絡めとる言葉に

第6話

作:たくや さん

十六歳の北条沙織は、校舎裏の空き地に佇んでいた。
 陽が高い。
 強烈な日差しが、真白な制服の半袖シャツに容赦なく照りつけていた。
 蝉のノイズが、何もかもを掻き消してがなっている。
 沙織は、男たちに囲まれていた。
 ガラの悪い、と表現すればすべて事足りるような連中だ。十数名、下卑て好色そうな視
線を向け、遠巻きに沙織を包囲している。
 頬を伝った汗が、顎にあつまって滴り落ちた。
 きつく眉を結んだまま、それを手で拭う。
 全身から闘志を剥き出しにして拳を握る沙織は、獰猛な猫のようだ。さっぱりしたショ
ートカットの頭を低くして、身構えている。
 ―――面倒なことになってしまった。
 考えもなしにこの場に駆けつけてきた自身の迂闊さを呪う。
 彼女の背後には少女がひとり。
今にも泣き出しそうな面持ちでぴったりと寄り添っている。
 時代遅れ一歩手前といった風貌の不良たちは、当初この華奢で繊細そうな少女を襲撃す
るべく、ここに群れ集まったのだった。
 涼子という。
 無愛想で、人に心を開くということがない十三の娘。学園の中等部へ転校して以来、ク
ラスからは孤立している。
 単に内気だったからではない。
涼子には、不思議なところがあったのだ。
 たわいのない悪戯や、イジメともいえぬささやかな悪意をもって涼子に接近したクラス
メート数人が、次々に精神を病んだらしい。そのうちのひとりが母親に連れられてその筋
の病院で診断を受けたところ、重度の鬱病らしいという。
 当然のこと、彼女は気味悪がられた。
 関わりをもった者が何かしら不幸に見舞われるとの噂が広まるにつれ、クラス、そして
学園全体が、涼子を拒絶し、排斥していった。
 そんななか、高等部の女生徒のひとりが、涼子にちょっかいを出した。
おそらく彼女は、おびえる仲間に自分の度胸を見せつけたかったのだろう。
 結局、その女が自殺を図ったことにより、女の恋人であった男子の属する不良グループ
が激発することになった。
 彼らはその外見ほど非人間的な集団ではない。風にも折れるような女子中学生ひとりを
相手に、こうも大人数で出張ってくるなど、彼らの流儀にあうはずがなかった。
 だが、武田涼子という得体の知れぬ相手に何らかの不安を抱いたればこそ、彼らは我知
らず徒党を組んでいた。
 囲まれて、恐怖のあまり取り乱し、泣き崩れてくれればそれでいい。こいつはちょっと
気味が悪いだけの、ただのガキだと納得できたろう。
 ところが、そこへ割って入ってきた者があった。
 高等部2年の北条沙織。
注意深い者ならば、彼女が転校してきたのも涼子と同じ日だったと気づいただろう。
 だが、沙織は持ち前の明るさと強引な性格で、いつのまにかクラスのリーダーシップを
とる華やかな存在になりおおせていた。転校初日に入部した陸上部でも、短距離で群を抜
いた実力を発揮している。
 ずっと昔からそこにいたように学園生活を謳歌する典型的な高校生、それが沙織だった。
 だから、脱兎のごとく駆け込んで涼子をかばうように立った彼女を見たときの、不良た
ちの驚きは尋常ではない。
 男たちには、険しげな沙織の眼差しに別のものを見た。
よくよく考えれば、自分たちが手にかけようとしているのは非力な少女ではないか。沙
織の視線には、卑劣極まる男たちへの非難の色が浮かんでいるように思われた。
 後ろめたさは、攻撃衝動に変わる。
 沙織のとった不敵なまでの戦闘態勢も、男たちの嗜虐性を燃え上がらせた。
 やってしまえ、と思った途端、彼らは獲物の値打ちにはじめて気づいた。
 いつも活発に動き回っていたため気づかなかったが、均整のとれた少年のような肢体に
は、抑圧されたような色香がただよっている。それは、ちょっとどこかをいじるだけで狂
ったように咲き乱れることを予感させる、女の匂いだった。
 沙織には、不良たちへの非難や軽蔑などなかった。
 さらにいえば、自分が陵辱されるかもしれないことへの不安すら、彼女にはなかった。
 この困難な状況から涼子を無傷で救出するためにはどうすればよいか。沙織の思考はそ
のためだけにフル稼働していた。
 ―――大胆すぎるんだ。
 沙織は、自分たち二人を山から下ろした老婆の顔を思い浮かべる。
 ―――いまさら私たちが、普通の学校生活なんてできるはずないじゃないか。
 三十七代阿部晴明の意図がどこにあるのか沙織にはわからなかった。
「おらあっ」
 不明瞭な発音とともに男のひとりが飛び出してきた。
 よけるまでもない。敵の腕より沙織の脚のほうがリーチが長いにきまっている。
 みぞおちを一撃された男は空気の抜けるようなうめきを発してどうと倒れた。
見事な蹴りを放った左足を悠々着地させ、沙織は言い放った。
 「かかってこい!」 
ほぼ同時に、残りの十数名が一斉に殺到してきた。
 たちまち、乱戦になった。 
 喧嘩には自信がある。
 最初の十数秒で、早くも複数の敵が手傷を負って後退した。
 男たちは相手の思わぬ強さに困惑している。
 沙織のスカートがひるがえるたびに、敵はやすやすとなぎ倒される。
 だが、本来の彼女の武器が封じられているのはいかにも不利だった。
 晴明は、二人を下界に送るにあたり、沙織を呼びつけてじきじきに命じていた。
 「人を操るぐらいなら、お前たちを御山から出す意味がなくなる」
 彼女はそういう妙な理屈で、沙織の催眠術を封じてしまったのだ。
 いま沙織は首をかしげている。自分にはなにか特別な武器があったはずなのだが、それ
は何だっただろうかと。
 ―――ええい、ままよ。
 彼女はがむしゃらに拳を振るった。
 土曜の午後だから、校舎裏に顔を出す生徒もいない。
 涼子を人質にとろうなどと思いつく相手でなかったのが、せめてもの幸いだった。
 ちいさな涼子は、騒動から一歩はなれた木陰にしゃがみこんで震えている。
 沙織を正視することもできない彼女は、下を向いたまま嗚咽を洩らしていた。
 沙織は、時おり涼子の無事を確かめつつ、敏捷に動いた。
 足元には、すでに数人の男が折り重なるように昏倒している。
 急所を打ちのめして数を減らしていかぬかぎり、体躯で勝る男たちはいずれ沙織を圧倒
するだろう。
 四方を囲まれつつ、沙織は果敢に戦った。
 だが体力が消耗するにつれ、神経は鈍ってゆく。
 一瞬息をついた直後、彼女は後ろから足を払われた。
 片膝をついたとろへ一際大きい男がのしかかってくる。
 覆いかぶさってきた男の荒い息をまじかに感じたとき、沙織ははじめて自分が女である
ことを思い知った。
 鼓動が高まり、あやうく目をつぶってしまいそうになる。
 彼女は人並みの感情を振り払って身をかわした。自分を襲った相手を認めるや、思い切
り蹴り上げる。
 相手は数メートルも吹っ飛んで転がった。だが、その隙に反対側から別の男が踊りかか
ってくる。
 ―――きりがない。
 息が弾み、意識が朦朧としてきた。
 いつのまにか数ヶ所、打たれている。
 自分の動きが激しすぎて、体のどこが痛んでいるのか把握することもできなかった。
 いつしか、どれくらいの時間がたったのかすら、わからなくなっていた。
 それでも、彼女は自身を叱咤して戦った。
 「どうして?」
 ふいに、遠い昔どこかで聞いた言葉が蘇った。
 「どうしてそんなにまでして、あんな子をかばわなきゃいけないの?」
 目の前の男たちが、一瞬蜃気楼のようにかすんだ気がした。
 それが眩暈であると気づいたとき、左肩に重たい木刀の一撃が入った。
 衝撃で視界がぶれ、息が止まった。
 「よく思い出して、沙織さん」
 鎖骨が折れていると思った。 
 だが、激痛とは別の場所で、ひどく冷めた心が首をもたげている。
 ―――あれは、いつのことだったろう。
 話していた相手は誰だったのか。
 「あなたは、涼子を愛せって、暗示をかけられただけなのよ」
 「ちがうわ。だって私は・・・」
 ―――だって?
 否定したのは憶えてる。
 でも、だって何だと答えたんだろう。
 とても大切な理由があったような気がする。
 でも、それが思い出せない。
 どうして、私は涼子のことが愛おしいのだろう。
 どうして私は、あの子のことを守らなきゃならないんだろう。
 記憶に霧がかかったように、考えがまとまらなかった。
 「かわいそうな沙織さん、」
 やわらかい、あたたかい声だった。
 「私が、あなたを変えてあげる」
 目の前に手をかざされた。
 私はとても気持ちよくなって、すぐに何も分からなくなってしまう。
 「私のいうことをよく聞いて、」
 なんてうっとりとする声だろう。
 なんて、すてきな気持ちなんだろう。
 「あなたがもし、すこしでも涼子のことを、嫌いだと思ったら、ね」
 それから、なんと言われたんだったか。
 
 はっとした刹那、男の蹴りが来た。
 醜悪な靴底がやわらかい腹に吸い込まれた後、猛烈な痛みが彼女を襲った。
 「あうっ、」
 彼女のプライドが許すはずのない、情けないまでの悲鳴が洩れた。大粒の涙がぽろぽろ
と落ちた。
 吐き気は世界を半回転させ、気が付いたとき彼女は、地面に倒れていた。
 視界の端に、涼子が映る。
 木陰にうずくまる弱々しい女。
 あの子のために、自分がこんなにもひどい目にあっているのだと思うと、愕然とした。
 嘲笑とともに、男たちの足音が近づいてくるのがわかった。
 彼らは沙織が、完全に気絶したと思っているのだ。
 沙織は、極度の疲労と耐えがたい嘔吐感のなかにあり、犯されることへの恐怖感も急速
に広がりつつあった。
 彼女は、それでも戦おうとした。
 油断して近づいてくる男たちに、最後の一撃を食らわせるチャンスがある。沙織はそれ
に賭けていた。
 包囲の輪が縮まり、やがて、頭上から欲望がそのまま具現化したような気配が迫ってき
た。
 十分すぎるほどそれが近づいたことを確認して、沙織は跳ね起きた。
 ―――いける!
 とっさにそう思った。
 すぐ鼻先に呆けたような男の顔面がある。沙織はそれに向かって思い切り拳を出した。
 「え!?」
 驚愕したのは、沙織のほうだった。
 渾身のはずだったパンチは、相手の顔をかすることもなく空を切った。
 信じがたい出来事に、呆然とする。
 ―――届かない、
 思わず引っ込めた腕にはいつものような勢いがなかった。
 ―――こんなに、細かったっけ・・・
 まじまじと見る自分の腕には、御山で鍛え上げたはずのしなやかな筋肉がない。
 かわりにそこにあるのは、やわらかくてすべすべした、子供っぽい腕だった。
 沙織は胸元に妙な感触をおぼえた。何気なくまさぐると、そこではシャツの下でブラジ
ャーがずり落ちようとしている。
 彼女の乳房は、その張りを失っていた。みずみずしい乳首が残るのは、なめらかすぎる
少年のような胸だった。
 それだけではない。
 制服のスカートがゆるんだ。
 押さえるまもなくそれは足元までずり落ちた。
 混乱する沙織の顔にはすでにさっきまでの険しさが欠落している。
 眼差しにはかつてないほどの幼さがあった。
 それは闘志とも宿命とも無縁なあどけない子供のものだった。
 不安げに周囲を見回す彼女の頭に、かつて宣告された言葉が響き渡った。
 「すこしでも涼子のことを嫌いだと思ったら、あなたはどんどん、小さかった時に戻っ
てしまうのよ」
 沙織の肉体は、遡行してゆく。
 だぶだぶになったシャツは膝まで垂れ下がり、襟元からはつるんとした右の肩がのぞく。 
 それ以外の衣服は、下着にいたるまで足元に落ちて絡まっていた。
 周囲を取り囲む男たちが、巨人の群れのように見える。
 彼女には、もうレイプという事象の意味がわからない。
 ただ、自分に群がってくる男たちに生理的な嫌悪感をおぼえた。
 めちゃくちゃに揉みしだかれながら、沙織は駄々っ子のようにいやいやと身悶えた。
 どれぐらい時間がたったのか、
 やがて幻像か何かのように、男たちがぼやけて現実感を失っていった。
 彼らの姿が掻き消えると、木陰に佇む涼子の姿がそこに残った。
 いま、涼子は顔をあげて、じっと沙織を見ている。
 それは冷たい、氷のような眼差しだった。
 沙織の中に、これまで経験したことのない感情が湧き上がった。
 情景が変わる。
 白州の庭が見える。
 なまこ塀の向こうは杉林。その先はるかに、冷え冷えと連なる山脈が見える。
 奥の院の入口、渡しの回廊にあって、沙織は黒衣の女たちと共にいた。
 長々と庭を渡る回廊の向こう、境界の外側に居並ぶのは重役連の老人たちだ。
 厳粛な面持ちで立つ彼らが二つに割れると、その間から、ちいさな女の子があらわれた。
 あどけない少女は、危なげに回廊を渡ってくる。
 沙織の周囲の女たちが、一斉にひざまずいた。
 沙織にとって神にも等しい奥の院の暗士たち。それが、膝を折り頭を床につけるように
して平伏した。
 沙織も、それに習わざるをえない。
 だが、視線のみは、近づいてくるその見知らぬ女を追っている。
 自分より3歳か4歳若い。だが、自分とは絶対的に異なる存在のようにも思われる。
 いつのまにか、沙織の後ろに、暗士を束ねる老婆が立っていた。
 彼女は、歩み来る少女のほうを見つめたまま、言った。
 「よいか、沙織よ」
 御山は沙織にとっての全世界だ。その支配者は、こう言った。
 「おまえは、たとえ死すとも、あの娘を守るのじゃ」
 沙織は、当然のように頷いた。
 晴明の口から出たのならそれは死命だ。幼い彼女にも、それは理解できた。
 ただ悲しかったのは、晴明が自分よりあの娘を愛していると思ったことだった。
 らちもない慕情を抱いた沙織がまちがっていたのか。それとも、晴明にもそんな感情が
あったのか。
 「しかと承りました、台主様」
 沙織はそう言った。それは、6歳にしてはあまりにも大人びた答えだった。
 
 「あなたはあの子が嫌い、」
 突然、背後で声が聞こえた。
 そこはただの暗闇だった。
 鹿島ユリは、はじめから沙織のすぐ後ろに立っていた。
 「あなたは、涼子が、嫌い」
 彼女は繰り返し、そう言った。
 わずかな動揺が沙織の顔に浮かんだ。
 何かおかしいと思った。
 だが、それが何なのかわからなかった。
 否定すれば、逃れられたかもしれない。
 だが、あまりに幼い彼女の意識はそれに気づかない。
 「言いなさい沙織、」
 母親のような声で、諭すようにユリは言った。
 「あなたは涼子が嫌い」
 肩を抱かれた。
 いい匂いがする、と沙織は思った。
 彼女は、すっかり安心して目をつぶる。
 迷うべき事は何もなかった。
 「わたし、リョーコがきらい」
 そう言った。
 言った途端、檻から放たれたかのごとく、なにもかもが軽くなった。
 「あなたは生まれ変わったのよ、」
 鹿島ユリが、沙織の上体を強く抱きしめたまま、言った。
 沙織の目から、涙がこぼれた。
 それはとめどなく、いつまでも流れつづけた。
 沙織の、生まれたばかりのような泣き声が、炎の落ちた稽古場に響きわたった。
 

 書庫の内部は、意外に明るく清潔だった。
 数百年の歳月を経た文献は分割されて厚い透明ケースに真空保存されており、一枚一枚
が石板か何かのように見える。
 閲覧用の机に涼子を座らせた晴明が引っ張り出してきたのは、「西歌鏡紀」。朝廷の呪術
機関であった陰陽寮の公式文書のひとつだった。
 「なかでもこれは、内々の覚書に近いものでな」
 晴明はそういって、大仰に項を開いた。
 「一代様の時代よりまえは、陰陽師というてもただの呪い屋にすぎなんだ」
 一代様とはいうまでもなく平安朝の大陰陽師、阿部晴明のことだ。中期以降の陰陽寮が
朝廷で権力をほしいままにしたのは、彼がこの長官にあたる調伏守に任命されて後のこと
だといわれている。
 「寺社廻りから出て百舌鳥親王の側近まで登り詰めたのじゃ。いかな技をもってそれを
為したのかは推して知るべしじゃが、」
 陰陽道が中世において発達した催眠技法であるとして、晴明はよほど高度な術を会得し、
それによって立身出世を果たしたものと思われる。
 「どれだけの皇族や貴族に取り入ったかは知らぬ、」
 しかし、それだけではあまたの権益を握る巨大呪術組織を設立しえるはずかない。
 「ここじゃ、」
 晴明徒爾が指で示したのは、二項目、陰陽寮の成り立ちについて記されたところだった。
 ――― 守祓大国調伏夷宗、
 守、つまり阿部晴明は、大国を祓い夷宗を調伏した、とある。
 「大国主って、出雲の大国主ノ命のことですか」
 従順な生徒のように問う涼子に、晴明は満足げに頷く。
 「眠れる冥界の王、もともとは大陸から来た異民族の首長といわれとるが・・・」
 日本書紀には、地上に降りた天照大神が、出雲の国を統べる大国主命から地上の支配権
を継承したという記述がある。世に言う国譲りのくだりである。
 天照つまりアマテラスは、神話上の神であると同時に大和朝廷の創始者であると位置付
けられている。だから、朝廷はこの国譲りの記述をもって国史とし、みずからの政権の正
当性を主張してきた。だが一説によれば、畿内に上陸して勢力を拡大したミクロネシア系
の海洋民族が、先住民である出雲族の王オオクニヌシを騙し討ちにし、彼らを虐殺するこ
とによって成立したのがいまの朝廷であるともいわれている。
 「でも、これは神話の物語だし・・・。それに夷宗というのは、何なんです」
 晴明は、ややかしこまって姿勢を正してから説明した。
 「夷宗、つまりは邪教の徒ということになるが・・・」
 出雲族の末裔は山間部に埋伏して平安期まで生き残り、やがて武装した反政府勢力とし
て中国地方に不穏な勢力をもったという。
 「ゲリラ、みたいなものと思えばよい」
 大国主を本尊と崇む彼らは大飢饉を機に蜂起し、大和朝廷に叛旗をひるがえす。朝廷は
討伐軍を出してこれに臨んだが、戦意の乏しい彼らはことごとく敗れた。
 意気あがる出雲軍はいまにも京へ乱入せんとの勢いを見せる。京の市中は恐慌状態に陥
り、禁裏においても幼い天皇とその親族を吉野の山へ担ぎ上げる準備が慌しくなされた。
 ところが、出雲族がいまの伏見あたりに布陣して数日後、この乱は突然消えた。
 鎮圧でも和睦でもない。たった一人の陰陽師によって放たれた術による、完全な消滅だ
った。
 「それを為したのが、一代阿部晴明じゃった」
 晴明徒爾は、思い出話でもするかのように語った。
 だが、彼女の次の言葉は、驚くべきものだった。
 「このとき使った術の名がな、影法師というのじゃ」
 そうして、様子を窺うように涼子を見る。
 「わかるか」
 涼子はかぶりをふって答えるしかない。理解できるはずもなかった。
 「わしはな、下界の連中を見損のうたのだ」
 突然、晴明は息を吐いた。
 「連中があれをヴィシターなどと呼んでおると聞いて、わしはまったく落胆したものじ
ゃ」
 ヴィシター、直訳すれば「来訪者」という意味になる。
 「あれはどこから来たものでもない。例うるならまぎれもなく影法師。阿部晴明が仕掛
けた恐るべき術のなれの果てではないか」
 そこまで言って沈黙した。
 もとより涼子に挿しはさむ言葉などあるはずがない。話のあまりの内容に、ただあっけ
にとられるのみだった。
 「よいか涼よ、」
 ―――ここから先を聞いたら、もはや常世へは戻れぬものと思え。
 ごくりと唾を飲み込む涼子をちらと見やりつつ、晴明老は話しだした。
 「催眠は、人が人にかけるものじゃが、」
 それでは一軍を操り調伏することはかなわない。首領や頭目がいれば一足飛びにそれら
を押さえられるが、荒れ狂うばかりの叛乱軍に指揮者などいようはずもない。
 そこで、野心に燃える晴明が試みたのが、伝播し増殖する催眠術であった。
 術をかけられた者が新たな術者となって次々に伝染してゆく催眠。果てしなく広がって
やがてすべての者が術者すなわち影法師にヘンゲする忌むべき術。それが、影法師だとい
うのだ。
 「そ、そんなことができるのでしょうか」
 涼子の当惑はしごくまっとうなものだ。
 催眠には相応な技術がいる。かけられた者が即術者になどなりえるはずがない。
だが、晴明は答える。
 「できたのじゃ、」
 だからこそ、出雲族の反乱は大崩壊したのだ、と。
 「なにも複雑なものではない。影法師の術はたった二つの暗示のみで成り立っておる。
うちひとつは、人の心に潜む憎しみや欲望を解き放ってやるだけのものでな」
 誰しもが心の奥底に醜いどろどろした本性を隠し持っている。それを刺激し白日に曝し、
その欲望をひとしく貪るよう誘惑するのが、第一の暗示。
 「あとひとつ植え付けられるのは、解き放たれたその快楽をあまねく人に伝えんと欲す
る心じゃ」
 術を伝染させることによってその者は快楽をおぼえ、それは倍加してゆく。
 術をかけられた者は、飢えるように他者に術をかけようとするようになる。
 ある者は自身にかけられた術を模倣しようと工夫を凝らし、またもとより素質をもった
者は、嬉々として術者となった。
 彼らはたちまちのうちに出雲族を内側から食い破った。
 もともと、領土奪回を悲願に我慢に我慢を重ねてきた連中だ。心のよりどころは出雲族
最後の王、大国主ノ命への崇拝にあった。その宗教的規律が、影法師によってまるで裏返
しにされた。
 殺したい者は殺し、犯したい者は犯す。
 妬みたくば妬み、憎しみたくば憎んだ。
 互いに奪い合い殺しあった彼らは、またたくまに瓦解していった。
 「乱は鎮められ、一代様は朝廷の絶大なる信を得たのじゃ」
 これ以降が、阿部晴明と陰陽寮の繁栄の歴史ということになる。
 ところが、話はここで終わらない。
 「影法師の術にも相応にそれを封じる呪文、つまりは鍵言葉があった。それがどういう
ものであったのかはわからぬが、」
 乱の後、晴明と陰陽師たちは後始末に奔走した。己が放った術のすさまじい効果に戦慄
したところもあったかもしれない。生き残りの出雲族を狩っては鍵言葉をもって調伏する
日々が続いた。陰陽道の奥義に関わることだけに、すべては極秘裏に行われた。
 「あらかたは封じ込んだ。残るものもいずれは風化し、忘れ去られるものと思われた、」
 しかし、晴明と彼の部下たちは、人の欲望の強さを見誤っていた。
 術をかけることによって快楽を得てしまった影法師たちは、いかなる手段をもってして
もその快びを貪ろうと、あらゆる手練手管をもちいて暗躍した。
 「男が女と寝る、ただそれだけの為にあきれるばかりの術策を弄するであろう。それと
同じ事と思えばよい」
 その説明は、涼子にもよく理解できた。
 ―――気持ちいいから、そのためになんでもするんだ。
 それだけのことなのだ。
 「そのものが生き続ける魔性のごとく、影法師は時を越えていった」
 それは、ときには陰陽師らなどが思いもよらぬ方法によって伝播した。
 幼子が、ある日母親から術をかけられる。それは心の奥深く埋伏し、数十年もの月日が
平穏に流れてゆく。やがて子をもうけると、ある日突然に暗示が目を覚まし、その者は我
が子に同様の術をかける。
 「当人も気付かぬ生涯一度きりの術じゃ。これが何代にも渡ってつづいてみい」
 恐るべき数の潜在的な影法師が世にばらまかれることになる。
 そうした連中の中に、まれに人を操る素質をもった者がいたときに、それが侮れない術
者となって世に出るのである。
 「一向一揆も影法師に煽動されたとの証拠がある。術は、時代を経て様々に形を変えて
おってな」
 かけられた者の生来の知恵や経験がそうさせるのか、影法師はしだいに洗練され、複雑
なものになってゆく。
 それぞれの時代、水面下で影法師と陰陽師の末裔たちとの死闘があった。
 「陰陽寮が滅びてからこの鎮台ができるまでの百年間などは、連中の跋扈する闇の世も
同じじゃった。大小名のどこまでが侵されておったか見当もつかぬ」
 そして、現代。
 影法師は、再び社会に根を張った。
 北米大陸に潜伏し活動を開始したのも偶然ではない。いまもし世界を操ろうと欲すれば、
合衆国を掌握することがその最短の道であるのはいうまでもない。
 だが、FBIはじめ連邦の捜査機関は依然として敵をカルト教団ぐらいにしか思っていな
い。日本の対策班にしても程度は同じだった。
 「陰陽寮が滅びたのは武家台頭という時代の趨勢に乗り遅れたからじゃが、この鎮台に
も寿命というものがある」
 ネットで複雑に結節されたいまの世界で暗士の活動はおのずと限定されてくる。熊野鎮
台というシステム自体が、国家間を席巻しつつある影法師の猛威に対抗するすべを失いつ
つあった。
 「それで、わしはお前を下界に送ったのじゃ」
 晴明は、そう言って涼子を見た。
 涼子は、すべてを聞いてもそれを咀嚼することができない。
 唐突に語られた話の内容の重さに、絶句するしかなかった。
 「それじゃ、防衛庁に対影法師の組織を作らせたのも・・・」
 やっとそれだけ言った涼子に、晴明は頷いた。
 「鎮台が陰陽寮に成りかわったように、あらたな御山を下界に築くことが、涼よ、お前
の役目じゃな」
「そんな、」 
 鎮台の支配者の思わぬ言葉に、涼子は思わず声をあげる。
 「無理ですよ、私にそんなこと」
 もっと有能な暗士は数多くいるし、そもそも御山には最強の術者、北条沙織がいるでは
ないか。
 「暗士ではだめなのだ」
 晴明は、首を横に振って言った。
 「いかに力のある暗士でも、あれらは心のどこかを壊しておってな。ともすれば影法師
よりも恐ろしい災厄を世にもたらす恐れがあるのじゃ」
 ばたん、と大きな音を立てて「西歌鏡紀」を閉じると、晴明は涼子の目を見据えた。
 「お前は、もとより鎮台を継ぐべく選ばれた子じゃ」
 それは、予想だにしなかった言葉だった。
 衝撃に、涼子は大きく瞳を開く。
 「だから、お前を暗士にはせなんだ」
 涼子の脳裏に、学生だったころのある思い出が蘇ってきた。
 彼女は沙織の胸にすがりついて泣きじゃくっている。「どうして私は行けないの」と言っ
て泣く涼子をやさしく抱いて、やさしげな眼差しの沙織が言い聞かせるようにいった。
 「強情言うもんじゃないわ。永遠に会えなくなるわけじゃないのよ」
 そっと、涼子の肩を離した沙織は、同じ年頃の数人の女とともに、奥の院の西奥に位置
する暗士養成のための房へ入っていった。
 大きな門扉が閉じられるとそこには涼子ひとりだけが残った。
 五カ月、沙織たちはそこに閉じ込められる。そして彼女らは再びこの門から出てくると
き、鎮台を支える正式な暗士となっているはずだった。
 すでに人一倍負けず嫌いになっていた高校3年生の涼子は、自分だけが房へ入ることを
許されないことがどうしても納得できなかった。
 だが奥の院からは何の説明もなく、彼女は唐突に英国への留学を命じられたのであった。
 いま、涼子は知った。
 この鎮台の奥にあって、暗士でないのは涼子と、そして晴明だけだ。
 涼子は、阿部晴明の名を継ぐべく、いままで育てられてきたのだ。
 「でも、なぜ私が・・・」
 最後の問いに対する晴明の答えはなかった。
 書庫の外に、人の立つ気配がしたからである。
 涼子が扉を開くと、そこに胡蘭が立っていた。
 彼女の緊張した面持ちは、何事かが出来したことを知らせていた。

 夜明けまで、まだ五時間もあった。
 涼子と胡蘭、それに奥の院の暗士六名は、二艇のボートに分乗して稽古島に接近しつつ
あった。
 「何があったのでしょうか」
 胡蘭は心配げな顔だ。
 涼子にしても、どう答えたらよいか分からなかった。
 ―――あんな話を聞いたばかりなのに・・・
 胡蘭によってもたらされた報告はこうだ。
 先刻、夜を継いで東京より帰山した暗士があった。彼女が山を越えるとき、件の交番に
おいて絶命している警官が発見された。彼の役目は鎮台へ通じるたった一本の道に立って
部外者を抹殺するというものだった。
 男は自ら拳銃を口にくわえ、引き金をひいた痕跡があるという。
 明らかに自殺と思われる警官の最期も不可解だが、それを聞いたときの晴明の動揺も尋
常ではなかった。彼女は話を聞くなり立ち上がってしばらく呆然としていたが、やがて一
言、「死んだか、宗一郎が・・・」とだけ呟いて、力なく椅子に崩れ落ちたのだ。
 ―――なんで、あんなにもうろたえたんだろう。
 涼子は、霧の中に立つ不気味な警官の姿を思い出す。
 国家の命運さえ左右させた冷徹な鎮台の主が、あの男ひとりの死にあれほど感情を露出
するなど、涼子にとっては意外でしかない。
 晴明老を別室で休ませていた涼子へ、胡蘭がいまひとつ打ち明けたのが、次の報告だ。
 「稽古場へ行った李蘭が帰ってこない?」
 李蘭は沙織の相手をつとめるため夕刻より稽古場へ行ったきり、いまだ戻ってきていな
いという。
 涼子が考えを巡らせていると、床にあった晴明が言った。
 「人を出して確かめてくるのじゃ」
 ただし二人ばかりでは行くな、と晴明は念押した。
 実際のところ、いま鎮台にいる暗士の数は全体の約三分の一にすぎない。
 常時下界へ放っている人数は数十名にのぼるが、いまは影法師の動静を探るべくさらに
多くの暗士が山を下りていた。そのうえ警官の不審な死を受けて、尾根の先で重役連の人
数が哨戒をはじめており、御山詰めの暗士数名もこれに同行していた。
 奥の院に残るのは後詰めの者が二十数名のみだ。しかもそれらは皆、房を出たばかりの
若い暗士ばかりだった。術の腕もそれほどではない。主力となる強力な暗士たちが影法師
を監視するために出払っているからだった。
 そんな守りの手薄な状況を重役連が黙認したのは、御山にまだ北条沙織と李蘭胡蘭とい
う屈指の遣い手が残留していたからだった。
 「とにかく、何もなければよいけれど、」
 涼子の言葉にも、胡蘭は顔の曇りは晴れなかった。
 ―――無理もない。
 李蘭と胡蘭はいつも対になって行動していた。ともすれば正気を失いかねない御山での
日常にあって、彼女たちは互いが心の安定を保つ重しのようなものであったにちがいない
のだ。
 ―――こんな強い子でも、弱い部分を衝かれるだけで、こうも心がかき乱されるのね・・・
 涼子は思う。
 明かされたばかりの影法師の話とどうしても重なってしまう。
 心を偽り弱さを隠すがゆえに、それを逆手に取られれば手もなく操られ弄ばれる。
 催眠術という括りを外しても、下界の人間関係ではそういった支配と服従の構図が彼方
此方にあふれかえっている。
 自分の敵がどういうものであるのか知るにつれ、その妖かしさ恐ろしさに涼子は慄然と
するばかりだった。
 ―――私の弱点って、何なんだろう。
 ふと、それを考えた。
 誰かの顔が頭に浮かびそうになった。
 が、それが誰かわかる前に、胡蘭の声がした。
 「まもなくです」
 ―――まあ、姉さまがいることだし、
 大事ないだろう。
 そう思いたい心がどこかにあった。
 それが彼女自身の最大の弱点であることに、涼子は気付いていない。
 「船着場に一艇、ボートが見えます」
 先頭で目を凝らしていたひとりが、そう報告した。
 「一艘? たしか沙織様と李蘭は一緒には・・」
 胡蘭がいぶかしげに言う。
 沙織が稽古場へ入ったのは李蘭よりかなり後のはずだ。ではどうしてボートが一艘しか
ないのか。
 「とにかく、岸につけて」
 遠巻きにしていても仕様がない。涼子は上陸を決意した。
 涼子と胡蘭、それに暗士たちは桟橋から陸に上がると、稽古場の周辺に音もなく散開す
る。日頃の修練の成果か、彼女たちはすばやく動いた。
 涼子と胡蘭は、稽古場の建つ丘の中腹あたりに伏せて、様子を見守る。
 稽古場に灯はついていない。
 人の気配もしなかった。
 静寂の中、満天の星空が嫌味なぐらいに輝いていた。
 「涼子、」
 突然、声がした。
 「いるんでしょ、涼子」
 稽古場の中から降ってきたのは、まぎれもなく北条沙織の声だった。
 一瞬躊躇したのち、涼子は答える。
 「姉さま、いったいどうしたの」
 誰何するような口調にも迫力がない。相手はあの沙織なのだ。
 「どうもしないわ。入ってきなさいよ」
 「なぜ灯りを消してるの。それに、そこに李蘭はいるの?」
 周囲の草むらに埋伏した暗士たちは、固唾を飲んで二人のやり取りを聞いている。
 「涼子様、私もおりますよ」
 そう問われるのを予想していたように、李蘭の明るすぎる声が聞こえてきた。
 「姉さま、誰かが御山に侵入した形跡があるの」
 やや苛立たしげに言葉を継いだ涼子にも、沙織の口調は変化しない。
 「そう? でもここは大丈夫よ」
 涼子の横で、胡蘭が「中に入りましょう」と囁いた。その声は緊張を帯びている。
 いつになくのらりくらりした沙織の応答に不審の感があった。しかし、胡蘭の言うとお
り、いつまでもここで問答を続けていてもはじまらないだろう。
 「わかったわ。そうしましょう」
 小声で言って、涼子は立ち上がった。
 「そこへ行くわ、姉さま」
 胡蘭が、周囲の暗士たちに目配せした。涼子、胡蘭のほかに二人の若い暗士が姿勢を低
くしたまま集まってくる。
 「あとの四人は念のため、残し置きます」
 胡蘭の指示は当を得ていた。もし万が一のことがあれば、四人のうち二人はそれぞれボ
ートを駆って奥の院に馳せ戻り晴明にすべてを報告する。残りの二名は身を盾としてボー
トの脱出を援護するという陣立てだ。
 「いきましょう、」
 真っ暗な稽古場の内に四名は踏み込んだ。胡蘭、それに吉乃、綾奈という呼び名の二人
の暗士は皆、動きやすい黒い道服を身につけている。涼子だけが白いシャツにジーンズと
いうある意味場違いな格好をしていた。
 そろりとした足運びで稽古場の奥に入った四人は、そこでかすかに甘い匂いをかいだ。
 「千昼夜香です、涼子様」
 胡蘭が油断なく周囲を見回しながら、耳打ちした。
 あちこちに散乱する燭台、なかば焼け落ちた布幕、わずかに焦げくさい匂いも残ってい
る。
 「李蘭の声、いつもとは違いました・・・」
 やや引きつった感じで、胡蘭はそう言った。
 ―――たしかに、なにかある。
 状況から判断して、異変を認めざるを得ない。だが、相手が沙織であるということが、
涼子をどうしても躊躇させた。
 「姉さま、どこ」
 中途半端な声で呼ぶと、答えはすぐ後ろの暗闇からした。
 「ここよ、」
 あたりは暗く、見通しが利かない。
 声は、涼子と胡蘭の背後、吉乃と綾奈がいるはずのあたりから聞こえた。
 「きゃっ」という吉乃の声がして、ふたりが飛び退るのが分かった。
 胡蘭が、思わずライトをつけた。
 光の円のなかに浮かび上がったのは、まぎれもなく北条沙織だった。
 「まぶしいわねえ、」
 溶けるような笑顔を浮かべたまま、沙織は言った。
 「も、申し訳ありません」
 どぎまぎした様子で、胡蘭があわててライトをずらす。沙織は白い肩衣に袴という稽古
用のいでたちだった。
 「こんな夜中になにをしてるの、」
 艶然と沙織がいう。思わず引き込まれそうな笑顔だ。
 「それは、こっちのセリフでしょう」
 涼子は、やや気押されながら返す。いつもの軽口のつもりだったが、言い知れぬ違和感
があり、涼子の心はいつになくざわめいた。
 「私たちは術の試合をしていたのよ、あなたたちに邪魔されるまではね」
 そういって、若い二人の暗士のほうを見る。
 吉乃と綾奈は震え上がっている。二人ともまだ暗士としては見習同然で、仕事で下界へ
遣わされたこともない。彼女らにとって北条沙織は、雲の上の存在も同じだった。
 「たしか、吉乃に、綾乃だったわね」
 綾奈の名を間違えて言ったが、それを正すこともできなかった。
 「いい機会ね、あなたたちも試してあげましょうか」
 そういって、後ずさる二人の腕を取った。
 「姉さま、やめ・・」
 涼子が止めるまもなく、沙織はそれをぐいと引いた。
 引き寄せられた吉乃と綾奈は、束ねられたように棒立ちのまま、沙織の前に立つ。
 「ふうん、」
 値踏みするように頷くや、沙織は二人の首に腕を絡めてさらに引き寄せた。
 吉乃も綾奈も声も出ない。二人はほとんど密着したまま沙織の腕の中に捕まえられた。
 「・・・足の力が抜ける、」
 低い声で、沙織がそれだけ言った。
 ほんの小手調べといったところなのだろう。だがまず綾奈の膝が、力なく折れた。
 「あら、ほんとに素直なのねえ、」
 綾奈は暗士という肩書きが似つかわしくないくらいの、どこにでもいそうな可愛らしい
娘だ。それがいま、溺れるかのごとき苦悶の表情をあらわにして震えていた。
 沙織はそれを愛おしげに見ている。
 「頭の先から、糸を抜いてあげる」
 そういって沙織は、首に絡めていた腕をほどいて指先で綾奈の頭のてっぺんあたりをつ
まんだ。
 「どこにも力が入らなくなるわよ、」
 綾奈の目を見据えたまま、指を上にのほうに持ち上げていく。髪の毛の束が指先からこ
ぼれた後はなにも残っていなかったが、沙織はあたかも何か糸を引き抜くがごとく、「すう
ううう、」と声に出して綾奈に囁きかけた。腕をさらに伸ばし、綾奈の身長ほどもある糸を
すべて引き出そうと力をこめる。
 「ぱちん、」
 勢いよく腕を後ろに振ったのは、そのありえざる糸が完全に綾奈の肢体から抜き去られ
たからだろうか。
 沙織のその言葉とともに、綾奈は一瞬びくりと震えた。
 目が、中空に泳ぐ。
 それから、沙織の言葉通り、すべての体の力が、抜き取られたように入らなくなった。
 すかさず背にあてられた沙織の手のひらに全体重をあずけ、弓なりにのけぞる綾奈。
 首筋が伸びきって声もない。
 沙織が腕をすこしばかり落とせば、綾奈の体はそれに応じてがくりと沈んだ。膝は壊れ
たように折れ曲がってグラグラしている。踵はとうに床から離れ、つま先だけが頼りなげ
に地についていた。
 「気持ちいいでしょう、」
 雲のような声でそう言ってから、
 一転氷のように冷たい口調で「答えなさい」と問い掛ける。
 抵抗することなどおよびもつかぬ綾奈の口から、わずかに「は、はい」と言葉が洩れた。
 「息をするたびに、あなたはもっといい気持ちになるわよ」
 ふたたび甘く柔らかい声色でささやく。
 綾奈は媚びるように、「はい、」と繰り返した。従属することに心の安寧を見出してしま
ったのだ。
 沙織はぐい、と綾奈の体を引き上げて、がくがくするのをままに立たせた。もはや目の
焦点もあっていない綾奈は、わずかに息を吸い、それから麻薬でも嗅がされたかのように   
「・・・ああっ」と大きく喘ぎだす。
 「さて、」
 沙織は反対側の吉乃に視線を転じる。
 綾奈より負けん気の強いらしい吉乃は、切れ長の瞳をきりっと見開いて挑戦的に沙織を
睨む。
 「あら、あなたはまだ脈があるようね」
 そういって、満足げに吉乃のしなやかな体をねめまわす。
 「どうしてあげようかしらね、」
そんな姉の様子を見つつ、涼子はじりじりしていた。
 制止しようとして不用意に近づけば、昼間のように自分も絡めとられてしまうだろう。
時おりこちらへ視線を向けて意味ありげに微笑んでくるのは、邪魔すればあなたもよ、と
いう無言の挑発にちがいないのだ。
 焦燥感が募ったが、涼子はまだ決断しきれなかった。
 これは、本当に沙織流の稽古なのかもしれない。経験の浅い綾奈たち若い暗士を戒める
ために、少しばかりきつい目にあわせているだけかもしれないではないか。
 ―――そう、昔私がされたみたいに・・・
 涼子の脳裏に、かつてこの場所で沙織によって導かれた快楽の坩堝が蘇る。それはいま
だに涼子の感覚を刺激し、ともすれば甘い感慨に飲み込まれそうになる強烈な記憶だった。
 「吉乃、吉乃・・・」
 なにを思ったのか、沙織は顔を近づけたまま、吉乃の名を繰り返しはじめた。
 ―――何をしているんだ。
 焦りながらも、涼子には不謹慎ながら興味がないこともなかった。言葉を吹きかけられ
ている吉乃のほうは、眉をきつく結んだまま沙織を睨みかえしている。
 「吉乃、吉乃・・・・吉乃」
 五回も呼ばれたときだろうか、さすがに吉乃の顔に当惑の色が浮かんだ。
 彼女は自分が何をされているのかわからない。
 しかし、目の前にいるのはあの北条沙織なのだ。なにかとてつもない術策で自分の心に
忍び込んでくるにちがいない。
 そうは思っても、それがどんな手なのか、吉乃にはわからなかった。
 知らず、当惑は不安に変質していった。
 「吉乃、吉乃、吉乃、」
 吉乃の心の動きを見透かしたように、沙織は誘うようにいう。その口調はまるで、「もう
あなたは私の手に落ちてるのよ、」と嘲笑しているようにも聞こえた。
 吉乃は危険を感じた。このまま沙織のペースに乗せられていたら本当に催眠にかけられ
てしまう。
 大胆不敵にも、彼女は沙織に攻撃を仕掛けようと試みた。
 沙織の言葉を遮って主導権を奪い返す。沙織が次に自分の名を口にしたときが反撃のチ
ャンスだ。
 「吉乃、吉乃、・・・」
 勇敢な吉乃は覚悟を決める。そして、沙織の声をかき消すように「沙織様、」と大声で言
った。
 直後、なにかおかしいと思った。
 それがなにか最初は分からなかった。しかし、なにを間違えたのか理解しはじめるにつ
れて、吉乃の心に不可解な動揺が広がっていった。
 沙織は、吉乃が口を開く直前に沈黙していた。
 彼女は、この若い暗士が反撃に出ることを知っていたし、そのタイミングすら推し量っ
ていた。吉乃は、無防備にそこへ飛び込んでいったも同じだったのだ。
 読まれてた、と思い知るにつれ、吉乃の心には羞恥が広がった。
 なんてみっともない事、なんて拙い事を・・・。
 沙織は沈黙したままじっと吉乃を見ている。吉乃は、次に継ぐべき言葉を失って、「あ、」
と口ごもるばかりだった。
 沈黙は、沙織の使い魔だった。それはいたたまれぬ心の苦しみに悶え苦しむあわれな吉
乃を弄りつづける。
 こんな人に戦いを挑んだなんて・・・。
 身の程を知らぬ自分が心から恥ずかしい。いまにも逃げ出してしまいたい欲求に駆られ、
心が萎えてゆく。目をそらしたかったが、沙織の視線は吉乃のそれを縛り付けて放さなか
った。
 それから、数秒。
 未熟な吉乃にとっては、永遠にも思える時間だった。
 敵を完全に圧倒した沙織は、ゆっくりと言った。
 「吉乃、」と。
 吉乃は、それに屈服した。焦らされていたといっていい。
 「あ、はいっ・・ 沙織様」
 吉乃は勢いよく答える。
 それへ、沙織はさらに言った。
 「吉乃、吉乃、吉乃、吉乃、」
 手繰り寄せるような口調で繰り返されるのを聞くたびに、吉乃はどんどんうっとりとし
た気持ちになってゆく。
 「吉乃、」
 自然にまぶたが落ちた。
 それにより、沙織の言葉はよけいはっきりと吉乃の体を駆け抜けた。
 自分の名が呼ばれるごとに、吉乃は言い知れぬ溶けるような感覚に飲み込まれ、やがて
深いところへ沈んでいった。
 「なかなかがんばったわね、」 
 ふらふらと立ったまま眠る若い暗士の肩を支えながら、沙織はにっこりと笑った。
 「今あなたの目の前にいるのは、あなたが一番大好きな男よ、」
 吉乃と綾奈に一様に囁いて、そっと背を押す。
 向かい合い、恥らいつつも互いに体に触れはじめる吉乃たちを見ながら、涼子は愕然と
していた。
 「な、なに月並みな事やってるのよ」
 沙織とはこんな女だっただろうか、と思う。
 たしかにこれぐらいの事は平気でした。しかし、なにかがちがった。
 思わず詰め寄ろうとする涼子の腕を取ったのは、意外にも胡蘭だった。
 「涼子様、行きましょう」
 強引に涼子を引っ張って、胡蘭はその場から駆け出した。
 後を追いながら、涼子が聞く。
 「どうして、まだ何も・・・」
 胡蘭は脱兎のごとく稽古場から出るや、沙織が追跡してこないことを確認して一息つい
た。
 「皆、退きますよ」
 散開していた暗士たちがボートのところへ集合する。
 「船を出しなさい、早く!」
 みずからもボートに乗り込みながら、胡蘭はやっと言った。
 「沙織様は、おそらく影法師に・・・」
 「なぜそんなことが分かるの、」
 涼子も心のどこかでその可能性を考えてはいた。しかし、認めたくない気持ちがそれを
思考の表層に出さなかった。
 李蘭は、周囲を警戒しつつ言う。
 「あれは稽古でも試合でもありません。あんな術のかけ方をすれば、吉乃はつぶれてし
まいます」
 「それは、」
 名を呼ばれるだけで服従してしまったのだ。そのトラウマは彼女に最悪の「癖」をつけ
ただろう。今後吉乃は誰にでも容易に操られるようになる。彼女はもう、暗士としては使
いものにならないのだ。
 「せっかくいい素質を持ってたのに、」
 めずらしく、険しい顔で胡蘭は言った。
 舫い綱が解かれた。
 ひとりがエンジンに手をかけたとき、突然天空が真昼のごとく輝いた。
 「くっ、」
 ばちばちとなにかが爆ぜる音が聞こえた。
 すさまじい明滅が襲ってくる。
 暗士のひとりが悲鳴をあげるのが聞こえた。
 涼子が目をやられなかったのは、とっさに胡蘭が手のひらで彼女の目を覆ってくれてい
たからだった。
 胡蘭自身も、きつくまぶたを閉じている。
 「目を開いてはいけませんよ、」
 気遣うような、胡蘭の声が聞こえた。
 「いらっしゃい、」
 遠くから聞こえてくるのはまぎれもなく沙織の声だ。
 稽古場から投じられた千昼夜香の明滅は、そこにいた四人をまたたくまに打撃した。
 茫然自失する彼女たちに、再び沙織の声がかかる。
 「北条沙織が命じるわ。こっちへいらっしゃい」
 涼子も胡蘭も、いまだ目を開けることができなかった。
 おそらく何本もの香を束にして燃やしているのだろう。でなければ、深夜とはいえ屋外
で、こんなにも激しい光が瞬きつづけるはずがない。
 「さあ、」
 沙織が誘う。
 ぐら、とボートがかしいだ。
 あまりにもあっけなく術に落ち、従順な娘に成り果てた四人の暗士は、招き寄せられる
ようにボートを降りていた。
 「だめです、戻ってきなさい」
 胡蘭が叫ぶが、それも彼女たちには届かなかった。
 やっと薄目を開けた涼子が見れば、四人はふらふらとした足取りで、丘を上り、稽古場
へ向かっている。その入口で手招きしているのは、彼女の姉だった。
 ―――昼夜香で神経をやられたうえに、姉さまに魅入られたんだから・・・
 抗い得ないのも当然なのかもしれなかった。
 「涼子様、」
 胡蘭は、素早くエンジンをかけた。
 どっと動き出すボートから、彼女は意を決したように飛び出す。
 「胡蘭、」
 叫ぶ涼子に、胡蘭は桟橋を駆けながら言った。
 「私はほかのボートを、」
 胡蘭は残りの船を岸から流そうとしていた。それで、沙織をこの島に封じ込めておける。
 だが、あと2艘ある船の舫いを放ち自身も脱出するなど可能だろうか。敵は、鎮台最強
の暗士なのだ。
 「無茶はよして胡蘭。戻ってきなさい」
 ボートを旋回させながら、涼子はなおも叫んだ。
 だが、それはすでに遅すぎた。
 彼女は見た。一艘目の船のロープに手をかけた胡蘭の前に立ったのは、沙織ではなかっ
た。
 胡蘭に瓜二つの姿かたちをしたもうひとりの女。
 だが、胡蘭が憔悴しきっているのに対し、その女は過剰なまでの自信とエネルギーに満
ちあふれていた。
 「李蘭、」
 胡蘭が短くうめくのが聞こえた。
 李蘭は、何も言わない。
 ただ何もかもを包み込むようなあたたかい眼差しのまま、そっと胡蘭を抱擁した。
 「もう、苦しまなくていいのよ」
 李蘭は、それだけ言った。
 胡蘭の目に涙が浮かんだ。
 李蘭の姿を認めた時点で、胡蘭は自身の死を覚悟していた。
 たったひとりの愛する者と戦い傷つけあうことに、このうえなにか意味があるだろうか。
 もし血の涙を流して己が分身を引き裂いたとしても、その屍の先にはさらに沙織がいる
のだ。
 数年来の猛烈な疲労感が、一時に胡蘭の心にのしかかってきた。
 もう、これぐらいにしていいだろうか。
 ひとりでは、踏み越ええぬ一線であったろう。だが、彼女の唯一無二の心のよりどころ
は向こう側で手を広げて待っている。
 「一緒に、連れてってくれるの?」
 涼子は、胡蘭のありえざる声を聞いたような気がした。
 だがそれは、エンジンの爆音にかき消されてよく聞き取れなかった。
 すでに二人のシルエットは重なって、どちらが李蘭でどちらが胡蘭かもわからなくなっ
ていた。
 涼子は舵をとった。
 この場から逃げなければならなかった。
 数の合わないボートのことを考えるあわせれば、影法師がすでにこの島を抜けて奥の院
に向かっている恐れがあった。
 ―――鹿島ユリだろうか。
 戦慄とともに、その名が頭に登る。
 最後に振り返ったとき、闇に溶けようとする稽古場の丘の上で、たしかに沙織はまっす
ぐ自分を見つめていた。
 ボートを疾走させながら、涼子は吐き気を覚えた。
 何もかも悪夢のようだった。
 だが、彼女にとって最悪の夜は、まだはじまったばかりだった。

                           (最終話に続く)


戻る