白デカイ人達
16世紀。ヨーロッパは大航海時代真っただ中。
白デカイ人達が、十字架ぶら下げながら東アジアに進出してきた。
中国の裏っ側で、ひっそりと麻呂ったり、こっそりと武士ったりしていた日本は、本格的にヨーロッパに見つかった。
肉ばっかり食べているヨーロッパ人は、お肉のポテンシャルを最大限に引き出す 香辛料 をゲットするために、まず 東南アジア に進出した。
そして、ゲットしつつ、そこを拠点に 明と交易 して銭儲けも行った。
ヨーロッパ人達は、明が作る 陶磁器と絹 に、ヨダレが止まらなかった。
特に陶磁器は、焼いたお肉をお上品に見せる器として、ヨーロッパ人に引っ張りだこだった。
それに対し、ヨーロッパから明に売れる物はあまり無かった。
当時、やってきた白デカイ人達の中心は、 スペイン 人と ポルトガル 人。
スペインとポルトガルは、自分のポテンシャルを超えるレベルで、世界中で大風呂敷を拡げていた。
ゲットした植民地で必要な物を、自国の生産力で賄えない状態だった。
なので、質より量が重視され、レベルの低い商品しか作れなくなっていた。
そのため、明のオメガネに適う物が作れなかったのだ。
そこでスペインとポルトガルは、植民地で掘った 銀 を、明に売った。
明は銀不足だったので、いい感じで儲かった。
ポルトガルが持ち込んだのは、 メキシコ で掘った銀。
それをフィリピンに持ち込み、明に売った。
この目的で、 マニラーメキシコ 間の航路が開通した。
スペインとポルトガルの大風呂敷での悪影響がもう一つあった。
それは、 労働力不足 。
ポルトガルなど、自国の人口が100万人しかいなかった。
この人数では、世界中の植民地を回せなかった。
うまいこと回していくには、 奴隷 がイッパイ必要だった。
その奴隷供給のために、世界的な 奴隷売買ネットワーク が出来上がった。
奴隷売買ネットワークに乗る日本人
日本も例外ではなかった。
九州の戦国大名達が、戦争でさらった敵国の人間を、布教に来ていたキリスト教団体にダース売りしていた。
売られた日本人は、そこから奴隷売買ネットワークに乗って世界中に渡っていった。
豊臣秀吉 の側近、 大村由己(ゆうこ) は、平戸に行った時の記録として、そこにいたポルトガルの輸送船が何百人かの日本人を手足を鎖で繋いで、船底に押し込んでいる様子を記録している。
これを知った豊臣秀吉は、ツバ飛沫を飛ばしながら バテレン追放令 を発布。その後の 鎖国 への流れと繋がっていく。
ラテン日本人奴隷
日本人はよく働くので奴隷としてのコストパフォーマンスは高い。
凶暴なので、男は多少敬遠され気味だったが、それでも重宝された。
大規模に プランテーション経営 をしていた インド では、ポルトガル人より 日本人奴隷の方が多かった という記録もある。
当然、マニラーメキシコ航路で中南米にも渡っていった。
中南米に、いくつかの記録が残っている。
アカプルコ 。
1597年に、ポルトガル商人の奴隷として、 ガスパール・フェルナンデス 、 ミゲル 、 ベントゥーラ という3人の日本人奴隷が渡っている記録がある。
アルゼンチンのコルドバ 。
日本人奴隷売買の証書が残っている。
1596年、 フランシスコ・ハポン(多分、フランシスコ会の日本人程度の意味かと)という日本人が、ディエゴ・ロッペス・デ・リスボアという奴隷商人から、ミゲル・へローニモ・デ・ポラースという神父に800ペソで売られたというもの。
このフランシスコ・ハポンは、奴隷生活の中で現地の言葉を習得し、自分が奴隷ではないと主張して訴訟を起こした。
その結果、解放されることとなった。
ブラジル。
歴史書のいくつかに、中国人や日本人の女性だけを満載したポルトガル船がアカプルコに向かっていた記録があるらしい。
あまり記録に残したくない内容なので、実際は相当多かったハズ。
当時の日本人は、こっそりかつ豪快に、中南米に売られて行き、現地に同化していったのだ。