「あの…よかったら、一緒に帰らない?」
 帰ろうと鞄を持ち上げた所で、いきなり後ろから声をかけられた。
冬の陽が落ちるのは早い。明かりを消された教室の中は既に薄暗くなり始めていたが、他に誰もいないと思っていただけにびくっとした。
「なんだ委員長か…」
 振り返ると、同じクラスの藤掛理沙子が立っていた。委員長と言っても別にクラス委員とかそういう訳ではない。しかしそのいかにも生真面目そうでおとなしいキャラクターから、いつしか皆からそう呼ばれるようになっていた。
「あ、ごめん。驚かせちゃった?」
 申し訳なさそうに顔を俯かせる。辺りは冷え冷えとしてるのに、まるでほてってるかのように頬が上気していた。
 正直俺はとまどっていた。3年間同じクラスにいたことは確かだけども、さして親しくしていた訳でもない。用事のある時以外で話したことなんて数えるほどしかないだろう。なんでいきなり――。
 どうしていいか分からないうちに何もない時間がただ流れていく。藤掛はその空気に堪えきれないかのように俯いたままちらりと上目遣いにこちらを見る。大きな眼鏡の向こうから覗く瞳は思いのほかつぶらで、俺はちょっとどぎまぎした。
「――だめ?」
 ほとんど聞こえるかどうかぎりぎりぐらいの小さな声が口から漏れる。
「あ、いいよ」俺はなんというか、勢いで言ってしまった。別に断る理由はないし、それに――藤掛と一緒に帰るのも、なんかいいかな、という気がこの時ふっと湧いてきたのだ。
 藤掛の顔が、ぱーっとみるみる嬉しそうに輝いた。こんなふうに明るい顔をした藤掛なんて見た事がない。(あれ、こいつ――ひょっとして…) 鈍感な俺でも、なんとなく気づくものがあった。

 とはいえ藤掛の格好はいつもととりたてて変わったものではない。制服なんだから当たり前と言えば当たり前だが、その制服の着こなしも人並みはずれてきっちりとしていた。彼女のことを「歩く校則」なんてからかうやつもいたけど、そう言われてもしかたがない。パーマも脱色もしたことないだろうその髪は、ひたすらまっすぐ背中まで伸び、もちろんしっかりと後ろで束ねられている。顔にも化粧っ気はまったくない。おそらく口紅ひとつさしたこともないのではなかろうか。校則くそくらえで制服を改造したりちゃっかり化粧している他の女生徒の中に混じると、地味すぎて普段は存在自体が埋没してしまいそうなくらいだ。
 ただ、そんな彼女でも、体の中でただ1箇所、人並みはずれて目立つ所があった。それが胸だった。別に太っている訳ではぜんぜんないのに、今もセーラー服の布地を大きく突き上げてこんもりと盛り上がり、強烈に存在感を主張している。胸だけで言えば雑誌をにぎわすグラビアアイドルなんか問題にならないほどの大きさだ。俺の記憶では1年の頃は確かそれほどでもなかったと思うけど、いつの間にかこんなに大きく膨らんでしまっていた。さすがにこの胸に関してはは男子の間でも時々どれぐらいあるのか話題になるけども、サイズは間違いなく1メートルを大きく上回っていて、おそらくブラジャーは特注品だろう、ともっぱらの噂だった。
 その胸が今、俺の目の前でたふたふと揺れている。妙にうきうきとしているようで体全体をはずませるように俺のそばを駆け回り、そのわずかな動きものがさずに増幅して跳ね回っている。
(すげ――)
 俺は思わずその胸を食い入るように見つめてしまった。しかし藤掛はそんなあからさまな視線にすら気がつかないほど浮かれているようだった。

 校門へと並んで歩く。藤掛はセーラー服の上にコートを着込んでいるのだが、それでもその胸の大きさは隠しようがない。コートの襟から胸にかけてぐうっとものすごい角度で盛り上がり、ちょうどバストの先あたりを頂点にストンとまっすぐ下に落ちている。だから一見太って見えないこともないのだが、鞄を手で保とうとお腹のあたりを押さえると、どこまでも奥深く手が埋もれていって、胸だけがぐぐっと浮かび上がってくる。それで却って胸の大きさが強調されてしまっていた。
「委員長って、家どっちの方だっけ?」
 何話していいか分からず、とりあえずありきたりなことを訊いてみた。考えてみればこんなことさえ知らなかったんだな、と今さらながら驚く。
 しかし答えを聞いてさらに驚いた。びっくりするほど自分の家の近くだったからだ。最寄り駅こそひとつ手前だけども、歩いたっておそらく15分ぐらいしかかからないだろう。
「なんだ、そんなに近かったの?」
「うん」藤掛は嬉しそうにうなずいた。どうやら――むこうはこっちが近所だってことを知っていたみたいだった。
 そんなだったから、そのまま別れるでもなく、自然と2人は同じ方向の電車に一緒に乗りこんだ。その間、特に話がはずむという訳ではなかったが、ぽつりぽつりと、それでも途切れずに会話が続いた。
「野球部、もうやめちゃったんだね…」
「あったりまえだろう。だってもう3年だぜ。年が明けたら受験だしさ」
「大学入ったら――またやるの?」
「うーん、もうこれからは草野球でも楽しみたいな。部活でやるのはもうちょっとね…」
 藤掛はびっくりしたような顔をした。
「野球、やめちゃうの? ――秋山くん、かっこよかったのになぁ」
 これにはこっちの方が驚いた。藤掛が部活の野球を観てたこと自体知らなかったし、それにうちの高校は甲子園を目指すなんて夢のまた夢、3回戦まで残ったためしがないぐらいの弱小校だ。しかも俺は、どうやら3年でレギュラーにはなったものの7番セカンド、目立たない上に特に活躍した憶えもない。野球は好きだったけど、正直とっくの昔に自分の実力に見切りをつけていた。
「へぇ、委員長、野球なんか観るんだ」
「うん――秋山くんが出る試合は…応援してた」
(え…!?) 自分がもてる男ではないという自覚があったから、さっき気づいた事も(まさかなぁ)と半信半疑だったのだが、こうしてまた、言った瞬間耳まで真っ赤にした藤掛を見て、その疑惑がまたむくむくと湧きあがった。
(藤掛って、ひょっとして――俺のこと…)
 それに俺の方も、なんだかそんなけなげな様子を見て、なんか藤掛の事がとてつもなくかわいく思えてきてしまったのだ。その長い髪も一見無造作にしばられているようだが、変なことしてないせいか少しも痛んでなく、黒く輝くようにつややかだし、化粧っ気のない顔も、肌がつるんとしてこの上なくみずみずしかった。それになによりその胸…。上気していささか荒くなった呼吸に合わせて、コートの上からでもはっきりと分かるほど隆起している。
 恥ずかしげに俯いたままの藤掛をついついじっと見つめてしまう俺。なんとかこの気恥ずかしさを打ち破りたいんだが、喋ろうにも頭の中がぐるぐる空回りするだけでなんにも浮かんでこなかった。
 その時、身体中に強烈なGがかかる。電車がいきなり急停車したのだ。
「あっ」小さな叫び声を上げて、藤掛が俺の方へと倒れこんだ。
 真正面に向き合ってたから2人の体がまともに重なり合う。その途端、俺の胸の辺りをとてつもなく大きな、今まで感じたことのないやわらかい感触が覆った。
(こ、これは――)
 服の上からでもはっきりと分かった。藤掛の巨大な胸が、俺と彼女の体の間に挟まれてひしゃげて、俺の胴体をすっぽり覆わんばかりに広がったのを。
 それは今まで想像したことのない、信じられないぐらいやわらかい感触だった。まるで形のないもののようでいて、それでいてぷりぷりとしたなんともいえない弾力。単にやわらかいのではない、コシというか、そんな不思議な躍動感があった。
「停止信号です。しばらくお待ちください」
 社内に無機的なアナウンスが流れる。電車はまだ動かないままだ。俺と藤掛も動かず――いや、動けずにぴったりと寄り添ったままじっと立っていた。
「藤掛、大丈夫か」
 気がつくと、俺は"委員長"ではなく苗字で呼んでいた。そして心配するような風を装いながら、彼女の体をそっと抱きかかえようとした。
「うん――」
 藤掛はどうともとれるあいまいな返事をした。体を起こそうとしてより一層2人の体が密着する。それとともに――どくん、どくんと藤掛の心臓の音がこちらまで伝わってくるぐらい激しく伝わってきた。
(緊張――してるのか?)
 自分の腕に寄り添った藤掛の手に力がこもる。どくんどくんどくんどくん――。みるみるうちにその鼓動がどんどん早くなっていった。
(え?)
 それとともにある変化に気がついてきた。2人の間にはさまれた胸が――徐々に張りつめてきて、むくむくと一層盛り上がってくるように感じられたのだ。
「あっ、だめっ!!」
 藤掛はいきなり、俺の体を突き飛ばさんばかりの勢いで体を離した。顔つきは赤いのを通り越して紅潮し、息もほとんどぜいぜいと音が聞こえてくるぐらい荒くなっていた。
「あ――ごめんなさい…」
 俺を突き飛ばしてしまった事に気づいて、そのままいつものおとなしい藤掛に戻ってきたようだった。
 間もなく電車は再び走り出したが、それから藤掛は一言もしゃべらず、俺もきっかけがつかめずに気まずい空気が流れた。
「じゃ、わたしはここで――。秋山くん、さっきはごめんね…」
 電車が藤掛の降りる駅に着くと、ほとんど消え入りそうな声でそれだけ言ってさっと降りていった。俺の体には、さっきの不思議な感触だけが今も身体中になまなましく残っていつまでも消えてくれそうになかった。
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