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 2014/12/6(土)
 <東南海地震70年・下>被害情報は極秘扱い 戦時下の「言論統制」
【昭和東南海地震発生翌日の伊勢新聞。震災に関する記事は3ページ目の下方で小さく掲載された。】
 昭和東南海地震について報じた当時の新聞記事は少なく、被害に関する記述はほとんどない。太平洋戦争中で情報統制が敷かれる中、当局が地震の被害を「極秘情報」として扱い、公表していなかったからだ。記事の少なさが当時を知ることが難しい理由の一つになっており、専門家は災害情報を伝える重要性を訴えている。

 発生翌日の十二月八日の伊勢新聞朝刊一面。地震関連のニュースは一つもなく、トップ記事は「決戦第四年一億特攻・英米必殺」との見出し。昭和天皇の写真も掲載されていた。

 この日は、太平洋戦争の開戦から四年目を迎えた日。フィリピンのレイテ島に落下傘部隊が降下したことや米軍の爆撃機「B29」に損傷を与えたことなど戦争関連の記事が多くを占めていた。

 地震の記事は三ページ目に一つだけ。しかも下方で小さい扱いだ。発生時刻や震源は伝えているが、見出しは「天災に怯まず復舊(ふっきゅう)」。復旧に取り組んでいることを強調し、被害状況については「一部に被害はあった」と書かれただけだった。

 二日目以降も地震の記事は掲載されたが、避難を呼び掛けた末に殉職した警察官や、重傷を負って死亡した津署長など美談≠ェ中心。確認できたほかの日刊紙でも、同様に被害の詳細に関する記述は見当たらなかった上、記事の内容も似通っていた。

 一方、住民らの間でうわさされた地震の再来に対し、「科学的根拠がない」と否定する有識者の論説や「敵国の恐ろしきデマ」と批判する記事が目立った。世論を落ち着かせようと、当局が躍起になっていたことがうかがえた。

 三十年にわたって昭和東南海地震の歴史を研究している県史編集委員で、三重大付属図書館客員教授の吉村利男氏(66)は「戦況が厳しい中、当局は士気の低下を懸念して公表しなかったのだろう」と述べ、戦時下の「言論統制」で被害が非公表にされていたと指摘する。   県は地震から三日後、犠牲者数や倒壊家屋数を一覧表にまとめて市町村長宛てに通達した。しかし、一覧表は「マル秘」扱いで当時は公にならなかった。当時を知る手掛かりとなる資料は、児童らの作文やわずかな公文書などしかないという。

 吉村氏は「当時の日本は空襲にも見舞われ、脅威は地震だけでなかったという背景もあるが、災害時は多くの情報を記録し、継承することが必要だ」と話している。

   ◇ ◇
 伊勢新聞社は六日、津市西丸之内の津リージョンプラザお城ホールで「みえ防災・減災センター」などが開く「昭和東南海地震七十年シンポジウム」で、当時の伊勢新聞を展示する。展示は午前十一時―午後五時まで。




  
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