魚住 昭わき道をゆく~魚住昭の誌上デモ

2014年12月07日(日) 魚住 昭

余計な検証、おかしな検証 魚住昭の誌上デモ「わき道をゆく」第105回

PRCって何のことか知ってます? 朝日新聞の第三者機関で、有識者3人で構成する「報道と人権委員会」だそうです。

そのPRC見解が11月13日の朝日に載っていた。テーマは原発「吉田調書」報道。「報道内容に重大な誤りがあった」として記事取り消しを「妥当」と結論づけていた。

本当にそうかな。確かにあの記事は見出しになる語句(『命令違反』)の選び方を間違えている。でも、事実の骨格はしっかりしたものだ。記事取り消しという最終手段でなく、語句の訂正とお詫びで十分だったのではないか。

そんな疑問を抱えながら17日昼前、永田町に行った。参院議員会館でPRC見解を批判する緊急記者会見があると聞いたからだ。

議員会館地下1階の会議室に数十人が集まっていた。海渡雄一弁護士がマイクを握り「事実と推測を混同しているのは『吉田調書』報道ではなくPRCの方だ。真実にたどり着いてない者に、真実を明らかにしようとする者を批判する資格はない」と言い切った。

うーん、ちょっと大上段に構えすぎという気がしないではないけれど、PRCの事実認定に異論があるという点では同感だ。

最大の問題点は肝心の吉田昌郎所長(故人)の待機指示をPRCが「合理性に乏し」く「極めてあいまい」と決めつけたことだろう。
ここは1F(福島第一原発)事故の真相を知るうえでも重要な点なので詳しくご説明したい。

1Fは2011年3月14日夕から15日早朝にかけ、最大の危機を迎えていた。2号機の原子炉に水を注入できず、燃料棒が露出する状態が長くつづいたからだ。
このままでは溶けた燃料が圧力容器どころか、その外側の格納容器も破壊して高濃度の放射性物質が一挙に外部に飛散する。すると1Fの所員約720人はほぼ間違いなく死ぬ。東電本店は1Fから2F(福島第二原発)への撤退に向けて動き始める。

それに待ったをかけたのが官邸だ。1Fから撤退すれば1、3号機への注水も絶え、連鎖的に格納容器が爆発する。やがて10㎞南の2Fも放棄せざるを得なくなり、他の原発にも波及する恐れがある。そうなると日本のほぼ全域が壊滅しかねなかったからだ。

菅首相は15日午前5時半すぎ、東電本店に乗り込み「撤退はありえない」と宣言した。だが、直後の6時すぎ、吉田所長に「2号機格納容器下部の圧力がゼロになったという情報」と「衝撃音がしたという情報」が入った。格納容器の爆発を疑わせる事態だった。

それから1Fの所員たちは必要な人員を残し、2Fへの退避に向けて動き出す。この時点では吉田所長も避難先は2Fという認識だったようだ。だが6時42分、彼は重大な指示の変更をする。以下が「吉田調書」の核心である。

〈本当は私、2Fに行けと言っていないんですよ。ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです。私は、福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに一回退避して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2Fに行ってしまいましたと言うんで、しようがないなと。2Fに着いた後、連絡をして、(中略)まずはGMから帰ってきてということになったわけです〉

この証言はテレビ会議(なぜか音声がない)のやりとりを記録したメモではっきり裏付けられている。所長指示を何人かの幹部社員が聞いているのも映像で確認できる。命にかかわる指示の変更を聞きもらしたり、聞き間違えたりする者はまずいない。PRCの言う「あいまい」さはどこにもない。

吉田所長が指示を変えたのは格納容器の爆発を疑う一方で、違う可能性もあると判断したからだろう。それで彼は放射線量のデータなどを確認するまでは2Fに行かず、構内(または1F近辺)のバス内で待機せよと言ったのである。そうとしか考えようがない。
これは現場指揮官として冷静な判断だったと思う。現に現場に近寄れないほどの線量の上昇は数時間で収まった。政府事故調も後に「(当初2号機格納容器のものと思われた)衝撃は4号機建屋の爆発によるもの」と結論づけた。

だから吉田所長の待機指示はPRCの言うような「合理性に乏しい」ものではない。そして、ここが一番大事なところだが、1Fの所員約650人が結果的に吉田所長の指示に反して2Fに行ったのは紛れもない事実である。その結果、事故収束作業にブランクが生じたことも容易に推測できる。

問題は所長の待機指示がなぜ反故にされたのかだ。混乱の中でうまく伝わらなかったのか、誰かが意図的に無視したのか。真相が分からない。所員の大半が所長指示の変更を知らなかった可能性が大である以上「命令違反」という語句を選んだのは記者たちの勇み足だったと言わざるを得ない。

しかし、一方で記者たちが、これまで東電が公表しなかった重大な事実(1Fが所長の統制不能に陥ったこと)を明らかにした功績は最大限に評価すべきだ。1F事故中最大の放射性物質を放出した15日の出来事を徹底的に明らかにしなければ、事故の教訓を将来に活かすことはできなくなる。

海渡弁護士は「1Fの事故にはまだ解明されてない謎が多くある。今回のPRC見解はその謎に挑んだジャーナリストの言葉じりを捉えて矛先を鈍らせ、結局のところ真実にふたをしようとする者に手を貸したと言わざるを得ない」と憤懣やるかたない表情だった。

私はPRCが〈(記者たちは)2人だけでの仕事にこだわり、他からの意見を受け付けない姿勢がみられ(中略)専門性の陥穽にはまった〉と指摘したことに驚いた。

社内で情報が共有されていれば間違いを防げたと言いたいのだろうが、それは取材現場を知らない人の言葉ではないか。「吉田調書」のような機密文書を入手した記者に求められるのは情報源の秘匿だ。そのために「2人だけでの仕事にこだわ」る必要がある。

1972年の外務省機密漏洩事件を思い出してほしい。あの事件では記者が入手した機密文書の扱いに遺漏があった。そのためネタ元の外務省女性事務官が逮捕され、彼女の人生は滅茶苦茶になった。あんな悲劇を二度と起こさぬことが記者としての責務である。

その意味で記者たちは立派だった。編集局長クラスから「『調書』を見せてくれ」と言われてきっぱり断った。考えてみてほしい。情報が広く共有されるような新聞社に誰が機密文書を渡すだろう。

私が心配なのは記者たちの今後の処遇である。彼らのような記者に活躍させなければ朝日の調査報道は先細りになる。私はそれを最も憂えている。

*参考:『世界』2014年11月号「日本はあの時破滅の淵に瀕していた」(海渡雄一著)

『週刊現代』2014年12月6日号より