政治・行政

安倍政治を問う〈6〉 荒廃照らす 歴史認識 関東学院大林博史教授

 時代が右へ右へと傾けば、右にあったものも真ん中から左へ寄って映るようになる。それにしてもどこまで傾いていくのだろうか、と関東学院大教授の林博史さん(59)は暗然となる。

 「河野洋平があれだけたたかれる。自民党総裁も務めた保守政治家が、だ」

 官房長官時代の1993年、従軍慰安婦問題で旧日本軍の関与を認め、謝罪した「河野談話」をめぐるバッシング。インターネット上では「サヨク」「極左」の文字さえ躍る。

 談話を継承するとしながら、その検証に着手した安倍晋三政権。第1次政権でも「強制連行を直接示す文書は見つかっていない」とする閣議決定を行い、慰安婦問題を矮小(わいしょう)化し、過去を正当化しようとする姿勢は一貫する。慰安婦研究の第一人者である林さんの目にはこう映る。

 「欧州では戦争犯罪を否定すれば極右と批判される。人権さえ否定しているという点では欧州の極右政党よりも右に位置しているともいえる。彼らでも人権までは否定しない」

 慰安所で軍人の性の相手をさせられたことに目を向けず、強制的に連れ去られたか否かを問題にする。結果、慰安婦が受けた性暴力は肯定され、人権は踏みにじられると考える。

 そして、タガは外れたかのようだとも感じている。

 韓国・済州島で朝鮮人女性を強制連行したとする「吉田証言」について朝日新聞が記事を撤回すると、安倍首相は「多くの人々が傷つき悲しみ、苦しみ、怒りを覚え、日本のイメージは大きく傷ついた。『日本が国ぐるみで性奴隷にした』との、いわれなき中傷がいま世界で行われている」と述べた。

 国際社会の批判を「いわれなき中傷」と言い切った。「河野談話を継承するというごまかしさえ捨て去り、慰安婦制度にいおて日本は悪くなかったと全面的に正当化しようとしている」。その見方は、海外から向けられる視線にも重なってもいた。

■時代に逆行
 フランスで開かれたシンポジウム。報告に立った林さんにパリ大の日本研究者は言ったという。「欧米でいま問題とみなされているのはロシアのプーチンと日本の安倍だ」

 国際社会でなぜ慰安婦が問題にされ、日本の姿勢が批判されているのかを知るべきだと林さんは訴える。

 「欧米先進国、つまり、かつての帝国主義国で植民地支配の責任が見直されようとしている」。背景にあるのがグローバル化の波。「移民も含めて国際化が進み、自国に旧植民地出身者が増えていく。共存していくために共通の価値観、歴史観が求められる。負の過去を解決しなければならないと、葛藤や対立を抱えながら努力が続けられている」

 女性の人権という視点から慰安婦問題への関心も高まる。「現在横行している戦時性暴力や人身取引は、20世紀最大の戦時性暴力で人身取引であった日本の慰安婦制度をきちんと裁いてこなかった結果だという認識がある。女性への人権侵害に歯止めをかけるため、総括と反省が求められている」

 安倍政権の姿勢はそうした潮流に逆行する。「欧米からみれば、過去の克服や人権への試みをすべてひっくり返そうとしているように映る。吉田証言によってうそが世界中に広まったという類いの話ではない」

 歴史学者として林さんは残念がる。「植民地支配の問い直しや女性の人権問題への関心の高まりがそうであるように、歴史認識の問題とは現状認識と未来をどうつくるかという問題だ。そうした認識が日本にはない。だから慰安婦問題も、韓国や中国がいつまでも批判しているから収まらないのだ、という程度にしか受け取られていない」

 慰安婦をめぐる強制連行じゃないから、当時は公娼(こうしょう)制度があったのだから構わないといった言説は、買春問題など女性の人権への日本社会の鈍感さを映し出してもいる。

■差別を反映
 慰安婦を正当化する。それは元慰安婦の女性をうそつき呼ばわりし、補償の金目当てだとさげすんでいるのと同じではないか。林さんは立ち止まる。

 「あしざまに被害者を罵倒するようなことを社会はなぜ受け入れてしまうのか。そういうことをする人はいつの時代、どこの社会にもいるだろう。だが、相手にされないのが普通ではないか。それが、相手にされないどころか政治家になり、支持されている。その頂点に安倍首相がいる。慰安婦についての知識などなくても、おかしいという感性があってほしい。これは人間性の問題だ」

 経済学部の学生を前に教壇に立つ。うつむく顔々が気になる。「将来の見通しに明るい希望がない。だから過去に日本の良いものを求めざるを得ないのだ」

 そこに重なる中国、韓国への差別意識。「中国に経済で抜かれ、韓国には電化製品で抜かれた。見下していたものに抜かれたという屈折した感情だ」

 やはり考え込む。「いまの日本社会で人権を守ろうと口にするむなしさはどうだろう。会社はそろってブラック企業。従わなければ首を切られ、非正規に置き換えられる。現実はこんなものだという諦めがある。だから買春があっても仕方がない。せいぜいかわいそうと思う程度。戦争なのだから慰安婦は必要だ、ことさら問題にすべきじゃないと堂々と語られる背景がここにある」

 現実は確かにそうだ。でも、それではよくない。皆が幸せに暮らせる社会をつくっていこうと語るのが政治家ではないのか。アベノミクスも誰もが共存し得る未来を照らし出してはいない。

 安倍首相は、それ以上のことを語ろうとはしない。「過去を正当化することでしか日本の誇りは得られないのか。過去の過ちを認め、反省し、克服することは誇れることだと思うのだが」

 はやし・ひろふみ 1955年神戸市生まれ。専攻は現代史、戦争・軍隊論。日本の戦争責任資料センター研究事務局長。昨年8月に吉見義明・中央大教授らとともに慰安婦問題の理解のためのサイト「FIGHT FOR JUSTICE 日本軍『慰安婦』-忘却への抵抗・未来の責任」(http://fightforjustice.info/)を立ち上げた。

【神奈川新聞】