■暗士[アンシ]
平安朝中期の下級陰陽道士の蔑称。
朝廷直属の呪術機関である陰陽寮に属し、地方反乱や邪教の鎮圧に貢献した。
一部の文献によれば、暗士は文言によって敵を死に至らしめる呪殺の法を用い、また式
神と称される鬼を呪文によって自在に使役したという。
「斎藤さんが来てるの!?」
問い返す涼子の声に、李蘭が答えた。
「斎藤、谷田の両管理官、それに関東管区の統括官も数名見えられてます」
涼子は、思わずため息をついた。
「あんたのことだけじゃないのよ」
ハンドルを握る沙織が煙草をくわえたまま言った。
「公安と防衛庁の失態は目に余る。とくにここ最近の不手際には、ってね」
何事もないようにいう沙織に、しかしながら涼子は首をすくめざるをえない。
沙織のいう失態の中には、当然自分が鹿島ユリに操られた件も含まれているだろう。
「重役連はお怒りなのよ。それであんたのとこの上司たちが呼ばれたってこと」
気が重くなる涼子を乗せて、レンジローバーは山道を登っていた。
熊野市で高速を降りた車は旧国道を北上、さらに野崎峠から県道へ入って山を登ってい
た。
カーナビの画面上では、車を示す三角印は道のない山間部を進んでいた。
後部座席にはいまだ幸せそうに眠ったままの内田佳苗と、巫女姿のままの李蘭がいる。
道は、山肌に張りつくように続いていた。
左手のガードレールの先ははるか谷底へ下り、そこからは乳白色の霧が湧きあがってい
る。
無言の道行きのなか、エンジン音のほかはカーステレオの音楽のみが車内に漂っていた。
「これは、何ですか」
ふいと、李蘭がいう。
涼子は一瞬考えて、「宇多田ヒカル、」と答えた。
「宇多田ヒカル・・・」
李蘭は、目を大きく見開いて、「いいですねえ」とため息を洩らした。
「あんたたちも可愛そうよね」
そう言ったのは沙織だ。
李蘭は、ちょっと顔を赤らめて「いいえ、」と答える。
二十歳ぐらいなのだろうが、彼女にはどこか少女のようなあどけなさを残っていた。
御山詰めの暗士は、ほとんど一生を熊野の山中で過ごす羽目になる。
だが、もともと生まれたのは下界であるから、俗世間の諸事に興味がないわけではなか
った。
「でも、この服をご覧になってください」
李蘭は面倒くさそうに白地の襟を直す。
「涼子様のお迎えで山を下りられると伺いましたので、楽しみにしておりましたのに、」
はめを外さないように、わざわざこんな格好で下ろされたというのだ。
―――重役連も、相変わらずだ。
と涼子は思う。
古色蒼然としたこんな集団が、依然としてこの国の安全保障の一翼を担っているという
事実が、涼子には信じがたかった。
だが現に、涼子が籍を置く防衛庁の幹部たちが、御山の意向を受けて大慌てで参集した
というではないか。永きにわたって時の政権に無言の圧力を与えてきた熊野鎮台という組
織の歴史を、思い知る感がないわけでもない。
「なんだったらあげるわよ、これ」
沙織の言葉に、李蘭が「ありがとうございますう」と泣きそうなほどの笑顔で答えるの
を聞きながら、涼子は灰色がかった空を見ていた。
サービスエリアでの死闘の後、涼子はその場を捨て置く気になれなかった。
「この子たちをどうするつもりなの」
険しい表情で詰問する涼子に、李蘭と胡蘭は不思議な顔をした。
「なぜそのようなことを気にされるのですか」
「私どもにお任せくだされば、涼子様には何の心配もございません」
この二人が面倒ごとをそつなく処理することぐらいは涼子にも分かっていた。
だが、彼女が危惧しているのはそれとはまったく次元のちがう問題だった。
「涼子ちゃんはね、先生になったのよ」
口を挟んだのは沙織だった。
「かわいい生徒たちのことは放っとけないの」
どう口にしたらよいか分からなかった心の内を言い当てられて、涼子は思わず顔が赤く
なった。
李蘭と胡蘭は、顔を見合わせていう。
「そう、なんですか」
「意外です。なんだか涼子様、感じが変わられました」
二人は素直な感想を述べたのだろうが、涼子にすればからかわれているように聞こえる。
おもわずかっとなって、声を荒げた。
「あなたたちね、トラウマって知らないの」
笠井直子はすでに涼子らによって、バスの中に収容されている。
感極まった表情のまま気を失っている直子の顔を見ると、涼子は不憫でならなかった。
「だいたい、心の傷っていうのは、催眠でだってそう簡単には・・・」
そういいかけた涼子は、そのとき頭上から降ってくる重苦しい羽音を聞いた。
バスを出ると、ふいに陽が翳った。見上げる涼子の髪を、突風がざわめかせる。
天より飛来していたのは、2機の巨大な輸送ヘリだった。
それらは駐車場の入口と出口を封鎖する形で着陸した。それぞれの後部ハッチが開くと、
そこから赤十字の腕章をつけた自衛隊員たちが降りてくる。
ヘリのスピーカーから、大音響のアナウンスが響いた。
「現在、この地域一帯に、脳障害を誘発する病原体が散布されたとの疑いがもたれてい
ます」
人々は、ついさっき狂乱したように悶える女子高生の姿を見ている。そのうえこの大掛
かりな舞台装置だ。誰もがアナウンスの言葉を信じた。
パニック状態になる人々のほうへ、ガスマスクを装着した隊員たちが近づいてゆく。
「ただいまよりワクチンの接種を行います。市民の皆さんは指示に従い、速やかに行動
してください」
そこに居合わせた一般人は、およそ二十名ほどだ。それらが一斉に、ヘリに収容された。
およそ15分後彼らは出てきたが、その場に起こったことを覚えている人間はいなかった。
彼らはそれぞれの車に戻り、要領を得ぬ顔のまま、高速道路上へ走り去っていった。
それを確認してから、迷彩服姿の尉官がひとり、涼子たちのほうへやってきた。
彼は誠実そうな顔で敬礼をすると、「どうも遅くなりまして」とだけ言ってバスに乗り込
んだ。胡蘭が何事か説明しながらそれに続く。
バスは、その男の運転で出て行った。
ヘリも舞い上がった。コクピットでパイロットが軽く手を振るのが見えた。
ローターの爆音が遠ざかった後には、がらんとした駐車場に涼子たちが残るのみだった。
「・・・だから、そういう意味じゃ、」
涼子は、それ以上言っても無駄なことを知った。
―――夢のなかの出来事ってことにして、ごまかしてしまおうか。
およそデリケートさと無縁だった李蘭たちの事後処理を見てからも、涼子はずっと考え
ていた。
結局、直子たちは御山に運ばれているのだろう。佳苗のみならず、さらに多くの生徒た
ちが理不尽な戦いに巻き込まれつつある。他人のために痛むはずのない涼子の心は、まだ
ろくに話したこともない数人の生徒、それも自分にとっては敵でしかない少女たちの運命
を思い、なぜか苦しかった。
レンジローバーは、霧の中を進む。
まだ日が高いはずだが、空は真っ暗だった。
どれぐらい走ったか、ライトの光の向こうに、古ぼけた交番が浮かび上がった。
それは密生する杉林をバックに唐突な雰囲気で建っており、赤いランプがぼんやりと輝
いていた。
外套を着た警官が、道を塞ぐように立っている。
沙織は車を停め、ウインドを下ろした。
初老の警官は、一通り車内を覗き込むと、低い声で言った。
「失礼しました、」
無精ひげ、地味な風体のさえない男だったが、目の底だけは妙にギラギラとしていた。
「どうぞ、」
男は道から退き、沙織は無言でアクセルを踏む。
バックミラーから、霧の中に溶けてゆく警官の姿が見えた。彼の片手は、最後までホル
スターの拳銃に置かれていた。
この森で、年に何人の行方不明者が出るかわからない。だがそのうちの何人かは、霧の
なかで道に迷ったあげく、ふいに辿り着いた交番で、不気味な警官に眉間を打ち抜かれて
いるのだ。そんな不条理な人生の終焉があるだろうか。
「あいかわらずだわ」
沙織がいった。
「ほんとに、」
涼子が、なかばうんざりしたように頷く。
なぜあの男は、何十年も前からあんなところにいられるのだろう。
どうして、一日とて晴れることのない霧の山道で、静かに老いさらばえていけるのだろ
う。
涼子のもっとも古い記憶のなか、やはりあの男が立っていたことを思い出す。
はるかな昔、黒塗りの高級車に乗せられて山へ来たあの日。
母親の膝に乗って、それから彼女を見舞う数々の不幸を知りもせず、ものめずらしげに
杉の密林を見上げていたあの時を。
「そろそろよ、」
沙織の声が、涼子を追想から引き戻した。
道は、尾根を越えようとしていた。
斜面の反対側から風が吹き上がっている。
霧は、壁に突き当たったようにそこで遮られ、滝を逆さにしたように空へと巻き上がっ
ていた。
「あ、」
いつの間に目を覚ましたのか、佳苗が声をあげた。
暗天が切れ、そこに青空が広がっていた。
眼下には、もうひとつの澄んだ空がある。
それは、深い青色を湛えた湖だった。
山中盆地というのだろうか。
険しい峰々を背景に、湖を囲む別天地が広がっている。
湖畔に、中世そのままの小都市があった。
朱色の仏塔や白壁の寺院らしきものも見える。それらはどこか、大陸的な雰囲気を漂わ
せていた。
「お帰り、」
沙織が、涼子を見るともなくつぶやいた。
涼子は、やや険しげな顔のまま「ええ、」と頷く。
車は杉林を抜け、緩やかな坂道を下っていった。
熊野鎮台の起源は、16世紀中葉にまで遡る。
傑出した政治思想と近代兵器の大量運用によって上洛を果たした尾張の織田信長は、畿
内に進駐して最大の危機を迎えていた。
彼を苦しめたのは、武田でも毛利でもなかった。敵は、本願寺顕如を戴く石山の門徒衆
である。
「欣求浄土」という過激思想で諸国に蔓延した石山門徒は、この時期日本で最大の政治
勢力だった。一向一揆と呼ばれる彼らの大反乱で信長の政権構想は五年以上遅滞、ついに
は当の信長が暗殺された。
次に台頭した豊臣秀吉は基本的には信長の政治思想を継承したが、それらは次第に形骸
化し、単なる膨張主義の武力支配へと変形してゆく。
信長の思想哲学にあっては、一向宗の存在は許すべからざるものだった。しかし、政治
力学にのみ敏感な豊臣家の人々は門徒の潜在的脅威を思い彼らを慰撫、あろうことか関白
の名のもとに保護政策を敷いてしまう。
結局、全土を制圧した秀吉は同時にその本質である成長性を失った。占領するべき領土
を求めて対外侵略戦争に命運をかけた彼らは敗れ、衰退した。
これと前後して国内を掌握しつつあった徳川家康にとって、憂慮すべきはやはり、一向
宗だった。
朝鮮出兵の敗戦により武家の威信は失墜しつつあり、国内では豊臣の官僚団と武断派の
亀裂が深刻化していた。本願寺勢による政権転覆の謀略は、日々現実味を帯びつつあった。
徳川の謀臣本多正信、それに政治顧問の僧天海は、関が原合戦の翌年、門徒宗を押さえ
込むべく一計を案じた。それが、本願寺の分派である。
これは、関東に本願寺の新拠点を寄進することによって彼らの勢力を分かち、互いに相
争わせて滅ぼそうとする壮大な目論みであった。しかし、本願寺側も幕府の意図を察知し
てこの提案には応じない。江戸と加賀、さらには大阪を、空しく使者が往復する日々が続
いた。
業を煮やした正信が起用したのが、近江の山野に隠遁していた陰陽道士たちだった。
平安期に朝廷の諜報謀略を司った陰陽寮の道士たちは、藤原氏没落の後も京にあって暗
躍したが、足利氏の勃興とともについに野に追われて久しかった。
彼らの一部は甲賀や根来に移住して戦国期には多くの暗殺者を排出、後に忍者と呼ばれ
る集団を形成して名を馳せた。
正信は、幕府直轄の公安機関として伏見に探索所を開所。そこに陰陽道士たちを置いて
本願寺への工作を行わせた。
陰陽道士の生業は、言葉をもって人の心を操ることだ。
彼らは巧みに門徒に取り入り、権力のある僧たちを自在に操って、本願寺の屋台骨を揺
るがした。
本山が混乱するなか、幕府の政略は進み、ついに本願寺は分裂した。
本田正信は事の成就を喜び、同時に陰陽道士たちの力に恐怖した。
正信はひそかに彼らの抹殺を試みた。だが計画はやすやすと露見する。
なにかよほど恐ろしい目にあったのだろう、正信は一夜にして老け込み、隠居してしま
った。実際には急激に痴呆が進み、出仕すらかなわぬ有様だったという。幕府の重鎮たち
も、探索所に手を出す事の危険を悟ったようだった。
天海と正信の嫡子正純は、彼らのごとき怪人に挑むより、むしろ鎖で繋ぎ止めておくに
しかずと考え、老中に計って道士たちを永続的に召抱えるべく運動した。
ただし、このような妖かしい役所を堂々と市中に置くのは憚りあるとして、彼らは僻地
への移住を余儀なくされた。
天海は切腹覚悟でこの談判に臨んだが、道士たちは意外にも涼として熊野への移住を受
け入れた。自分たちが陋巷に安住すべからざる冥界の住人である事をよく理解していたよ
うだ。
こうして、幕府の差配により、紀州熊野山中奥深くに、陰陽道士たちの都が建設された。
大阪所司代より扶持を受け、紀州藩がその周辺を警護する。幕府老中は、政治的危機が
くればここを訪れ、事態打開のための工作を依頼する。誰に知られることもなく、しかし
ながら徳川幕府の深奥部に繋がる恐るべき諜報機関。すなわち御山、熊野鎮台の始まりで
ある。
維新、西国諸藩の外交官たちは上洛に先立って鎮台に参じている。
御山を取り仕切っていた重役連は大久保ら薩人との合議で静観の意志をあらわし、これ
により、維新後も鎮台は明治政府に保護された。
さらに戦後、彼らが大きく働いたのは、極東軍事裁判の前後であったといわれている。
当時ソビエトは依然として日本の分割統治を主張していた。中国、アメリカも譲歩しこ
れに同調するかと思われたが、数日間の空白ののち一転して日本の独立保持での合意が成
立した。
この間、複数の人間が、GHQの回廊をゆく黒衣の日本人女性を目撃している。
彼女らが通った後には、かならず何らかの政治的変動があった。ホワイトハウスも、占
領軍の本国を無視した政策決定には困惑し、不快の意を示している。現に、この軋轢がマ
ッカーサー元帥の失脚につながった。
その後も、数度に渡って時の政権が鎮台を頼った。そして彼らは、相応な働きで国を救
ってきた。
だが、御山の奥深く、暗士たちは考えはじめていた。組織として、自分たちはすでに老
いすぎているのではないかと。
「人を殺せば恨みが残る、」
分厚い眼鏡をかけた老人が言った。
「操って従わせれば、なにも残らん。血も流れん」
広間には、およそ二十名ほどの老人たちが居並んでいた。
開襟シャツ姿の区役所職員のような感じの男、またたったいま畑から戻ってきたような
野良着の老人もいる。
彼らは上座を占領するように群れ集まってあぐらをかいており、そのあたりから、老人
特有のかびたような匂いが漂ってきそうだった。
―――いやだいやだ。
部屋の反対側に座る涼子は露骨に眉をしかめる。
彼女の横には、防衛庁の高級官僚たる斎藤管理官と、彼の同僚が数人、脂汗を流しなが
ら正座している。
「事件にもならん。歴史にも残らん」
上座の中央にあってしゃべるのは、重役連の束ねであり奥の院への伝奏役でもある片桐
十朗だった。
「それがわしらの仕事じゃ」
―――なによ、偉そうに。
涼子は、心の中で舌を出す。
彼ら老人たちは、暗士ではない。
奥の院はじめすべての神域は男子禁制であり、暗士は神域を棲家とするから、御山の暗
士はすべて女だ。
重役連とは、対外的な権力を持つものの、実際には事務的に御山を管理するだけの、張
子の虎のような集団なのである。
それでも、沙織ら奥の暗士たちは重役連に敬意を払う。なぜなら彼らは、母権社会たる
御山にあって一生を犠牲にする、哀れな男たちだからだ。
女に子を産ませてしまった後の御山の男には、長い長い余生のみが残る。
多くの者は自暴自棄になり自ら命を絶つ。山から抜けようとするものは囚われ、自分の
心の底まで焼き尽くされる。いずれにせよ、堪えがたい苦痛のみがあった。
そのなかで自律を保って鎮台の運営に貢献してきたのが、いま涼子の目の前にいる老人
たちなのだ。
「此度は、」
片桐老人がふたたび口を開いた。
「お前達からのたっての願いで、口出しを控えた」
片桐老の言っているのは、ヴィシター対策のことらしかった。
影法師が暗躍することを知った鎮台は、暗士を送ってこれを鎮圧せんとした。しかし、
防衛庁を中心として組織されたヴィシター対策班が、御山の加勢を断ったというのだ。
「それが、このざまだ」
高校は言うに及ばす、企業、政党、警察の一部までが影法師に侵食され、その勢いは留
まるところを知らない。あろうことか、そこに派遣された捜査官までが、敵の術にはまっ
て捕らえられる始末だ。
―――やっぱり痛いところを・・・
涼子はしれっとしてそっぽを向く。
彼女は本当のところ、こんな表の間で時間を取りたくなかった。
―――佳苗たちのことが気になる。
内田佳苗ほかの女子高生たちは、沙織と、李蘭に連れられて奥の院に入っていた。
そこで彼女らが何をされるかは聞いていない。だが、沙織がついているからといっても
安心は出来ない。奥の者の感覚は、根本的に涼子などとは異質のモノを孕んでいるのだ。
涼子はすぐにでも駆けつけたい思いだ。だが、ここを素通りして神域に入れるほど、今
の涼子の立場は強くなかった。
それに、一応の上司である斎藤管理官たちの面倒も見なければ気の毒というものだ。
はじめて御山に足を踏み入れた彼らは、すでに緊張も極に達してぶるぶると震えていた。
多くの省庁の内部では、鎮台の噂がなかば伝説化して受け継がれている。おそらく斎藤ら
には、実際にはろくに催眠術もつかえないこれら重役連の老人たちが、人を取って食う鬼
の群れのようにでも映っているのだろう。
「わしは明日、セイメイさんのもとへ参内せねばならん」
今後の方針を定める必要がある、と片桐老人は言った。
セイメイ、
「晴明」と書く。
奥の院の支配者、暗士の長、最強の術者でもある女の名だ。
鎮台発生以前から、陰陽道士たちは頭に女性を戴き、代々晴明の名を継承してきた。
現主で三十七代目。
彼女が、今回の事態への介入に前向きではなかった。
晴明は先から、防衛庁による対策班の結成を予見しており、彼らが影法師掃討の主役と
なることをも望んでいた節がある。
―――どうしてなんだろう。
涼子にも、それがわからない。
影法師の侵略は、近来まれに見る危機的な事態だ。
そのなかで、御山が沈黙を守る必要性がどこにあるのだろうか。
片桐老にしても同じ思いなのだろう。
下界の官僚たちの不甲斐なさに憤るものの、どうにもできない。実行部隊たる暗士を握
っている晴明が、動こうとはしないのだ。
その憤懣やるかたない気持ちが、目の前にいる管理官たちに爆発した。
罵声に近い叱責が広間に響き渡った。
それらが収まるまで約1時間。その間、涼子は足止めを食った。
慌てて駆けつけた奥の院では、すでに、佳苗たちへの施術がはじまっていた。
その夕刻、涼子は湖畔にいた。
それは湖に張り出した岩山の上にある望楼で、涼子は急な石段を長々と登らねばならな
かった。
彼女が頂上に着いたとき、巨大な落陽が尾根の向こうに没してゆくところだった。
湖は、陽の反射を受けて黄金に輝いている。
あたりは何もかも、濃いオレンジ色に染まっていた。
「遅かったわね」
夕陽を背にして、真っ黒なシルエットのみになった沙織がいった。
望楼は、八角形の屋根を柱で支えただけのテラスのようなところだ。沙織はその柱の一
本にもたれて座っている。
山を下って湖面を撫でた風が、冷気をともなって涼子の頬を凪いだ。
「あの子たちを、見届けてきたのね」
手摺で囲まれた板間の上には赤茶けた座卓が一つきり。
そこに、埃をかぶった国産ウイスキーの瓶と、縁の分厚い湯飲みが置かれていた。
表向き御山では、飲酒が禁じられている。ここに隠し置かれた酒瓶は、沙織と涼子の昔
からのささやかな秘密だった。
靴を脱いで姉の向かい側に座した涼子は、無言で湯飲みを取った。
無造作に酒を注ぎ、一気にあおる。
たいして強いほうでもないので、それだけで彼女の胸は、焼けたように熱くなった。
「ふふ、」
妹の様子を見て、沙織が噛み殺したような笑みを浮かべている。
「何がおかしいの」
「おかしくないわよ」
沙織は、湯飲みを取って、言った。
「私たちのやり方に、賛同できない?」
敵意はないのだろう。だが、挑みかかるような沙織の視線が、上目遣いに涼子を捉えて
いる。
涼子は、気持ちの整理がついていなかった。
奥の院が決議し、沙織が同意した影法師との「戦い方」。
それが、もっとも有効なものであることは涼子にも理解できた。
しかし、そのためにあの無垢な少女たちを無残な試練に曝すことが許されるのだろうか。
「うん、」
反芻するように、涼子は頷いた。
晴明と幹部たちは、やはり戦うつもりだった。
しかし、その方法は涼子や幹部連が考えているものとは違っていた。
涼子が駆けつけたとき、神域の奥深くでは、名も知れぬ御山詰めの暗士たちに囲まれて、
佳苗たちが深い催眠状態に落されようとしていた。
「何をする気なの」
割って入ろうとする涼子の前に、沙織が立ちはだかる。
「どういうつもりで・・・」
食ってかかろうとした彼女の眉間に沙織の人差し指が突き刺さった。
「止まりなさい」
ぞくっと妙な感覚が走り、涼子の四肢が硬直した。
「姉さま、やめ・・」
そう言いかけた涼子の口を、沙織の唇が塞いだ。
溶けるような感触が、涼子の瞳を大きく見開かせる。
ぶつかるかと思われるほどの距離に、沙織の瞳があった。
「邪眼」と揶揄される彼女の視線が、涼子の心をわしづかみにした。
深く冷たい沙織の瞳は、陵辱するかのごとく執拗に涼子を打つ。
涼子の意識はなかば羞恥に、そしてなかば被虐的な快楽にさらされ、身悶えた。
永遠とも思える数秒がたち、ぽん、と派手な音がして唇が離れたとき、必死になって吸
い付いていたのが自分のほうであることに気づき、涼子は狼狽した。
「おとなしくしていなさい」
恐慌状態の涼子に、沙織は穏やかに命じた。
瞬く間に自分が征服されたことを知った涼子は、それでも逆らうことができない。
こくん、とちいさく頷いて、靄のかかった視界の中で立ち尽くすしかなかった。
涼子の前で、暗士たちが唱えている。
何を言っているのか聞こえてくるにしたがって、涼子の中で冷たいものが広がっていっ
た。
内田佳苗と笠井直子ら四人の少女は、深い深いところまで落され、デリケートな記憶の
一部を操作されようとしていた。
―――いけない。
涼子の心は沙織に縛られながら、悲鳴をあげる。
耐えられなかった。
暗士たちは、少女たちを式神にしようとしていたのだ。
「式神ってね、鬼の事だって思われてるけどね」
何杯か目の杯を干した沙織が言った。
「鬼なんかいないものね」
この倣岸な姉でも、酒に酔うことがあるのだろうか。
沙織の口調はいつもより幾分か軽く、ともすれば乱れて聞こえた。
「式神が人間だって事ぐらい、知ってたわよ」
涼子は、なかば怒気を含んだ声で答える。
式神の使役とは、催眠によって人を支配すること。呪殺もまた、暗示によって人を弱ら
せ死に至らしめる技術だ。陰陽道士とはつまり、高度な催眠技法を伝承し行使する術者の
集団だったのだ。
「私が言ってるのはね、姉さま」
涼子はなお言った。
―――それが、死ぬまで人の心を定める呪縛だってこと。
直接的な暗示なら、醒めれば消える。
後催眠暗示であっても、放っておけばやがては効果が薄れてゆく。
しかし、心の奥深くにある記憶の根幹部を弄くられたら、それによる効果は一生付きま
とうはずだ。
はるか過去に、陰陽道士たちは子供をさらってはそうやって操り人形、すなわち「式神」
を育てた。式神は無感情にして道士に絶対服従。そして平然と人を殺した。市中の人々は
彼らを鬼と呼んで恐れ、また嘲った。
「あの子たちをそんな目にあわせられない、」
搾り出すようにそれだけ言ったのは、涼子自信があまりにも無力だと知っているからだ
った。
彼女がどうあがこうと、晴明や沙織たちの意志を変えることはできないだろう。それど
ころか、涼子は人差し指一本で沙織に手なずけられてしまうのだ。
「だけどね、涼子」
沙織が、すこしばかり沈んだ声で言った。
「放っておいたら影法師は、この国を乗っ取るわよ」
涼子にもそれは分かっている。
「でも、」
いいかけて口をつぐんだ。
暗士の数は限られている。官僚たちが組織した対策班の力もたかが知れている。
無限に増殖する影法師と本気で戦おうと思ったら、こちらも限りなく式神の数を増やし
て対抗するしかないではないか。
「あれとの決着は、今つけなきゃならないのよ」
沙織の言葉に、涼子ははっとした。
「姉さま、」
沙織は自分が言を失したことに気づいていない。たしかに邪眼の持ち主はいま、酔って
いた。
「もしかして、影法師の正体を知っているんじゃないの」
涼子の刺すような眼差しに、沙織はわずかに動揺したようだった。
ほんの一瞬、思いつめたような顔になった沙織は、やがて寂しげな笑みを浮かべる。
「そう、ねえ」
刻々と暗くなりつつある空を見晴るかし、沙織は息を吐いた。
「それは、セイメイさんに聞きなさい」
それだけ言うと、沙織は立ち上がった。
「そろそろ行くわ」
どこへ、と聞く妹に沙織は湖の奥のほうを指差した。
「稽古場へ?」
涼子は、沙織の指したあたりに湖上の小さな島があることを知っている。
そこは、御山のなかでも神域中の神域、暗士の術のための稽古場があるところだった。
「もしなにもかも終わったら、またあそこで試合しましょう」
遠くを見るような眼差しで、沙織がそう言った。
あまりに寂しげな声に涼子が言葉を失ううちに、姉は望楼を下りた。
彼女の姿は、闇の中に消えていった。
北条沙織の心にも、不安や汚点がないわけではない。
彼女が暗士として働くようになってから、幾度かの危地はあった。
なかでも、やはり教師という仮面をかぶった異能の術者と遭遇したときの戦慄が忘れら
れない。
―――氷上、麻鬼といったか。
正体の分からぬ相手に二人の暗士が潰されて、それで派遣されたのが沙織だった。
容疑もなにも分からぬのにと、不審を抱きつつ赴いた先で、沙織は生涯忘れ得ぬような
恐怖を体験した。
―――あんな女には、もう二度と出会いたくない。
沙織は心底そう思っている。
いまでもあの高校で、あの女は静かに蜘蛛の巣を張っているのだ。それがわかっていて
も、沙織は彼女をどうこうできるとは思わなかった。
封印すべきは、沙織自身の記憶なのだろう。
敗北は恐怖につながり、恐怖は敵に付け入る隙を与える。
モーターボートで闇の湖上を滑りながら、沙織は考えていた。
涼子が影法師の正体を悟れば、おそらく自分の役目は終わる。
涼子を御山に連れてきた時点で、その予感があった。
晴明の意志は、曲げられない。だから、私もそれに従うしかない。
―――だけど、それがあの子にとって、幸せだろうか。
女子高生たちの身を案じる涼子を甘いと酷評しながら、沙織は沙織で、涼子の未来を案
じざるを得ない。
生まれたときから涼子を守るべく宿命付けられた女は、その使命の終焉が近いことを知
り、あるいは軽度の虚脱状態にあったのかもしれなかった。
―――今ごろ涼子は、セイメイさんのところに行ってるか・・・
沙織は、ボートのスピードを緩めた。
前方で、湖面が切れている。その小島の頂きには、「稽古場」の影が浮かび上がっていた。
「よう来たなあ」
三十七代阿部晴明は、奥の院の一室で、情報端末に囲まれて涼子を迎えた。
「御婆様、どうしたんです、これ」
室内は所狭しと並べられた機材やモニターで足の踏み場もない。ちょっとした大学の情
報処理室ぐらいの規模があった。
「みてわからんか、コンピュータじゃ」
そう言って手招きする老婆に、涼子は平伏して謁せねばならぬことも忘れ、親しみをお
ぼえてすぐ隣まで歩み寄ってしまった。
「ずいぶんひさかたぶりじゃのお、涼よ」
晴明は、気さくな村のおばあちゃんといった風貌だ。悪魔の群れと呼ばれる暗士団を統
率する最強の術者とはとても思えない、小さな老女だった。
「これでも公務員ですから」
精一杯の言い訳にも、彼女は大きく頷く。
「そうじゃろう、そうじゃろう」
そうでなければ、大きな仕事はできんわ。晴明はそう言うと、モニターのほうを見直っ
た。
「それで、今夜はどうした」
涼子は、やや戸惑ってから、先刻の沙織との会話の内容を明かした。
「影法師って、いったい何なのです」
晴明は、最初とても厳しい顔をした。だがやて目を閉じ、考える素振りをする。
「そうか、」
ひとしきり頷き返し、涼子のほうを向いた。
「沙織のやつが決心できたんじゃったら、わしも腹をくくらにゃあならん」
晴明は立ち上がり、歩き出した。
「ついて来い」
涼子を従えて晴明が赴いたのは、奥の院でも彼女以外が入ることの許されぬいくつかの
書庫のひとつだった。そこに辿り付くまでに、幾重にも暗士による警護が敷かれていた。
「よいか涼よ」
扉の前に立って、晴明は涼子のほうを顧みた。
「おまえにも、覚悟を決めてもらわにゃあ、ならんぞ」
神域にあって暗士でないのは、晴明と、そして涼子だけだった。
涼子は、その理由を知ることになった。
沙織は、桟橋にボートをつなぐと、島に上陸した。
満天の星の下、あたりは静寂に包まれている。
稽古場は、寺院のような佇まいの建物だ。
薄暗い入り口には李蘭がいて、沙織を出迎えた。
「こんな時間に悪いわね」
「いいえ、沙織様のお相手を勤められるなど、光栄です」
二人は、道着に着替えて稽古場に入った。
そこではすでに、李蘭によって試合の準備が整えられている。
―――ひさしぶりだわ。
そこは、剣道場のような板の間の空間だ。
しかし、部屋の四囲に垂れる布幕はどういう仕掛けかゆるやかに波打っており、見るも
のの平衡感覚をわずかづつ狂わせていた。
それから、彼方此方に立てられた燭台に灯る蝋燭の火。その数は五十以上。
ちょっと油断すれば足を引っ掛けて倒してしまいそうな間隔で、燭台は並んでいた。
明かりは、それのみだ。
その只中に、沙織と李蘭は立った。
「はじめます」
李蘭が、やや緊張した声でいう。
沙織が、頷くともなく、目を伏せた。
―――自分でも不思議だが。
沙織は、鹿島ユリを見るに及んで、彼女と対峙する日がくるだろうと直感していた。
涼子の前では冷静を装っていたが、沙織にはまだ勝てる自信がない。
あれは尋常のものではない。
魔性の気配を孕んでいる。
できれば避けて通りたい相手だ。だがそれもかなわぬだろう。
であれば、せめても術の勘を研ぎ澄まし、万全の体制で敵を迎えたい。
そのために、沙織は久しぶりに稽古場に立ったのだ。
こう見えて、沙織は地味で勤勉なところがある。真夜中に李蘭を相手に試合を行おうと
思ったのは、この時間が彼女の神経を一番鋭敏にするからということ、もうひとつは、ユ
リとの戦いが予想以上に近いという不条理な予感があったからだった。
「沙織様?」
沙織は目を閉じていた。
かすかに甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
蝋燭の香油には、強い幻覚作用を起こす麻薬成分が染み込んでいる。
火が燃えるにつれ、それはあたりに充満しつつあった。
この麻薬により、相応に力の強い術者でも催眠にかかりやすくなってしまう。また反対
に、催眠の技術が浅い者でも、相手を容易に術に落すことができた。
稽古場はその目的通り、現実以上に妖かしく危険な場所に変貌しつつあった。
―――さて、
沙織は目を開く。
焦点を結ぶと、そこには鹿島ユリの姿があった。
李蘭には悪いが、沙織は彼女をユリに見立て、戦い方を研究するつもりだった。
自己催眠でユリのイメージを思い描き、李蘭がユリの姿に見えるようにする。すべて予
定通りだ。
沙織の視界の中で、ユリはじっとこちらを見ている。
―――あの視線を受け止められれば、
あの女に勝てる。
かつて涼子をやすやすと術に落した時のユリの瞳。それが沙織の脳裏に蘇った。
戦いの場に出れば、魅入られた時には敗北は決している。そうなってからでは取り返し
がつかない。だからこそ、ここで相手の力量を推し量ってしまいたかった。
本当にそこにユリがいるようで抵抗があったが、沙織は思い切ってユリの視線を正面か
ら受けた。
―――くっ、
一瞬、沙織はそれが幻像であることを忘れた。
見つめられただけでなにもかも投げ出して、ひれ伏してしまいたくなるような魔法の瞳。
それが目の前にある。
ユリは笑みを浮かべていた。そしてそれは、あまりにもリアルだった。
沙織は、心臓が高鳴るのを感じた。
心の防御が、蕩かされてゆく。
―――これほどとは、
戦慄せざるをえない。だが、恐怖する心には靄がかかり、そのまま溶けてしまいたい欲
求が沙織の脳に広がりはじめている。
互いに信頼関係が成り立ち得ぬ相手に催眠をかける場合、成否を握るのは術者の存在自
体がもつ支配力だ。絶対的強者というモノは、この世のどこかにはいるはずなのだ。
沙織は、そういう意味では、幻覚に過ぎない鹿島ユリに、明らかに支配されようとして
いた。
―――かなわない、堕とされてしまう、
そう思えたのは、これが練習だからだ。だがこれ以上は危険であり、もう一度仕切りな
おすべきだった。
そのためには覚醒しなければ、と沙織は思う。 だが、一度はじまった意識の混濁化は、
簡単には収まらなかった。
これまで、幾度となく術の試合をやっている。落されたことも何度かあった。でも、こ
んなに酔わされたのははじめてだ。
というより、彼女はもっと深くユリの術にかかりたい欲望に焦がれ始めていた。
―――どうして・・・
わずかな理性が沙織を歩ませ、李蘭であるはずのユリの袖を取ろうとした。
ところが、そこで異変が起こった。
助けを求めて掴んだ袖を、李蘭は邪険に振り払った。そして、あろうことか沙織の顎を
取って自分の顔に近づけたのだ。
「はじめまして、沙織さん」
李蘭はたしかにそう言った。
いや、それは鹿島ユリだった。
溶解してゆく意識と平衡して、緊急事態を告げる警報が沙織の心に鳴り響いた。
李蘭は、いや鹿島ユリは、焦点を失ったままの沙織の顔に、ゆっくりと息を吹きかける。
沙織は、すんでのところで後ろへ引いた。
もしあの甘い息を吸っていたら、自分も涼子のように簡単に堕されてしまうだろう。
「あなた、ユリね」
どうしてそう思えたのか、沙織にも分からなかった。
直感のみが、戦いの始まりを告げていた。
よろめく体を起こし、なんとか視点を定めようと試みる。
普段ならば数秒で覚醒するはずの彼女の意識は、麻薬と波打つ壁の作用で、どうにもま
とまりがつかなかった。
「こんないいところがあったなんてね」
鹿島ユリはブレザーにチェックのスカート姿、瑛華高校の制服だ。
―――こんな子が入り込んでいたことに、どうして気づかなかったんだ。
内心の動揺にも躊躇していられない。状況は圧倒的に不利なのだ。
「わたしね、」
ユリは、燭台の炎の間を舞うように縫ってくる。
それが、沙織の視界をなおさらに乱した。
「あなただけは恐ろしかったの」
今にも崩れてそうな背を震わせながら、沙織は必死に立っている。
放っておくと、顎があがって顔から後ろに倒れてしまいそうだった。
あまりの苦しさに、切なげな吐息が洩れた。
ユリは、ゆっくりと沙織の周囲を回った。
「だから、こんなところであなたが無防備になってくれるなんて、」
思ってもみなかったわ。
言葉の最後の部分は、無邪気で残酷な喜びの色を含んでいた。
沙織は思い切り目をつぶって、言う。
「私を、甘く見てもらったらこまるわ」
せいいっぱい見栄を張りつつ、どう切り抜けるべきか考えた。
―――この女ははじめてここへ来るんだ。だったら、
彼女は、とっさに行動した。
足払いで燭台の一本を倒す。
床に落ちた蝋燭の油は火花を散らし、みるみる大きな炎となって燃え上がった。
「ごらんなさい、」
目をつぶったままの沙織がいった。
ユリが炎に目を奪われていると確信してのことだ。
「これが、この稽古場のほんとの使い方なのよ」
バチバチと爆ぜる蝋燭の火は部屋をめまぐるしく明滅させる。
揺れ動く布壁が二人の影を複雑に波打たせた。
「ユリちゃん、」
沙織は、目を開いた。
鹿島ユリは、彼女が予想したのと寸分たがわぬ状態で立ち尽くしていた。
かつて多くの暗士がこの稽古場で試合に臨み、麻薬に酔わされ、蕩かされていった。沙
織が相手した幾人かの強力な術者たちも、この炎の明滅には逆らえずトランス状態に導か
れている。古来から暗士の慢心を戒めるために受け継がれてきた秘伝の誘導具こそが、こ
の蝋燭「千昼夜」だった。
その名のとおり、千回の昼と夜が、瞬く間にその場を過ぎ去ってゆく。
光と影のすさまじいまでの連続に感覚を失ったのであろう、呆然とした顔の鹿島ユリに、
沙織は顔を近づける。
「私の目をごらんなさい」
沙織は、危地を脱しつつあることを確信した。
このままこの娘を捕らえれば、影法師との戦いも大きく前進する。
―――涼子も、これ以上つらい目にはあわなくてすむんだわ。
そんなことを考えたのは、油断があったのか。
あるいはそれすら敵の思惑だったのか。
鹿島ユリが呟いたとき、沙織は依然として、自分の術が効いていることを疑えなかった。
「沙織さん、後ろを見て」
ほんの一秒後、異常に気づいた沙織の眼前には、すでにユリの瞳があった。
沙織の邪眼をやすやすと跳ね返すユリの眼差しは、不敵に光っていた。
「うし、ろ、」
不覚にも、沙織は声に出してそう言ってしまう。
それが何らかの誘導であることは理解できた。
だが、見つめあったまま膠着した沙織にとって、自分の唇がどう動こうと、それはすで
に些事にすぎなかった。
ちょっとでも油断すれば、心を貫かれる。
わずかな隙でも、彼女には破滅を意味している。
急激に衰弱してゆく意気地を励まし、沙織の心は踏み留まった。
ぎり、
と奥歯がなる。
全身全霊が、この白い少女との対峙に向けられていた。
だが結末は、突然にして訪れた。
気づいたとき、ユリの唇は、笑っていた。
声が聞こえる。
「後ろにいるわよ、」
ユリはそう言っていた。
何がいるというのか。誰もいるはずがない。
―――相手の策に乗ってはだめ、
しかし、
沙織は振り向かざるを得なかった。
彼女の背後に、本当に人の気配がしたのだ。
殺気にも似た感覚が、沙織の背を刺した。
本能的な危険を感じ、沙織は思わず首を巡らした。
「誰、」
振り向いて、わずかにそう言ったか。
燭台の光の届かぬ部屋の奥、そこに何者かが立っていた。
「来たわよ」
耳元で、ユリの声が聞こえる。
「沙織さんがいちばん怖いあの人が、ここに来たわよ」
一際大きく、炎が燃え上がった。
沙織の目には、たしかに見えた。
それは、かつて唯一彼女が恐れ、彼女の誇りを奪った一人の女の姿だった。
「吸血鬼、」
沙織の声は恐怖に震えていた。
それがユリの暗示であると気づくには、その女との記憶はあまりにも大きな傷だった。
ひた、と沙織の視界が閉ざされた。
うしろから、ユリが両手で彼女の目を覆ったのだ。
「なにも心配いらないわ、私の声だけを聞いて、」
不似合いなほどの早口で、ユリは畳み掛けてゆく。
「闇の中に落ちていくのよ。そこはとっても安全な所。怖い人は入ってこれないの」
―――どんどん奥のほうに沈んでゆけば、
―――あなたはもうなにも考えなくてもよくなるわ。
―――私の声だけを聞いていれば、
―――あなたはとっても幸せ。
―――とても幸せな気持ちになってゆくの。
―――もう何も心配することはないわ。
―――もう何も、苦しむことはないの。
―――私の言葉だけを受け入れていれば、
―――私の言葉にだけ従っていれば。
沙織は、逆らえなかった。
まったく無抵抗になった沙織の体を床に横たえ、ユリは満足げに微笑んだ。
部屋の隅に立っていたのは、催眠状態にされた李蘭だ。沙織が島に来る以前に、彼女は
ユリの術中に落ちていたのだった。
ユリの美しい唇が動く。
「沙織さん、」
うっとりした表情の沙織の瞳は、濁りきったまま揺らいでいる。
息をするだけで狂おしいのか、仰向けにされたままの胸が大きく上下していた。
わずかに、身悶えるように体がくねった。
―――こんな人でも、淫らな気持ちの前にはなすすべもないのね。
ユリは、感心したように頷いた。
彼女は、かつて涼子を堕としたときに用いたのと同じ言葉を口にしてみた。
「あなたの心は、私のものよ」
北条沙織は、影法師に絡めとられた。
(つづく)