1章前半 異世界の旅人と女の闘い
「旅人さぁんっ」
ぴとんと、右腕に温かな感触が駆け抜けた。
見ると、メオさんがくりくりとした瞳で自分の顔を見つめてきている。
彼女の頭に付いたネコ耳はぴょこんと尖っていて、お尻を見やればふりふりと嬉しそうに彼女の尻尾が揺れていた。
「へへへ。抱きついちゃいました」
何かがおかしいと思いつつも、自分は彼女の体温を必死に感じる。
異世界にやってきて、自分が初めて出会った少女。
何もかも他人のせいにして人生から逃げてしまった自分に、命の尊さを気づかせてくれた人。
「め、メオさんっ。その……」
当たってますと、そう言おうとした瞬間、左腕にむにゅりとした刺激が炸裂した。
腕だけでなく、左半身を包み込んでしまいそうな柔らかさ。慌てて横を見ると、アイジャさんがにやりと笑って自分の左腕を抱きしめている。
「ふふっ。キョーイチロー」
暴力的までに大きいアイジャさんの胸の感触が、意識を遠くに持って行きそうになる。ローブの上からでも分かるむっちりとしたお尻と太股が、誘うように足をひっそりと挟んだ。
「あ、アイジャさんまでっ」
覗いたアイジャさんの切れ長の瞳は、自分の瞳をじっと見つめている。
綺麗だ。素直にそう思った。
ぴんと先が尖ったエルフの耳は、彼女の美貌のほんの一部だ。美しさとはこうだと言わんばかりに、目も鼻も口も堂々としている。
深淵に辿り着いた魔法使い。大戦の英雄。雷神。戦場に舞い降りた乳神。
様々な異名を持つ彼女が、本当は指を震わす少女であることを自分は知っている。
「キョーイチロー、あっちで一緒にいいことしよ?」
「だめですぅ。旅人さんは、私とデートするんですっ」
ぐいぐいと、自分の身体が左右に引っ張られる。
おかしい。何かがおかしい。
有り得るような、だが絶対に有り得ないような奇妙な感覚に陥って、俺は二人に引っ張られ続けた。
「う、うぅ。そ、そこはだめです。メオさん、アイジャ、さ……」
ぱたりと、青年の顔が落ちる。
「おや、寝ちまったみたいだね?」
テーブルの上に突っ伏す青年に気がついて、アイジャはぐびりと手元のグラスに口を付けた。
「にゃ? ほんとです。珍しいですね、旅人さんが酔いつぶれちゃうの。……というか、なんか変な寝言が」
青年の対面に座っていたネコ耳の少女が、どうしましょうとアイジャを見やった。まだ飲み足りないアイジャは、いいさ放っておきなと手を振ってメオに振り向く。
「ほっときな。大方、お前さんとあたしに同時に迫られる夢でも見てるんだろ」
「にゃはは、そんなばかな」
アイジャのにたにたとした表情に、メオは呆れたように恭一郎の方へ振り向いた。そこにある、頬を緩まして、だが何か困ったような恭一郎の顔に、メオはまさかねと耳を揺らす。
「ぎゃぅ。……リュカも、眠い」
そうこうしているうちに、恭一郎の隣りの席の少女が眠たそうに瞼をさすり始めた。こてんと、頭の角が邪魔にならないように器用に顔をテーブルに着ける。
「あやや、リュカちゃんまで。そろそろ帰りますか?」
「いいさね、もう少し飲もう。そのうちキョーイチローも起きるさ」
アイジャの言葉に、それもそうかとメオは寝息を立て始めたリュカの顔を覗き込んだ。立派な龍の角を枕代わりに、すぅすぅと幸せそうに満腹の余韻に浸っている。
「久しぶりの、あたしたち二人きりだ。ちょいと女の話でもしようじゃないか」
「そうですねぇ。……言われてみれば、旅人さんがうちに来てからもう半年くらいですか」
ゆっくりと尻尾を動かしながら、メオは自分でも驚いたように指を数えた。思っている以上の時の早さに、アイジャもその美麗な切れ長の目を遠くに細めた。
「いやあ、あんときはびっくりしたよ。メオが、いきなり男連れてきたからね」
「べべべ、別にそういうわけでは。ていうか、アイジャさんもよく気がつきませんでしたね? 結構騒がしかったのに」
目の前の不思議な青年が店に来たときのことを、メオは思い返す。彼が来てからの数日間、ねこのしっぽ亭は本当に慌ただしかった。二階にいるアイジャは気がついてもよさそうなのにと、メオは今更ながらアイジャに質問した。
「ん? ああ、あの頃は完全に昼夜逆転してたからね。起きてる間はずっと酔いつぶれてたし。……ははは、自分のことながら呆れるね」
恥ずかしいと、アイジャはくるくると前髪をいじる。アイジャの綺麗な黒髪を見つめながら、メオはなるほどと深くは突っ込まないことにした。
「お前さんがキョーイチローを拾って、もう半年かい。……色々、あったねぇ」
「そうですねぇ。色々、ありましたねぇ」
アイジャが溜息をつき、ふぅと胸をテーブルに乗せる。重いのだろう。自分では到底出来ない芸当に、メオがちらりとそれを見下ろす。
「キョーイチロー、街の入り口で行き倒れてたんだろ? よくもまぁ、担いで帰る気になったもんだね?」
「え? え、ああ。そ、そうですね。ほら、旅人さん物珍しい格好してたじゃないですか? 放っておいたら、追い剥ぎされると思って」
急にアイジャに質問されて、メオは慌ててアイジャの胸から視線を逸らした。アイジャの胸の大きさは、同姓でもついふとしたときに目がいってしまう。エルフは美形の種族だが、特に胸が大きいわけではないのにと、メオは理不尽な不公平に内心、どこかにいるだろう神様に文句を言った。
「あー、なるほど。確かに、キョーイチローの最初の格好は目立つだろうね」
メオの返答を受けて、アイジャが合点がいったように頷く。ジャケットにジーパンに、スニーカー。当初の恭一郎の装いを思い出して、アイジャはくすりと笑いを堪えた。
「しかし、目立ったろうねぇ」
「にゃはは、そりゃあもう。街の皆さんに色々と聞かれました」
かぁと頬を赤らめながら、メオは思い出したように耳を掻く。自分の身の丈を越える、異世界の服を着た男を背中に負ぶって街を歩いたのだ。あれから数日はご近所さんでも噂の種だった。
「父親が死んで身一人になった若い女主人が、奇妙な格好の男を店に連れ込んでるんだからね。そりゃあ、噂にもなるだろ」
「そ、その言い方はちょっと。わ、私がまるで旅人さんを誑かしたみたいじゃないですか」
むぅと頬を膨らますメオに、おや違ったのかいとアイジャがメオの顔をにたりと見つめる。
「まあ、それにしてもだ。たまたま拾って助けてやった男が、偶然にも料理が上手いときたもんだ。……ま、お前さんの善行がいい結果に繋がったってことさね」
「にゃうぅ。なんかこう、そういう風に言われると胸がもやもやするのですが。まあ、そうなんでしょうね」
うーんと納得がいかない表情のメオに、アイジャはゆったりと微笑んだ。本人が気づいているかは分からないが、ここに引っかかるのはメオが恭一郎を好いていることの証だ。本来なら、潰れかけていた自分の店が持ち直したのだ。それで満足するのが当然というものなのだが。
「女と男だ。そう割り切れも出来ないさ」
誰に向けるでもなしに、アイジャはぽつりと呟く。それを見て、メオはぼんやりと今までのことを思い出した。
「旅人さんがやってきて、サンドウィッチを作ってくれて……そういえば、ピッツアの石窯はアイジャさんが買ってくれたんでしたね」
「そうだったね。……って、おいおい。結構したんだぞあれ」
「へへへ。大丈夫、覚えてますよ。あのときは本当にありがとうございました」
ぺこりとメオが頭を下げ、それに合わせてアイジャもいえいえと頭を下げる。お辞儀の文化は前からあるが、何となく恭一郎が来てからよく頭を下げてしまう二人である。
「サンドウィッチとピッツアで店にお客さんがだんだんと戻ってきて。……まあ、とんでもない方もいらっしゃいましたが」
記憶を辿っていたメオが、嫌なことを思い出したと顔をしかめた。アイジャも、メオの言わんとする出来事を思い出して、あーと唸る。
「ゲーデルか。まぁ、あいつは。うん、大変だったね」
「大変どころじゃないですよっ! 私も危なかったし、旅人さんなんてアイジャさん居なかったら死んでたんですよっ!」
恐怖が少し戻ってきたのか、メオはふるふると身を震わせた。
ゲーデル。しっぽ亭にやってきた、強盗まがいの上級魔法使いである。恭一郎は、危うく消し炭にされてしまうところだった。
「まあ。あたしが追い払ったんだし、いいじゃないか」
「それです」
じとりと、メオが軽口を叩くアイジャを睨む。アイジャは、珍しいメオの表情におおと少し怯んだ。
「アイジャさん、魔法使いだってこと私に黙ってましたね?」
「い、いや。言ってただろ。魔法使いだよって」
むむむと身を乗り出すメオに、アイジャはいやいやと手を振って抗議した。そもそも自分は、黒いローブにとんがり帽子。どこからどう見ても魔法使いの出で立ちをしてたのだ。それにちゃんと職業は言っていたと、アイジャはメオに顔を向けた。
「あんな凄い魔法使いだとは知らなかったですっ! なんですか十傑って! 戦場に舞い降りた乳神って、私でも聞いたことある英雄さんじゃないですかっ!」
「英雄さんじゃないですかって言われても……」
ぷんぷんと怒るメオに、アイジャはどうしたもんかと頬を掻く。
十傑。大戦期に活躍した十人の英雄を、人々はそう呼んだ。アイジャはその中の一人、雷神と呼ばれた最強の魔法使いである。ちなみに、強さだけではなくて胸の大きさと美貌でも、アイジャは伝説になっていた。
「……私が、そんなことでアイジャさんを怖がると思ったんですか?」
そんな女賢者を、メオは真っ直ぐに見つめていた。
その視線を受けたアイジャは、罰が悪そうに前髪を摘む。そのまま、恥ずかしそうにとんがり帽子を深く被った。
「そう、だね。悪かった。お前さんには、言うべきだったよ」
ああ、この子は本当にと、アイジャは隠した顔で笑う。少し、怖かったんだという言葉は、彼女の意地で何とか飲み込んだ。
「にゃふふ、まぁいいんです。アイジャさんのおかげで、旅人さんが無事でしたから」
にっこりとメオは笑うと、そのままぎぃと椅子の背にもたれる。そして、横でぐうぐうと寝息を立てているリザードマンの少女の頭を撫でた。
「リュカちゃんが来たのは、その後でしたね」
「だねぇ。いきなりだったよ」
リュカの兄であるリュートが店を訪ねてきた日のことを、メオは昨日のことのように思い出す。最初はリュートの影にびくびくと隠れていたので、居ることに気がつかなかった。
リュートが拳闘士として都に行く決意をし、リュカを預かってくれと頭を下げてきたのだ。突然の申し出に、恭一郎もメオも面食らった。
「妹の学費のために、命がけの拳闘をねぇ。泣かせるじゃないか」
「そうですね。まぁ、リュートさんにはリュートさんの夢もあったみたいですが。ほんと、この兄妹はお互いを心配しすぎですよ」
今でも、週に一度届くリュートからの手紙はリュカの心配ばっかりだ。特に、悪い虫が付いていないかが気が気でならないらしい。
「リュカちゃんも、最初は部屋から出てきてくれませんでしたからね」
「そうだったらしいね。流石というか何というか、こいつは女を誑し込むのが上手いもんだよ」
うにうにと、メオの言葉を受けてアイジャが恭一郎のほっぺたを摘む。うにゃうにゃと、恭一郎が寝苦しそうに眉を寄せるのを見て、メオとアイジャはくすくすと笑った。
「ほんと、この人は気がついたら女の子と仲良くなってますからね。この前市場に買い出しに行ったら、行く店行く店で娘さんから声かけられるんですよ」
「おやおや、それは許し難いね。ほれ、メオも好きなところ引っ張りな」
そう言って、二人は笑いを堪えながら恭一郎の耳や鼻を伸ばしていく。ううんと顔をしかめる恭一郎に、メオはこいつめと指の先をぷにぷにと押しつけた。
「リュカちゃんも、来てから大分成長しましたもんね」
メオは、眠りこけるリュカの顔を覗きながら、うんうんと頷く。体付きはともかく、リュカの成長は寝食を共にするメオたちにもはっきりと分かるほどのものだった。
人見知りで、兄の背に隠れて震えていた妹は、今では立派にねこのしっぽ亭の一員だ。常連に軽口を飛ばし、得意のボードゲームでは、常連からまんまと賭けの景品である高価な注文を取ってくる。
挙げ句の果てに、この年にして飛び級で高等学校の特進科に合格してしまった。自分はおろか、常連の中にも高等学校を経験しているのは一人だけである。
本当に優秀な子だと、メオはよしよしとリュカの頭を撫で上げた。ねこのしっぽ亭の会計も、リュカが殆どこなしているのだ。今では、しっぽ亭に居なくてはならない存在である。
「にゃふふ。……そういったら、カフェをやりだしたのもリュカちゃんが来てからですね。アランさんに会ったのも結構前だなぁ」
恭一郎の顔で遊びながら、メオは羊頭の服飾屋を思い浮かべる。今では何かとお世話になっているが、出会いの切っ掛けは恭一郎が始めたカフェ営業だった。
「ああ、そういえばそうだったね。……クッキィか。あたしゃ恭一郎の料理の中では、あれが一番凄いと思うね」
「ふにゃ、そうなんですか?」
メオが、意外そうに振り返る。酒飲みのアイジャのことだ、てっきりピッツアが一番好きなのだと思っていたが。
「そりゃ、まぁ。好みの問題ならピッツアだけどね。ただ、あのクッキィてのは大したもんだよ。甘い料理なんて、あたしでも初めて食べたからね」
「にゃふぅ。未だに旅人さんよく焦がすんですが、その焦げたのでも美味しいですからねぇ」
じゅるりと涎を飲み込むメオを見て、アイジャは呆れた顔で横を向く。メオとリュカのために恭一郎が数枚わざと焦がしているのを、メオはどうやらまだ気がついていないらしい。
「ま、まあ火加減も難しいんだろうよ。……それにしても、キョーイチローも欲がないというか何というか。貴族相手に売ったら、一財産だろうに」
メオは放っておいて、アイジャは何だかねぇと恭一郎の頭を見つめた。実際、アランからそのような提案もあったというが、恭一郎は客は選ばないとその話を断ってしまった。
「いいんですよ。旅人さんも言ってましたが、ねこのしっぽ亭は街のみんなのお店なんですから」
「ま、お前さんたちがいいなら、それでいいけどさ。実際、店は繁盛してるんだし」
アイジャは、溜息を付きながら肘をテーブルに置いた。しかし、表情は温かだ。アイジャ自身、今のしっぽ亭の雰囲気は気に入っている。貴族様御用達にでもなられたら、今のような馬鹿騒ぎは出来ないだろう。
「アランさんと仲良くなって、カフェ営業の制服を作って貰ったんです。メイド服、あれは嬉しかったなぁ。あんなに可愛い服着れるなんて」
「実際、買うとなると目玉が飛び出るだろうね」
きらきらと目を輝かしているメオに、アイジャはやれやれとグラスを手に持った。とはいうものの、カフェ営業が成功したのはクッキィの美味しさもさることながら、アラン特製の制服の影響も大きい。メイド服もそうだが、恭一郎にも格好のいい執事服を着せたせいで、現在のカフェ営業の日には恭一郎目当てのお嬢さんもちらほら見られる。
「……メイド服、ねぇ」
「にゃふふふ。アイジャさん、ちょっと羨ましいんでしょ? 前はよく、ちらちら私のほう見てましたもんね」
ぽろりと呟いたアイジャの呟きに、メオがにしししと笑う。アイジャは、思わずグラスを落としそうになってしまった。そんなことないと、真っ赤な顔でメオを睨む。
「そ、そんなわけないだろ!? あたしに、あんな可愛い服。に、似合うわけないしっ!」
「にゃふふふー。そんなこと言ってぇ、いつの間にかそんな服作って貰ってたくせに」
焦るアイジャを、メオがにたにたと指で示す。その先は、アイジャの艶めかしい身体。それを包んでいるセーラー服だ。
当然ブラジャーもないこの世界、アイジャの暴力的な胸を守っているのは薄手のブラウス一枚だけである。加えて、太ももが全開で見えてしまうほどの丈のミニスカート。彼女たちは知る由もないが、アイジャが居るだけでいけない店に来てしまったかのような錯覚を、恭一郎は未だに覚えている。
「こ、これはっ!! キョーイチローの故郷の魔法学校の制服なんだよっ!!」
「そうらしいですけど、アイジャさんが着ると。……ねぇ?」
「あー、言ったね! あたしもちょっと気にしてることをっ!!」
きゃいきゃいと声を上げ、二人は楽しそうに取っ組み合う。
実際の所、マントととんがり帽子のおかげで魔法使いっぽさは保てているが、それらがなければアイジャはちょっと、いや大分えっちなお姉さんである。
「……ま、まぁ。年齢に合ってないのは分かってるさね。いいじゃないか、似合ってるらしいし」
「旅人さんに言われたんですか?」
「……そ、それは」
メオの唇を尖らせた発言に、アイジャがしまったと顔を赤くする。それを見て、メオはふーんとグラスの中身を飲み干した。
メオは知るはずもないが、実はアイジャは恭一郎が異世界の人間であることを知っている。それを告白された日のことを思い出して、アイジャは顔を赤く染めた。
「……アイジャさんって、最近旅人さんと仲いいですよね」
「そ、そうかい? まあ、よく一緒に飲んでるし」
少し、じりじりとした空気が二人の間に漂い始める。メオは、じぃとアイジャの胸元に視線を落とした。
「ずるいです」
「……え?」
ぽろりとこぼれたメオの言葉に、アイジャが小さく声を上げた。
「ずるいです、そのおっぱい。そんなの付いてたら、旅人さんもいちころじゃないですかぁ」
「いや、あれで結構強情でね。案外しぶといんだよ」
メオの悔しそうな呟きに、アイジャがそれがねと手を返す。その言葉に、メオはああっと口を開いた。
「って、そんなこと言うってことはっ! アイジャさん、旅人さんに色仕掛けで迫りましたねっ!!」
「な、なんだい急に。別にいいだろ、お前さんのもんでもないんだしっ」
これについては、アイジャも流石に言い返す。恭一郎の心は大分メオに傾いているのだ。それを知って、必死に気を引こうと頑張っているアイジャからすれば聞き捨てならない。
「そ、そうですけど。は、反則ですっ! そんなおっぱいで迫るなんてっ!」
「仕方ないだろっ! 取り外せるもんでもないんだからっ!」
きゃあきゃあと騒ぐ女性二人に、閉店間際で少なくなった店内の男性客が聞き耳を立てる。メオは、うぅとアイジャの胸を見ながら自分の胸元を見下ろした。
「……くっ」
「まあまあ、胸の大きさだけが女の価値じゃないさね」
悔しそうな表情のメオに、アイジャが笑いながら声をかける。そんなアイジャに、むぅとメオは膨れっ面だ。
「自分が大きいからってぇ。旅人さんにもどうせ裸で迫ったんでしょう?」
「ば、馬鹿っ。裸なわけないだろっ! ちゃんと服着てたよっ!!」
アイジャの言葉に、本当ですかぁとメオは眉を寄せる。
「……お互い、どうも上手くいかないみたいですね」
「それもこれも、こいつがヘタレなせいなんだけどね」
ふぅと机に顎をつけたメオを見て、アイジャは恭一郎の頭を指さした。同感ですと、メオもふにゃりと耳を垂らす。
「まぁ、私のほうも悪いんですが……」
ずーんと落ち込むメオに、アイジャは少々複雑そうに頬を掻いた。メオがもう少し積極的だったなら、アイジャは恭一郎に迫ることはなかったかもしれない。しかしそうなれば、アイジャはしっぽ亭から去っていただろうから、結果的に今の関係を守ったのは恭一郎のメオのヘタレ具合のおかげとも言える。
「はは、そんなに落ち込みなさんな。あたしも結局は似たようなもんだよ」
具体的にメオに言うわけにはいかないが、恭一郎を一度は押し倒しているアイジャも、結局はちぐはぐな気持ちのまま恭一郎にぶつかってしまった。あのときはあれが全力だったとはいえ、やはり少し焦りすぎたと今なら思う。
と、まぁ二人は恋敵なわけだが、お互い恭一郎よりも長い付き合い。色々と思うところを交差させながら、恭一郎を賭けた女の闘いを繰り広げているのだ。
「うぅ、旅人さん……」
机に突っ伏してしまったメオは、恭一郎と行ったデートについて思いを馳せていた。
手を繋ぐことすら出来なかったが、あの二人きりの時間はメオにとっての宝物だ。買い出しには何度か一緒に行ったことがあるが、余所行きの服を着て男性と街を探索するのは、メオにとっては新鮮そのものだった。
「楽しかったなぁ」
街の大通りでウィンドウショッピングをして、まあ特に何も買わなかったのだが、恭一郎が入りたがっていた武器屋に入った。そこで、恭一郎は今も使っている包丁を購入したのだ。
「……今思い返したら、あれ騙されてますね私」
自分を護ってくれるための護身用だと恭一郎は言っていたが、数日後には三本とも調理に使われていた。けれど実際、肉、魚、野菜用に分けられた彼らのおかげで店の回転がよくなった辺り、あながち間違いでもないのだろう。
(旅人さんは、いっつも私を助けてくれる)
ぽんやり、メオの頬が染まった。ゲーデルのときに命を張って逃がしてくれたこともそうだが、それ以外にもメオは何度も恭一郎に助けられている。
(だめだなぁ。助けられてばっかり。私も何かしてあげたい)
情けないと、メオは思う。店長として給料を恭一郎に払っているのはメオだが、それも元を辿れば恭一郎のおかげで戻ったお客さんだ。
メオは、自分がどれだけ恭一郎の支えになっているかに気づいていない。
(キス、しておけばよかったなぁ)
リュカに邪魔されたあの唇を、メオはどうしても忘れられないでいた。自分は、頭だけでなくタイミングも悪いと、メオは深く息を吐く。
(でも、好きだって。……好きだって、言って貰った)
ぽつりと、メオの胸に熱が灯った。先のことはまだ分からないと申し訳なさそうにしていたが、はっきりと、そう言って貰ったのだ。
メオは、ちらりとアイジャのことを想った。
アイジャも、恭一郎のことが好きなのだろう。メオにも分かる。好きだったから。大好きだったから、分かってしまう。
(どうして、アイジャさんなんだろう)
考えて、当たり前だとメオは笑った。自分の店には、彼女しか居なかった。……独りの彼女を救ってくれたのは、彼女だけだ。
そして、メオにも痛いほど理解できる。彼は、あの笑顔は、私たちには眩しすぎると。アイジャが変わるのも、仕方ないのだ。
(きっと、アイジャさんも……)
メオは、はぁと再び息を吐いた。彼が二人居ればいいのにと、有り得ないことまで考えてしまう。
(アイジャさん、旅人さん。……にゃうぅ)
結局、自分はどちらも失いたくないのだと、メオは自分に嫌気がさした。今の、幸せな時間を壊したくない。恭一郎のことは大好きだが、それと同じくらい、アイジャはメオにとって大切だった。
(……私って、卑怯なのかな)
きっと、これはとても失礼なことだと、メオは思う。恭一郎にも。勿論、大好きなアイジャにも。
「やれやれ。お前さんは、色恋沙汰はてんで駄目だね」
「うにゃぁ、言わないでくださいぃ」
ふにゃりと涙目になるメオに、アイジャはまったくと腕を組んだ。その際、放漫なバストが強調されるが、今はそれを見つめる視線は席にはない。
(ほんと、こっちよりもずっと上にいるのにさ。戦だったら勝ち目ないくらい、こっちが不利だってのに)
視線を斜めに浮遊させて、アイジャは胸元から電子タバコを取り出した。指で挟み、ぱちりと魔法で電気を通す。アイジャの口から、吸い込んだピンク色の煙がふぅーっと吐き出された。
恭一郎がアイジャにプレゼントした電子タバコだが、今ではすっかりアイジャのトレードマークになっている。
(キョーイチローが来て、もう半年か。……あたしとしたことが、すっかり骨抜きにされちまったね)
どうしたもんかと、アイジャは細い煙の行方を視線で追った。
最初は、メオに悪い虫が付いたのかと警戒したものだが、予想を遙かに超えて奇妙な来訪者は摩訶不思議な男だった。
(まさか、異世界から来たとは。あたしも流石に初めて見たね……)
今でも、ふと夢なんじゃないだろうかと思うことがある。それくらい、恭一郎の話してくれた内容はファンタジーだった。歴戦の猛者として、アイジャも様々な存在に出会ったことがある。土地神、魔界の悪魔、天使と名乗る超人。しかし、恭一郎の話はそのどれもが霞んでしまうくらいの衝撃だった。
『俺は、この世界の住人じゃありません。別の世界からやってきた、人間です』
あの日の恭一郎の告白を、アイジャは一生忘れることは出来ないだろう。
何も言わずに抱きしめられたのも、その悩みが到底アイジャの手に負えるものではなかったからだ。異なる世界の住人に対して、彼女が出来ることは受け入れてあげることだけだった。
(……いかんね。どうも、顔がにやける)
だめだと思いつつも、メオではなく自分を相談相手に選んでくれたことに、未だにアイジャは優越感を感じてしまう。
アイジャとて分かってはいる。本当に大切な想いをメオに持っているからこそ、恭一郎は自分にその胸の内を明かしてくれたのだ。
(それでも。それでも、……嬉しいね。はは、完全に惚れてるよ)
我ながら、ここまで変わるものかとアイジャは天井を見つめた。
今では、自信がある。目の前のメオよりも、彼を愛している自信が。
恭一郎は言ってくれた。自分の魔法が凄いと。世界を変えられる力だと。兵器として生きてきた自分に、別の役目があるのだと。
世界で自分だけが行使できる、雷の魔法。それをもって世界を変える。その夢を、共に目指してくれると。
(元の世界への戻り方なんて、キョーイチローは一言も聞いてこなかった)
じわりと、子宮が熱くなる。考えた末の言葉ではないだろう。何気なく言ったのであろう。彼は、そういう男だ。……故に、彼の真実だ。
(悪いけどメオ、お前さんでもキョーイチローは渡さない。キョーイチローの身体も心も、あたしが貰う)
確固たる決意を秘めたアイジャの瞳に、突っ伏すメオは気が付かない。アイジャは、その愛しい少女の耳を見下ろした。
(ほんと、どうしてお前さんなんだろうね)
栓のない考えが、アイジャの頭をよぎる。メオが恭一郎を連れてこなければ、そもそも恭一郎とアイジャは出会ってすらいないのだ。
だが、それでもどうしても考えてしまう。彼が目を開けた光景に、自分が座っている出会いを。
(メオ、好きだったよ。本当に、お前さんが好きだった)
何であんたなんだろうねと、アイジャはもう一度メオを見つめる。悲しみは、顔には出さない。アイジャは、自分のよき理解者だったネコ耳の少女を瞳に映した。
偶然の、出会いだったのだ。宿なんて、屋根があればどこでもよかった。人気が無くて静かだと、そう思ったから決めたのだ。
きっと、自分も彼も、この少女の優しさに救われたのだろう。目の前の少女がいなければ、自分は彼を想う心など、とうに無くしているはずだ。
(ほんと。なんで、お前さんなんだろうね……)
その少女を、自分は殺したいと。それで全てが手にはいるなら、ナイフを握ると。少しだけ、一瞬だけ。けれど本当に、思ってしまったのだ。
(情けないったら、ありゃしない)
何が英雄だと、アイジャは思う。こんな自分に世界が変えれるのかと、不安になる。
けれど、もう止まれない。想ってしまった。夢の先を。示されてしまった。前へ進む光を。
(……あたしは、弱い)
分かっていたことだが、痛感した。恭一郎のせいで、全部ばれてしまった。自分にも、彼にも。
(だから、あたしにはキョーイチローが必要なんだ)
ぐっと、アイジャは力を込める。何処でもない、心にだ。
(……ごめんね、メオ)
アイジャは、愛しい少女に呟いた。ひたむきで、頑張り屋で、優しい、そんな少女にアイジャは想う。
(好きなんだ。お前さんより、キョーイチローが)
少しくらい、手を伸ばしてもいいだろうと、アイジャは空っぽの自分の右手を見つめた。
「……色々、あったねぇ」
「ほんと、色々ありましたねぇ」
心の底から呟いたアイジャに、メオがむくりと顔を上げる。
細かいことを思い出していたら、本当にきりがない。
たくさんのことをして、たくさんのことを言って、聞いてきた。
恭一郎が、メオが、アイジャが、リュカが、……そして街の人々が。たくさんの人が、ねこのしっぽ亭に集まってきたのだ。
その中心にいたのは、一人の青年。
人生に絶望し、身を投げた、そんな異世界の青年だ。
そんな彼をこの世界に繋いだのは、一皿の温かさ。
これは、そんな一皿の記憶が繋ぐ、人と人との物語。
ねこのしっぽ亭、今日も元気に営業中ーー。
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