絡めとる言葉に

第2話

作:たくや さん

3年A組。
生徒数38名、うち男子17、女子20。
西校舎3階の一番奥に位置。手前に理科実験室と同資材室があることから、他の教室群
となかば隔絶されている。
別名、「離れ」
そこが、影法師の住まいだった。

「授業をはじめます」
 涼子の声が響いた。
 起立礼のあと、黙々とテキストを開く学生たちを見下ろしながら、
 ―――学級崩壊とかテレビで騒いでたけど、
 と、ひとごとのように思う。
涼子にとって、授業の内容そのものは苦痛でしかない。
 彼女は自分がまともな教育者向きではないことを重々承知していた。
それに彼女は学生時代、ずっと教師が嫌いだった。
 涼子は人よりよほどひねくれた感性をもっていたので、「先生」と呼ばれる人種が諭すう
わべだけの道徳論や人生観には、しらけた想いしか抱けずにきた。
「友人以外に価値のあるものが学校にあったかしら」と本気で思っている女がチョーク
を持って教壇に立っているのだから、その存在自体、矛盾のかたまりといえなくもない。
「why would you want to go to University , mister Mizuguchi?」
涼子は名簿を見ながら、適当な質問を生徒に浴びせてゆく。
 内容は特にない。
ただありふれた受け答えを、アクセントだけは恐ろしく正確に繰り出しているだけだっ
た。
涼子が「英語科の先生」なのは、それしか彼女に勤まる教科がなかったからだ。
 配属前、彼女の上司となる防衛庁の主任管理官は、こう言い放ったものだ。 
「英語なら、適当に会話してれば45分くらい間は持つだろう」
 大学時代、英国へ留学していたことがあったから、管理官はそのことを言っていたのだ
ろう。
しかし涼子は知っている。反抗的な態度で管理官たちの頭痛の種であった彼女だから、
厄介払いに早々に現場へ放り出されただけなのだ。
 彼女にすれば、急場で編成された組織なのだから、管理官とはいえ権柄ずくで物を言わ
れるのが面白くない。
―――だいたい私は教師になるつもりで仕官したんじゃないんだから、古文や化学の講
義ができないからって、なんで後ろめたい思いをしなきゃならないの。
自分の組織人としての規律の無さを棚に上げ、涼子はひそかに毒づく。
授業は、単調につづいた。
質問に、回答。
質問に、回答。
質問に、回答がある。
そのテンポが完全に一定であることに、涼子は気づかなかった。
1ミリも乱れずに並んだ机は、太陽光を反射して眩しく光っている。
ずらり並んだ生徒たちは無個性すぎて皆同じに見える。
黒板の上で時計が大仰に音を刻み、
午後の暖気が教師の集中力を削いでゆく。
そのすべてが、涼子を堕とし入れるために演出された舞台装置だった。
しかし、そんなことを彼女が看破できるだろうか。
「miss, カシマ?」
すっかりうわの空だった涼子は、ひとりの生徒から答えが返ってこないことに気づいて、
何気なく名簿から顔を上げた。
 陽当りのよい教室のほぼ中央の机に、その生徒、鹿島ユリがいた。
 ショートカットで、やや切れ長の眼。
 華奢そうな上半身は背筋がすっと伸び、机上で結ばれた両の手指は驚くほど白い。
 陶人形のように整った顔立ちだけ見れば、彼女は美人の部類にはいるのだろう。
―――でも、何かちがう。
涼子はそう感じた。
底の知れない無機質な瞳は教師のほうを向いている。
―――この子、ほんとに生きてるの?
そんな妙な疑問が浮かんだ。
涼子を射る、不思議な視線。
そして、
もっと印象的な、ユリの口元。
口紅を塗ってもああいう色にはならないだろう、と涼子は思う。
涼子の知るあらゆる色ともちがう、鋭すぎる光沢を湛えた紅色。
それが見事な肉の起伏を成して、ユリの唇を造形している。
それは、この世ならぬものを連想させた。そして、どうにも魅力的だった。
うっすらと、その唇が笑っている。
涼子にはそう見えた。
わけもなく、涼子の心が粟立った。
なぜなのか、侮辱されたような感じ。苛立ちが胸に湧き上がった。 
制御できない感情に、涼子はうろたえる。
「鹿島さん、」
つとめて平生を装い涼子は言った。
「答えなさい、鹿島さん」
鹿島ユリは答えない。
じっと動かぬまま、涼子を奇妙な視線に捉えている。いや、涼子は視線に釘打たれてい
た。
―――どこか、動いてる。
漠然と、涼子は思う。
唇だ。
ユリの口元が、わずかながら振動している。
聞こえるか聞こえないかの、空気のようなわずかな囁き。
それが、彼女の朱色の唇から洩れ出ていた。
つられるように、涼子は耳を澄ます。
「・・・・・・・・」
何を言っているのだろう。
涼子の視線は、いつのまにかあやしい光に濡れるユリの唇に吸い寄せられている。
「――――――、」
わずかに、言葉らしきものが漂ってくる。
涼子は、思考がまとまらないままユリの言葉を追う。
「・・・先生、私の大好きな先生・・・」
涼子は、いつのまにか夢中になって聞いている。
「・・・先生、・・・よく・・聞いて・・・」
それまで空気にも溶けるかと思われたユリの声が、次の瞬間はっきりと涼子の頭に響い
た。
「先生の心は、私のものよ」
ガラスの割れるような声。それは有無をいわせぬ強制的な言葉だった。
涼子の意識が、グラリと傾いた。
「ほうら、ほうら、」
ユリの不思議な言葉が回る。
すると、涼子の見つめていたユリの唇が、どんどん大きくなるように見えた。
それはたちまち教室いっぱいに広がって、呆然とする涼子の眼前に迫る。
わずかに開かれた唇の隙間から、生々しくうねる赤い舌が垣間見えた。
そこから洩れ出る熱い息を浴びたような錯覚を覚えた途端、涼子の体は痺れたようにな
って、自由を失った。
だが、それは快感だった。
これまで感じたことのない甘美な感覚が、涼子を混乱させた。
どこかであがく彼女の警戒心が、深いところへ沈んでゆく。
混沌の中で、涼子はユリの声を、無防備に受け入れるしかない。
それは甘美な呼び声であり、涼子の心は、それに絡みとられることを拒めなかった。
「先生、よく聞いて」
ユリはいう。
ゆっくり、息を吸って・・・
ごく自然に、涼子の口が開いた。
「大きく、もっと大きく吸って・・・」
肺が空気でいっぱいになってゆくのがわかった。
それでも涼子は吸った。そのまま吸気に溺れても、気にもならないように。
「いいわ、とめて」
満足そうに言って、ユリは立ち上がった。
生徒たちの間を縫って教壇に登る。
3年A組の生徒たちは、いつのまにか彫像のように硬直してしまっている。彼らはすで
に、鹿島ユリの支配下にあったのだ。
ユリは笑みを浮かべて涼子に近づいた。
息を止めたままの涼子の顔に赤みがさしている。
呼吸できない苦しみに、眉がわずかにゆがんでいる。
だが、彼女の支配者は、まだ許さない。
鹿島ユリは涼子の背後に回り、教師の肩に手を置く。
「いい子ね」
涼子の両肩は、苦痛に細かく震えていた。
「もういいわ、ゆっくりはきなさい」
ユリは言った。
「そうすると、先生の体の力は、どんどん抜けてゆくわ」
堰を切ったように、涼子の肺が空気を吐き出す。
ユリが「ほうら、ほうら」というさっきの言葉を繰り返すと、涼子の表情は見る見る弛
緩してぼんやりしたものになっていった。
「もっと吐きなさい。体中の力を吐き出しちゃいなさい」
その一呼吸が終わる頃には、涼子の膝は折れ、体は後ろに倒れていた。
ユリが、涼子の豊満な上体を抱きとめる。
筋肉の力をすべて奪われた涼子は、ユリによって椅子に座らされた。
瞳がとろんと濁り、首はやや前方に傾いてうつむいたようになっている。
髪が乱れたまま顔にかかっているが、唇に絡みつく黒髪の束さえ直すことができない。
「いいわよ、先生。とてもいいわ」
ユリが、涼子の前に立って言った。
「もう先生は、わたしのものよ」
涼子の頭には、ユリのその言葉がすっと染み込んでゆく。
反発とか、疑念とか、そういった回路は麻痺してしまって、ユリの言葉のみが涼子の心
を支配した。というより、すでにユリの言葉は、そのまま涼子の意思だった。
「立ちなさい」
その言葉に、ゆらり、と涼子の腰が上がる。わずかに残る彼女の意識は、誰かに糸で引
っ張られるように動いてしまう自分の体に、困惑する。
「先生には、今日のことをずっと覚えておいてもらいたいの」
ユリがいう。
「だから、どうしても忘れられないようなことを、してもらうわ」
涼子は、ぼうっとしたまま、ユリの言葉を聞いている。
「先生、服を脱いで」
心地よい声が、涼子の頭に響いた。
ユリの言うことを聞くたびに、涼子はあらゆることから解放されたような、いい気持ち
になってしまう。いつからか、四六時中解くことができなくなっていた緊張の糸があった
のだ。それがいま、いとも簡単にぷっつり切れて涼子を深いリラックスに導いている。
涼子は、ほぼ自動的にセーターを脱ぎ、スカートを下ろした。
「ほら、もっと開放的な気分になったでしょう」
ユリの問いに、「はい、」と従順に答える涼子。
本当に、もっといい気持ちになっていくように、涼子は感じていた。
「さて、どうしようかしら」
ユリは、品定めするように涼子の体を見る。
「いいことを思いついたわ」
ユリは、涼子の顔に自分の白い手を近づけた。
「先生、そのまま眠るのよ」
ゆら、ゆらと指を振る。
それだけで、涼子はいとも簡単に眠りに落ちていった。
かすんでゆく意識へ、ユリの声が響き渡る。
「先生の頭の中はからっぽ。でも、」
私の声だけは聞こえるはずね、とユリはいう。
「先生、私の質問に答えるのよ」
かくん、と涼子の首がうなずく。
ふらふらしたまま眠る教師のおでこに手をあてたユリは、いたずらっぽい笑顔を浮かべ
ていう。
「先生が、いちばんいやらしい気持ちになったのは、いつ?」
そんなこと、と困惑する思考はなかった。
気泡が水面に湧き上がるように、涼子の記憶の一部が蘇り、それが口をついて出た。
「御山で、お姉さまと・・・」
術の試合をしたとき、と夢うつつの涼子が口走った。
鹿島ユリは、いぶかしげに尋ねる。
「御山って、なに?」
だが、すでに涼子はスイッチが入ったかのように、頬を高潮させていた。
「あ、ああ・・・」
涼子はもう、そのときの情景に飲み込まれているのだ。
彼女が言う「お姉さまとの術の試合」なるものがかつての涼子にどんな快楽を与えたの
か。涼子はたちまち切なげな吐息を漏らし、体をくねらせはじめる。
「まあ、いいか」
ユリは、「そのことは、これからゆっくり聞かせてもらうから」とつぶやくと、さらに暗
示を加速させる。
「ほらほら、先生の指が、先生の体をもっと感じさせるわよ」
びくん、と涼子の腕がふるえて、生き物のように動き出す。
右手はブラジャーごと涼子の胸をまさぐり、もう一方は、蛇のようにショーツの下へ滑
り込んでゆく。
「ああ、お姉さま・・・」
喜悦に狂いそうな涼子は、はしたないまでの声を出して昂揚してゆく。
鹿島ユリは、そんな涼子を、やや興奮げに見守った。
「ほんとに、すばらしいわ・・・」
ユリは、25歳の教師の痴態に、なかば圧倒されていた。
影法師であると同時に、ユリは17歳の少女でしかなかった。
刺激的な年上の女の狂いようは、ユリを陶酔させずにおかない。
「いいこと、先生」
両手で涼子の頭を左右から支え、2本の親指でおでこを押さえる。脳髄へ直接命じるか
のような指の刺激が、もはや極限に達しようとする涼子の思考を捕らえた。
「ご主人様の私がこう言ったら、先生はすぐに今みたいに気持ちよくなってしまうの」
どこにいても、何をしていても、この言葉で先生はこんなに我慢できなくなっちゃうの
よ。ユリはそう言い聞かせた。
まさに果てようとする涼子は、その命令に、「はい、ご主人様、はい、」とうわごとのよ
うに何度もうなずく。それすらも、快感に押し流されんばかりだった。
やがてひとしきり高い声をあげてから倒れこむ涼子を床に転がしたまま、ユリはやや辟
易した顔で言った。
「秘密の言葉はね・・・」

「授業をはじめます」
うんざりした顔で、涼子は名簿を開く。
すっかり暗くなった曇り空の窓に、降りはじめの雨粒がぴち、ぴち、と当たっていた。
「先生、」
顔を上げる涼子。
生徒たちは皆、机に突っ伏して気を失っている。
教室の真中に、ひとりこちらを見る、ショートカットの少女。
「あなた、」
異変に気づき、涼子が鞄に手を伸ばす。そこには、彼女の武器が隠されていた。
「はじめまして先生、わたしが影法師よ」
鹿島ユリが、ゆらりと立ち上がる。
HRMのバトンをかざし、きっとしてユリに対峙する涼子。
「名乗り出てくるなんて、どういうつもりなの」
やや余裕を見せつつ、涼子は内心緊張している。
班の捜査官で、直接影法師と接触した者はいない。米国の連邦捜査局でも、前線で影法
師が捕獲されたという報告はないのだ。
ユリが、ゆっくりと歩み寄ってくる。
―――?
自分は、この少女を見たことがないか。
涼子はかすかに思う。
とくにユリの唇を見るとき、涼子は不可解な波にさらわれるような錯覚を覚えた。
だが、それも一瞬。
「えい、」
バトンが発光した。
レベル最大で最短周波の明滅。
およそ視神経のある生物ならなんでも失神する攻撃が、教室を白昼のように照らす。
5秒。
涼子が必要以上に念入りに照射を続けたのは、相手が人間ではないかもしれないという
疑念からだった。
班の内部には、ヴィシターは外宇宙からの侵略者だと本気で考えている研究者もいる。
涼子はそんな口ではなかったが、すくなくとも警戒をする価値はある。
トリガーを緩め、光を落とした涼子は、しかし愕然とした。
ユリは、まだ立っていた。
なんのダメージも感じぬように微笑み、涼子の目の前に到達している。
「先生、そんなもの、私には効かないわよ」
内心恐慌をきたした涼子は、それでもそれを顔には出さない。
「あなた、何者なの」
言いつつ、涼子は敵との間合いを計る。
いっそ、バトンが相手に届く距離なら、力技で勝負を決めればよい。
そう踏んでいた。
「そうね。先生」
ユリは、涼子の思惑を知ってかしらずか、わずか2歩の距離を保って立つ。
「先生には教えてあげてもいいわ」
ユリはいう。
「先生たちが影法師って言ってるものが、何なのか」
考えたことある? ユリは純真そうな笑顔で涼子に問う。
「・・・・」
無言の涼子に、ユリはさらに言う。
「私だって、17年前にお母さんのお腹の中から生まれてきたのよ。そうじゃない人が
この世の中にいると思う?」
涼子は、めまぐるしく思考する。
 影法師自身がその秘密を暴露することに何か意味があるのか。それともこれは罠なのか。
 そんな困惑を見透かしたように、ユリはいう。
 「疑ったって、あなたにはそれを反証することができないでしょ。だって、あなたたち
は私たちのこと、あまりにも知らなさすぎるもの」
 ユリが、一歩近づいた。
 涼子の神経が、攻撃へのタイミングへ集中する。
 「いまはひとつだけ」
 ユリがとびきりの笑顔で言った。
 「先生だって、いつでも影法師になっちゃうのよ」
 その言葉を聞かず、涼子は思い切りバトンを振った。
 つもりだった。
 すぐ耳元で、ユリのガラスのような声がした。
 その声は「こわれちゃいなさい、」と言った。
 じん、と急に、感覚が変化した。
 涼子の下腹部から、電気のような快感が脳髄に向かって駆け上がった。
 それまで戦闘状態にあった涼子の思考は、信じられない勢いで淫らな衝動に取って代わ
られた。
「いったい・・・ あ、」 
バトンが手から離れて落ちた。それからその手が胸に吸い付いた。
 その時涼子は、自分が下着姿でいることにはじめて気づいた。
「わたし、もしかして催眠に・・・」人間の思考ができたのはそこまでだった。
快楽の渦が、涼子を直撃した。
 弓なりに体を反って震えた涼子は、そのままずるずると床に崩れた。
 声が洩れた。
「あ・・・、あああっ」 
我慢しようとしても、その動物的な喘ぎ声は止まらなかった。
 「とても素直よ、先生」
 あまりの快楽に痙攣する涼子のおぼろげな視線のすぐ先に、ユリの足先があった。
 涼子は、屈辱に狂いそうだった。
 だが、体はユリの言葉に屈服し、その激しい激しい快感に蹂躙されている。
 あまりの刺激に、意識が遠のいていった。
 「どう、先生」
 ユリが、頭上から声をかけた。
 「とても忘れられないでしょう」
 愉快そうな笑い声が、薄れゆく涼子の意識に、わずかにこびりついていた。

 それから、5日間。
 涼子はユリとの遭遇と、その恥辱的な敗北について、思い出せずにいた。
 ユリは入念に暗示をかけていた。
涼子が「とても忘れられない」目にあわされたことを思い出したのは、彼女がすべての
クラスを講義し終え、収穫のないことを落胆して帰宅した晩だった。
借り上げた部屋のバスルームで湯船に浸かっているとき、涼子はふいに、すべてを思い
出した。
それは、ユリによって指定されたタイミングと条件での想起だった。
学年もクラスもどうしても思い出せない。そして、たしかに合間見えたはずの影法師の
名前、それに姿形を覚えていない。
なのに、彼女がそこでされたことだけは、鮮明に思いかえされた。
涼子は、バスタブの中で、首まで赤くなった。
手もなく操られた自分のふがいなさに、いまにも唇を噛み切りそうになる。
だが同時に、そのとき味あわされためくるめく快感の記憶が、残り香のように涼子を酔
わせる。
涼子は、震えるように肩を抱いた。
彼女は、はじめて敵に恐怖した。
それから自分がつい漏らしてしまった、「御山」の2文字に対しても、同様に、恐怖す
るしかなかった。
                                 (つづく)


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