教史略』によれば、古代ヘブライ人は今から3000年も昔のソロモン王の全盛時代から、インド洋を越えて極東地域に来ていたという。BC950年頃のヘブライ系部族の一つ古代海洋民族フェニキア人は、インド洋に通じる海洋路を知っていたというのである。
以上、大和朝廷の不思議なヘブライ色を考慮にいれたら、ヘブライ系騎馬民族が古代日本にやってきたというのは、全くSFのような話ではないのである。
ところで、ちょっと蛇足的な紹介になるかもしれないが、興味深い事柄なので紹介させてもらう。
天皇制には昭和とか平成とかいった「元号」があることは誰でも知っているが、「皇紀」が存在していることを知る人は多くない。今年(1997年)は皇紀2657年である。皇紀は紀元前660年から始まっているのであるが、これはちょうど北イスラエル王国が滅ぼされた直後の時期に当たっており、まだアッシリア帝国の治世下でイスラエル10支族が捕囚されている時期に相当している。よってこの時期、アッシリアに捕囚されていた北朝の残党たちが、新しい王朝を再結成したのではないかと推測する者もいる。この時に皇紀がスタートしたというわけだ。
●また、天皇の公式名「スメラ・ミコト」は、古代ヘブライ語アラム方言で「サマリアの大王」を意味し、初代神武天皇の正式名「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は、「サマリアの大王・神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味になっているという。「サマリア」とは北イスラエル王国の首都である。
サマリアで拙稿を検索すると11件出てきます。
http://angel.ap.teacup.com/applet/gamenotatsujin/msgsearch?0str=%82%A0&skey=%83T%83%7D%83%8A%83A&x=0&y=0&inside=1
『豪華な家と贅をつくしたサマリアはアモスによって否定される。「わたしは冬の家と夏の家を打ち壊す。象牙の家は滅び,大邸宅も消えうせると主は言われる。(アモス書第3章15節)。このような記述は最初列王記T第22章39節で書かれている。つまり「イスラエルの王の歴代誌」に書かれているという旨。』
更に、天皇の古称「ミカド(帝)」はヘブライ語に訳すと「ガド族出身の者」という意味に当たり、ガド族の始祖ガドの長男の名前は「ニェポン(ニッポン/英語ではジェッポン)」であったという。
あと、「東方の日出づる国」は古代よりヘブライの民にとって「天国」を意味しているが、約束の大地カナンは「カヌ・ナー」の転訛としてヘブライ語で読むとき、「葦の原」を意味し、「東方の日出づる国」はヘブライ語で「ミズホラ」と呼ぶので、日本の古名「豊葦原(トヨアシハラ)ミズホの国」の意味が判明すると指摘する研究家もいる。
更に、大和朝廷の「ヤマト」はヘブライ語アラム方言では、「ヤ・ウマト」と分解され「神の民」という意味になるという。
●まあ、あまりこういった事柄を持ち出すと、単なる言葉のゴロ合わせのような印象を深めがちだが、直接証拠にならずとも「傍証」として注目に値するであろう。
ただし、日本とヘブライの関係を考える場合、「共通点」とともに「相違点」も数多く存在していることも事実なので、「日ユ同祖論」に関する結論はあまり急がないほうが賢明なようだ。
日本と古代ヘブライ人の間に何かしらの深い関係があったとしても、日本人全体がヘブライの末裔とは限らず、日本の支配階級の者たちだけがヘブライの末裔なのかもしれないし、日本に辿り着いたヘブライの末裔たちは反対勢力によって滅ぼされたのかもしれない……。いろいろな可能性が考えられる。
アッシリア王国に滅ぼされたサマリアの古代ヘブライ人たちは、 シルクロードを東へ東へ突き進んでいったと推測されている
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