スポーツライター増島みどりのザ・スタジアム

2014年12月 4日 (木)

サッカー FW柳沢敦(仙台)今季限りで引退 「最後まで全力で」17年連続得点記録を打ち立て

 稲本潤一の川崎退団、中田浩二(鹿島)が引退、と、ともに日本サッカー界を、代表を支えてきた35歳のフットボーラ―の去就が報じられたとき、少し胸騒ぎがした。鹿島の、日本代表の、日本サッカー界のゴールゲッターとして1996年のプロ入りからピッチに立ち続けてきた37歳を想ったから。

 4日、仙台のFW柳沢敦が引退することを、ベガルタ仙台のリリースで発表、午後にはユアスタで会見が行われる。11年に仙台に完全移籍して以降、11年は膝の手術、昨年は腓骨骨折、今年も足小指を骨折するなど、ケガ、手術やリハビリとの長い戦いが続いていた。そんな中、11月2日のG大阪戦でゴールを決め、自身の持つ16シーズン連続得点記録を17に伸ばして見せた。

  J通算100ゴールを超えた日本人ストライカー、中山雅史、佐藤寿人、カズ(三浦知良)、前田遼一、大久保嘉人、に続く108ゴールをあげ、日本代表としても02年、06年のW杯に出場、17ゴールを奪って日本サッカーを引っ張った。
「ゴールだけがFWの仕事ではない」としていた信念はよく知られるが、これだけのゴールは、柳沢というFWがいかにサッカーに、ゴールに真摯に取り組んだのかを示す数字だろう。京都に移籍し08年、実に7年ぶりのベストイレブンを受賞したのも偉大なキャリアだ。

 鹿島からセリエAに移籍し、京都で主将も務め、震災の年、奇しくも仙台へ完全移籍をした。このとき行ったインタビューは今も忘れられない。移籍直後、仙台を離れることは可能だったが、柳沢はそうしなかった。クラブの施設も使えず、クラブ機能が維持できない中、自ら役所に電話しボランティア登録をした。多くの避難所に水を運び、食料を提供しながら、柳沢に気が付く人も、気が付かない人もいる。被災し、ペットボトル1本の水を供給する列に並び、大型マーケットの配給に並ぶ姿がテレビに撮影もされた。しかし仙台を出ることはなかった。

 「僕は移籍に仙台を選んだと思っていた。でもあの経験を通じて、仙台が僕を選んでくれた移籍だった、と分かった」と話していた。(http://masujimareport.cocolog-nifty.com/blog2/2011/06/post-568e.html

ドイツW杯の後、クロアチア戦で決められなかった決定的なシュートについて猛烈な批判を受け、発言が流行語にまで取り上げられる屈辱も味わった。しかしあれから8年、批判をした方さえそんな歴史を忘れている今に至るまで、手術を何度もしながらずっとピッチに立ち続け、ゴールを積み重ねたその闘争心、真摯な努力や卓越したテクニック、そしてサッカーへの深い愛情には敬意を払うばかりだ。どれほど豊かなサッカー人生だったろうかと思う。

柳沢というゴールゲッターの特徴は?と質問すると、「じれったいヤツ」と笑っていた。シュートを打てるのにパスを選択し、自らの突破よりチームに有効なスペースを与えるために走ることもあった。ていねいで、どこか優雅なプレースタイルはFWの中でも特別な味わいがあった。

公式戦でピッチに立つチャンスは6日の最終節、アウェーでの広島戦が最後になる。

「最後まで全力でプレーしたい」

1996年8月28日、対市原戦でJリーグにデビューして以来、通算371試合目となる。

 
今シーズンをもって現役を引退することを決断いたしました。長きに渡って自分を支えてくれた多くの方々に心から感謝しています。まだ最終節の試合が残っていますので、最後までプロとして全力でやり切りたいと思っています(柳沢のコメント、仙台が4日にリリース)

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増島みどり プロフィール

1961年生まれ、学習院大からスポーツ紙記者を経て97年、フリーのスポーツライターに。サッカーW杯、夏・冬五輪など現地で取材する。
98年フランスW杯代表39人のインタビューをまとめた「6月の軌跡」(文芸春秋)でミズノスポーツライター賞受賞、「GK論」(講談社)、「彼女たちの42・195キロ」(文芸春秋)、「100年目のオリンピアンたち」(角川書店)、「中田英寿 IN HIS TIME」(光文社)、「名波浩 夢の中まで左足」(ベースボールマガジン社)等著作も多数

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