「涼子?」
その電話が鳴ったのは、午前3時のことだった。
「ちょっとなによ・・・」
今日はとても眠れないだろうとあきらめていたつもりの涼子は、このとき完全に熟睡し
ていた。
無警戒に受話器を取り、途端に跳ね起きる。
「姉さま!!」
電話の向こうで、ため息が洩れる気配があった。
「またずいぶんと不用心なことね、涼子」
真っ赤になって、「ほっといてよ」と叫ぶ涼子。だが、思ったように迫力が出ない。
「着任早々、ずいぶんな目にあわされたじゃないの」
相手の意外な言葉に、「いったい何を」と言いかけ、はっとする。
涼子が影法師と遭遇したことは、まだ本部には伝わっていない。そもそも涼子自身がそ
れを思い出したのが、昨夜のことなのだ。
それを、この電話の主は知っている。
「誰か忍ばせてたのね」
やや逆上気味に、涼子がいう。自分の推測が当たっていたらと思うと、動揺でわなわな
受話器が震えた。
「誰かだなんて、失礼な」
相手は忍び笑いをもらす。
「涼子ちゃんの影守りよ。私以外につとまると思って?」
こんどこそ涼子の顔は、湯気が出るんじゃないかと思われるほど、赤く染まった。
「み、見てたのね」
相手が艶めいた声で「一部始終」と言った。
「それじゃ、なんで・・・」
ともかくも体裁を取り繕おうとあらぬことを口走りかけた途端、相手の声が、ぴしゃ
りと言った。
「よくも、紀伊鎮台の名を辱めてくれたわね」
底冷えするような声に、涼子はぞっとする。
何か反論しようかと思うが、気のほうが萎えてしまっって言葉が出ない。
数秒の沈黙が続く間に、涼子はすっかりしょげてしまった。
電話の声は、涼子の心がほどよく弱ったことを見透かしたように、調子を和らげて言
った。
「明日、迎えにいくわ」
それは、うってかわって暖かい情愛に満ちた声だった。
明日は土曜日で学校はないが、防衛庁の上司へ報告を報告を送ることになっている。
だが涼子は、「わかった」と弱く答えてしまった。
「そう。それじゃおやすみ」
電話が切れたあと、涼子は今度こそ眠れまいと思った。
だが午前7時、家の外で鳴るクラクションの音に目覚めたとき、涼子はやはり、十分
すぎるほど眠っていた。
涼子がベランダから顔を出すと、マンションの前に黒いレンジローバーが停まっている
のが見えた。
車の横に、ひとりの女性が立って、涼子を見上げている。
スーツから靴まで黒とグレーで統一されているので影のような印象がある。だが、芸能
人でも遠慮するような派手な眼鏡が、彼女のイメージをずいぶん軽くしていた。
眉が涼しげで、一見感情を表に出さぬ冷静なタイプの女性かと思える。しかしレンズの
奥に不敵な光を宿した瞳は攻撃的で奔放そうに見えなくもない。そのあたりは、涼子にそ
っくりだった。
いずれにせよ、その際だった美貌は周囲の日常的風景と完全にミスマッチしていた。
「あ、姉さま」
涼子が、ばつ悪そうに呼びかけると、呼ばれたほうはにっこり笑顔を浮かべ、軽く手を
上げて応えた。
涼子はそれから、わずか5分で身繕いを済ませると、いそいそと階下へ降りた。
「乗りなさい」
涼子に「姉さま」と呼ばれる女。一応は彼女の義姉ということになっているその女、北
条沙織は、すでに運転席にあってキーを回していた。
遠慮がちに車に乗り込もうとした涼子は、そこで仰天する。
「おはようございます先生!」
後部座席に、見覚えのある生徒がいた。
「内田、さん・・・」
そこには、数日前涼子の首に噛み付いて手ひどい傷を負わせた、内田佳苗が座っていた。
「今日はお招きいただいて、ありがとうございます!」
底抜けに明るい声で、いまにも涼子に飛びついてきそうだ。
彼女はトレーナーにジーンズという遠足へでも出かけるような服装で、脇には小さなリ
ュックサックまで抱えていた。
愕然としつつ、涼子はとりあえずぎこちなく微笑んで、助手席に乗り込む。
途端に、車が走り出した。
黒のレンジローバーは、すさまじいスピードで市街地を縫い、たちまち郊外へ走り出て
高速に乗った。
涼子は、ろくな挨拶ももどかしいとばかりに、小声で姉に聞く。
「なんで、この子連れてるのよ」
沙織は、涼子のほうも見ずにいう。
「手駒は有効に使うもんよ。だから佳苗ちゃんも、御山に連れていくの」
―――いったいどうやって、
そう言いかけて、涼子は口をつぐんだ。
姉のことだ。この子に催眠をかけて、都合のよい記憶を植え付けたにちがいない。
「私と涼子はこの週末実家へ帰ることにしたのよ。それで、とくに慕ってくれてた佳苗
ちゃんも、一緒にご招待したっていうこと」
推測どおりの沙織の言葉に、涼子は絶句せざるを得ない。
慕うも何も、自分は着任してまだ1週間ではないか。だいたい私はあれ以来、佳苗と顔
を合わせたこともない。
だが、沙織はすべてでっちあげたのだ。
新任とはいえ涼子は教師だ。佳苗の両親は何も心配していないのだろう。
「ほんとはもうひとりの子も連れてきたかったけど、あの子、いま病院でしょ」
沙織がいうのは陸田のことだった。佳苗と同じく影法師に操られて涼子を襲った陸田一
郎は、涼子に打たれた傷が予想以上に重く、県立病院に入院しているのだった。表向きは
階段から滑っての怪我ということになっているが、実のところ病院は現在、対策班の厳重
な管理下におかれているはずだった。
ヴィシターサイドの貴重な捕虜であるから、統括官たちはなんとか情報を搾り出そうと
していることだろう。
―――でも私にできなかったんだから、連中には土台無理なのよ。
と、涼子は高をくくっている。
「もうちょっと手加減しなさいよ。いくら私でも、役人たちから子供をさらうわけにはい
かないでしょ」
諭すように、沙織が言う。
涼子は、
―――なにをしおらしいことを・・・
と内心あきれる。
沙織がその気になれば官僚だって大臣だって操るだろう。実際にそれぐらいのことはや
っているかもしれない。
なにせ、それが彼女の仕事なのだから。
しかし、姉はこの少女をどうするつもりなのか、と涼子は思う。
下賎の者が熊野の神域に踏み込んで、ただで帰れる道理はない。下手をすれば命がない
だろう。そんなところへ佳苗を連れ込んでこれ以上騒ぎに巻き込むことに、何か意味があ
るだろうか。涼子の心は痛む。
だが、内田佳苗はそんな涼子の気持ちを知るはずもなく、すっかりはしゃぎきっている。
「私、和歌山のほうに行くのはじめてなんですよ」
天真爛漫にそう言う佳苗に、涼子はつい微笑み返してしまう。
「とっても楽しみです」
「・・・そう」
いい娘だ、と涼子は思う。
この時代に、都会でこんな素直な娘は育たない。
自分のひねくれかえってしまった性格に思い致し、涼子はつくづく思う。
私もこんな風に育ちたかったのか。
佳苗のことが好きになりはじめている自分に気づき、涼子は内心あわてる。
自分たちはこの少女の運命を狂わせるかもしれない。凄惨になるであろう結末を思えば、
彼女と心を通わせることは避けるべきなのだ。それは涼子の心に重い負担を生じさせるに
ちがいないのだから。
―――つとめて冷徹に。
涼子は普段の自分を取り戻そうと息を吐く。
だが、彼女の姉のシナリオは、妹の心理など手のひらで転がすごとく、周到に展開した。
「先生、『11番目の戒律』、もう読まれました?」
意外な言葉に、思わず振り向く涼子。
沙織が、「あなたたちって、小説の好みが似てるって縁で知りあったそうね」という。
涼子が困惑して姉のほうを見ると、沙織は視線だけ、意味ありげに涼子のほうへ流して
いた。
「え、ええ」
涼子が答える。
もちろんそんな出会いはない。
もし無理やりにでもいうとすれば二人の出会いとは、夕闇迫る校庭での凄絶な死闘であ
ったはずだ。
捏造された過去には反感を覚えるべきなのだろう。
だがそれに奇妙な郷愁を覚えるのはなぜなのか。
沙織は、こんな言葉ひとつででも妹の心を波立たせる魔法めいた力をもっているのだろ
うか。
「あの本、なかなかよかったわよね」
奇妙な気持ちのまま、涼子はそう言う。
涼子は学生の頃、ジェフリー・アーチャーの長編小説を貪り読んでいた時期がある。
名の通った近代文学に妙な抵抗を感じていた涼子は、アーチャーの作品にだけは素直に
心を開けた。アーチャーはもともと英国の下院議員だったのだが、詐欺にあって破産し、
借金返済のために作家に転身したという変り種だ。涼子は、彼のそんな開き直ったような
作風が好きだった。まあ反対に言えば、ただ権威的な文学が嫌いだったということになる
のだが。
―――でも、佳苗があんなもの読むかしら。
女子高生が好んで読むような軽い小説ではない。
ではこれも、姉の暗示なのか。
「そんなわけないでしょう」
涼子の思考を見通したように、沙織がいう。
「あんたと佳苗ちゃんの共通の趣味を見つけるの、苦労したんだから」
小声ながら、沙織は得意げに言う。
「それはご苦労様」
そういって肩をすくめつつ、いつのまにか涼子の脳裏にはありえざる過去のイメージが
浮かんでいる。
それは埃っぽい図書室の情景だ。
涼子は分厚いハードカバー本を借りようとしてカウンターの前に立っている。
そこには受付の少女がいて、涼子に「こんにちは先生」と礼儀正しく挨拶する。
少女は手続きをしながら本の表紙に気づき、ぱっと顔を輝かせる。
「先生も、ジェフリー・アーチャーを読まれるんですか?」
「ええ」
「私、これ、もう読みましたよ」
「へえ、あなたが」
意外に思いつつ、同好の士を見つけた喜びに、おもわず頬が緩む。
それから、会話がはじまる。
翌日も、その翌日も。折りにつけ、二人は小説のことを話すようになる。
授業の合間、学生で混雑する廊下をゆく涼子。後ろから、少女がついてくる。
先生、先生。
少女は自分をそう呼ぶ。
涼子は、これまでの人生になかった満ち足りた至福感を覚えている。
はっとして、涼子は姉のほうをにらむ。
「これ、なにかの暗示なの?」
沙織は、うっすら笑って視線をかえすのみだ。
涼子は、釈然としないまま顔をそらす。
私は生徒なんてきらい。そして教師は、もっと嫌い。
センセイなんて呼ばれるのは、たまらなく嫌だったはずなのに。
それが、変えられている。気づかないうちに心が操作されている。
拒絶しているつもりでも、姉の意思はきまっていつのまにか忍び寄ってきて心に根を張
っている。
―――いつだってそうだ。
無力感を感じながら、涼子はため息をついた。
それは涼子が本当は望んだことだったのか。
結局彼女は、ついつい夢中になって小説の話で盛り上がり、1時間もしないうちに、佳
苗と本当の仲良しになってしまっていた。
瑛華高校のあるN市から、和歌山県熊野地方までは、高速を飛ばしても3時間はかかる。
沙織は途中のサービスエリアで車を停めた。
「めずらしいわね、休憩するなんて」
外に出て手足を伸ばしながら、涼子は姉に言った。
いつもの沙織なら、ガソリンが続く限り走りつづけるはずだ。そもそも、疲れることな
どあるのだろうかと疑問に思うときすらある。
そのサービスエリアは山の中腹にあり、周囲は青々とした針葉樹林に囲まれていた。
自動販売機と手洗いがあるだけの、ちいさな所だ。乗用車が十数台、それに、トラック
やバスが数台。人もまばらだった。
真っ青な空の高いところを、鳶がゆるやかに旋回している。
平和な光景のなかで、涼子が眉をしかめた。
「気づいた?」
沙織が、涼子の横に立って言う。
「姉さまは、いつから」
「私は130キロで飛ばしてんのよ。それについてくるスクールバスがあれば、誰だっ
て気がつくでしょう」
たしかに、それは目立つ車だった。
涼子らが車を止めたところから50メートルほど離れた大型車用駐車場に停められたそ
れは、クリーム色の古びたスクールバスだ。あまりの速度にエンジンが悲鳴をあげていた
のだろう、ボンネットからはまだ蒸気のようなものが立ちのぼっている。
だが何よりも、涼子はこの車をよく知っている。
腹のところにペンキで横書きされた所有者名は、「県立瑛華高等学校」とある。
それは、涼子が教師として赴任した高校のバスだったのだ。
運動部の遠征や合宿などのときに使われると聞いている。だが、それがなぜ和歌山へ下
る高速道路上のSAに停まっているのか。
「あんた張られてるのよ、涼子ちゃん」
沙織が、こともなげにいう。
涼子は逆上して、「知らないわよ、そんなこと」と吐き捨てるようにいう。
分かってるなら知らせてくれたらいいのだ。
自分は敵に見張られているという。だがそれ以前に、姉である沙織が敵も涼子もひとま
とめにして監視していたのだ。何も知らない自分こそいい面の皮ではないか。
―――大事にされるのは分かるけど、いつまでも子ども扱いじゃ・・・
涼子は苦々しく思う。
バスの中は影になっていて、そこにどれだけの人間が乗り込んでいるのか分からない。
また、誰かが降りてくる気配もなかった。
「涼子、」
沙織が、バスに近づこうとする涼子の袖を引っ張った。
「これ、見ときなさい」
彼女が上着のポケットから出したのは、1枚の写真だった。
涼子が見知らぬ、ひとりの女生徒がそこに写っている。
人形のように整った顔をしているが、どことなく目元が感情に乏しく、いやな感じがす
る。
「誰よ、これ」
いぶかしげに姉を見ると、沙織はにやりと笑う。
「あら、忘れたの」
沙織は、妹の反応を楽しむように、ゆっくりといった。
「この子が、あなたの、ご主人様よ」
姉の言葉を聞いた涼子は、一瞬あっけにとられた。
数秒その表情で硬直し、それから嘆かわしげに天を仰いで、目を閉じる。
さらに深呼吸して、何回かうんうんと頷きかえした。
それは爆発寸前の怒りを制御するための、彼女なりの技法なのだろうか。
しばらく頭をかきながらぶつぶつ言っていた涼子は、やっと目を開けると、とびきり冷
ややかな視線で姉に向き直った。
「それで?」
すごい顔で睨まれているのだが、妹のリアクションをそこそこ堪能したらしい沙織は、
満足そうに写真を懐にしまってから言った。
「鹿島ユリっていうのよ」
涼子は、数日前の屈辱的な体験を思い返した。そして彼女を蹂躙した敵の、空白になっ
ている顔の部分にさっきの写真の輪郭をはめ込んでみる。
―――どうも、イメージあわないのよね。
冷静にそう考える余裕を取り戻しつつ、涼子は考えた。
「姉さまは、この女が影法師で、あのバスに乗ってるかも、と?」
沙織は考えるふりをする。
「影法師はそれほど間抜けじゃないわよね」
「でしょうね」
とりあえず、と沙織はいった。
「佳苗ちゃんには、おねんねしてもらってたほうがいいんじゃない」
佳苗は事態の推移も知らず、車のドアから足を放り出して外を眺めている。
涼子は、「なんか鍵言葉ないの、」と姉に聞く。
沙織がすでに佳苗の心を開きつくしているとすれば、いつでも佳苗を催眠状態に落とせ
るキーワードを隠し持っているはずなのだ。
しかし当の沙織は、しらばっくれているのか「甘えないのよ涼子ちゃん」とうそぶくの
みだ。
やや気分を害しつつ、涼子はポケットを探った。
―――HRMを使うほどのこともない。
彼女は小さなペンダントを取り出すと、佳苗の眼前にそれを垂らした。
「え、なんですか?」
なにか悪いことをされようとは、夢にも思っていない。始まりが姉の暗示であれ、佳苗
は今、涼子のことを心底信頼しているのだ。
ふたたび疼く良心をごまかし、涼子は言った。
「これはあなたへのプレゼント」
ガラスの細かいカッティングが、太陽光を複雑に反射させ不思議な光を放っている。
涼子が好んで使う誘導用の小道具だった。
「きれいでしょう」
紐を横にゆするのではない。
わずかに上下に動かすだけで、ペンダントは揺れ始める。
涼子の意を汲んだように、右に、左に。
わずかな振動がすこしづつ大きくなってゆく。
佳苗はきょとんとしたままペンダントを見つめている。
「ほんとに、きれい、ですね」
ぽうっと見てはくれているが、催眠に引きずり込むにはここからが本番だ。
「でもね、佳苗ちゃん。」
涼子がいう。
「この宝石の一番奥のほうに、ある模様が刻み込まれているのが、見える?」
石はいま、鈍く輝きながら佳苗の目の前を横断してゆくところだった。
「どこ、どこですか」
「いちばんいちばん奥のほうよ。ほら、ようく見て・・・」
いつのまにか、涼子は佳苗の肩に手を乗せている。肩の筋肉の張り具合で、彼女は相手
がどこまで術へ入ったかを計ることができる。
佳苗の瞳は、石の軌道を追ってめまぐるしく左右に振れる。
「どう、なにか見える?」
親指で佳苗の肩口をなでながら、涼子は問いかける。
「あ、なにか・・・」
口ごもる佳苗は、自分の視界がやや乱れていることに気づいていない。
石の、いくつもの反射光が境界を失って溶け始めている。
見つめつづけることに疲労を感じた佳苗の視神経は、ペンダントを網膜に結像すること
を放棄しようとしていた。
その代償として、神経は佳苗のまぶたを少しづつ重くしはじめる。
「あ、あれ・・・」
佳苗の現実感覚が、かぶさってくるまぶたに困惑を覚えている。
瞬きを繰り返し、眼を開こうとする。
「いいのよ、目を閉じなさい」
初対面の相手になら、こんな口調で命令できるはずはない。
本来なら、まぶたが重くなるという生理現象を、あたかもの施術者の魔力のごとく錯覚
させ、それによって相手の自律神経を支配してゆくべきだろう。
だが、涼子はそのプロセスを端折った。
二人の間にすでに別ち難い信頼関係が出来ているというのに、これ以上この子を欺く事
に意味はない、と涼子は思っていた。
佳苗は、眼を開いていなければと思ってはいるものの、すでに相当の苦痛を感じていた。
涼子の言葉はそれから彼女を解放するものだった。
すい、と両の瞼が落ちる。
途端に、人が眠るときに感じる熔けるような感覚が佳苗を包んだ。
「眼をつぶっても、ペンダントのことを思い出して」
ほどよく緩んできた佳苗の肩をゆすりながら、涼子はささやく。
見つめることがあんなに苦しかったはずのペンダントの姿が、あまりにも心地よく佳苗
の頭の中に浮かび上がってゆく。
心の中に光を結像することに、神経は苦痛を覚えないのだ。
鮮やかに輝くペンダントのイメージは、現実よりはるかに美しく、幻想的だった。
「そのなかに、とってもきれいな渦巻きが見えるでしょう」
どうしても見つけられなかったその模様が、いまははっきりとした渦巻きとなって、佳
苗の眼の前に姿をあらわしている。
ペンダントの中心からイメージの辺縁部へむかって。それは幾条もの光の帯であり、そ
のすべてが円を描きながらどこまでも広がっていた。
「みえる、みえるわ」
眼をつぶったままの佳苗が、うわごとのように言う。
誘導がうまくいったと判断した涼子は、ペンダントをしまうと佳苗の体を後部座席へ押
し込んだ。
佳苗には依然、どんどん大きくなる巨大な光の渦が見えている。
「吸い込まれそうでしょう?」
佳苗はもう、頷くのみで言葉を発しない。
彼女の頭は、ふらふらと前後に揺れていた。
「吸い込まれれば吸い込まれるほど、あなたはリラックスしたいい気持ちになってゆく
わ」
もはや頷く動作さえ、物憂げだった。
ここから涼子は、深い催眠下へと佳苗を堕としてゆくことができる。
だが、いまはそれが目的ではないし、時間もない。
「ゆっくりお休みなさい」
涼子の最後の声が聞こえたかどうか。
佳苗は、人形のようにシートに倒れこんだ。
乱れた足元を直してやり、涼子がため息をつく。
「上出来じゃない」横で興味深げに観察していた沙織が、いった。
「あんな無粋なバトン使ってたから、腕が鈍ったのかと思ったわ」
涼子は、やや険しげな顔で姉を見返す。
「あのね、姉さま」
妹の怒りの原因も矛先も知り尽くしている沙織は、大仰に手を振ってごまかす。
「そんなムキにならないでよ」
沙織は、涼子が自分を憎みきれないことまで分かっている。
「世間にはね、素人の女の子に催眠術をかけてAV撮らせてる女だっているんだから」
「何よそれ?」
「私の領分じゃないから手は出さないけど、この世界じゃけっこう有名なのよ」
意外に世情に疎い涼子は、そんな悪い女がいることが、信じられない。
沙織はさらに、「それがけっこう儲かってるらしくて、その女アストンマーチンに乗って
るのよ、アストンマーチンよ」と口惜しそうにいった。どうやら本当に羨ましいらしい。
沙織ならここで、「私もやろうかしら」とか言いかねない。
涼子はあわてて立ち上がって、くだんのバスのほうに視線を向けた。
ゆうゆうと妹を煙に巻いた沙織も、そこで表情を引き締める。
平和そのものの山腹のサービスエリアで、涼子が逃げ出したくなるような非常識で淫乱
な光景があらわれたのは、それからわずか数分後のことだった。
(つづく)