ボンタイ

社会、文化、若者論といった論評のブログ

「ネット暴走族化する中年層」という公害問題

運転免許制度は「車より先」ではなかった

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ad/Hibiya_Intersection_in_the_Taisho_era.JPG?uselang=ja

 日本で運転免許制度ができたのは1919年。大正時代半ばのことである。

 この国で初めて自動車が走った1898年(明治31年)から約20年の間は、今のような運転免許制度はなかった。車を持っている人がそもそも限られた特殊な階層だったため、車を見かけることが珍しく、事故が起こることもあまりなかった。限られたお金持ちが貴重な車の運転を行えば、細心の注意を図るだろうという感覚だろう。

 クルマが普及すればトラブルも増える。我が物顔で辺りを蹴散らすように走ったりしてひどい事故を起こす人間も多発するようになるわけで、運転免許が必要になるわけだ。

  車がこの世に登場することで、人々の暮らしは飛躍的に便利になった。今までにない新しい文化をもたらした。しかし悪用すれば人を傷つけたり、殺してしまう武器にもなるのだから、ルールができるのは当然のことである。

 

 この流れは何かに似ている。そう、あなたもわたしも普段利用しているインターネットである。

 パソコンが珍しかった1980年代には、そもそもパソコン通信につなげる人というだけで限られていた。情報通信系の特殊なスキルを持ち、もちろんパソコンを買うことのできる財力があった。初期のインターネットは電話回線を用いており、電話代がばかにならなくなるため、庶民であれば1日にわずかな時間つなぐのがやっとだった。それも画面が開くのがやたら遅かったりした。そうした悠長さがあるお蔭で、ネット上に何かを書き込むにはとことん推敲していた。

 ところが、老若男女誰もがパソコンやスマートフォンで四六時中ネットにつなぎ続けられる今の時代、憎悪情報がものすごく増えている。一般庶民がはじめて「ウィンドウズ95でインターネット」ができるようになってからまもなく20年なのだから、運転免許制度のようなルールがあるべきだと私は考えている。

 

ネットなら気に入らない存在を「ありったけ憎悪していい」と本気で考える中年たち 

はるかぜちゃんのしっぽ(ω)

はるかぜちゃんのしっぽ(ω)

 

 

少女と傷とあっためミルク   ~心ない言葉に傷ついた君へ~

少女と傷とあっためミルク ~心ない言葉に傷ついた君へ~

 

  子役の「はるかぜちゃん」は小学3年生のうちからツイッターでイジメ問題や正義など「世の中のこと」 についてさまざまなことを発信している。有名人や、一般のネットユーザらと対話を繰り広げたりもしている。彼女の主張はいくつかの本にまとめられている。

 ところが、そんな彼女の存在を快く思わない人がいる。ネット上には、そんな人たちによる彼女に対する誹謗中傷が溢れている。子役タレントとはいえ、小学生の少女に対し本気で憎悪をぶつける人間が大勢いるのである。悪夢のような現実だ。大勢いるから「みんなもやっているのならやっていいのだ」という感覚で、憎悪が別の憎悪を呼ぶ。彼女は何度も殺害予告などの行き過ぎた書き込みを警察に相談している。

 

 この「はるかぜちゃんを中傷する人たち」を見ていると、ほとんどが大の大人であることがわかる。彼女とずっと年上の、下手をすれば父親や母親くらいの世代たちが、少女相手に本気で全力で人格を攻撃したり、発言や考えの「粗」探しをし続けているのだ。これは明らかに異常事態だ。

 

 概して30代~40代くらいの中年層の中にはネットなら気に入らない存在を「ありったけ憎悪していい」と本気で考える人が多い。在特会ヘイトスピーチデモもこの世代が参加者の大半だ。

 匿名アカウントが大半だが、顔写真や所属・肩書・本名を明かした人もいる。普通の会社員だったり、全国新聞社の記者や大学教授・弁護士・公党の政治家にまでいる。とにかく、アラフォーを筆頭とするこの世代が物凄く多い。見ず知らずの面識のない他人に対し、挨拶もなしに罵声をぶつけたり、勝手に他者の領域に入り込んだうえで身勝手な評価を下したりする人間たちである。小中学校で教える情報教育のルールには明らかに反する行為を、立派な中年が、然るべき立場の大人ですら平気でやっている。恥ずかしげもないどころか、「これこそがインターネットの振る舞い方の基本なのだ」という具合である。

 

 彼らは子どもの頃はインターネットがこの世になかったが、若い頃には存在した世代だ。たとえば2ちゃんねるでのやりとりをめぐって激怒し、西鉄バスジャック事件を起こした犯人はまさにこの世代で、パソコン遠隔操作事件や黒子のバスケ脅迫事件の犯人もこの世代だ。彼らがネット上に残した書き込みや手記は、2ちゃんねる特有のジャーゴンスラングまみれで、匿名空間のネット原住民だけに通じる「ああいえばこういう」のような定型的なやりとりを引き出すような文法でできていて、ネットに疎い高齢者や中年層どころか若い世代から見ても非常に読みづらい。

 

 この成熟する気配のない中年層にとっては、ネットは狂気の空間である。

 実社会では到底できないような振る舞いをいくらでもやることのできる場なのだ。大人しいような人間が、ネット上になるとビッグマウスになったり狂暴化するのは、この世代の二重人格性である。そしてアラフォーは、マトモな人ほどネットに疎いのだ。

 

 LINE世代である若者から見れば、この感覚は全く分からないことだ。スマートフォンは自分の分身のようなもので、「相手のスマフォに向けて情報を発信している」感覚がある。ネットに書き込むというよりは、「ネットで話す」という感じだ。

 ジャーゴン中年たちはヤンキー(マイルドヤンキー)叩きをしたがる人が多いが、プリクラアイコンのオラオラ系の若者は、見ず知らずの人にひどい言葉を投げかける人はほとんどいない。むしろ礼儀正しくてビックリする人が多い。ゆとり世代は概して素直でおとなしいから、「目撃!ドキュン」に出てきたキレる17歳のような人間はまずいないのだ。尾崎豊のような反発心はなく、教師の言うことには粛々と従うため、情報授業でのネット上でのモラル教育が行き届いている。

 都市部は個人主義で趣味や柄やキャラごとの分散化が進んでいて、そのグループ内でヌクヌク生きているから、異なる人間に敵愾心をむき出そうという発想はないし、地方部はムラ社会が良い具合にネットにも反映されていて、チャラい人間とアニメアイコンのオタク(女子ならギャルと腐女子)が元中や高校が一緒という一致点でヨコのつながりを成している。つまり若い世代では、「現実でのつながりがほとんどない危険な奴」以外は暴走することはないのだ。

 学校の教師の世代(中学生以下からすれば親の世代)が平気でネット上で乱暴な書き込みをしたり、その感覚を現実に持ち込んで憎悪のためのデモ行進を練り歩いて沿道の人をリンチしたりしている現実はとても残念に思えてならないのだ。

 

ネット暴走族化する中年層

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/51/Kaminari-zoku.jpg

 私はこの中年層の傾向は珍走団と同じだと思っている。「ネット暴走族」である。

 地元の湘南は珍走団の聖地だ。夜、寝ようとしたときに外の幹線道路から爆音が聞こえると、「今年も春がやってきたなあ」としみじみ思う。これが聞こえなくなれば冬の到来である。

 彼らが丹沢や相模原の山奥からはるばる湘南にやってくるのは、支配的な快楽のためではないかと考えている。深夜の街が寝静まり、閑散としている道路は非現実的な空間だ。そこに、普段はこっそり隠し持っていた改造自動車やバイクで走り回ると、まるでこの世を支配したような感覚に陥ることができる。神奈川県の道路事情は劣悪で、日中はひたすら渋滞ばかりなのでこんな走りをすることはできないし、彼らは普段はけなげに仕事にいそしむ労働者である。

 日々の仕事や生活でのストレスの象徴である渋滞に巻き込まれたイライラの反動から、深夜に我が物顔で走りたくなるのかもしれない。湘南は県内内陸部からは生活圏外だが遠すぎない。相模湾のど真ん中の江ノ島あたりは海辺で風通しも良く気持ちがいい。海のない内陸部からすればそれなりに別世界なわけで「ここまできてやったぞ」という達成感がある。

 

 これをコミュニケーションに置き換えてみよう。

 普段、街中を歩いていると、他人との会話の機会がほとんどないことに気づかされる。通勤電車はギュウギュウ詰めだがみな無言であり、店でのレジ打ちとの会話もほとんどない。人間のコミュニケーションの基本は挨拶だが、そもそも「こんにちは」というやりとりをする場面がどこにもない。ましてや、マトモな人間なら考えつかないし、ような憎悪の言葉をぶつける機会なんてほとんどないだろう。電子化や合理化が進むほど口を交わす場面が減っていく。ETCが広まれば料金所のおやっさんと話す機会もなくなり、食券やタッチパネルや呼び出しボタンでの注文だらけになれば、「すみません」と給仕を呼ぶこともなくなる。それはとても便利なことだが、なんとも息苦しい。その癖仕事上のクレーム処理は減らないから、肯定的な会話の機会は余暇のわずかな人付き合いに限られるようになる。

 

 ネット上で憎悪をまき散らす人間や、その憎悪に触発され、さらに別の憎悪を伝播させる人間や、そうやって形成される不穏な流れに敬遠意識も持たず、むしろ居心地の良さすら感じて共感・連帯し、朝から晩まで民族差別を行うネトウヨや、少女に対する誹謗中傷に明け暮れる人は、おそらくは「閉塞的な現実空間に直面しながら、余暇に満たされていないこと」からネット上を好き勝手に使っているのではないかと思う。

  たとえば逆張りや嘲笑のようなネガティブな表現を吹聴する人ほど、ネット上の閉ざされた親しい人間同士とはむしろ極度にヌルヌルベタベタした馴れ合いをしているのはとても不釣合いで奇妙に見える。イギリスのブラックジョーク文化のように、本来エッジの尖った批評をする人は、そのぶんユーモア面でも切れ味があるほうが形としてはシックリくるからだ。だが、これこそまさに「閉塞的な現実空間」の反動であることの何よりの証拠ろう。

 

 目的はあくまで「湘南で暴走族をやるようなこと」であるため、現実では到底おおっぴらにできない憎悪表現や、現実には満たされてない馴れ合いで承認欲求を満たすわけである。

 在日の人は「働かなくても生活できる特権を貰っている」とか、はるかぜちゃんは「被害者面するいじめ加害者だ」とかめちゃくちゃな言いがかりを付けるのは、そのための手段にすぎない。

 

  ただ、湘南暴走族とネット暴走族が違うのは、 ルールの有無だ。

 交通法規がなく、運転免許もない世の中で肩書きの立派な人を含めた中年者が「赤信号みんなで渡れば怖くない」という風に、そこかしこで日夜暴走族が走り回っているのが2014年のネットの現状だろう。すべての自動車保有者や中年層の問題ではないとはいえ、あまりにこれは悲惨だ。深夜の国道134号線だけがこの世の道路のすべてではないように、はてなYahoo!ニュースのコメント欄(Facebook含む)や2ちゃんねるだけがネットではなにということが、麻痺しちゃってる中年にはわからないのだ。

 人生の大半を馬と徒歩の時代に生きた中高年層と生まれつき自動車が存在し、自動車の恩恵もリスクも分かっている若者や子どもたちが置いてけぼりになっているような現状はやはり不気味だ。「ネット暴走族」化する中年層たちを取り締まるルールを作り、彼らに「運転免許を交付させる」ようにしないと、この世の中はどうしようもなくダメな方向に行くような気がしてしまう。