「今でも、ゆづはリンクに入る前に必ず一礼するんですが、フィギュアができることへの感謝の気持ちは、まったく変わっていませんね。小・中学校のときも、練習後はリンクの周りや暖房室などを掃除したり、ベンチを拭いたり、自ら率先してやっていました」

表彰台の頂点を狙う羽生結弦(19)。ジュニア時代にタイトルを総なめにし、初の五輪リンクに立つ羽生だが、ここまで順風満帆だったわけではない。彼の原点である宮城県仙台市にあるスケート場『アイスリンク仙台』の元支配人・新井照生さんが続ける。

「ジュニア時代には、ホームリンクだったスケート場が経営難で閉鎖。遠くの練習場まで通うなど苦労したそうです。その後、東日本大震災が起こり、彼の自宅も被災し、小学校の避難所で4日間過ごしたそうです。私たちのリンクも4カ月間使用できなくなり、彼は各地を転々としながら練習していました。そんな経験があるから、氷上に立つことのありがたさを強く感じるのでしょう」

県営住宅で育った羽生は公立中学校の教頭をしている父、そして母、姉の4人家族。そんな家族の支援も大きかったという。

「お父さんは土日の朝早くから練習の送り迎えをしていたし、お母さんはスーパーに働きに出ていました。そんな家族の支えに応えるようにプルシェンコのまねをしたおかっぱ頭のゆづるクンは、県営住宅の敷地内にある小さな公園で、日が暮れるまでジャンプの練習をしていました。リンクを借り切っての練習はお金がかかるから、土の上で自主トレをしていたんでしょうね」(近所の住人)

小4のとき、初の全日本大会で優勝し、卒業文集で《ぼくはこの大会で「観客に感謝したい」という気持ちを学びました》と記した羽生。ソチまで積み重ねた“感謝する気持ち”が、五輪のリンクで花開く。