佐藤達弥
2014年12月8日02時01分
フィリピン・レイテ沖で日本海軍の連合艦隊が壊滅してから1カ月半後。開戦から4度目の師走を迎えたばかりの日本を激しい揺れと津波が襲った。1944年12月7日に起きた「昭和東南海地震」。家々は押しつぶされ、流された。犠牲者は1200人を超えた。
「津波が堤防を越え、どこまでも押し寄せてきたんです。海辺の家は全滅だった」。三国憲(けん)さん(78)=三重県尾鷲(おわせ)市=は小高い丘から熊野灘のほうを見つめて、言った。当時は8歳。昼ご飯を食べ、友だちと遊んでいるとき、ドーンと地響きがした。「津波が来るぞ!」という地元の人の叫び声がした後、どす黒い波が押し寄せてきた。
家にいた母と18歳の兄、6歳の妹は家を出ようとして津波にのまれた。母の手を握っていた妹は波で引き離され、1週間後に沖合で遺体が見つかった。集落では20人近くが亡くなった。
戦況が悪化し、もともと食べ物が少ない中で起きた大災害。しょうゆもみそもなく、三国さんらは配給されていた玄米を海水で煮て命をつないだ。だが、こうした状況がラジオや新聞で詳しく伝えられることはなかった。
「もっと広く知らされていれば、助けようとする人がたくさん来てくれたかもしれない」。三国さんは地元の郵便局に定年まで勤めた後、体験を小学生らに語り継いでいる。
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なぜ、大地震は詳しく報じられなかったのか。
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