本エントリには映画『フューリー』の濃厚なネタバレが含まれています。未見の方は閲覧されないことをお勧めいたします。
『フューリー』のラストシーンは実に陰鬱な雰囲気に覆われている。凄惨な戦闘を生き延びたノーマンは進撃してきた味方部隊に救出され、さらに仲間の犠牲が無駄ではなかったことを知らされる。本来なら悲劇的だが申し分のないハッピーエンドになってもおかしくはないのに画面の色調は暗いモノトーンだしノーマンはついに一言もしゃべらない。戦友を失ったノーマンの悲しみもあるのだろうがそれだけではないように感じる。なぜこれほど重苦しいエンドなのか。
一応自分なりに解釈して見ようと思う。冒頭車載機銃の引き金が引けない新兵の主人公ノーマンに度胸をつけさせるため、車長ウォーダディは投降して命乞いをする無抵抗のドイツ兵を無理やり射殺させる。その後ノーマンはウォーダディの持つドイツ軍への激しい憎悪にも感化されて、戦車を放棄して逃げるドイツ兵を「ナチスの豚野郎!」と叫びながら躊躇なく射殺できる「一人前の兵士」に成長し、そんなノーマンを仲間たちは敬意をこめて「マシン」とあだ名で呼ぶようになる。ドイツ兵を殺すマシンになったノーマンの変化に呼応するかのように後半登場するSS擲弾兵大隊の兵士はほとんどシルエットでしか表現されない(戦闘が夜間だからでもあろうが)。しかし皮肉なことにノーマンは顔のない「ナチスの豚野郎」であるはずの武装SSの兵士の良心に命を助けられる。自分が捕虜を殺害したときに眠らせた良心をまだ持っていた相手に。このSS兵士の姿かたちがノーマンそっくり(ノーマンを演じたローガン・ラーマンの一人二役ではないかという話も聞くけど確認できない)であることは意図的なものだろう。
ノーマンにとってたった1日を過ごしただけであっても「フューリー」は家同然の存在であり、クルーたち家族同然だった(ウォーダディは途中からノーマンをMy Sonと呼ぶようになる)。過酷な体験の中で培われた戦友との絆は彼にとって掛け値なしの真実だ。しかし同時に彼はその絆を形作ることになった激しい怒り(Fury)、戦友たちが持っていたドイツ軍に対する憎悪が決して完全に正当化できるようなものでもないことも知ってしまった。彼はこの後、戦友たちとの体験の尊さと、その行動が自分の良心に照らして許されるものではない、という二つの思いに揺れ続けることになるのだろう。
そして弱冠18歳のノーマンはその葛藤を一人で抱え込まなくてはならない。銃後の人々は彼の思いを恐らく理解できない。それはノーマンを救出した部隊の兵士や衛生兵の態度に象徴されているように思う。彼らは口々に「お前は英雄だ」「よくやった」というが実際はさほどノーマンに関心を持っていない。たいした怪我がないことがわかると衛生兵は事務的にノーマンを救急車に押し込み立ち去ってしまうのだ。もし彼の喪失感と葛藤を理解できるものがいたとしたら体験を共有した戦友たちであったかもしれない。しかし彼らは皆死んでしまった。
ノーマンは「家族」と「家」を失い、同時に自分の体験を正当化してくれる根拠も失ってしまった。救出されたノーマンは全てを失って裸で荒野に放り出されたも同然なのだ。そして彼は戦後を長く苦しいその精神の荒野を歩いて行かなければならないのだ。あの陰鬱なラストが象徴しているのはそういったものなのだ、わたしはそう考える。
「戦場体験」に無条件に身を浸すことも、単純なモラリストとして生きることもできない中途半端な位置に放り出されたノーマンと、視聴者の立場は重なるものがあるのではないだろうか。この作品を「反戦」「戦争賛美」「米軍万歳映画」と断定的に捉えるのはことごとく的外れのように思える。何らかの立場に全面的に依拠するのではなく、自分自身でまずは兵士の体験を受け止めろ、そう要求されているように感じることがこの作品を見終わった後の何とも言えない精神的疲労感につながっているのかもしれない。体調のいい時に見た方がいい映画だ(笑)。
※なおこの解釈は1回映画館で見た経験に基づいて書いているので円盤が出た後見直したらこっそり改変する可能性があります。コメンタリーで全然違うことが言われてたりしたら泣きながらエントリ自体を爆破するかもしれません。また頻出するキリスト教関係のモチーフも正直門外漢なのでそこらへんも触れてません。
一応自分なりに解釈して見ようと思う。冒頭車載機銃の引き金が引けない新兵の主人公ノーマンに度胸をつけさせるため、車長ウォーダディは投降して命乞いをする無抵抗のドイツ兵を無理やり射殺させる。その後ノーマンはウォーダディの持つドイツ軍への激しい憎悪にも感化されて、戦車を放棄して逃げるドイツ兵を「ナチスの豚野郎!」と叫びながら躊躇なく射殺できる「一人前の兵士」に成長し、そんなノーマンを仲間たちは敬意をこめて「マシン」とあだ名で呼ぶようになる。ドイツ兵を殺すマシンになったノーマンの変化に呼応するかのように後半登場するSS擲弾兵大隊の兵士はほとんどシルエットでしか表現されない(戦闘が夜間だからでもあろうが)。しかし皮肉なことにノーマンは顔のない「ナチスの豚野郎」であるはずの武装SSの兵士の良心に命を助けられる。自分が捕虜を殺害したときに眠らせた良心をまだ持っていた相手に。このSS兵士の姿かたちがノーマンそっくり(ノーマンを演じたローガン・ラーマンの一人二役ではないかという話も聞くけど確認できない)であることは意図的なものだろう。
ノーマンにとってたった1日を過ごしただけであっても「フューリー」は家同然の存在であり、クルーたち家族同然だった(ウォーダディは途中からノーマンをMy Sonと呼ぶようになる)。過酷な体験の中で培われた戦友との絆は彼にとって掛け値なしの真実だ。しかし同時に彼はその絆を形作ることになった激しい怒り(Fury)、戦友たちが持っていたドイツ軍に対する憎悪が決して完全に正当化できるようなものでもないことも知ってしまった。彼はこの後、戦友たちとの体験の尊さと、その行動が自分の良心に照らして許されるものではない、という二つの思いに揺れ続けることになるのだろう。
そして弱冠18歳のノーマンはその葛藤を一人で抱え込まなくてはならない。銃後の人々は彼の思いを恐らく理解できない。それはノーマンを救出した部隊の兵士や衛生兵の態度に象徴されているように思う。彼らは口々に「お前は英雄だ」「よくやった」というが実際はさほどノーマンに関心を持っていない。たいした怪我がないことがわかると衛生兵は事務的にノーマンを救急車に押し込み立ち去ってしまうのだ。もし彼の喪失感と葛藤を理解できるものがいたとしたら体験を共有した戦友たちであったかもしれない。しかし彼らは皆死んでしまった。
ノーマンは「家族」と「家」を失い、同時に自分の体験を正当化してくれる根拠も失ってしまった。救出されたノーマンは全てを失って裸で荒野に放り出されたも同然なのだ。そして彼は戦後を長く苦しいその精神の荒野を歩いて行かなければならないのだ。あの陰鬱なラストが象徴しているのはそういったものなのだ、わたしはそう考える。
「戦場体験」に無条件に身を浸すことも、単純なモラリストとして生きることもできない中途半端な位置に放り出されたノーマンと、視聴者の立場は重なるものがあるのではないだろうか。この作品を「反戦」「戦争賛美」「米軍万歳映画」と断定的に捉えるのはことごとく的外れのように思える。何らかの立場に全面的に依拠するのではなく、自分自身でまずは兵士の体験を受け止めろ、そう要求されているように感じることがこの作品を見終わった後の何とも言えない精神的疲労感につながっているのかもしれない。体調のいい時に見た方がいい映画だ(笑)。
※なおこの解釈は1回映画館で見た経験に基づいて書いているので円盤が出た後見直したらこっそり改変する可能性があります。コメンタリーで全然違うことが言われてたりしたら泣きながらエントリ自体を爆破するかもしれません。また頻出するキリスト教関係のモチーフも正直門外漢なのでそこらへんも触れてません。
ノーマンも含め単純に戦闘で全滅していれば、悲劇の英雄となりました。
隠れていた所をナチスのドイツ兵に見つかり処刑されれば、「戦争は甘くない、バッドエンド」となりました。
しかし、たまたま敵兵の良心か偶然か気の迷いか何かによってノーマンは生きながらえ「お前は英雄だ」と評価されます。
英雄などそんなものだと。実際に起こったことは理解できないし、すべきでもない。
私は「この台詞を投げかけるためにノーマンを生かしたのか!」と震えました。