Fuzzy Logic

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投票率の改善に近道はない

ちょっと一回挟んでしまいましたが、予告通り投票率について書いていきたいと思います。


朝日新聞社が2、3日に実施した衆院選の序盤情勢調査と同時に行った世論調査によると、今回の衆院選で「必ず投票に行く」と答えた人は67%だった。「できれば行きたい」は23%で、「行かない」は7%だった。「必ず投票に行く」が7割を切ったのは、現在の方法による調査を始めた2003年以降の衆院選では初めてだ。


衆院選の投票率は過去最低? 「必ず投票行く」7割切る - 選挙:朝日新聞デジタル

投票率を上げた方がいい、というのは民主主義の要請から見ても明らかです。より濃く民意を反映できる、ということなので。

一応、投票率に関しては過去に2回記事を書いてます。


選挙に行こうぜ! - Fuzzy Logic


投票率の向上とネット選挙 - Fuzzy Logic

二つ目はともかく、一つ目の記事の感覚は、今のぼくの考え方とは少し違います。

ただ闇雲に、投票率という「数字」を改善するためだけに、「投票に行け! 行かない奴は非国民じゃ!」と煽り、形だけの投票率改善を図るのもどうなのかな、と最近では思うようになったからです。


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そもそも、なぜ投票するのか

なぜ投票をするのか、と聞かれたらなんと答えるでしょうか。ぼくなら「自分の意見を社会に反映させるため」とか答えるかもしれませんが、この答えから「そもそも自分の意見とは何なのか」という問いが浮上します。

自分の意見。それはポリシーであるかもしれないし、自分の所属する集団の利益であるかもしれない。必ずしも社会全体の利益ではなく、個人的な利害に基づく判断をすることもあるのかもしれない。

もの凄くおおざっぱに言えば、「自分の意見」とは「自分の利益」と言い換えることもできます。長期的に見れば、誰しもにとって住みよい社会を作ることは、自分の利益と相反しない場合も多いので。自分が住みよい社会は、他の誰かにとっても住みよい社会である確率はそこまで低くはないはずです。

そのような、社会の構成員それぞれが考える「自分の利益」、ひいては「社会の利益」を達成するための意志、それを一般的には「民意」と呼ぶのではないでしょうか。


煽りによる「投票率改善」が引き起こす「ミスマッチ」

(ここからは物凄く大雑把な話になりますので、認識違いがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください)

世間的に非常に注目度の高かった政権と言えば、民主党政権発足時もそうですが、やっぱりぼくの年だと小泉純一郎首相の時が真っ先に頭に浮かびます。

小泉さんは「自民党をぶっ壊す!」と言い放ち、「聖域なき構造改革」を提唱して、これまで庶民の間に充満していた閉塞感を吹き飛ばしていくイメージが大衆に受け入れられ、絶大な支持を得ました。

小泉政権が目指した方向性というのは物凄く大雑把にいうと「小さな政府」路線だとぼくは理解しています。社会保障を初めとする政府支出を抑制して、財政健全化を目指す方向性です。

当然、その健全化の過程で削減されたものもあります。年金や医療制度の縮小がそれです。それらの実害を被った人もたくさんおり、後に小泉政権のとった政策はある層を中心に「格差を拡大させた」「弱者切り捨て」と批判されるようになりました。

小泉首相の政治手法は、いわゆる「劇場型政治」「ワンフレーズポリティクス」などと表現されます。「改革を断行する」という小泉さん自身のキャラクターやイメージを前面に出した戦略です。

これは小泉改革路線を批判するものではないんですが、当時の小泉政権与党側に投票した人達は、小泉改革の「プラス」の部分と「マイナス」の部分の両面を、果たしてどの程度正しく認識していたのでしょうか。その一点については、甚だ疑問です。

もしかしたら、「威勢よく構造改革を叫んでいた小泉さんなら、きっと私たちの生活を良くしてくれるに違いないと思っていたのに、騙された!」なんて思った人もいたのかもしれません。しかし、そもそも「小泉さんに政権を取らせたい」という民意を発したのは我々国民自身です。

民主党が政権を取った時もそうでした。政権交代をメディアは大々的に煽り立て、結果的に政権交代は成りました。しかし、その結果はどうだったのか。社会の構成員それぞれが思い描いた方向に、進むことが出来たのか?

形だけ投票率を上げようと思えば、派手にメディアを使ってイメージ戦略を取ればいい。しかし、そのような「ふわっとした民意」を多く集めて、それを「正しく」政治に反映させたら、結果的に自分たちの考えていた国の形とは異なる方向へ進んでしまった。これは、一種のミスマッチだと思います。


無能を選んだ国民側も無能

では、このミスマッチを出来る限り起こさないようにするにはどうすればいいでしょうか。ぼくは方法は一つしかないと思います。

すなわち、ぼくたち有権者の一人一人が、それぞれの政党が主張し進もうとしている方向性を出来る限り正確に把握することです。

もし小泉さんに「騙された!」と感じた人がいたとしたら、それは小泉さん側の説明が不足していたのと同時に、その人の政策に対する理解が足らなかったのだと思います。

民主党の時も同様です。「財源は捻出できる!」と主張していた民主党側も政策の精査が足りなかった。しかし同時に、ぼくら国民側も政策の吟味が足りなかったのです。

鳩山さんが無能の代表みたいに揶揄されることも多いですが、その無能を選挙の結果選出したのはぼくら国民です。選挙という過程を経て、例え薄まっているにせよ、責任はぼくら有権者の一人一人にあります。鳩山さんが無能だったとしたら、ぼくらも同様に無能だったのです。

その「責任意識」こそが、民主主義の出発点だとぼくは思います。


投票率の改善には「メディア」と「教育」の両輪が揃わないとダメ

しかし、選挙のたびに政策の吟味なんて一人一人ではやっていられません。ぼくらにはそれぞれの生活があるのだから。全員が政策通になる必要はないし、なるべきでもありません。

重要なのは、「メディア」「教育」だとぼくは思います。

すなわち、メディアが政党の発する政策の意味を吟味してわかりやすく国民に提示するとともに、ぼくら国民側もそれを受け取れるだけの素地としての教養を持つ、ということです。

メディア側のロールモデルとしてぱっと思いつくのは、やはり池上彰さんです。政治的な中立性と、論点をわかりやすく提示する知識と技量、プラス見せ方の上手さ。

しかし、それ以外はどれもどっこいどっこい、というのが現状じゃないかと思います。イデオロギーに支配されているのが丸わかりの新聞をはじめとする旧メディアは、その在り方としてはもうしょうがない面もあると思うので、それらをわかりやすく中立的にまとめるメディアが次世代に求められているような気がします。

教育側としては、やはり義務教育で社会が抱える課題を概観するような授業が出来ればいいんじゃないかと思いますが、どう転んでもそれぞれのイデオロギーがやいのやいの言って結局変わらない、という未来が目に見えてるので、どうにも難しいですね。中立っていうのが一番難しいんですよね。どっちからも叩かれるから。

まぁ、課題は色々ありますが、そうした地道な努力の結果として投票率の改善があるんだと思います。

シンプルな論点にして、メディアが煽り、結果的に「ふわっとした民意」を多く集めるという従来型の投票率向上は、ぼくは全く望ましく思っていません。むしろ、ミスマッチを頻発させ、社会を不安定化させるという意味では、そうした近視眼的な「投票率の改善」は逆効果ですらあると思います。


まとめ

投票は「義務」ではなく「権利」です。

「権利」には必ず「責任」がついて回ります。

投票という「権利」を得た時点で、有権者は投票するしないに関わらず、それぞれが社会に対する「責任」を背負っています。それだけは忘れるべきではない、とぼくは思っています。