大学時代
1981年
西南学院大学法学部法律学科に入学。
事情あって、九州内から出る気がなかったのと漠然と法学部に行きたかったので、西南大を選択する。でも今、想うと西南大を選んで良かった。
もし、合格しなかったらハリウッドに行こう!と考えていた。
ハリウッドに行けば、映画俳優になれるとでも考えていたのだろう。
世間知らずも甚だしい馬鹿な男だった。この世間知らずが、大学生活で厳しく鍛えられたのであった。
在学中は、勉学はもとより(?)部活動に励む。鹿児島から出て来た私は、ただ男として強くなりたいと考えていた。それにアクション俳優に憧れていた。そんな田舎者の私をとても親切で頼もしそうな先輩方が、有無を言わさずにある武道系クラブの道場へ連れて行って下さった。
そして、体験入部を勧められ、その後は焼き鳥屋でご馳走して下さった。
とても、とても優しい兄貴の様な先輩方だった。焼き鳥屋へ連れて来られた私と同様の入学生達は声も高らかに「自分は、入部します!」と酔った勢いで宣言していた。かく言う私も、国分高校の同級生の満田君と一緒に爽やかに入部を宣言していた。先輩方は、優しかった。とても、とても、優しかった。そう…、その夜までは…。
翌日、ルンルンと道場に行くと、昨夜の優しい先輩方がいらっしゃった。
だが、先輩方の雰囲気がなんだか違う。挨拶しても、返事がない。
ん?どうされたのかな?それに雰囲気が、何だか…、怖い。
そう、昨夜の顔は芝居であったのだ。そして一度でも入部宣言した者に待っていたのは、約束された灰色の学園生活であった。
西南学院大学少林拳法部、伝統的な大学の武道部であった。私もそこに4年間在籍する事になった。18歳の少年から見たら、4年生はおじさんである。それがただのおじさんじゃなかったのが恐怖である。道場の中には、化け物、いや怪物が一杯いた。(諸先輩、ご勘弁下さい。)そんな怪物を相手に、乱取りといってわずか6オンスのグローブで戦うのである。もちろん、勝てる訳がない。勝てるどころか、毎日ボコボコである。鼻も折れた。田舎者の少年は、どんどん暗い男になっていった。
部を辞められなくて、遂に大学を辞めて逃げ出した同期もいた。
それでも同期の連体責任として、私達が締め上げられた。まさに地獄の日々が続いた。爽やかなキャンパス生活などは夢のまた夢であった。
まさに「押忍(おす)」の世界であった。
毎日の稽古で、顔も足も腕も体中が腫れまくり、毎晩氷で冷やしながら寝床に着く。下宿先のおばさんは、毎晩のように氷を貰いに来る私を「毎晩、よく飲むねぇ。」と誤解していた。
そんなある日、簡単な事に気付いた。それは、やらなければやられる。
格闘技の真髄である。乱取りは、憎くもない相手と殴り合い蹴りあう。
どんなに仲良しでも、戦いが始まったら敵である。遠慮無しだ。
とにかく攻めるだけだ。それから、我武者らに稽古した。体中が鋭敏になっていた。街中や電車の中で人が近付くと、体が反応して身構えた。
きっと人相も悪かったと思う。技に自信が付いた頃は、喧嘩は買うより売っていた。危ない季節だった。何事も中途半端な時期が一番、たちが悪いものだ。だが、成長するに従い、バカはしなくなった。
伝統のあるクラブは、伝統を守る為に鬼の様な稽古をする。私が入部した頃は、新しい黄金期の始まりの時期だった。先輩方は、強かった。
強い先輩方だったから、どんなにしごかれても信用出来た。私の同期は9名の男がいる。全員、嫌いでもないのに殴り合い、蹴りあった仲だ。
だから、信用出来た。道場で本当の男らしさと優しさと信用を学んだ。
卒業を迎える頃は、少しだけ大人になった気がした。
少林拳法部では、2年の時、全九州学生新人大会乱取り団体の部/優勝、3年の時に、西日本個人選手権乱取り一般の部4位、そして4年の時に全日本少林拳学生選手権大会乱取り団体の部/優勝を飾れた。
同じく4年の時に「西南スポーツ」という新聞の体育会全体の優秀選手の3位に選ばれた。嬉しかった。当時、福岡大学の合気道部副主将をやっていた弟もこの事を知って喜んでくれた。弟は温厚な雰囲気を持った男だが、小さい頃は派手な取っ組み合いをしていた。彼も空手と合気道をやっており、お互いに認めあっているので、もう取っ組み合いなどできない。それに、そんな事は必要無いくらい、私達は仲が良い。
少林拳法部は、私に厳しく礼節を教えてくれた。強い心を与えてくれた。
私にとっての大学の4年間は、辛い中にもいつも苦楽を共にした仲間達の笑顔があった。