鹿島ユリが、熊野鎮台とそこに巣食う暗士たちについて知ったのは、ほんの数日前のこ
とにすぎない。
ユリはその朝、公園のベンチに座っていた。
ゴールデンレトリバーの「ケン太」が、彼女の足元で丸まりながら尻尾を振っていた。
広場の向こうには砂場とジャングルジム。
サラリーマンたちがまだ朝食に取り組んでいる時間であり、その妻と子供たちも必然的
にそれぞれの家に拘束されていた。
だから午前七時の公園を往くのは幾人かの老人たちと、そして意外にもユリのように犬
を連れて歩く若者たちのみだった。
そしていま、ここは人間の領域ではなかった。
やけに派手派手しいポロシャツを着た老人が、ベンチに近づいてきた。
ユリは、視線をジャングルジムのてっぺんあたりに向けたまま、年老いた気配が自分の
真横に腰下ろすのを感じた。
ユリの瞳に、ジムをよじ登っていく子供の幻像が浮かんでいる。わたしが最後にあそこ
に登ったのは、いつのことだったろう。
老人の咳払いが聞こえ、幻の子供はふっと掻き消えた。
その「仲間」は、ユリに告げた。
「・・・御山の者を絡めたって?」
ユリと彼女の仲間たちは、広大で複雑なネットワークによって結節されている。
その中枢がどこにあるのかユリは知らない。またどこかにヘッドクオーターがあって指
示なり命令なりが出ているのかどうかも、彼女は知らなかった。
だが、この緑深い朝の公園に、決まった日時ごと「仲間」たちは集まってくる。
彼女にとってアナログでリアルな接触の場として許されているのは、ここしかなかった。
老人は話した。それによると、数日前ユリが面白半分に弄んだ生意気な女教師は、なに
か特別な獲物であったらしい。
その女が口走った「御山」とは、仲間たちが永劫にわたって対峙してきた宿敵の集団で
あり、武田涼子は彼らにとって重要な役目を果たす者であるという。
ユリの喜びは尋常ではなかった。
これから自分が何を成し得るか知った途端、彼女の心奥に根を張った妖かしい暗示が爆
発的に火を噴いた。
くらくらと、頭の芯が震える感触。
日差しがまぶしくてたまらなくなり、彼女は何度も気を失いかけた。
仲間たちの驚きと羨望に満ちた眼差しも、もはや問題ではなかった。
ベンチに倒れこみ、ユリは何度も絶頂に達した。
彼女はのけぞり、つま先を震わせ、そして声が洩れるのばかりを懸命にこらえた。
「集会」が終り、仲間たちが散っていったあとも、ユリは呆然としてベンチにへたりこ
むばかりだった。けだるい快感は、オイルのように彼女の全身を循環しつづけた。
彼女がその呪縛から解放されたのはついに日暮れ頃、あたりから夕食の支度をする世俗
的な匂いが漂いはじめた時だった。
刹那、ユリは家へ帰ることがささやかな喜びだったはるか昔の日々のことを思い出した。
それまでの悦楽の代償であるかのように、彼女はせつない郷愁に囚われた。
だがその感覚は記憶に焼きつくことができない。それらは心の奥底の暗いところに、底
なしに吸い込まれていった。
彼女の足元で丸まっていたケン太がのっそりと起き上がった。
「あう」とあくびでもするように吠えて、無垢な瞳を飼い主に向ける。
ユリは力なく微笑んだ。
この子だけは、今も私を愛してくれる。
よろめく体を起こして家に帰り着いたユリの姿は、傍から見れば夢遊病者かなにかのよ
うであったろう。
応接間に佇む、もはや自身の奴隷にしかすぎぬ両親に、彼女は語りかける。
「わたしはね、もうすぐ本当に素晴らしい存在になれるのよ」
返事をかえすはずもない傀儡の男女は、当然のように虚ろな眼差しを返すのみだった。
ユリは、校内で発掘した「見込みのある」者たちをすでに手中に収めていた。
剣道部の笠井直子、生徒会の石原美咲、平位雛子、そして広報部の八神優。
涼子に奪い取られた内田佳苗が欠けていたが、これら四人が、瑛華高校で「ヘンゲ」し
える素質をもった稀有な娘たちだった。
ユリは彼女らを使って涼子を包囲した。
必要な情報は、世界中のありとあらゆるところから集まってきた。
彼女が知ったのは、仲間たち、つまり「影法師」と称される者の一群が、すでに数年前
から「御山」に肉薄しつつあるという事実だった。
山奥に引き篭もって時勢を見失った陰陽師の末裔たちに比べ、彼女らの共同体は常に社
会と共にあり、企業や官庁の内部に浸透して世界を奪取する機会を窺っていた。
彼らが御山に侵入するのはすでに必然であり、また時間の問題でもあった。
だが、その尖兵が鹿島ユリであったのは特別な意味を持つ。
彼女は武田涼子の影を踏んだ。
偶然クインの駒に手をかけたユリは、その幸運によってさらなる世界へ登りゆく権利を
与えられたのだ。
涼子が、北条沙織という強力な暗士に守られていることもすぐに知れた。
涼子など、いつでも好きにできる。
ユリにとってのハードルは、この沙織という底の知れぬ女だった。
だが転機はすぐに訪れた。
沙織が、涼子を連れ出して熊野に向かったのだ。
すぐさま追跡したユリは直子ら子飼いの者たちを奪われたが、これは大きな痛手ではな
かった。
彼女は、遠目から盗み見た沙織の心奥に、なにか隠しがたい弱みがあることを見抜いた。
沙織を誘惑しこちら側に引き込めば、直子たちなど及びもつかぬ力になる。
御山への侵入を果たしたユリは、沙織に促されて稽古島へ向かった李蘭という暗士をま
ず襲撃した。
彼女が暗士に直接仕掛けたのはこのときがはじめてだった。
だが、ユリは相手のあまりのあっけなさに拍子抜けしてしまう。
麻の単袴という姿で稽古場の一隅にうずくまっていた李蘭の背は、なぜか最初からちい
さく揺れていた。
李蘭は背後から忍び寄るユリに気付かず、それどころかユリの手が彼女のこめかみにそ
っと触れたときでさえ、ろくに抵抗もできなかった。
李蘭は、はじめからなかば催眠状態にあった。
ユリは後ろから、李蘭の側頭部を微妙に撫でた。
視床下部に程近いこのあたりを刺激されつづけると、人の神経は麻痺してゆく。
李蘭の意識はしだいに朦朧としてくるが、彼女は自分になにが起こっているのかまだ気
づかなかった。
ユリは、相手を充分に弱らせたと確信すると、はじめて悪戯心を出した。
こめかみから手を離し、脇の下の隙間から胴衣の下に指を滑り込ませる。指はそっと伸
びて李蘭の小さな胸に吸い付いた。
李蘭は、びくんと震えた。
はっとして、何が何か分からぬまま飛び上がろうとするが、腰が痺れたみたいになって
思うように動けなかった。
這って逃れようと緩慢にジタバタしたとき、耳からイヤホンが外れた。
ユリの手は、李蘭の胸を離してはいない。
両手の人差し指と中指の間に、すでに柔らかいふたつの乳首が捉えられていた。
挟んだ指先に力をこめて摘むと、たまらず李蘭の口から声があがった。
それは驚くほど幼い、それでいて艶めいた、アンバランスな喘ぎ声だった。
のけぞった李蘭の上半身を引き寄せると、それは楽々とユリのほうに倒れこんだ。
李蘭は自分の体がどうなってしまったのか分からなかった。後ろから何者かに抱きつか
れているのに動くこともできない。彼女の足はしどけなく崩れたまま自由にならなかった。
ユリは、李蘭の胸を弄った。
電気のような快感が李蘭の体の芯を駆け抜けた。
なんとか堪えようとしてきつく眉を結ぶが、それも数秒のことだった。
あとは、すべてが溶けた。
気がつけば、少女とも女ともわからぬ淫らな体がそこにあった。
ユリは、この獲物がいまだ現実の男に抱かれたことがないのではないかと思った。幼さ
と成熟さが同居するのは、彼女が本当には存在しない相手を夢想して、いやそれを現実の
男と思い込んで幾度も睦みあい何回も果てたからなのにちがいない。
後ろから、ユリは李蘭の首筋を舐めた。
そのときにはもうこの少女は自分から求めてきた。
最初は面白かった。だがすぐにユリは辟易した。
体を愛するための技巧があまりにも稚拙だったこともある。
だが、それ以上に妙な嫌悪感がユリの興趣を冷ました。
彼女は身をもぎ離した。なおもすがりついてくる李蘭に二言ほど暗示を与える。それだ
けで彼女はぐったりと首を垂れて意識を失った。
床に落ちた安っぽいウォークマンのイヤホンから、くぐもった音で「Automatic」が聞
こえていた。李蘭はそれをあきれるぐらいの大音量で聞いていたらしい。ユリは、そんな
ありふれた歌が気鋭の暗士の不覚を誘ったとは知らなかった。
李蘭の口から、稽古場がどんな場所であるのか、沙織がやってきて何をするのかという
ことが分かった。
今夜行われるというその術の稽古の様子を聞くにつれ、ユリにはそれが沙織を篭絡する
千載一遇のチャンスであるように思えた。
彼女にとってさらに幸運だったのは、夜になってやってきた沙織が、どことなく気の抜
けたような、虚脱した感じだったことだった。
ユリは、巧みな方法を用いて沙織を堕とすことができた。
実際のところ、それは冷や汗が出るような数分間だった。
周到に罠を張り、李蘭を使って誘い込み、昼夜香で酔わせたうえでのかろうじての勝利。
惨めなぐらいあざとい寸勝であり、それでも沙織が初手から弱っていなければ、どうなっ
ていたかわかったものではなかった。
だが、沙織が抱く何者かへの恐怖心があまりに強かったことが、彼女を絡めとる決定打
となった。
沙織が恐怖する相手が誰であるかなどユリが知るはずがなかった。彼女を揺さぶるため
に利用できさえすれば、それが誰であれ問題ではなかった。
ユリが気にもとめなかったその相手、沙織が心底恐れる「吸血鬼」が、のちに仲間たち
に致命的な打撃を与え、影法師にとって御山以上の仇敵となるのは後の話だが、このとき
ユリがそんなことを知るはずもなかった。
暗士は、ユリにとって存外組し易い相手と思われた。
李蘭も沙織も、あまりにも心が荒廃していた。
それはなかば病いといっても差し支えない種類のものだ。
理不尽な苦しみが精神を蝕んでおり、それを掻きまわせば彼女たちの心は簡単に破綻し
た。
沙織は、ユリにとって必要なすべての情報を提供した。
いま御山に残っている暗士の数、そしてその配置。さらに彼女らをひとことで制圧して
しまういくつかの鍵言葉すら、沙織は知っていた。
重要なのは、御山の支配者である阿部晴明なる老婆の所在と、そして武田涼子の居場所
だった。
あの公園の朝いらい心にくすぶりつづけていた快楽は、徐々に度を増して波のように襲
い来ていた。
息を弾ませてそれを甘受しつつ、ユリは島を出た。
もう一息で終わる。
湖を渡りながら、ユリは思っていた。
もうすぐ、自分は変わる。
もうあんな惨めな気持ちとは無縁の、絶対的な存在になることができるのだ。
かつて自分がヘンゲする直前の、人であった時の最後の記憶が蘇った。
その情景は、ガソリンと皮膚の焦げるきつい匂いに彩られていた。
涼子は湖上にあって、森から火があがるのを見た。
炎は、湖岸から奥のほうにむかって、ゆっくりと伸びていた。
燃え上がる焔の向こうに、夜空を割って聳える巨大な大屋根が見える。
「御婆様のところだ、」
涼子は唇をかんだ。
その一帯はいわゆる奥の院、湖西の広大な神域だった。
点在する建物は鬱蒼とした杉林に隠されているが、最奥に「御殿」がある。
そこは暗士たちが下命を受ける鎮台の中枢であり、同時に彼らの支配者阿部晴明の居館
でもあった。
森には無数の沼沢地があり、そのいくつかは底なし沼だった。だから湖から御殿へは長
い長い橋掛かりを渡ってゆかねばならない。これは板敷き屋根付きの回廊のごときもので、
女たちはこれを単に「橋」と呼んでいる。
いま、焼き打たれて黒煙をあげているのはおそらく、この「橋」だった。
炎の帯は、御山の心臓部へ向かって刻々と伸びつつある。
杉林を赤々と照らして燃え上がるそれら炎の情景を見たとき、涼子は震えた。
だがそれは、恐怖や狼狽とは似ていても、わずかに異なるものだった。
武者震いというのは、こういうものだろうか。
―――負けるもんか。
闇雲にそう思った。
ボートを岸につけると、涼子は決然と林の中に駆け込んだ。
彼女は、沙織すら知らない抜け道を縫って走った。
その炎は、遠く山々の尾根からもよく見えた。
重役連の束ねである片桐十郎は、配下の人数を連れて山中の哨戒にあたっていて、これ
を発見した。
最初に気付いたのは、湖上での小さな光の明滅だった。
御山において灯火が外へ洩れるようなことはない。尾根から見る盆地はいつも墨汁を流
し込んだように真っ暗でなければならない。
だから、山上にあってもその光はよく認められた。
数十秒、不吉な前兆のようにそれは輝いた。おそらくそれは、稽古島のあたりから発せ
られたものと思われた。
周りの者たちが、遥か下方のそれを指差してざわめきだしていた。
それからすぐ、奥の院の森から火があがった。
火はその周辺の景色をおぼろげに照らした。御殿の尖った大屋根のシルエットが、森の
中にわずかに浮かび上がった。
十郎は、自分たちが警戒していた敵がすでに御山の奥深くに侵入し、晴明のすぐそばに
まで達しつつあるのを悟った。
彼はすぐさま、散っている者たちを集めた。
色を失っている暗士四名を男たちに守らせ、奥の院に急行させた。
それから山の向こう、下界へ向けても使いを走らせた。
手近で動員できるのは、彼らと通じている交野駐屯地の第六空挺団だった。
重役連が蓄える銃器の類は、そのほとんどがここから流れてくるものだった。
またこの前日も、紀南SAでの騒動の後始末のため、彼らのヘリが動員されている。
鎮台に残っている彼の仲間が無線で連絡をつけているとは思われたが、十郎は念を入れ
た。
なにしろ暗士の主力はいま下界、しかもほとんどが首都圏にいる。彼女らを夜明けまで
に呼び戻すことはまずできないのだ。
十郎は、残りの人数を率いて武装させた。
89式小銃にミニミ軽機関銃で装備した彼らは、ちょっとした歩兵小隊ぐらいの火力を
持っていた。だが、奥の院の暗士たちが用いているガラクタのような武器のことを思うと、
十郎は頭が痛くなる思いがした。
―――いずれにせよ、
と彼は考える。
敵がすでに奥の院にまで入り込んでいるのだとすれば、自分たちにできる事は限定され
てくるだろう。
なぜならば、重役連といえど男である彼らは、神域に足を踏み入れることができない。
森の地理がどうなっているのかさえ、彼らはよく知らなかった。
もし境界を越えれば、彼らの中に埋め込まれた強烈な暗示が発動して自身の命を縮める
ことになるだろう。
急ぎ足で山を下りながら、十郎は思った。
―――それならば、何のためにわしらは生きのびてきたのか。
やっとまどろんでいる所を起こされた小雪は、あわてて黒の水干を着込んだ。
彼女は一昨日に房を出たばかりの新米だった。
弓を取って外へ出ると、空が赤々と染まっていた。
半鐘がけたたましく鳴っていた。
同僚たちが、血相を変えて駆け出してゆく。小雪もまた、持ち場へ走った。
彼女の詰めたのは御殿の手前わずかのところ、「橋」の終点程近い踊り舞台だった。
仲間たちが蒼白な顔をして周囲を見回していた。
「沙織様はまだ見つからないの」
「李蘭と胡蘭もどこにも・・・」
不安げなざわめきがあちこちから聞こえた。
小雪はあたりを見回して、同じ日に房を出た吉乃と綾菜を探した。
だが彼女は思い出す。あの二人が前夜から、晴明警護の任についていた。
―――台主様のお側近くに召されたんだから・・・
あの子たちのほうが、私より認められているのね。
ぼんやりとそんなことを思った。
「あれを、」
そのとき一人が、叫びをあげた。
前方で、橋が燃えていた。
それはすさまじい炎だった。
築四百年の枯れ果てた板敷は、いまさらどこにそんなエネルギーを秘めているのかと疑
うくらい、猛烈な勢いで燃えていた。
雨よけが炎に呑まれて次々に崩れてゆく。黒煙が噴出して左右に渦巻いていた。
そして、その情景の只中に、人がいる。
小雪と同じ黒水干を身につけた女のシルエットが、それも幾人も。それらは炎を背にし
て、ゆらゆらと揺らいで見えた。
彼女たちは、踊るような足取りで歩いてくる。
背後から炎の舌が舐め、熱風がいまにも女たちの服や髪を焼くかと思われた。
それでも、女たちの顔に苦悶はない。
やや上気したような頬であらぬ方向に目を向け、ふらふらと、黒衣の女たちは進んでき
た。
「どういう、ことなの・・・」
小雪は息を飲んだ。
やってくるのは、暗士たちだった。
いま呆けたようにこちらへ歩いてくるのは、つまるところ小雪の同僚か、あるいは先達
たちなのだ。
彼女たちはこの橋掛かりの先のほうに詰めていたはずだ。
それが、明らかに正気ではない様子で迫ってくる。
小雪はたじろいだ。
他の者たちにとっても同様だった。
熊野鎮台が敵の侵入を許したのは維新以降、はじめてのことだ。彼女たちにしてみれば、
今夜の事態は晴天の霹靂のようなものだった。
「やむをえない」
かろうじて場数を踏んでいるらしい者が、うなるように言った。
「ここで防ぎましょう」
後背には御殿がある。暗士とはいえあのように常軌を逸した者たちを通すわけにはいか
なかった。
今夕まで共に暮らしてきた仲間を討つべく、小雪たちは折り敷いて弓を構えた。
すでに炎は真近に迫っている。熱気が吹き付け、火の粉が舞ってきた。
小雪はじめ、房を出たばかりの年若い暗士たちは、まだ人を殺したことがない。
さすがに、弦にかけた指が震えた。
「狙え、」
一人の合図で、皆が一斉に標的を定める。
小雪は、敵の顔を見ないに目をそらした。
彼女は自分のやっていることが信じられなかった。
ぴし、
敷板が熱で爆ぜる音が小雪をはっとさせる。
そのとき、頭上から声がした。
「・・・揺らい揺らいゆらゆらと揺らぎ、想い惑いな汝が心砕きぬ・・・」
平仮名の札をバラバラに抽出して組み合わせたような不思議な言葉が、屋根の上から降
ってきた。
「え、」
一瞬、それがどういうことなのか誰もが計りかねた。
だが、すぐに理解した。
自分たちの頭上に誰かがいるならば、それは敵でしかありえなかった。
前方の炎に注意を奪われて、屋根を渡り来る侵入者の気配に気付かなかったのはいかに
も不覚だった。
仲間たちが催眠状態にあるとしても、それを操っている本当の敵がどこかにいるのは当
然ではないか。
即座に弓を天に向け、その直後、小雪は動きを止めた。
―――あれ・・・、
動けなかった。いや、動く気がしなくなった。
矢を放つはずの指先が、はるか遠くにあるもののように思われた。
床も、同様にずっと下方の地平のように感じられる。
ぼんやりと、赤い風船が膨らんでゆくイメージが小雪の頭のなかに浮かんだ。
「揺らい揺らいゆらゆらと揺らぎ・・・」
もういちど繰り返された。
すると唐突に、きつい香の匂いがした。
だがそれは実際の嗅覚ではなく、小雪たちの頭のなかにこびり付いた過去の匂いだった。
閉めきられた房の一室に詰め込まれ、小雪はこの匂いを嗅いだことがある。
意識がどろどろになるまで吸わされて、そのうえで師範役の暗士に繰り返し繰り返し唱
えられた。
「・・・想い惑いな汝が心砕きぬ、」
暗士として認められるための修行のひとつだったはずだ。でも、その時どうなったか憶
えていない。それよりもまず、その日の事すべてを自分たちは記憶していなかった。
小雪は思い至った。
自分たちは御山に欺かれていた。知らぬ間に、目に見えぬ首輪をかけられていたのだ。
これは私たちを縛る鍵言葉だ。それが敵に利用されているのだ。
下界のすべての未練と決別して御山に入ったのに、私は信用されてはいなかった。
そう思うと、口惜しかった。
と同時に、身を盾にして御山を守ろうとした自分が、御山が仕掛けた暗示によって絡め
とられることに、複雑な感情を抱いた。
存外、いい気味だと思ったのかもしれない。
だがそれは刹那の思いで、小雪の体は急速に呪縛されていった。
胃の内から、きついアルコールを流しこまれたかのような熱が広がった。
風船のイメージが再び頭に浮かび、張りつめるだけ張りつめたそれは、ふいに爆発した。
心が、吹き飛んだ。
あとには、空白があった。
小雪は弓を取り落とした。
そして、燃え広がってくる炎をぼんやりと見た。
目の前に、かつての味方、そしていまは敵になったはずの女たちがいた。
「あ、吉乃」
小雪はつぶやいた。
吉乃と綾菜が、絡み合うように近づいてきた。
小雪には、二人が愛し合っていることがすぐに分かった。
小雪は、自分も愛したいし、それ以上に愛されたいと思った。
彼女は手を伸ばした。吉乃と綾菜も、等しく腕を伸ばしてくれた。
指が絡みあった途端、小雪は自分が狂おしいほど変化したことを自覚した。
彼女の仲間たちも、同様の感覚に襲われていた。
炎と、歩み来る女の群れが、最後の守備者たちを飲み込んだ。
小気味よいステップで屋根を渡りながら、鹿島ユリがいう。
「さあ、みんないい子になったわね、」
―――涼子ちゃんと晴明さんを捕まえるのよ。
女たちは、もはや遮る者とてない台主の御殿へ、陸続となだれ込んだ。
涼子は、風通しの木枠を蹴破って、控えの間に入った。
大手門のほうから、黒衣の群れが侵入してくるのがわずかに見えた。
橋掛かりを焼ききった炎は二本の古めかしい門柱へも伝っていたが、御殿回りの白壁は
しばらくのあいだ炎を防いでくれるはずだった。
涼子は、薄暗い裏庭を横切って晴明の臥せる部屋に駆け込んだ。
「御婆様、」
部屋の様子を見た途端、涼子は声を発せざるをえなかった。
阿倍晴明老は、卓を引き寄せて絵筆で何かを描いていた。
「こんなときに、いったい何をしてるんですか、」
そう言って涼子は、四方の戸を開け放つ。敵の気配を感じるためだった。
「もう、影法師がそこまで来てます」
置いていたHRMを引っ掴むと、バッテリーの残量を確かめた。
晴明は、涼子のほうを見もしない。
「ちょっとまて、もう一枚じゃ」
そうつぶやいて、筆を走らせる。
晴明が書いているのは、紅い渦巻きの図だった。それを、真白な扇子にぐるぐると描き
こんでいる。
周りの床には、あと四、五枚の同じような扇子が、絵の具を乾かすために広げられたま
まバラ撒かれていた。
「ようし、終わったぞ」
じりじりしている涼子を尻目に、晴明は立ち上がった。それら扇子を畳んで懐にねじ込
む。
「さあさ、涼よ」
逃げようぞ。
鎮台の支配者はあっけなくそう言った。屈辱的な敗走に対しても、気負いのない態度だ
った。
鎮台はいま、たったひとりの影法師によって蹂躙されようとしている。
悔いるべきはその住人たる暗士たち自身だろう。彼女らは御山が畏怖されることに慣れ
るあまり、こんなにも守りを手薄にしたのまま、この夜を迎えたのだから。
晴明と、そして涼子にできるのは、当座は逃げることだけだった。
―――とにかく御婆様を安全な所に。
すべてはそれからだと、涼子は思った。
「いきましょう、」
二人は部屋を出た。
涼子にとっては子供の頃から起居していた館だけに、勝手は知っていた。
座敷や廊下を縦横に縫って、森へ抜ける奥庭の木戸へと向う。敵がそうそう自分たちに
追いつけるとは思えなかった。
だが、涼子は忘れている。
敵もまた、この御殿の住人たちなのだ。
月の光が差す縁側まで達したところで、涼子は向かいの襖に衣擦れの音を聞いた。
ひた、ひたという足音が、二人のほうへ伸びてくる。
涼子は慄然として後ずさった。
声はまったく聞こえなかった。だがそこには明らかに敵がいる。毒々しい殺気が、それ
も彼方此方から発せられて涼子の肌を刺した。
涼子はそっと、その場から引き返した。
晴明の居室近辺に戻るのは危険だった。そして、屋外への経路も遮断された。
涼子はやむなく、棟続きの書院へ逃れた。
書院は大手門と反対側、御殿の南隣に建てられているので、敵が見落としているかもし
れなかった。
敵の気配は、時々近づいては、また遠ざかった。
涼子は、弄られているような気がしてならなかった。
光のない廊下を進んでいても、増幅するのは不安ばかりだった。
闇を抜けて南側の庭に面した縁側に出た。すると、前方の書院から煌々と灯りが洩れて
いるのが見えた。
まばゆいばかりの光を見て、涼子は思わずそこに飛び込んでしまいたいという動物的な
衝動に駆られた。
だが、それはもちろん罠だった。
縁側の梁に身を隠して盗み見れば、やはりそこに、暗士たちがいた。
薙刀や半弓などで武装した年若い暗士たちは二十余名。憑かれたように立つ彼女たちの
さなかに、見覚えのある少女がいた。
「鹿島ユリ、」
涼子は、実際にはユリの顔を覚えていない。あくまでも沙織から見せられた写真のみの
記憶だった。
だが、蹂躙された彼女の体にはいまも疼くような熱い感覚が残留していて、それが彼女
に危険を告げていた。
ユリは、庭や縁側の方を見回していた。
「もうこの辺りに来ているんでしょう」
そう呼ぶのが聞こえる。
「こっちを見てるんじゃないの?」
ユリの妖しい視線が、辺りを漂うように流れてゆく。
それはほんのわずかな時間、涼子の頬を打って通り過ぎた。
暗闇に潜む涼子に気付いているはずはなかった。
だが涼子は、そのほんのわずかな邂逅に、心を蕩かされた。
「あ・・・」
ため息のような声が、思わず洩れた。
それでも、距離があって暗士たちは涼子に気付かなかった。
「出ていらっしゃい、涼子先生」
やはりユリは、涼子など見ていない。
おそらくこれはただのブラフで、彼女はただ視線を四方に漂わせているだけなのだ。
それでも、涼子は酔ったような心地にされてゆく。一度心の芯まで支配された者の哀し
さで、簡単に意識のたがが外れてしまった。
彼女はふらつき、木の梁にしなだれかかる。
「おい、涼」
あわてた晴明が声を出したとき、書院の暗士たちが一斉に涼子たちの方を見た。
「いけない、」
呪縛から醒めたように、涼子はぴんとなった。
―――なんで、私・・・、
自分があっけなく魅入られてしまったことが信じられなかった。
我知らず抱きついていた柱から身を離し、あわてて身を翻す。
そのとき、反対側からも複数の足音が聞こえてきた。
あちこちの襖が開き、そのそれぞれから黒衣の女たちが現れた。
はじめから仕組まれていたのか。涼子と晴明はまたたくまに包囲された。
「見つけたわよ、先生」
書院のほうから、ユリの呼ぶ声が聞こえた。
こんな状況になっても、涼子の足は吸い寄せられてしまいそうになる。
「ええい、もう!」
癇癪のような声を出して、涼子はその誘惑から逃れた。
HRMのバトンをかざし、周囲から迫り来る暗士たちを牽制する。
暗士たちは、虚ろな目を向けたまま、周囲を取り巻いて無言だった。
どう切り抜けるか思案しようとした時、鹿島ユリが軽やかな足取りで歩いてくるのが見
えた。
涼子はあせった。
いまあれに面と向ったら、自分がどうなってしまうか自信が持てなかった。
言われるままに足を開き、ペットみたいになってしまう自分を想像した。あろうことか
涼子は、そんな己の姿に妙な陶酔さえ感じた。彼女は動揺する。本当の自分の性は、やは
り支配されたがっているのではないか。
「涼、」
晴明が険しげな声を出した。
涼子はしどろもどろになってうまく答えられなかった。
ユリは、もう縁側に出てきてこちらを見ている。涼子の首筋が赤くなった。
「いらっしゃい、」
そう言われた。
涼子の心の半分が、いつのまにか言われたその通りにしようと思いはじめていた。
いけないと思う意志との決着がつかぬまま彼女はユリの方を向いてしまう。
そして、その瞳を全身に受けた。
ユリの唇が、小さく笑うのが見えた。
それだけで、涼子はぞくぞくするような快感に襲われた。
涼子は、もうどうなってもいいと思った。
この段階で、涼子はもうユリに絡めとられたも同じだった。
このまま彼女が本当は望んだかもしれぬ甘美な服従の世界へ、何想い惑うことなく耽溺
してゆくことができたにちがいない。
だが、そのとき異変があった。
庭に、何者かが降ってきた。
涼子、そして鹿島ユリさえも含む全員が、おもわず庭先を見た。
屋根から落ちてきたのは二人の少女だった。
彼女たちはずいぶん場違いな格好をしていた。チェックのブレザーにスカート。だが涼
子は、それが自分の高校の制服であることを知っていた。
一人はショートカット。
彼女の手には屋根から垂れ下がったロープが握られていた。
そしてもう一人はポニーテール。
彼女は、木刀を握っていた。
ポニーテールの少女が、縁側に駆け上がった。
細長の面持に殺気はなかった。男装しても似合うんじゃないかというような美形の少女
は、ごく冷ややかな眼差しのまま暗士たちのさなかに飛び込んだ。
一閃で二人の暗士が打たれた。
その刃が返り際にさらに二人の黒衣を打撃した。
目にも止まらぬ早業だった。
やっと敵が槍襖を敷いた時には、涼子たちの包囲はなかば崩れていた。
「先生、こっちよ」
もう一人の少女が手を振って呼ぶのが聞こえた。
涼子はとっさに晴明の襟を引っ掴んだ。
そのまま走って庭へ下りる。
内田佳苗が、太陽のような笑顔で迎えてくれた。
「引き上げます、これにつかまって」
佳苗がロープを差し出した。彼女自身もすでにそのロープの端を体に巻きつけている。
「内田さん、これは」
思わず問う涼子を佳苗は制す。
「訳は後です。 ・・・直子、もういいわよ」
佳苗の合図で、笠井直子が縁側から飛び下りてきた。
後から、暗士たちが追いすがってくる。弓をつがえて涼子らを狙う者もいた。
笠井直子は、ロープの一番上を掴んだ。だがこれで計四名。ちょっとやそっとで引き上
げられるような重さではなかった。
だが、佳苗は落ち着いていた。
上を向いて呼ぶ。
「いいわよ、八神さん」
直後、屋根の上から、今度は途方もないものが落ちてきた。
それは、冷蔵庫ほどもある獅子の石像だった。
石像の首には、ロープが結わえられていた。
それが落下すると同時に、涼子らが掴んでいるロープがすごい勢いで引っ張りあげられ
た。
摩擦で、屋根の縁に煙があがるのが見えた。
危うく直子が屋根に激突する直前で、上昇が止まった。
眼下の庭では、暗士たちが思いもよらぬ落下物に呆然としている。すんでで下敷きを免
れた者もいた。
「先生、先に上がってください」
佳苗がやや苦しげに言った。
涼子と、涼子に襟首を掴まれたままの晴明の体重は、その上でロープを巻いている佳苗
の腰を圧迫していた。
「ご、ごめんなさい」
涼子はあわてたが、晴明を抱えたまま思うようには動けない。
すると、屋根からいくつもの腕が伸びてきた。
それはまず晴明を乱暴に引きずりあげ、それから涼子の腕をも取った。
引っ張りあげられて屋根に登ると、そこにさらに三人の少女がいた。
「センセェ、あんまりちょこまか動かんといてや」
八神優が、人懐っこい笑顔で言った。
「そうよ、こっちにも段取りってものがあるんですからね」
隣でうそぶくのは石原美咲。
屋根の先のほうでは、平位雛子が屋根のてっぺんに引っかかったままのロープを外して
いた。
涼子は理解した。
石像はこの屋根の彼方此方に安置されている魔除けのひとつだ。ロープの片方を涼子た
ちに掴ませ、屋根の梁を経由してもう一方を石像に結びつける。三人がかりで石像を押し
て落せば、反対側の涼子たちは引っ張り上げられることになる。
それにしても、きわどい救出方法だった。
八神に助けられ、佳苗が屋根に這い上がった。
それから笠井直子が登ってきたが、彼女は息も切れていなかった。
「まったく、老人をなんじゃと思うとるのか」
晴明がぜいぜい言いながら愚痴をこぼした。
息が乱れているのは涼子も同じだった。
事の成り行きが把握できず、何を聞くべきかとっさには選択できなかった。
屋根の下から、ユリの忍び笑いらしきものが聞こえてきた。
雛子がロープを解いて庭へ投げ落とした。
これで当座、敵が屋根に上がってくることはできないだろう。
涼子は、やっと言った。
「内田さん、これはいったいどういうことなの」
あなたたしか昨日、と言いかけてはっとする。
―――昨日、式神にされたんじゃなかったのか。
口篭る涼子に、佳苗はにっこり笑って言った。
「そうですよ。私はシキガミになったのです」
でも先生は、それがどういうことなのか分からないんでしょう。
そう、佳苗は言った。
八神、美咲、それに雛子が、屋根のてっぺんにあたる大棟に登って、その向こうを見て
いた。一緒に行った晴明が先のほうを指差して何か説明している。
その場に残ったのは涼子と佳苗だけだった。
「・・・もしかしたら、操り人形かなにかだと思ってた?」
上目遣いに、佳苗はいたずらっぽく聞いてきた。
図星の涼子は言葉に詰まる。
「そうじゃないんですよ」
佳苗は妙に大人びた顔をしていた。
「・・・いずれ先生にもわかってもらえると思います」
なぜかすこしばかり寂しげな声でそういうと、佳苗は笑った。
「おっと、いまはゆっくり話してる時じゃないですよね」
急にはしゃいだように装って、佳苗は屋根の上を駆け出した。八神たちがいる大棟より
先は、涼子のところからは見通せなかった。
佳苗のあとを追って一番上まで行くと、その先に異様な景色が広がっていた。
「これが御殿・・」
書院や控え間の小さな屋根がいくつか波打つように重なる先に、それはあった。
山のような、黒い大屋根。台守阿倍晴明の居館、「御殿」の姿だった。
「ちょっとしたビルぐらいの大きさがあんなあ」
感心したように、八神が言った。
実際御殿は四層の木造建築となっており、建てられた時代からいえばその規模は城郭の
天守閣に匹敵した。
しかし、城と異なるのはその屋根の作りだ。
四層分の建物は、たった一つの巨大な大屋根によって纏われていた。
急傾斜を為して天に聳える屋根の頂上は夜空を圧している。一番上から屋根の縁までは
それこそゲレンデのごとき長さがあった。
「あそこ見て」
美咲が指差した。
大屋根の中ほどに、いくつかの穴があいていた。それは地上から三層目に作られた風通
しの窓枠だった。
「連中が出てくるんなら、あそこが最有力。そうよね、御婆ちゃん」
美咲に促されて、晴明が頷いた。
「屋根に登ってくるなら、まずあの窓あたりが手っ取り早いじゃろうな」
佳苗たちは当初より、屋根の上に陣取る作戦を立てていたらしかった。
敵に悟られず涼子らを引き上げて屋根に潜み、夜明けを待つ。その頃には外部から何ら
かの救出があるだろうと読んでいた。
だが、不幸にもいま、彼女たちの所在は鹿島ユリに知られている。そしてまだ夜明けま
で、数時間があった。
「先生、どうします?」
佳苗が尋ねてきた。
「え、」
涼子は思わず口篭ってしまう。
この場で一番策がないのが自分であることに気づき、彼女は動転した。
「先生が決めてください」
佳苗はなおも言う。
八神たちの視線も、涼子に集中していた。
涼子は息を吐いた。
「私は・・・、」
彼女がそう言いかけるのと、大屋根の方角に気配が広がるのと、ほぼ同時だった。
屋根に出てくる暗士たちのなかに、涼子の見知った者たちがいた。
決定的な一人の敵を認めたとき、涼子は思わず言った。
「佳苗、」
涼子は、我知らずはじめて佳苗を名前で呼んでいた。
「あなたたち、暗士とやりあえるの?」
自分が言っているのは、昨日までなら信じられないようなセリフだった。
だが、佳苗は笑顔で言った。
「私たち、式神ですよ」
八神や美咲たちが不敵に笑った。
冗談ではないと思ったが、反面、覚悟を決めさるを得なかった。
「行きましょう」
涼子が不安とともに睨む先には、北条沙織の姿があった。
(後編につづく)