ボンタイ

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表現の自由を最大に阻むネット原住民の問題について

NHK批判することなかれ」と言う現代版隣組

 と言う記事を書いたところ、物凄い反響が拡大している。

 例によって賛否両論あるのだが、ブックマークコメントやツイッターで記事を引用する意識高い系オタクたちの匿名による書きぶりを見ていると、まるで「NHKを批判することはやってはいけないこと」とでも思っているような感覚だ。

 はてなでブログを書くとさまざまな人に届きやすいが、こういうネット原住民たちの視界に入ってしまうという厄介な副作用もある。

 

 何が問題か。彼らは権力批判を許さない存在であるということだ。

 たとえばこれがフジテレビとか、WOWOWとか、TVKとか、J:comとか、いわゆる民間の放送業者であれば、別に民間企業だから「嫌なら見るな」で済むことだから、そもそも記事にする価値もないだろう。

 ところがNHKの場合は公然と知れ渡った国営放送であるため、権力機関である。政府が右を向けば右を向き、潰れかかった旅館だろうが全室から受信料をふんだくり、拒否されれば裁判を起こすような機関であるということを「NHK批判することなかれ」の人たちは分かっていない。

 この1点がある以上、NHKは批判されてしかるべき存在である。日本は先進国で唯一まともな公共放送が無いのだという現状を理解した上で、国営放送の存在そのものを認めるにしても、事実上の税金である受信料は全部の国民が負担しているのだから、「公務員退職者のような高齢者」や「意識高いオタク」だけに特化した番組編成は偏っている。中共CCTVですら、バラエティ専用チャンネルやドラマチャンネルなど、一般大衆に向けた娯楽のチャンネルを持っているし、BBCディスカバリーチャンネルの水準を追及する教養番組チャンネルもあるから日本の国営放送はもっと特殊なのだ。

 

 しかし、そういうググれば一発でWikipedia記事で分かるようなことを検索する前に、「NHK批判することなかれ」という結論ありきで、NHKの問題を論じる記事の存在も認めないような書きぶりを一斉に行うのが、ネット原住民である。

 彼らは極度に内向的で自閉的な精神を持っている。頭の中には何かを否定するか、何かを従属するかの二択しかない。意に反する言説が視界に飛び込めば、パブロフの犬のような脊髄反射で罵倒をするのである。これはあまりに麻痺した感覚である。しかし、この手の人間が、案外いい年した30代・40代で、大学もしっかり出ている有力企業の社員や公務員だったりするのだから、今の世の中は悲惨だと思う。

 

 私も匿名ブログなわけで、匿名でネットを利用すること自体は悪いことではない。毎日2ちゃんねるにアクセスする暮らしを10年以上やっているような人でもマトモな人だっているだろう。

 しかし、表現の自由を最大に阻む存在が、考えが凝り固まったネット原住民であると言うことは今の時代明らかだろう。

 基本的に彼らは「思い込み」が激しい。そして、「自分の過去から今までの生活体験と、目の前の可視範囲に展開される風景」を過信していて、半径数キロ圏で完結する人生の中での「常識」と合致しない概念に対し、極端に敵愾心をむき出す傾向がある。相手が見ず知らずの赤の他人でもお構いなしである。

 それは果たして「自由闊達な表現」なのだろうか?決してそうは思えない。とても不穏であり、歪んでいて、

 

 私はヤンキーではないが、栃木県でヤンキーしかいない商業施設に行ったとしても何も驚かない。そこではそれが普通だからだ。秋葉原にいけばオタクがいっぱいいるし、巣鴨には老人しかいない。

 しかし、偏狭で偏屈な人間にはそのような感覚が一切分からないわけである。彼らは「自分の思う常識」は世の中のだれもが共有しているものだと思いこんでいて、逆にそれに合致しない概念は「不純なもので淘汰されるべきことだ」と本気で思いこんでいる。そこから先は思い込みでいくらでも理由をでっち上げて全力で罵倒をするのである。

 これが果たして2014年の先進国の国民のレベルの発想だろうか?どう考えても野蛮人である。こういう大人たちが存在するという現実には、何だか私はとても悲しい気分になってしまうのだ。

 

表現の自由の第一歩は「権力批判の自由」だ

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 香港で今「雨傘革命」という普通選挙を求める大規模なデモ活動が行われている。

 一党独裁中共だが、1998年にイギリスから返還されてから歴史の浅い香港では「一国二制度」による高度な自治が存在していた。北京政府に利する選挙制度が数年後に導入されようとしていることに不服を感じた学生たちが立ち上がった現象だ。街中にテント村が出来あがり、若者らが連日連夜抗議活動に明け暮れている。

 このデモ活動について、香港の複数の大学の学長が理解を示したり、警察側の鎮圧を非難するなどしている。人気タレントが賛同をしたり、多くの法曹関係者が支持を表明。地元有力紙の蘋果日報はデモ現場を24時間ネット中継し続けていて、同紙をはじめ香港の複数の新聞・テレビ局が警官の暴力を非難するなどの報道を行っている。

 

 さて「順法精神」ありきで考えれば、デモ隊は不法占拠行為だ。

 車で移動するには占拠された場所からの迂回を余儀なくされるし、商店街では売り上げが下がっていて、香港市民の一部にはいら立ちの声もある。親中派で知られる香港映画スターのジャッキーチェン氏も経済損失を理由にデモを非難している。反デモ隊の側からすれば警察側がさっさと追い出さないことの方が問題であり、過剰な実力行使をやったとしても、「迷惑をかけていて法に反しているのだからしょうがない」と考えるだろう。

 しかし、香港のネットはデモを批判する書き込み一色というわけではない。支持する声はいっぱいあるわけで、大陸本土のように検閲されるわけでもない。官憲が裏で手を回しているようなチンピラがデモ現場に妨害にやってくれば即座に非難の声がSNSで拡散されている。

 デモの今後がどのようになるのかはわからないが、いずれにせよ、今現在の時点で香港には高度な「表現の自由」があることは明らかだと言えよう。街頭を占拠する若者も、新聞社もテレビ局もネットユーザも、政府や公僕をいくらでも批判できている。だが、日本は果たしてどうだろうか?

 

ヘイトスピーチは沈黙効果を助長する

 まさにネット原住民が引き起こした最大の問題はヘイトスピーチ(人種差別的な扇動行為)だ。彼らのたむろすネットの下流層の雑談空間ではネトウヨネット右翼)的言説が最大公約数的である。在日コリアンを差別した話題であふれかえっている。この最大の問題点は「沈黙効果」にあると複数の専門家が語っている。

 

 在日コリアンを蔑んだり差別する声が拡大する中で、彼らは特権を持った存在なのだという根拠のないデマも広まるようになる。すると、「怒りの声なのだから何を言っても良い」というようになって、「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」とか「一人残らず日本海に叩き込め」といったような過剰すぎる表現も蔓延するようになる。

 だが一貫して、当の在日コリアンは反発できないのである。「そんなものはデマだ」と言っても、聞く耳を持たれないか、圧倒的多数の人種差別主義者から一斉に攻撃を受けることになる。もちろん日本人すべてが在日コリアンを差別するわけではない。自分が純粋な日本民族で日本人であるということしか誇ることのない中年のような一部のサイバーカスケードに陥った人間だろう。だが、ただでさえ社会的弱者である在日コリアンが国籍や民族を明かして発言出来る自由はネット上から奪われてしまうのだ。逆にネット右翼の側は、反発してくる在日コリアンを罵倒し尽くして黙れせてしまえば、言いくるめたように錯覚して「成果」になる。

 一度快楽を感じれば、ただ韓国人であることを明かしているだけでネトウヨの神経を逆なでする政治的コメントを何もしてないような人間にまで、自分からやってきて絡むようになる。こういう絶望的な連鎖が存在しているのだから、在日の方はさぞ苦労していると思う。

 

 ちなみに安倍首相は昨年の国会でヘイトスピーチ問題を「極めて残念」と明言し、現在自民党内にヘイトスピーチ法規制のプロジェクトチームを立ち上げている。しかし、ネトウヨは安倍首相を教祖のように信奉している人たちで、「安倍首相は本当は自分たちの見方だ」と、あの手この手で都合の良い事実をでっちあげるための根拠のない物語や陰謀論をこねくり回している。

 否定ありきの対象にはとことん厳しいが、その逆の立場にはとことん甘くベタベタ迎合しつくすのは普段政治の話を全くしないような人間であっても、ネット原住民の共通の特殊性である。

 

「異なる存在」を認められない人たちの罪深さ

  つまるところ「目立つ異なる存在を許せない人」と言うのが世の中には一定数いる。砂漠のような大都市東京の中でよっぽど低次元で狭く生きていて、疎外感の裏返しで「多様性嫌悪症」の感度が鋭利になっている人や、国道4号線的なファスト風土地帯で閉ざされた人生を生きる日本版ホワイトトラッシュのような人たちだ。

 彼らは相手が弱い立場ほど、躍起になる傾向がある。女性叩き、在日コリアン叩き、子ども叩き、障がい者叩き、老人叩き、生活保護叩き、とまあバリエーションはいろいろある。逆に、強い立場には迎合する傾向がある。ネット原住民ほどNHKを絶賛したりバラマキ型の行政や政治を崇める人間は多い。

 

 はるかぜちゃんや乙武氏がやたらバッシングされるのは、彼らが「障がい者」や「少女」と言う立場にあること。そして、それでいて有名人で、楽しそうに生きているからである。つまり「弱い立場の分際で調子に乗りやがって」という発想がネット原住民の憎悪のエンジンに火をつけるのである。裏を返せば「弱い立場は日陰者でなければならない」という最低に卑劣なレイシズムがあるわけで、「自分は健常者で大人の男なのに毎日楽しくないぞ」というワガママなルサンチマンもある。

 こんなものは、一回深呼吸して考えれば防げることである。はるかぜちゃんや乙武氏も有名人になるまでいくらでも努力をしただろうし、現在もなんらかの葛藤に直面しているだろうという、そういう想像力さえあればどうとでもできるのだが、自分と面識のない他人に卑劣な攻撃を加えてしまうのだから、秋葉原通り魔事件の犯人や黒バス事件の犯人とほとんど同じ精神構造といえよう。

 

 そんな粗悪な人間が、権力を持たない、むしろ自分たちよりも弱い立場にいる誰かや何かを委縮させるために我が物顔で振る舞うことは言論でも表現でもなんでもない。不穏な人間のワガママであり、多様性と調和のある豊かな社会を脅かす害悪にも他ならない。

 日本でインターネットが世に広まって20年だというのに、いったいなぜこの国ではいまだこういう課題に直面することはできないのだろうか。