校庭に生徒がふたり、降ってきた。
血飛沫をあげて飛び散るはずの彼らの四肢は、バネのように収縮して落下の衝撃を吸収した。
四つん這いでグラウンドに着地したそのふたりは、ひとりが頭をスポーツ刈りに丸めた男子、そしてもう一人が、ブレザーにチェックのスカートという制服姿の敏捷そうな感じの女の子だった。
奇妙な角度で折り曲げられた手指の関節を震わせると、二人は上体を起こして立ち上がった。
彼らが感情の乏しい視線を送る先には、巨大なコンクリート校舎が暮れ落ちる夕陽の中に聳え立っている。
あたりには誰もいない。校庭を囲む住宅街にさえ、人の気配がなかった。
数刻、ふたりは無言で立っていた。
彼らは待っていた。
彼らの、天敵を。
自分たち選ばれた生徒を、こともなげに屋上から突き落としたひとりの教師を。
やがて、階段を下る足音が聞こえた。ふたりの瞳にわずかながら動揺の光が見えた事を、互いが気づいたかどうか。
ドアが開き、人影が校庭に踏み出してきたとき、ふたりの生徒の背に殺意が燃え上がった。
「まったく、よくもここまで堕としたものね」
よく通るはっきりとした声だった。
教師は、夕闇のなかでくっきりと浮かび上がる白のロングコートの下に、シルクのブラウスと黒のタイトスカート姿。眉をやや厳しげに結んだ物憂げな貌がどこか猫科の野生動物を想像させる、教師というにはすこしばかり奔放で華やかすぎる印象の女だった。
彼女の右手はコートのポケットの中、左手には黒い金属製のバトンのようなものが握られていた。
バトンの先端には古代文字のような奇妙な模様が彫りこまれている。
ふたりの生徒は、それに恐怖していた。
「交渉しようとは思わない」
女は言い放った。
「おまえに与えられた自由は、ふたりを解放することだけよ」
だが彼女はいったい誰に語っているのか。
彼女の前には屋上から無傷で飛び降りた奇怪なふたりの生徒がいる。その背後には闇に溶けつつあるグラウンドと、ひっそりとした並木道があるのみだ。しかし彼女はふたりの肩越しに、闇の中の一点に向かって宣告していた。
「それとも、」
そう彼女が継いだとき、ふいに生徒が消えた。
一瞬のち、黒い影が弧を描いたと思うと、ふたりの生徒は左右から女教師に殺到していた。
人間としてはありえない速度での移動だ。人の筋肉はそういう活動をするようにはできていない。
ぶちん、となにかがちぎれる音がして、男子生徒がつんのめって倒れた。
女教師は半身を反らし、ハイヒールで襲撃者の足を払っていた。生徒は自分の異常な速度ゆえに転倒した。
そこへ彼女は、バトンの柄の部分でこともなげに敵の後頭部を強打した。
ゴム鞠のように、男子生徒が地面に叩きつけられてリバウンドしたとき、女子生徒のほうは凶相を帯びたまま教師の頚部に噛みついていた。
鮮血が女教師の白い首筋に流れ落ちる。
それでも少女は、骨まで噛みちぎるつもりかさらに歯を食い込ませた。
みじかい苦痛の吐息が洩れ、教師の片膝が折れるかと思われた。
しかし、次の瞬間起こったのは、教師が逆手にかまえたバトンにみぞおちを打たれ、崩れ落ちる女子生徒の姿だった。
顔を血まみれにしたまま、女子生徒が倒れる。
ふたりの生徒がなかば気絶した状態で横たわった。
女教師は、胸元まではだけたブラウスを血に染めながら、冷ややかにこの獲物を見下ろす。
やにわに、教師はバトンを振りかぶった。
直後、振り下ろされたそれは、女子生徒の頭蓋骨を粉砕した。
すくなくとも少女はそう錯覚した。
バトンが女生徒の頭に接触する寸前、彼女の瞳の5ミリ手前で、バトンは停止していた。
しかもバトンの奇妙な模様からは、鈍いオレンジ色の光が洩れ出ている。
「この光を見つめるのよ」
自分の頭が砕け散ったものと思い放心状態になっている少女の耳に、教師の声が響いた。
「なにも考えてはいけないわ。ただこの光のなかに溶けてしまいなさい」
ゆるやかな波長で繰り返される斑の光線を浴びながら、少女は次第に眼の焦点を乱しはじめた。やがて顔全体が、気持ちよさそうに弛緩しきった表情になってゆく。
「ほら、指の先から、力が抜けてゆくわ」
四肢の関節が麻痺したようにぐったりとなるまで、そう時間はかからなかった。
首が後ろへ倒れて伸びきった喉元に、女はそっと息を吹きかけた。
「あ、ああ」
すでにトランスに堕とされた少女が、平衡感覚の喪失からかやや戸惑ったような声を漏らした。
しかしそれすらも、喜悦に堪えぬようなあやしげな色に絡め取られている。
女教師が、乱れた髪をままに腰を折り、血に汚れた少女の頬をそっとなでた。
もはや朦朧とした少女の瞳をまじかに捉え、彼女の支配者がゆっくりといった。
「いまから、10数えるわ」
ッッッあなたにかけられた邪悪な催眠を解くために、
いつのまにか母親のようにやさしい顔になった女教師が、彼女の生徒にそういった。
「影法師?」
理事長の永田がオウム返しに聞いてきた。
疑念と畏怖の入り混じった顔の永田を見返しながら、武田涼子は面倒くさげにうなずいた。
ふたりの生徒と死闘を繰り広げた女教師は、その翌日、なにごともなかったような涼しげな顔で彼女の勤める瑛華高等学校の校長室にいた。
ソファに身を沈めた涼子の前には永田と、校長の戸留がいる。ふたりとも椅子から身を乗り出し、赴任してわずか三日目の新任教師の話を食い入るように聞かざるをえなかった。
「正式な呼称がどういうものなのか、私もよく知りません」
涼子は、学校の権力者ふたりを相手に、つとめて辛抱強く丁寧に説明した。
ッッッただ私たちは彼らを、そのもっともふさわしい呼び名である影法師と呼んでいるのです。
涼子は、あらかた次のようなことを明かした。
米国でその存在が確認された「ヴィシター」と呼ばれる非合法のカルト組織が存在すること。
それらは複数の教育機関や企業に影法師とよばれる工作員を潜入させていること。
影法師は強い暗示を用いて生徒たちを洗脳し、その支配力を拡大していること。
影法師に侵された学校や企業は、そのものが最終的には「ヴィシター」の末端組織に変質してしまうこと。
そして、すでにこの瑛華高校にも、その影法師が入り込んでいるという事実を。
「信じられない」
戸留がつぶやいた。
しかし彼は、涼子の言葉すべてを否定することはできなかった。
彼の自宅には昨夜、文部省の高等教育局長から電話があった。電話の内容一切を部外秘と念押された上で告げられたのは、受け入れたばかりの英語教師に関するものだった。
「ともかくも、あの御方のおっしゃる通りに従っていただきたい」
その不可解さをいぶかしんだ戸留が翌日聞いたのは、理事長の永田も同様の電話をそれも次期事務次官と噂される審議官から受けたという事実だった。
倣岸な高級官僚が「あの方」と呼び極度に神経を使う新任教師とはいったい何者か。
なかば戦慄した気持ちでいた二人の教育者に、武田涼子から面談の申し入れがあったのが今日の午後だった。
「国のヴィシター対策は、出遅れたといっていいと思います、」
未確認情報ながら、第三野党の新和党がヴィシターに取り込まれたらしい、などという恐ろしい話は、さしもの涼子もバラせなかった。
「それでも」ヴィシター掃討の作戦ははじまっているのだ、と涼子はいう。
空自の支援戦闘機増強の名目で予算が捻出されて以後、遅まきながら公的な対策班が設置された。
「それで、私は正式な所属は防衛庁になります」
防衛庁諜報部、警視庁公安部、内閣調査室がそれぞれ選抜きを出して編成した対ヴィシター戦の司令塔が防衛庁内にあり、彼らはそこから文部省を経由して敵の最大のターゲットである各都市の高等学校へ捜査員を派遣しているという。
「というわけですから、」
涼子はソファから立ち上がった。
「今後その必要があるときは、私の指示で動いてもらいます」
そう言って涼子はぱちんと指を鳴らす。
慌てて腰を浮かしかけていたふたりの男は、その音を聞いた途端そのまま硬直した。
ッッッこんな話をそのまま知っていられると思うの?
涼子は自分の意地悪さに自嘲の笑みを浮かべ、なにごとか二人につぶやくと、校長室を後にした。
廊下を歩きながら、涼子は考える。
影法師の侵入が確認された以上、理事長と校長の協力は必要だ。
だがすべて説明して噂が広まることはもちろん好ましくない。
いまの涼子の暗示で、二人は涼子の話したことをすべて忘れたはずだ。
だが何か面倒な事態になって、学校の教職員を動員する羽目になった時には、指を鳴らすだけで彼らは今日の話を思い出す。スムーズに理事長たちの協力を得るためにはさっきの処置は正解ではないか。
強引に自分を正当化した涼子は、複雑な気分を切り替えて教室へ向かった。
それにしても、
涼子はまだ大切な事を話していない。
もし仮に彼女が防衛庁の職員であったとしても、文部省の幹部たちが貴人に対するように彼女に接する事を説明できるだろうか。
またもし彼女が、訓練を受けた捜査官であったとしても、いともたやすく催眠術を操り、人の心に暗示を植え付け得ることを納得できるだろうか。
永田と戸留はそれに疑問を抱くことすらできない。ソファから伸びた涼子の足を盗み見るうちにいつのまにか術に誘導された二人は、すでに彼女との面談自体を忘却しているのだ。
教室へ向かう二階廊下は校庭に面していて、窓からはトラックを回る学生たちの姿が見下ろせた。
息をきらせて走る生徒たち。顎が上がって喘いでいる女子もいれば、嬉々として速度を上げてゆく者もいる。
よく見ると、先頭から二人目に、見覚えのある少女が走っていた。
ッッッいいペース、
涼子は微笑む。
涼子の首に噛み付いたことなどまるで忘れ、その少女は躍動的にランニングしていた。
白いセーターのタートルネックの下、まだ癒える兆しもない首筋の痛みを感じながら、涼子は思い返す。
昨日、着任2日目の涼子が放課後に遭遇したのは、こそこそと屋上へ上がってゆく複数の男子生徒の姿だった。
一人をつかまえて問い詰めてみれば、午後5時から面白いショーがあるという噂が流れているという。そのショーとは、学内でもかなり人気の内田佳苗という女生徒が、ストリップをするというのだ。
涼子は、そっと屋上に登り、貯水槽の上から監視することにした。
女生徒が人前で脱ぐなどという異常な噂が広まらぬはずがなく、噂を聞いた他の女生徒の口から教員の耳に入らぬはずがない。しかし、見渡す限り屋上には、期待に鼻息を荒くした男子生徒十数人以外、教職員その他大人の姿は見当たらなかった。
これはなにかタチの悪いデマで、神経質になっていた自分は学生のいたずらに時間を浪費してしまったのではないか。涼子がそう思いはじめた頃、男子生徒たちがどよめくのが聞こえた。
見れば、涼子の登った貯水槽の向かい側に、一組の男女が立っていた。
ひとりはたしか3年D組の陸田だ。着任2日目の涼子が顔を覚えているということは、クラス委員かなにかなのだろう。
ッッッということは、もう一人が噂の内田佳苗。
アイドル的存在といわれるのもうなずける、可愛らしい感じの少女だった。
制服を校則どおりに着こなし、それで十分魅力的に見える容姿には好感がもてた。
運動部に所属しているのか、適度に鍛えれられているらしい彼女のスタイルは、健康的と肉感的の中間であやういバランスを保っていた。
涼子から見れば、こんな娘が普通の状態でストリップショーなどするはずがないと断言できる。
ッッッただし、普通の状態ならば、よ。
涼子は興味深げに目を光らせた。
よく観察すれば、佳苗の表情は不安に溺れそうである。何でこんなところに私は連れてこられたのか、といったところか。
「みんな、」
陸田が、すでに興奮で過熱気味になりつつある男子生徒たちにいった。
「実は今日のことは、内田さんには何も知らせてないんだ」
失望と怒りの入り混じった罵声がいっせいにあがるのを遮り、彼はさらに言った。
「だが心配はいらない」
彼は手にもった野球ボールほどの大きさのガラス玉を掲げて見せた。
「これでいまから、内田さんを僕たちの奴隷にしてしまうんだ」
不安のボルテージが上がりきっていたらしい佳苗は、陸田の「奴隷に、」という言葉を聞いた途端、顔を真っ赤にして叫んだ。
「いったいどういうことなの、陸田君!」
何かもっともらしい理由で騙されてここまでついてきたのだろう。佳苗は怒りと恥辱でいまにも泣き出しそうだった。
なおも何か言い立ててこの場から逃げようとした彼女の目の前に、ガラス球がぬっと差し出された。
紅みがかったガラス玉は、あっというまに佳苗の視界のほとんどを圧した。
「聞くんだ」
陸田が、妙なイントネーションで大仰に言った。
「君はもう、僕の言うことには逆らえない」
貯水槽の上で、涼子はあやうく吹き出すところだった。
こんな稚拙な導入で人を催眠状態にできるはずがない。もしやこれは影法師とは無縁のただの茶番なのではないか。
ところが、佳苗の様子は陸田のその言葉で一変した。
遠くを、それも見つめ損なったような濁った瞳になった彼女は、ゆらりと姿勢を崩して後ろから陸田に支えられた。
口はなかば開いてそこから紅い舌の色がちらちらとのぞいている。膝が乱れて白い腿の内側が覗き見えるあたり、まだ女を抱いたこともない学生たちにとっては十分すぎる刺激だった。
「君はいま、とても熱い」
不思議な抑揚のまま、陸田が続けた。
佳苗は、息を荒くした。
悶えるように胸元を押さえ、焼けつく肌の熱から逃れようと制服のネクタイを引き抜く。
生徒たちからどよめきがあがった。
ほっておいても彼女は裸になるだろう。いや、あのガラス球の力を使えば、これまで触れる事など叶わなかった内田佳苗の体に、どんな事でもできるにちがいない。あの球さえあれば・・・
陸田は、そんな学生たちの欲望を見通したように、ガラス玉を前に掲げた。
「これがあれば、彼女は自由自在だ」
さっきまでの奇妙なイントネーションのまま、陸田が謳った。
「これは君たちを、天国へ連れてゆく魔法の球なのだ」
ゆらゆらと、球が楕円を描いた。
学生たちの視線が球の赤色に釘付けになっている。
「さあ、この球をみつめるんだ」
学生たちの頭の中で、球が光りだし、それがだんだん大きくなっていた。
貯水槽でおなじ感覚に襲われていた涼子は、あやうく術に堕ちる寸前で意識を取り戻した。
茶番などとんでもない。
陸田ははじめから、男子生徒たちに催眠術をかけるために屋上に集めたのだ。
内田佳苗はそのための餌で、さらにいえば彼女の肉体自体が、少年たちを催眠に導入するための道具なのだ。
性欲のかたまりみたいな高校生を操るのに、これは効果的な方法と言えなくもない。涼子は妙に感心したのち、立ち上がった。
「そこまで、」
大声をあげて自分に注意を向ける。
不意打ちに皆がびっくりして振り向いた。
涼子の手には、例のバトンが握られている。
それが、閃光を放った。
まばゆいフラッシュが連射。1秒間に7回のサイクルで目も眩む光が爆発する。
数秒で、男子生徒全員が気絶して倒れた。
残ったのは、呆然として立ち尽くす陸田と佳苗だけだった。
すごい威力だ、と涼子は思う。
バトンの正体は、「HRM」と呼ばれる電子制御の催眠導入ライトだった。山菱重工と陵大心理学科が共同で開発し対策班が導入したのだが、その性能は発注者の予想を越えていた。
ゆるやかな暗示への導入から、いまのような強制的な意識飛ばしまで、製作者の偏執的な情熱が具現化したようなさまざまな機能が、HRMには備わっていた。市場に出回れば犯罪に利用されることは明白な危険な武器ともいえる。
涼子ら対策班が影法師と対峙するにあたりもっとも苦慮したのは、戦うべき相手が催眠術にかけられた普通の学生たちだということだった。
影法師の実数は確認されておらず、またその正体も不明だが、彼らは支配する学校や企業で自分たちの手足になって働く奴隷を作り上げる。催眠術で戦闘者に仕上げられた学生こそ、さしあたっての涼子たちの敵だった。
そうそう殺傷するわけにもいかず、さりとて捨て置けない。そこで彼らの術に対抗するために配備されたのが、HRMということになる。
涼子は、貯水槽から飛び降りた。
陸田は影法師だろうか。
それとも彼もまた、影法師に操られた犠牲者なのだろうか。
「その子を離しなさい」
涼子はともかく、人質といえる佳苗を陸田から取り戻すことを先決と考えた。
だが、彼女は間違っていた。
涼子に襲いかかってきたのは、陸田と、そして佳苗。
佳苗もまた、事前に影法師に暗示を刷り込まれ、一時的にそれを忘却させられていた、敵の奴隷だったのだ。
彼らの戦闘力は並外れていた。
筋肉の限界を催眠により取り払われた彼らの速度とパワーは涼子の予想をはるかに越え、またいくら打っても痛みを感じないタフさは、涼子を疲労させ、辟易させた。
結局、二人を弱らせるために涼子がとった手段は、屋上から彼らを突き落とすという突拍子もないものだった。
案の定、ふたりは5階下に着地し、しかもなお戦ったのである。
その後、傷を負ったままの涼子は屋上に戻り、学生たちに軽い忘却暗示を与えて家に帰した。
佳苗に術をかけたのは陸田であったらしく、彼女にかけられた暗示は涼子の誘導によって比較的簡単に解くことができた。
しかし、陸田は催眠状態にあっても、涼子の侵入を断固として拒否した。おそらく、彼に術をかけた者こそ、この高校に潜む影法師なのだろう。
あの時、と涼子は思う。
グラウンドで陽が暮れ落ちようとしていたとき、たしかにもうひとつの気配があった。
影法師は、涼子の戦いを見ていたのだ。
不覚にも負傷し、影法師を追跡できなかったことに、涼子は内心プライドの傷つく思いだった。
こんなことでこの学校を守れるだろうか
彼女は6時限目のはじまる3年A組の教室のドアを開いた。
そこに彼女を堕とす周到な罠がまっていることを、涼子は知らなかった。
(第2話へ続く)