蜘蛛のノクターン

第六章の三「I love You」

作:おくとぱす さん

  第六章の三   I love You

        (八)−承前−

「おねえさま…………!」
 令子は固く固く麻鬼にしがみついた。
「痛っ……!」
 麻鬼が背中の痛みに顔をしかめ、よろめいて体重を令子にあずけてくる。
「ああ! ごめんなさい、ごめんなさい、おねえさま、ごめんなさい……!」
 令子は涙ぐんで足を踏ん張り、年端もいかぬ子供に戻ってしまったかのように、そればかり繰り返した。
「だい……じょうぶ……」
 机に手をついて呼吸を整え、苦痛をやり過ごす麻鬼。
「でも……どうしてこんなことを?」
「………………」
 令子は訊かれると後ずさった。真っ赤に泣き腫らした目からまたしても大量の涙がしたたり落ちる。頬に流れるのをぬぐいもせず、
「おねえさまが悪いんです…………おねえさまのせい…………おねえさまが…………あのとき……あんなこと…………あなたのせい……どうして…………どうして!」
 支離滅裂に口にすると、麻鬼にすがりついてきた。
 泣き声をあげながら、拳を固めて麻鬼を叩く。
「……リョウコ」
「許さない! 許さないんだから! わたし、あなたを許さない! あんなことをして…………あんなに好きだったのに、あなたのものになって、幸せだったのに………………絶対に許さない!」
「…………本当に、何もかも思い出したのね」
 令子は麻鬼の胸の中で小さくうなずいた。
「どうして……どうして、あんな暗示…………わたしだけじゃない、ヨウコも、レイカも、みんなに、みんな…………!」
 あとは声にならない。
 しばらく泣き続けた後、
「…………教えてください……………………お願い……」
 やっとそれだけ言った。

        (九)

 朝霞令子、いや当時は入間令子。十五歳。
 父親は高校の日本史教諭。母は主婦。
 高陵学園女子高等部一年。二つ上の姉律子が同じ学校にいた。
 ごく普通の家庭に育ち、ごく普通に育った。
 自分がどんな大人になるのかということは考えたこともなかった。周囲を見るかぎり、大人になっても今と何かが変わるとは思えない。姉には何一つかなわなかった。いつになっても。ずっとこのままだろう。人気者の姉とは違う、この冴えない、中肉中背、どのクラスにも沢山いて、いなくなったところで何が変わらないごくごく平凡な生き物が、平凡なまま年を取るだけだ。
 大事なのは目立たないこと。周囲から飛び出さないで、姉みたいな強い相手には逆らわないで、静かに、静かに生きていくこと。どうせこの先の人生だって同じことの繰り返しなのだから、波風を立てないのにこしたことはない。
 そんな無彩色な人生航路が、突然光輝に包まれた。
 音楽が好きで、期待はしなかったが入るだけ入ってみた吹奏楽部。
 そこで、太陽と出会った。
 闇をまき散らしているような存在だったが、令子の目には太陽と映った。姉の影が一瞬で消滅した。何もかも自分と桁違い。こんなひとがこの世にいるのかと、憧れを飛び越え、ただただ感動ばかりをおぼえた。何人かの部員が取り巻きのようにいつも側にいた。その一員になりたいと強く願ったが、自分があまりにも小さいのであきらめた。せめてものこととして、敬虔な信者のように心の中で祈りを捧げた。
 いつか、わたしも光のそばに。
祈っている間だけ、幸せでいられた。

         ※

 六月。
 クラス内の人間関係が大体固定してきた頃、令子は不運にもクラスのリーダー格の人間の不興をかってしまった。
 陰湿ないじめが始まった。

 テストの時、隣の子が自分の答案を令子に見せてきた。
「こら! 何をしている!」
「すみません、入間さんに見せてって頼まれたので、仕方なく……」
「入間!」

「入間さん。先生ね、あんまりこういうことは言いたくないんだけど、忘れ物をしたからって他の人のを借りるのはやめなさい。みんな迷惑してるのよ。正直に忘れてきたって言えば先生たちだってそれほど怒らないんだから、ね?」

 いじめられていることに気がつかないくらいに鈍感であればすぐに飽きられただろう。怒って強烈な反撃に出るくらいであればこれも標的にはされずにすんだだろう。令子はどちらでもなかった。恐る恐るやめてくれるようほのめかし、相手に媚び、時には泣き、怒りもした。そういう反応が面白いと、かえっていじめはエスカレートした。
 辛くて、休みがちになった。たまに登校するとよりひどい目にあわされた。

「どうしたの?」
 最後まで親しくしてくれていた友人が、周囲の圧力に耐えかねて絶交宣言をしてきた昼休み。
 楽器室の片隅で涙をぬぐっていた令子に、これまではっきりと口をきいたこともなかった麻鬼が近づいてきた。
 夢心地になった。
 音楽準備室で話を聞かれた。
 これまで鋭く輝くばかりで正視できなかったサングラスの下の目は、驚くことに優しい光をゆったりとたたえていた。
「お姉さんから聞いていたわ」
 麻鬼はそう言った。
 姉律子は妹と違って活発で頭の回転が速く、はっきり言ってどんな時でもいじめる側に回るタイプだ。妹だからいじめないが、そうでなければ容赦なくその爪を立ててくるだろう。あいつウザい、とクラスメートをいじめる計画を嬉々として携帯でしゃべっている姿は中学生の頃から見慣れていた。
「おねえちゃんみたいにはなれません、あたし……」
 家でもいつも言われていた。あんた、トロいからいじめられるのよ。あたしみたいに、気にくわないことははっきり言う、嫌なやつには面とむかって言い返す、そのくらいしなくっちゃ駄目。頑張って。このあたしの妹なんだから。
 だが律子の励ましはそれを通して律子が自分の優位を確認するためだけのもので、決して本当に令子のためになるものではないことはよくわかっていた。それがわかるくらいには聡明であったことが令子の不幸なのかもしれない。
「そう?」
 麻鬼は微笑んだ。かすかな、唇の端をちょっと吊り上げた程度のものであったが、令子の頬は爆発的に赤らんだ。
「私の見たところ、あなた、結構いい素質持ってるようだけど?」
「そんなわけ……ありません……!」
「お姉さんよりもずっとしっかりした女性になれるわよ」
「嘘!」
 思わず叫んだ。まさか、と思い、でももしかして、とすがる気持ちが出てきた。この信じられないくらいに綺麗な先生が保証してくれるのなら本当だ、と信じた。
 そう信じた。
「うそじゃないわ。ちょっとしたおまじないをすればいいの」
「おまじない……?」
「そうね、まずゆっくりと深呼吸して。気を楽にするの。……そう。それからこの指を見て。じいっと、力を抜いて、ようく見て……」
 憧れの相手の言葉のままに指を見つめた。
 そこから先のことを覚えていない。

         ※

 夏休みの間に徹底的な調教を受け、令子は麻鬼の催眠奴隷となって二学期を迎えた。
 麻鬼の言葉があればいつ、どこででも催眠状態に入った。言われるままにどんなことでもした。けれどももちろん、その記憶が通常時に浮かび上がってくることはなかった。
 動揺する様子が見られなくなったので、いじめは自然解消された。だがそんなつまらないことは令子にはもうどうでもよくなっていた。
 かつてなかった強い意志と集中力がいつのまにか宿っていた。好きな科目の成績が驚異的に伸びた。前から好きで、吹奏楽部でも吹いているフルートが大好きになり、一日中でも練習していられるようになった。受験期を迎えた姉が何か秘訣があるのではないかと探ってきたが、自分でも理由がわからなかった。わからないまま、自分の能力が伸びてゆくことに酔った。

「あれも、今から思えば催眠の影響だったんですね……」
 令子は麻鬼にしがみついたまま言った。
「おねえさまがそういう暗示を……?」
「そうよ。私を楽しませてくれたから、ささやかなお返しにね。好きなことには熱中できるように。念のために言っておくけど、私がかけた暗示はそれだけ。あなたが音楽大学に入ったのは間違いなくあなた自身の選択、あなた本人の努力の結果よ」
「かもしれません。でも…………」
 令子は不気味な陰影をまとわりつかせて言う。
「あれは…………あれだけは……許せない!」

         ※

 時が流れた。
 音楽大学に進学を決めた令子は卒業式の日を迎えた。
 卒業証書片手に、上履きを履き替えるのもこれで最後と思いながら玄関を出る。
 待ちかまえる父母、在校生一同。
 人の輪がそこら中にでき、女の子たちが泣いている。
 渦をかきわけ、校門の所まで来てはじめて振り向いた。
 校舎を見上げているうちに、楽しかった思い出が次々と頭をよぎっていった。
 中でも吹奏楽部で熱心に練習したことは一生の思い出だ。
 顧問は冴えないおばさんだったけど、熱意だけはあった。いいひとだった。
 仲間が待っていた。
 みんな、これからどんな道を歩もうとも、ずっとずっと友達だ。
 手を握り、抱き合い、そして別れて行った。
 早咲きの桜の花びらがひとつふたつ風に流れて舞った。
 どこまでも澄み切った、青い空が広がっていた。

 …

 ……

「あの時は純粋に感動してた…………何もかもなかったことにされたなんて知りもせず…………!」
 言うなり令子は麻鬼を押した。壁に押しつける。
「!」
 彫りの深い顔を麻鬼は痛みに引きつらせる。その白い喉に令子の手がかかった。
「これがおばさん……? ふふふ、どくんどくんいってる…………あたたかい…………」
 口が笑みの形に歪む。
「思い出してから…………何回、こうしてやろうと思ったか…………!!」
 締め上げた。

「………………」
 がたっ、と横合いで音がした。
 ソファーの上で人形になっている佳奈の体が傾いたのだ。
 人形、という暗示が体を縛っている。だが目も耳もはたらいており、周囲で展開されていることはちゃんと知覚している。
 そのふっくらした頬に、今の令子にも負けぬ太い涙の筋がつたっていた。麻鬼の、御主人さまの危機を目の前にしているのに、自分は人形なので動けない。人形のあたしには何もできない。涙を流す以外にその無念さを表す方法がないのだった。
 麻鬼はまったくの無表情。蒼い瞳は閉じられ、長い睫毛も動かない。殺すなら殺しなさい、そう言っているようにも見える。
 令子は手の力を緩めた。
 くずおれた。
「どうして…………どうして!」
 床に涙のしみができる。二滴、三滴。
「あんなに、あんなに好きになったのに…………何もかも捧げて、一生ついていくって誓ったのに…………! あなたはわたしを、いえ、わたしたちを捨てた……!!」
「捨てたわけじゃない……」
 目を閉じたまま、麻鬼の唇が割れた。遠い空から舞い散る雪のように、透明な声が静かに降ってきた。
「あなたには……あなた自身の人生を歩んでほしかっただけ……」
「そんな……そんなの、いらない! わたし、おねえさまとずっと一緒にいたかった! 3号のままで……それでよかった!」
 令子は号泣した。

「馬鹿な子……」
 令子は泣き濡れた顔を上げた。
 麻鬼はまだ壁によりかかって瞑目している。
「忘れたままでいればよかったのに……。そのままでいれば幸せになれたはずだったのに…………」
「違う! そんなの幸せじゃない!」
 令子は心から叫んだ。胸に抱いてきた想いをすべて声に変えて麻鬼に叩きつけた。
「おねえさまと一緒にいるのが幸せなの! おねえさまのいない人生なんて、いや! そんな世界、いらない!」

「…………だからよ」
 麻鬼の声音が変わった。
 冷酷に、鋭利に。
 声の刃が令子の嗚咽を断ち切る。
「そういうことを言わせないために、忘れさせたの」
「……」
 令子の喉がひきつった音を発した。
「折角幸せになれるようにしてあげたのに………………あなたは、何もわかっていないのね…………」
 麻鬼は依然目を閉じたまま、令子に向かって手を伸ばした。
 ただそれだけで、令子は身じろぎひとつできなくなった。
 手の平から発せられた冷たいものが、触手のように体に巻きついてくる。手も足も重しをつけられたようになり、立っているのがつらくなってきた。
 まだ麻鬼が暗示をかけてきたわけではない。昔の記憶が勝手に体を縛っているだけの、一種の自己催眠だ。そうわかっているのに、動けない。
「あ…………や…………やめて……」
「何を?」
 目を閉じているのに正確に令子の方を向き、微笑みさえしてみせた。令子は総毛立ち、それでいながら麻鬼の手から少しも目を離すことができない。
「ま、また、わたしの記憶を、い、いじるつもりでしょう! そんなの…………いや!」
「何のこと? あなたにそんなこと……する…………はずが……」
 麻鬼の声が尻すぼみになってゆく。
(!?)
「………………」
 麻鬼の手があらぬ方向に向いた。
 令子から注意がそれたのがわかった。
 美貌が苦痛に歪んだ。
 肩を壁にこすりつけるようにして、麻鬼の長身が前のめりに崩れていった。

「おねえさま!」
 我を忘れて令子は駆け寄った。靴が床上の鞭を踏んだ。
「く………………」
 片膝を突いて麻鬼は呻いた。ブラウスの背中に赤いものがにじんでいた。
「あああっ! ごめんなさい、おねえさま! ごめんなさい!」
 催眠をかけられそうになったことは脳裏から吹っ飛んだ。罪悪感でいっぱいになり、令子は半狂乱になりながら麻鬼を抱え起こした。
「…………リョウコ」
「はい?」
 呼ばれて反射的に返事をした。
 至近距離でサファイアブルーの瞳がきらめき、令子を射抜いた。

「あっ…………」
 令子の体ががくんと異様にひきつった。

「いやっ!」
 令子はすかさず目を閉じ、蒼い邪眼から己を守った。それでも筋肉が硬直し始めている。まぶたがくっついて開けられない。ここで暗示を与えられたら反応してしまう。反射的に麻鬼の体を突き放し、距離を取った。
 倒れたのは演技ではなかったらしく、麻鬼は無様なくらいによろめいて机にすがりつき、椅子に腰を下ろして息をついた。
 それに向かって怒鳴る。
「いや! あなたの催眠術はもういや! もう忘れたくない! あんな思いするのは絶対にいや!」
 麻鬼は机の引き出しを開け、予備のサングラスを取りだした。
 凝視しないように気をつけていたが、瞳が隠されたのでやはり令子は油断する。
 そこへ麻鬼が言った。
「……何もかも思い出したのなら、キーワードもわかっているわね」
 令子の肌が瞬時に粟だった。
 やはりこの手で来た。予想した中で最悪の展開。
「あの言葉、一言であなたを催眠に入れるあの言葉」
「いやあっ!」
 耳を覆って頭を振りたくる。
 別の機会に楽に催眠に入れるためにキーワードを埋めておくのは、催眠術師の常套手段だ。
 麻鬼もキーワードを使う。役者の決め台詞のように、いつも同じ言葉を。
「わたしが思い出したから、ただ言っても効果がないから、そうやって…………言うつもりなんですね、あれを……あんな、残酷なキーワード…………わたしの気持ちを知ってて! ひどい!」
「残酷?」
 麻鬼はこれ以上ないくらい優しげな笑みを浮かべた。
「そう…………じゃあ、使わないわ。約束しましょうか、あの言葉はこの先絶対に言わない。あなたに対してはどんなことがあっても口にしない」
 令子は身震いした。顔色が蒼白に変わった。
 すさまじい精神的ショックに襲われている。どんなキーワードだというのか。
「ああああああああ!」
 令子は叫ぶ。
「悪魔!」
 麻鬼はまるで動じない。それどころか賞賛の声を浴びたかのように優雅に笑ってみせた。
「どうしてそんなこと言うの? いやだって言ったのはあなたなのに?」
「ひどい……ひどい!」
「言ってほしいのならいくらでも言ってあげるわよ。昔と同じあの言葉。後催眠のキーワード。一言で催眠に入れるキーワード」
 執拗に繰り返すのは効果を高めるためだ。あの言葉を言われるとあなたは催眠に入る、という暗示をかけているに等しい。
「いらっしゃい」
 麻鬼は座ったまま手をさしのべた。令子はまたも自分の手足に見えない糸が巻きついてくるのを感じた。
「こっちへ来なさい、3号」
 足が勝手に動き出した。
「いや…………やめて!」
「私は何もしていないわよ。まだあなたに催眠はかけていない。わかるでしょう。私はただ呼んだだけ。あなたの体が私の言うとおりに動くのは、あなたがそれを望んでいるから」
「違う……違う!」
 弱々しく抗弁しながら、麻鬼の目の前で両膝を床に着いてしまう。麻鬼の腕が伸びてきた。抱き寄せられた。
「こうしてほしいんでしょう、3号」
「あ…………」
 麻鬼は美麗な唇をそっと耳元に寄せてきた。かすかな吐息が耳たぶの産毛をそよがせる。令子は身震いし、懸命にこらえようとしたが、麻鬼の抱擁は暖かく、息づかいはなまめかしく、全身が甘く痺れてくるのをどうすることもできなかった。

「――――」
 麻鬼はそっとささやいた。
 令子の体が痙攣した。
「い……いや…………」
 口ではそう反抗する。けれどもその表情は、遠い日々を懐かしく追憶するような、安らいだものに変わっていた。

 思いだす。
 消された記憶がよみがえるきっかけ。
 恋愛だった。
 相手は別の大学の、留学生。ドイツ人だったのは、もしかしたら潜在意識に麻鬼の面影が残っていたせいかもしれない。
 彼の部屋に誘われた。まだ深い関係になる気はなかったので、早々に引き上げるつもりでいた。
 そこで、言われた。
「リョウコサン、ワタシハ……」
 彼に“その言葉”を言われた瞬間。
 体全体が心臓になって、どくんとものすごい音を立てて脈打ったような気がした。
 なぜだかわからないが涙があふれて止まらなくなった。
 もう一回言って、と洪水に流されながら懇願した。
 相手は自分の情熱が通じたのだと誤解して、何度も繰り返した。
 気がつくと、男とベッドの中にいた。
 使い終わったコンドームがいくつも散らばっていて、相手の方が息も絶え絶えの有様だった。
 相手には何の愛情も感じなかった。だが、ひそやかなオナニーとは桁違いの、強烈な快感の記憶は生々しく残っていた。
 どうしてこうなったのか、不思議に思った。
 “その言葉”を自分でつぶやいてみた。
 途端に、体だけをそこに残して自分の存在がきゅっと縮まっていくような心地にとらわれた。
(これ…………何? どうして?)
 そこから始まって、令子は今ここにいる。

 麻鬼は再度ささやいた。

「私は……あなたが……好き」

 音量としてはほんのかすかな声。
 しかしそのささやきは、とうとうと流れる大河のように、圧倒的な力をもって令子の中に流しこまれてきた。
 そう、これが麻鬼の使うキーワード。
 ありふれているようでありながら、しかしこうはっきり口にされることは少ない。まして教師が生徒に言うことはまずありえない。
 関係ない人間に聞かれても催眠導入とは思われない利点も計算されている。先刻麻鬼がこれで佳奈を催眠に入れたときにも、長峰教師はそうとは気づかなかった。
 しかしそういうこと以前に、その言葉自体に恐るべき魔力がある。
 これを言われて心を開かない者がいるだろうか。
 令子は麻鬼の手口については大体心得ている。だから蒼い瞳の凝視にも抵抗できた。後催眠のキーワードはこの言葉だということも、もちろん熟知していた。自分で佳奈に言ってみて、効果を実験しさえもした。
 なのに、逆らえない。
 何年にもわたって積み上げてきたはずの恨みつらみがたちまち霧消していく。憎しみという分厚い鎧が瞬時に分解し、裸にされる。むきだしの心を麻鬼の声がなでる。もっと聞かせてほしい。どんな巧みな接触よりも濃厚な愛撫。至上の快感。もう一回聞かせてくれるなら、何でもしよう。何度でも何度でも、今みたいに耳元でささやいてくれるなら、何もかもこのひとの前にさらけだしてひれ伏そう。
 やっぱりこのひとは悪魔だ、と令子は思った。
 人間とはつまるところこの言葉が欲しくて生きてゆくものだ。この一言を誰かに言ってもらえれば、それだけでいかなる苦境をも乗り越えてゆけるものなのだ。
 かなうわけがなかった。これをキーワードとして埋めこまれた時点で、もはや令子の魂は麻鬼のものになってしまっていたのだ。悪魔と契約してしまったことに気づかなかった自分が愚かだった。
「わたしはあなたが好き。さあ、私のものになって、リョウコ」
「ああっ…………おっ、おねえ……さま……」
 令子は屈服した。自分は奴隷であり、3号であり、麻鬼のものであった。このまま深い催眠状態に入りこんでゆくと、目覚めたときには麻鬼のことが頭から消えてしまっているだろう。それがわかっていてなお、落ちてゆく快感に溺れた。
 麻鬼への想いにもかかわらずこうなってしまった自分が情けなく、理性が眠りこむ瞬間、涙が一滴したたり落ちた。

        (十)

 麻鬼はうつろな目に変わった令子を椅子に座らせた。
 肩を揺らす。手を離しても左右にゆらゆらと揺れ続けている。
「いい子ね。さあ、今度私が肩を叩いて話しかけるまで、あなたの体はずっとそうやって動き続ける。揺れているととってもいい気持ちで、どんどん深い催眠状態に入っていくの。……」
 それから麻鬼は電話をかけた。
「……もしもし、氷上と申します。院長先生をお願いします。
 …………私よ。怪我人が出たの。お願いできるかしら。……私よ。そう。……そんなに驚かないで。じゃ、もうすぐ行くから、よろしくね」
 受話器を置くと佳奈の所へ行った。颯爽とした風が見られないのはやはり背中の傷のせいだ。
「三つ数えると体が元に戻る。……」
 硬直が解けるなり、佳奈は涙いっぱいの頬をぬぐおうともせず、おそるおそる腕を伸ばして麻鬼の顔に触れてきた。
「どうしたの?」
「御主人さま…………お怪我は…………背中、大丈夫ですか……?」
「心配してくれるの。いい子ね。大丈夫よ、これから病院に行ってくるから」
 麻鬼は覆い被さるようにして佳奈の頬にキスをした。
「御主人さま…………あたし……忘れさせられちゃうんですか…………御主人さまのこと……?」
 催眠状態のとき、かけられた者の意識は術者に集中する。令子との会話が一言一句残さず頭に入っているのだろう。
「そんなの…………いやです…………!」
「大丈夫よ、可愛いあなたにそんなことしないわ」
「そうですよね…………」
 麻鬼の言葉は絶対である。一も二もなく佳奈は受け入れ、信じこんで安堵のため息をつく。涙をぬぐい、弱々しい笑顔を見せた。
 それから令子に目を向けた。
 おとなしい顔つきが一転、殺気だった。
 人形になっていて動けなかった間に憎しみばかりためこんでしまっていたのだろう、つぶらな瞳がぎらついていた。友人たちが見たら、悪霊でも取りついたかとぞっとするだろう。
「あのひと…………あたしに変なことさせて、長峰先生まで巻きこんで、御主人さまに、こんな……こんなひどいこと……よくも!」
 腰を浮かす。手はかぎ爪を作り、歯を凶暴にむき出す。まさかこれがあの気弱な佳奈だとは。
「やめなさい」
 絶対者に言われて佳奈は不承不承ソファーに戻った。
 今度はその口元に、これも普段からは想像もできない悪辣な嘲笑が浮かぶ。
「……3号。先輩だったんですね。だから、御主人さまの真似して、あんなことして……。でも、あんまり気持ちよくなかったし。なんか色々わめいてたみたいですけど、御主人さま傷つけるなんてことするんだから、まあ自業自得、捨てられたのも仕方ないんじゃありませんか? それを逆恨みして、御主人さまにひどいことして…………最っ低! めちゃくちゃにしてやりましょう!」
「やめなさい」
 うんざりしたように麻鬼が言った。
「35号。私は何ともないから、気を鎮めなさい。目を閉じて。はい、気持ちが静かになってきた。リラックスして、頭がぼんやりしてくる。なんだか眠い。眠い。深く、深あく眠る……」
「………………」
 麻鬼の言葉は天の声、佳奈の全ては麻鬼のもの。佳奈は即座にうっとりとした顔つきになってゆく。
「これからあなたはいつもの樋口佳奈に戻って、音楽室に帰る。楽器室に入って、ドアを閉めると、今見たこと、聞いたことは全部忘れて、すっきりした気分で目が覚める。いいわね。夢でも見たように、まだいくらか記憶が残っているかもしれない。でもそれは楽器を吹いているうちに薄れて、気にならなくなる。
 それから、部長さんに伝えて。私は具合が悪いので今日は帰る、合奏見られなくってごめんなさいって。下校するときにはみんな、危ない目にあわないように気をつけてとも言っておいて。このことだけは忘れない。きちんと覚えていられる。はい、じゃあ顔をきれいにして、行きなさい」
 佳奈はとろんとした目をして立ち上がった。邪悪な感情はもうかけらも残っていない。令子の姿も長峰麗子の姿も見えていない。ぎこちなくハンカチを取りだして顔を拭き、楽器室へのドアを開けて向こうに去っていった。
「…………恨まれてるわね。責任は自分で取るのよ」
 麻鬼は令子の方を振り向いて言った。
 無論、令子の反応はない。心地よさげに体を揺らしている。

         ※

「……まさかこの時代に鞭の傷の手当てをすることになるとは」
「人生、何が起こるかわからないものよ」
 診察時間が終わりがらんとした蜂谷医院で、麻鬼は診察台にうつぶせになり、背中の傷に薬を塗ってもらっていた。
「数日は痛むぞ」
「仕方ないわね」
「それにしても、やっぱり君にも赤い血が流れていたんだな。安心したよ」
「ふふ、青いとでも思ってた?」
「青かったら今頃面白いことになっていたかもしれんな」
 ヨーロッパでは王族の血筋のことを青い血と言う。
「その格好だと、海辺で日光浴しているみたいにも見えるな」
 麻鬼は上半身裸、相変わらずサングラスをかけたまま。
「じゃああなたは吸血鬼の背中にサンオイルを塗る狼男。シュールレアリスムもいいところね」
「マンガだな、どちらかというと」
 蜂谷医師は地鳴りのような声で笑った。
 真顔に戻り、振り返る。
 壁際の椅子に、どちらも深い催眠状態に入れられている麗子と令子が座っていた。
「彼女が、例の3号か。まさか君の封印が解けるとはな。
 ふむ…………確かに整形した顔だな。だがいい腕の医者にかかったな。普通に暮らしている分にはまず気づかれないだろう」
「指輪もいいでしょ。かなりのものよ、それ」
「資産家の娘なのか?」
「こう言っちゃ悪いけど、普通の家よ。だから不思議なの。聞き出してみないと」
「君のように、裏のバイトでもしているんじゃないのか」
「かもね。そのあたりも今晩、じっくり聞かせてもらうわ」
「うちはホテルじゃないんだが…………」
「今日の私は入院患者。よろしくね」
 蜂谷医師は鼻で笑い、麗子に目を移す。
「こちらの先生は?」
「今回は完全に被害者なんだけど…………朝霞さんに色々埋めこまれているようだから、解かせようと思って」
「君がやらないのか」
「できないこともないけど、面倒なのよ。宝探しみたいなもので、心のどこにどんな仕掛けが施されたかなんてこっちは知らないんだから、大仕事になっちゃう。仕掛けた本人に解除してもらう方が手っ取り早いわ」
「まあ好きにしてくれ」
 蜂谷医師は鼻をうごめかす。今回はどちらも彼の好むところの処女ではないので、それほど関心を持っていないようだ。
「しかし…………催眠術使いか。また壊す気か」
「まさか。教え子よ」
「さて、どうだか」
「前に言われたこと、こう見えても気にしてるんだから。人を不幸にするような使い方していなければ、何もしないわ」
「そこが問題だ。人間はそんなに立派なものじゃない。たとえ君の教え子でもね」
「そうかしら」
「いつも思っていたんだが、君は人間の欲望というやつを過小評価しがちだな。何もかも持ちすぎているから、持たない者の気持ちがわからない」
「………………」
「これは俺の予想だがね、きっと君は彼女を壊すことになる」
「そんなことするもんですか」
 麻鬼は語気を強めて言った。だがそれは自信が揺らいでいることの裏返しにも聞こえた。
「……じゃあ約束しましょうか。令子に関しては催眠では何もしないって。今の催眠から覚ましたら、もう二度と催眠をかけない」
「熱が出てきたようだな」
「あのね」
「うわごとを言っているようでは危ないぞ」
「そんなに私が信用できない?」
「この件に関してはな」
「じゃあ賭けをしましょうか。もし私が令子に催眠を使ったら、あなたの言うことをひとつなんでも聞く。逆にもし使わないでいられたら、私の言うことをひとつ、何でも聞いてもらうわ」
「のった」
「…………少しは考えてくれない?」
「考えるだけ時間の無駄だ。何をしてもらうかな。いくつか依頼が来ている。君がこれまで断っていた、人を不幸にするものをこの際やってもらうか。楽しみだ」
「そううまくいくかしら」
「いくさ」

         ※

 令子は大河を漂い流れていた。
 この河がどこへ行くのかわからない。たまに手足を動かして泳いでみる。だが河はあまりに広く、すぐに疲れてやめてしまう。流れに身をまかせている方がずっと楽だ。流れていればどこかへ着ける。どうしてわざわざ辛いことをする必要があるのか。
 ――――突然、令子は浮上した。
 岸辺に打ち上げられる。全身が今一度まどろみを希求するが、もう流れに入ることができない。折角の休日に早起きしてしまい、体は重く、寝直したいのに頭ばかりがどんどん冴えてくる、そんな感じ。すっきりした気分なのだがどこか口惜しい。
「………………?」
 ぼんやりと目を開ける。学校でも自分の部屋でもない、高い天井。どこかで見たことがあるが……。
「気分はどう?」
 言われて跳ね起きた。どんなときでも忘れるはずのない、麻鬼の声。
 自分はベッドの上にいた。枕元に椅子が置かれ、ガウンを羽織った麻鬼が優美に脚を組んでいる。目にはいつも通りのサングラス。
 その隣にもう一人、長峰麗子が座っている。こちらはまだ催眠状態にあるようだ。部屋は広いががらんとしていて薄暗く、アンティークな燭台が隅に置かれていた。
「ここ…………あの時の…………」
 令子は見回して涙ぐんだ。あの時というのがいつなのか、言った自分もわからない。麻鬼がいつも調教に使う部屋だ。自分もここで快感にのたうち回り、信じられない痴態を演じた。体の奥がじんと痺れてくる。もう何年もたつのに、まだ体が覚えているのだ。
 同時に、それを忘れさせられた恨みがよみがえってきた。二つの相反する感情が令子を責めさいなむ。
「また…………ここで、わたしを…………。今度こそ、何もかも忘れさせるつもりなんでしょう……?」
 口にしてから気がついた。
 学校で、麻鬼に催眠術をかけられたはずだ。
 なのに、どうしてまだ記憶がある?
「おねえさま…………?」
 令子は麻鬼を真っ向から見つめた。暗い照明のせいで、サングラスの下の瞳はまったく見えない。
「どうしてほしい?」
 麻鬼はそんなことを言ってきた。
「最初は、そうしようかと思ってたの。でも、わからなくなった」
「おねえさま…………」
「私はね、催眠術は、人を幸せにするために使うことにしてるの」
「しあわせ……?」
「そう、幸せ。
 また私のことを忘れさせることは難しくない。
 でも、それであなたが今より幸せになれるのか、わからないの。だから……」
「なれません! 絶対!」
 令子はすかさず叫んだ。天国へ引き上げてくれる蜘蛛の糸をつかんだ心地で、このチャンスを逃すものかと全霊をこめた。
「もう馬鹿なことはいいません! おねえさまが嫌なら、顔も見せません! 二度とこの街には来ません! だから、お願いです、忘れさせないで!」
「………………」
 まだ戻れることはわかっている。あのサファイアブルーの瞳を見つめて催眠状態に入れば、元の世界に帰ることができる。
 そこにこのひとはいない。何も起こらない平穏な毎日が続いてゆく。
 平穏に勝る大事なものはない。幸せは普通の生活の中にこそある。
 わかっている。
 でも…………普通の生活が、どれほどのものか?
 このひとのものになったときに知ったはずではないか。
 普通の人生を捨てた所に、素晴らしい快楽がある。
 令子は顔を背けた。
「…………いいのね、本当に?」
「ええ!」
 その瞬間、沢山のものが令子から去っていった。同時に恐るべき未来が令子の先に開けた。
 一筋の涙が、住み慣れた世界への訣別だった。
「…………そう……」
 麻鬼の手が頬をなでた。冷たかった。身震いした。
「嬉しいわ」
「あ…………」
 ……!
 このひとは、わたしを、許してくれた……?
 わたしを、受け入れてくれるの……?
 もう忘れないでいいの……?
 ずっと、このままで…………!?
「おっ…………おねえさま…………!!」
 抱きついた。
 麻鬼の背中から薬の臭いがしていた。鞭の傷に塗った薬と上から貼った湿布の臭い。こんな現実めいたものを知覚する以上、これは夢でも、催眠術で見せられている幻覚でもない。
 麻鬼はサングラスを外した。目尻が下がり、サファイアブルーの目が優しく微笑んでいた。それを見ても令子はもう何ともならなかった。その色あいの美しさをはじめてじっくりと鑑賞することができた。
「綺麗…………こんなに綺麗だったんですね……」
 手をさしのべ、麻鬼に触れる。
 首筋。頬。なんて滑らかな肌。しっとりして、冷たい。
 麻鬼はその手を取り、自分の口元へ持っていった。
「あ……あ、あっ!」
 指にキスされた瞬間、柔らかな唇の感触がクリトリスに触れるよりももっと強烈な快感をもたらした。こらえきれずに悲鳴をあげていた。今の自分は世界の主人公なのであった。望むもの全てがここにあった。
 このまま死にたいとさえ思った。

        (十一)

 長峰麗子に施した催眠暗示すべてを解除することに異議はなかった。元々麻鬼に仕返しをするためだけに虜にした相手だ。この世で一番大事な麻鬼が自分を認めてくれた以上、もう麗子などどうでもよかった。
「あなたの腕を見せてくれる?」
 令子はうなずいた。
 もはや隠すこともない。武者震いした。ここで催眠技術を認めてもらえれば、これから先も麻鬼と一緒に催眠で楽しむ日々を過ごせるかもしれない。
 麻鬼の助手。パートナー。あの35号はじめ、四つんばいになってひれ伏す女の子たちの前に麻鬼と並んで立つ。狙った相手を麻鬼と組んで落とし、自分たちの下僕にする。幻影に令子は酔った。これこそ望むべき未来だった。
 これまでなかったほど真剣に、また迫力をこめて麗子に向かった。麗子に抵抗の意志があったとしても、この令子の気合いの前には空しかったに違いない。
 一度目を覚まさせた。
 指を鳴らすと麗子は閉じていた瞼を上げ、数度まばたきして周囲を見回した。
「あ、あれ…………ここは……?」
「お目覚めですか、長峰先生?」
「あれ……朝霞さん…………氷上……!」
 呼び捨てにしたのはまだ先ほどの怒りが残っているからか。
「なんで! 何よ! ここどこ! どうして、わたし……!」
「先生はわたしの催眠術にかかっていたんですよ」
「さ……! 何よ、それ!」
「まだかかったままなんです。だから、ほら」
 麗子に赤い指輪を見せる。薄暗い中でも鮮やかなきらめきは変わらない。麗子の視線が吸いつけられた。
「あなたの体は動かない」
 途端に椅子の上で固まる麗子。
「な、なに……あれ……どうして……?」
 体を揺さぶるが指一本動かせない。
「ね、あなたの体はわたしの言うとおりになってしまうんです」
「何よ、これ……やめなさい!」
「立ちなさい」
 お尻が勝手に椅子から離れた。麗子は恐怖に青ざめた。
「ね、お願い…………やめて……許して!」
「許す? 何をですか?」
 令子は麗子の顔をはさみこむようにした。
「麗子、可愛い可愛い子猫ちゃんになりなさい」
 キーワードを与えられ、緊張していた目がふっと焦点を失い、顔つきがだらしなくゆるんだ。背筋がくたっと曲がり、膝が砕けて四つんばいになる。
「にゃお」
 お尻を麻鬼たちに向けて身を丸め、服の袖口を舐めはじめた。毛繕いをしているのだ。
「おいで」
 令子が呼ぶとその膝に身をすり寄せてきた。
「……いい子いい子」
 令子が手を伸ばすと自分から顔を上げ、顎をくすぐられるにまかせた。うっとりと目尻を下げ、うがいするように喉をごろごろ言わせる。
「ほうら、ほらほら」
 令子はハンカチを取り出し、麗子の目の前でひらひらさせた。
 半眼に閉じられていた目が大きく開き、麗子はハンカチを追って右に左に素早く首を振った。タイミングをはかり、指を折り曲げた猫手で飛びついてくる。令子がハンカチを丸めて投げるとだっと飛び出し、もんどりうって絨毯の上を転がった。脚が開き、パンティが丸見えになるがもちろん気にしない。すぐに起きあがり、ハンカチ目がけて文字通り突進した。つかみ、かじりついて転げ回る。その様には人間の尊厳などというものはかけらも残っていなかった。
「……普通、あそこまではさせられないわね。前から仕込んでいたんでしょう」
「やっぱりわかります?」
 令子は彼女を催眠にかけてから今日までのいきさつをかいつまんで説明した。すっかり麻鬼に許されたと思いこんでいて、手口を白状するのにためらいはなかった。
「なるほどね。二晩かけたんなら納得よ。そこまでやれるなんて、偉いわ」
 令子は誇らしさで満たされた。

         ※

「家に帰す前に、お礼をしなくっちゃね」
 服の乱れを直し、後はもう忘却暗示を与えるだけとなった長峰麗子を見て、麻鬼はそんなことを言った。
「お礼……ですか?」
「催眠術にかかってくれたお礼よ。楽しませてもらったんだから、お礼に何か幸せになるようなことをしてあげなきゃ」
「幸せ……?」
「私がやってもいいけど……やってみる?」
「は、はいっ!」
 ――――幸せにする。
 そんなことは考えたこともなかった。自分の欲望を満たす以外に催眠を使ったことはない。でも麻鬼が望むなら。
 必死で考えた。
 先刻の音楽準備室でのやりとりからすると、麗子は日頃から相当ストレスをためこんでいるようだ。それを発散させてやることに決めた。
「麗子さん。あなたは今音楽準備室にいます。あなたは氷上先生の悪事を知って、暴こうと乗りこんできたところ。目の前に氷上先生がいて、横合いに樋口さんが座っている。樋口さんはおかしな感じで、どうやら氷上先生の催眠術にかけられているみたい」
 令子がかける暗示を、麻鬼は興味深げに聞いている。
「今から三つ数を数えると、あなたの意識ははっきりします。ここは音楽準備室、目の前にいるのは氷上先生だけ。いい、わたしの姿は見えない、どこを見てもわたしは見えない。
 わたしの姿は見えないけれど、わたしの声は聞こえる。他のどんな物音よりもはっきり聞こえる。どこから聞こえてくるのかはまったく気にならない。そしてあなたはわたしの声の言うとおりになる。どんな突拍子のないことでも、全部受け入れてしまう。そうなってしまう。わかったわね」
 麗子はこくりとうなずいた。

 麗子の意識は元に戻った。
 あまりなじみのない音楽準備室の光景が麗子の目にはありありと浮かんでくる。机の上に広げられたファイル、脇に転がる鉛筆と消しゴムまではっきりと見える。
 壁際のソファーには、自分の担任クラスの生徒、樋口佳奈がうつろな目をして座っていた。氷上麻鬼の催眠術にかけられているのだった。誰かが教えてくれる。彼女を元に戻し、氷上教師の悪事をすべて暴くために自分はここにきた。そうだ、その通りだ。
『三つ数えるとその時に戻る!』
 手を叩く音がすると同時に、怒りが沸き上がってきた。声となって噴出する。熱かった。
「氷上先生! あなたのしたことはもう全部わかっているんです! 観念なさい!」
 糾弾することは快感だった。
 吸血鬼などという常識はずれのあだ名をつけられる教師。
 綺麗なのは認める。認めるからこそ、憎い。これは嫉妬だ。醜い感情。でも止まらない。
 こいつをめちゃくちゃにできるなら、口実は何でもいい。
 ――――自分の体に背後から腕がまとわりついてきたことは、まったく知覚されなかった。
 まして、その腕が胸のボタンを外し、乳房へ忍びこんできたことなどは。
「さあ、樋口さんにかけた催眠術を解きなさい! この変態!」
 ブラジャーがずらされた。見えない手が乳首をつまんだ。指でやわらかくはさみ、こりこりといじりまわした。
『はい、だんだん気持ちよくなります。氷上先生を罵ると、いやらしい気持ちになります。怒鳴りつけるのは気持ちいいこと。怒れば怒るほど、あなたはどんどん性的に感じて、気持ちよくなっていきます……』
 快感が背筋を突っ走り、麗子はますます声を荒げた。
「レズ! 変態! 生徒に催眠術をかけて好きにするなんて、信じられない! あんたおかしいわ! 他の子にもかけて、ひどい目にあわせていたんでしょう! どうにも吹奏楽部ばっかり優遇されると思ったら、こんな裏があったのね! そのおきれいな顔つきで、校長先生に取り入っていたんじゃなくって!? はん、図星ね! 素直に白状しなさい! 校長先生と何回寝たの! 教頭ともやってるんでしょう! あのスケベ親父と! わかってんだから、いっつもわたしの体に触ってくるセクハラ野郎が、あんたに手え出さないはずないんだから! 部活のために喜んであいつのくわえこんだんだ! 最低! 恥って言葉、知ってるの!?」
 言えば言うほど、乳首に熱いものが芽生えてきた。言葉の内容などどうでもよくなってきていた。声を出すたびに男のものが秘所を貫くような感じがする。甘い痺れが全身を包みこみ、子宮の奥底からずんと逆らいがたいものが響いてきた。
『ほうら、ものすごく感じてきた……。氷上先生を罵れば罵るほど、あなたは気持ちよくなってくる…………それは正しいこと……常識…………人を怒るときにはそうなるのが当たり前…………』
 脚の力が抜けた。麗子は脚を大きく開いてへたりこんだ。ちょっとみっともないが、これでいいのだ。氷上先生に下着を見せるのは怒鳴りつけるのと同じことなのだった。何か引っかかるものがあったが、悠然と座っている麻鬼の姿を見ると、怒りが理性を追い払った。
「何笑ってんの! 自分のやってることわかってんの!」
 反省の色がまるきり見えない。許せない。だったらもっともっと見せてやる。その鉄面皮が崩れるまで、わたしのいやらしい姿を見せつけてやる。麗子は自分からスカートをめくって濡れた青いパンティをあらわにした。
『さあ、自分で触ってみましょう。これまで感じたことがないくらいいい気持ち……』
「ほら、見なさい! あなたのやった結果がこれよ! なんてスケベなの、この変態! あんたは変態よ、変態! ぐちょぐちょでしょ! あんたのせいよ! わかってんの、このレズ教師! どうせまともに男とつきあったことないんでしょ! だからレズに走ったんだ! まあお可哀相に! 男日照りのあまり生徒に手を出す! みっともなさの極致ね! 死んだ方がましだわ、あんた!」 
 麗子は指をパンティの下に這わせていった。秘裂をまさぐり、陰核を探った。これまで味わったこともない快感によがり声がこぼれた。声を出せば出すほど麻鬼に衝撃を与えるはずだった。恥じらいをかなぐり捨て、感じるままに声をふりしぼった。
「ああっ! はっ、ほ、ほら、見なさい! 何目ぇそむけてんの! あんたはこれを見るの! 見なくちゃいけないのよ! あんたのせいでこんなになってるの、わかる! はは、じっくり見てるじゃないの、この淫乱! スケベ! 変態! はあっ、わ、わたしの、アソコから、エッチな汁がにじんでるの、見て、じっくり見て、あたしの子宮の奥からにじんでるの見て、喜んでるんでしょ! それでもあんた教師なの? 笑っちゃうわ、ヘンタイ!」
『パンティが邪魔です。脱ぎましょう。脱ぐのは正しいことなんです。あなたは正しいんです。何もかも脱いで、氷上先生を叱って、もっと気持ちよくなりましょう……』
 麗子はパンティを脱ぎ捨てた。スカートも脱いだ。上着も脱ぎ、ブラジャーはホックも外さず引きむしった。
「ほうら、見なさいよ! わたしは裸になったの! わかる? あんたにまだ少しでも良心ってもんが残ってるならね、被害者全員に土下座して謝んなさいよ! でないと、こうだからね!」
 乳房を握りしめた。形が変わるほどに強く握り、こね回した。胸の形の良さには自信がある。彼氏はいつも胸をじっくり愛撫してくれる。ものすごい快感だ。麻鬼の顔が歪む。衝撃を受けているのだ。ざまみろ。あたしのこの自慢のおっぱいを、よく見ておきなさい、変態教師。
 ――――無論麻鬼は笑いをこらえているのだが、麗子にはそうは認識されない。
「まだわかんないの! あ、あんた日本語わかる? 猿じゃないんでしょ? くっ……口きけんのなら、なんか言いなさいよ! あっ! き、気持ちいい! で、でないと、わたし、イク、イッちゃうからね! 知らないわよ! あんたが悪いんだからね! あああっ!」
 麗子は片手で胸を揉み、もう片手で秘所をいじり、体中を桜色に染めて、高い声を上げて悶えた。
 そこに背後から抱きついてきた令子の愛撫が加わる。その存在は認識できないが、体に触れる手指の感触は伝わってくる。急所を的確に刺激され、一気に麗子は絶頂に押し上げられてゆく。
 相手が麻鬼なのか別の人間なのか、もうわからない。
 色々なものが渦巻く。
『センセー、そんなことも知らないのお?』知識をひけらかして言ってきた生意気な映研の生徒。
『長峰先生、今度お食事でもご一緒にいかがです?』脂ぎった手で触れてきた中年教師。その後トイレで三回手を洗った。
『邪魔よ、オ・バ・サ・ン!』クラブで好みの男の子を中学生ぐらいの子に奪われた時、投げつけられた言葉。
『お前の学校にさ、ハーフのすごい美女がいるんだって?』つきあっている男がセックスの後に。
「うああああぁぁぁぁ! いい、ああっ、いっ、イクううううううぅぅぅっ!」
 つもりつもったものが一斉に爆発した。

         ※

「……どうでした?」
 おそるおそる令子は訊いた。
「面白かったわ」
 憑き物の落ちたような顔でのびてしまっている麗子の裸体を見下ろし、麻鬼は微笑んだ。
「罵倒と快感をつなげてしまうなんて、よく思いついたわね」
「結構サドっ気あるみたいなので、やってみたら……思った以上に無理がなかったみたいです」
「そのようね。これから先、おかしな趣味に目覚めなきゃいいけど。
 それで、この後は?」
「え…………忘れさせて、家に帰す……」
「それじゃ何も変わらないでしょ。私が幸せにって言っているのはね、一時的なストレス発散じゃなくって、ストレスの原因を取り除く方へ導いてあげなさいっていうことなの。
 いじめで言うなら、騒いで、笑えば、その場だけはいじめられた苦しみを忘れることができるかもしれない。でも、いじめそのものがなくならないと、いつまでたっても同じことの繰り返し。それじゃ駄目。そういうこと。
 対症療法も大事だけど、できることなら体質改善の方向でいかなくちゃ」
「………………」
「そう難しく考えないで。ちょっとした暗示をひとつつけ加えるだけでいいのよ。私にやらせてくれる?」

 この後麻鬼が麗子に与えた“ちょっとした暗示”を聞いて、令子は心底戦慄した。

        (十二)

 昼からの名残で雲の多い夜空に、下弦にさしかかった月が時折不格好な顔を出していた。
 長峰麗子は明るい街灯の光の中を歩いていった。足取りはしっかりしているが、目は真正面しか見ていない。
 歩いて十分ほどの駅までそのまま歩いていき、駅のホームでベンチに腰かける。そして深呼吸を三つすると何もかも忘れて目を覚ますように暗示が与えられていた。仕事帰りに疲れてうたたねをしてしまったということで、もし若干記憶が残っていたとしても、夢として自分で勝手に片づけるに違いない。
 その後ろ姿を窓から令子が見下ろしていた。
 蜂谷医院最上階の特別室。かつて須藤真央が入院していたことのある広い部屋だ。今晩は麻鬼はここに泊まる。令子もちゃっかり一緒に寝るつもりだった。
「行った?」
「ええ」
 振り返って令子は赤面した。
 サングラスを外した麻鬼がベッドの上に座っている。
 ただそれだけなのに、令子は悩殺された。初夜を迎えた新妻のようにもじもじとする。
 強い酒を一気にあおったかのように頬を染め、よろめいた。紗幕のかかったような目つきになって、ベッドに引き寄せられてゆく。
 自分の記憶を消さなかったこと、共に麗子をいじくったこと、そして今こうして同じベッドに入っていることで、令子はすっかり麻鬼に受け入れられたものと思いこんでいた。
 令子は心の中ではもう麻鬼のパートナーだった。これから先も、ずっと一緒にいられる。そのイメージに陶酔した。麻鬼が怪我をしていなかったら最高の奉仕をしてあげるつもりだった。
「ね、おねえさま……」
 麻鬼の隣に座り、体をもたせかけた。手を伸ばして太腿に触れた。ひんやりとして、手に吸いついてくるような肌触りだった。じかに体を重ね合ったら、それだけでイッてしまうだろうと思った。
「やめなさい」
 穏やかだが有無をいわさぬ声が令子の夢想を断ち切る。
「そういうのはあんまり好きじゃないの。誤解していたら私が悪いんだけど、私、レズじゃないのよ」
「わかってます…………。わたしだって、そんなじゃ……。
 でも、今のこの気持ち、わたしの心はもう何もかもおねえさまのものなんだから、せめて体でこうするぐらいしか、今の気持ちを表せなくて、だから……」
「そんなこと気にしないでいいの。あなたの気持ちは十分に受け取ったわ。
 それに、そのおねえさまっていうのもやめて。先生、でいいわ」
「そんな……おねえさまを、そんな風には……」
「学校では呼んでくれていたでしょう? そのままでいいのよ」
「でも、学校は学校で…………。プライベートでは、やっぱり…………」
「だったらいいけど、人に聞かれないように気をつけてね。私、こう見えても小心者だから」
「………………」
 令子は目を丸くし、それから声をあげて笑った。
「じゃあ、どう呼びましょう? あの佳奈ちゃんみたいに、御主人さまとか。いっそのこと、さっきの長峰先生風に、あんた、なんて、はは」
「ふふ」
 麻鬼も軽く笑った。
 そのかすかな笑顔を見て、令子は心から幸福感をおぼえた。涙がこぼれてきた。こうなることをずっと夢見てきたのだ。

「長峰先生…………どうなるんでしょう?」
「心配? 大丈夫よ。うまくいけば幸せになるし、そうでなくても不幸せにはならない。そういう暗示だから、あれは。少なくとも今より悪くなることだけは絶対にない」
「………………」
「何を気にしているの?」
「怖いなって……。あのおとなしそうな長峰先生が、口汚く罵って、おねえさまをひどく鞭打って、しかもそれを喜んでた…………。人間の内側って、ものすごく怖いんだなって思って……」
「誰だって潜在意識には邪悪を秘めてるものよ。私だって何が出てくるかわからないわ」
「おねえさまも?」
「私も、佳奈も。……あなたもよ。はじめてあなたに催眠をかけたときのことは思い出した?」
「いえ…………何をさせられたんですか?」
「深く入れたあとに、いつも言えないでいることを、誰にも聞かれない場所で大声で叫ばせたの。あなた、かなり鬱屈しているようだったから」
「それで……?」
「いろんな人の悪口を、泣きながら怒鳴ってたわ」
「…………お姉ちゃんのことも……?」
「ええ。一番沢山。でも勘違いしないでね、あなたがお姉さんを嫌っているということではないのよ」
「……わかってます…………」
 令子は目を伏せ、かすかに「でも……」とつぶやいた。
 麻鬼はそんな令子の様子をじっと観察している。

「ねえ、朝霞さん」
「……そんな言い方、やめてください」
「ごめんなさい。でも、もうリョウコでも、3号でもないし」
「令子、でいいんです」
「アメリカ人じゃあるまいし、あまりそういう不作法なことはしたくないのよ。令子さん、かしらね」
「そんな、他人行儀な……」
「私はその方が好きなんだけどね。まあいいわ、それより、他のみんなは元気?」
「…………ええ…………みんな、自分の人生を歩んでます……。
 1号……陽子は、大学でバンドやってます。この間、プロデビューできるかもしれないって言ってました。
 麗華は、弁護士目指して……司法試験に挑戦して、論文試験でかなりいいところまで行ったらしいです」
「4号、文子は?」
「アメリカに留学しました。向こうで彼氏見つけたらしくて……もしかしたらお姉さまみたいな子供生むかもしれません」
「ふふ。みんなちゃんとやっているようね。嬉しいわ。
 それで、あなたは? あなたがどうしてここにいるのか、まだ聞かせてもらってなかったわ。どうやって思い出したの?」
「………………」
 令子は留学生との件を説明した。
「なるほど、外国人ね……盲点だったわ」
「わたしはあなたが好き、なんて日本人は普通言いませんものね。好き、好きだ、好きだよ、君のことが、つきあって、愛してる」
「これからはちょっと考えましょう。
 それで、その後は? いつから、どうやって催眠術を練習したの?」
「最初は、自分の頭がおかしくなったんじゃないかって、ひどく悩みました……」
 友達をたどって、催眠療法を勉強している学生と知り合いになった。
「親しくなって…………かけてもらって……。こっちが慣れていてかかりやすいものだから、色々エッチなことしてきました。でも…………おねえさまに比べれば全然……」
 麻鬼に身をすりつけ、白磁のような頬にキスをする。
「そのひとに記憶を取り戻してもらったの?」
「どうしても思い出したいことがあるからって。最初は面白半分だったらしいんですけど、だんだん本気になってきて」
 麻鬼にかけられたプロテクトは完璧だったが、令子自身が思い出そうという意志を強固に持っていたのでので、破るのにそう時間はかからなかった。
「思い出してから…………何も思い出してないふりをして……その彼に催眠術を習ったんです……」
「私への復讐のために」
「ええ」
 令子は指輪に目を落とした。
「そのひとで練習したの?」
「ええ。催眠状態でわたしが口走ったおねえさまのこと、忘れさせないといけなかったし。彼、わたしが自分よりとっくに技術が上になっているの、気づかなかったんですよ。だから記憶いじるついでに色々遊んじゃいました」
「へえ」
 長年抱いてきた恋の成就に令子の目がくらんでいなければ、麻鬼の目がそのとき鋭い光を放ったことに気がついただろう。

「大学からの書類は朝霞になってたわね。名字はどうやって変えたの? 改名にはよっぽどの理由がいるはずだったけど。私への復讐のためなんて通るはずないし……まさか結婚したわけじゃないでしょう」
「……ふふふ、簡単ですよ」
 令子はどこか虚無的に口にした。
「両親を離婚させたんです」
「………………」
「ある程度の催眠技術を使えるようになってから、実験もかねて。父さんには浮気したくなるようにさせて、母さんにはこれまで気にくわなかったところばかり思い出すようにして。わたしがまだ未成年でいる間にうまく別れてくれたから、母さんの方についていって、母の旧姓に変えたんです」
 恐るべき告白であった。
「お姉さんは?」
 令子は麻鬼の表情を探った。妖しいアルカイックスマイル。それは自分の行為を認めてくれているのだと、これまでの身勝手な思いこみを元に決めつけた。ここまでの仲になった以上、何もかもさらけ出しても問題ない。むしろ自分がそこまでの腕を身につけたということで、喜んでくれるだろうと信じた。
 令子は薄笑いした。
「ふ、ふ、ふふふ……。お姉ちゃんは……あんなやつ、大っ嫌いだったから…………」
「かけたのね?」
「本人はかからない自信があったみたいだけど、試したらあっけなく落ちて…………。
 今でも一緒に住んでます。……毎日、スーツ姿で出勤して…………あは、あはははは、律子のやつ、毎日毎日男たちに素っ裸でサービスしてるくせに、自分じゃきちんとした会社で働いてるつもりになってる!」
「風俗店……?」
「ええ!」
 令子は誇らしげに言った。麻鬼に抱きついていったその瞳には、どこか狂的な光があった。
「あれで見た目はいいから、結構人気者らしいんですよ。たっぷり稼いでくれてます。二回ほど、外でお客取らせたら妊娠しちゃって、堕ろさせました。麻酔なしでも痛まないように、ちょっと手伝ってやりましたよ」
「へえ……じゃあ、その指輪と、顔の整形は……」
「あいつに……貢がせたって言うんですか、こういうのも? でもそれだけじゃまだ足りなかったから、大学の、気にくわないやつ、ビデオに出演させたり、お客取らせたり。そいつの妹とか、その友達とか、ネットワーク広げて、今じゃもう二十人ぐらいいますよ、わたしの子猫ちゃん」
 麻鬼を押し倒す。痛がるのも無視して強く抱きしめる。
「…………これも全部、おねえさまのせい……。
 思い出した時に味わったあの絶望……苦しみ……悲しみ……。
 おねえさまにもう一度会って、全部お返ししてやる…………復讐してやるんだ……思い出してから、ずっとそう思って……そのために…………だから!」
 うわあああ、と声を上げて泣いた。
 そのせいで、麻鬼の瞳が凄絶な光を放ったことにはついに気がつかなかった。

          ※

「賭けは私の勝ち」
 朝、蜂谷医師に麻鬼は告げた。
「でも…………正しかったのはあなた」
「そうか。やはりな」
「おねえさまーっ! 遅れますよーっ!」
 何も知らずに弾んだ声で、玄関先から令子が言った。
「ええ、令子」
 麻鬼は返した。
 そういう風には呼ばないはずではなかったのか。
 声だけはこの上なく優しかった。
 麻鬼の顔を見た蜂谷医師は蒼白になった。巨体が何かに押されたように後退した。叫ぶように唇が勢いよく動いたが、声帯が凍りつき、まともな声を出すことはできなかった。
「ど…………どうする気だ……」
 蜂谷医師はようやくそれだけ言った。情けないくらいにかすれた声だった。
「卒業した後、この街に来たいらしいんだけど」
 麻鬼は静かに答え、微笑んだ。
「困るわね、ああいうひと」

         (十三)

「あ…………」
「ねえ、ちょっと……!」
「あれ……見てよ!」
 高陵学園への坂道。
 登校してくる生徒たちの視線が残らず釘付けになった。
 朝の光が輝きを失い、薄かげりがかぶさってきたように思われた。
 麻鬼が歩いている。
 それだけなら珍しいことではない。気分転換なのか、車を使わない時がたまにある。もっとも、電車に乗っている所はいまだかつて誰も見たことがないのだが。
 その隣だ。
 他人を寄せつけない妖しい雰囲気を濃厚に漂わせ、一人でいるのが常のはずの麻鬼に、教生の朝霞令子が寄り添っている。赤い指輪が中指ではなく薬指にはまっていた。
 話しかける時の華やいだ表情、言葉少なに答える麻鬼を見上げる熱い眼差し。どんな朴念仁にもすぐわかる“恋人”の顔。世界には自分と麻鬼しかおらず、他のものは目に入っていない。
 学校中がその話題でもちきりになった。

          ※

 音楽室。
 生徒たちはしきりにひそひそ言い交わし、令子に好奇半分反発半分の目を注ぐ。時折麻鬼を振り返る者もいる。普通なら決してありえない。このクラスばかりでなく、学校中に浮わついた空気が満ちていた。
「出席を取ります。足立さん。飯島さん。井上さん。……井上さん?」
 令子は顔を上げた。ちらほら空席がある。
「井上愛実さん。お休み?」
「マナミ、さっきまでいたよねえ」
 最前列の生徒が隣の生徒にささやいた。
「……須藤さん。須藤真央さん?」
「真央がサボリ? 珍しい」
「深川さん。福田さん。本城さん。……本城さん?」
「…………ブラスの子、全員いないね……」
 令子はちらりと麻鬼の方を見た。
 その前の時間、二年生のクラスで、これも吹奏楽部の生徒が残らずエスケープしていた。その時は気にもとめなかったのだが……?

 授業が終わって準備室に入るなり、令子は麻鬼にしなだれかかった。その前の休憩時間もそうだった。麻鬼は相手にせず自分の机につく。背中はまだかなり痛むはずだが、そんな素振りはかけらもあらわれていない。
「みんなどうしたのかしら。ね、おねえさま」
 麻鬼の頭を抱きかかえ、髪のにおいをかぐ。
「朝霞さん。ここは学校よ。遠慮しなさい」
「はあい。……」
 高校生当時を再現するつもりなのか、令子は幼く語尾を伸ばして返事した。
「あ、もしかしたら、みんなわたしに嫉妬して……?」
 空気はわかっていたが、まったく頓着しなかった。
 それどころかますます自信たっぷりになった。今の令子は優越感の塊であった。何といっても自分は麻鬼のパートナーなのだ。ナンバーズよりもさらに上だ。催眠技術も持ち合わせた自分を麻鬼が重宝しないわけがない。
「でも、折角いい感じになれたのに、今日と明日で実習終わりなんですよね」
「そうね」
「じゃ、おねえさま、今度の週末つきあってくれますよね?」
「用事があるんだけど」
「どうせ落とした誰かで遊ぶんでしょ? そんなの後でもできるじゃないですか。わたしまた大学に帰んなきゃなんないし、採用試験でしばらく余裕ないから、ね、おねえさま、そんなのキャンセルキャンセル!」
 令子は図々しく言った。わがままを言って、相手がどこまで受け入れてくれるかを確かめているのである。
「……仕方ないひとね」
 麻鬼はどのような意味にも取れそうな曖昧な言い方をした。令子はもちろんいい意味にとって有頂天になった。
 次の時間は授業がない。職員室に用があった。
 出席簿を脇にかかえて立ち上がった麻鬼に、令子は腕を絡めようとした。麻鬼にすげなく振り払われても、学校だから仕方がないと軽く肩をすくめただけだった。
「……樋口さん、どう思う?」
 廊下で麻鬼が訊いてきた。
「35号……ですか?」
 一応声はひそめている。
「似てるわ、あなたたち」
「似て……ますか…………」
 令子はなぜ麻鬼がそんなことを言い出したのか、考えこんだ。

          ※

 校長室の回りに生徒が群がっていた。
 扉に近づきはしない。遠巻きにして様子をうかがっている。サファリパークで車の中から猛獣を見物するような、怖いもの見たさの顔ばかり。
 扉が開いた。
「しつれーしやしたっ!」
 一声叫んで生徒が出てきた。かなりの長身だが猫背だ。整っているがふてくされた表情、どこか普通の生徒と異なる黒々とした気配。
 様子見の視線がたちまち消え失せた。
 移動するにつれて、休み時間の喧噪が水が引くようにやんでいった。
 出てきたんだ、停学明けたんだと耳打ちが波のように広がってゆく。
 以前にもまして厳しい、猛禽のような目つきが左右を見回した。誰もが目をあわせるまいと下を向き、震えた。
「アヤ!」
 ポニーテールの生徒の姿を認めると、その目がさらに鋭さを増した。灼熱していながら暗い、地獄の業火を思わせる光があらわれた。
「アヤ!」
「………………」
「どうしたんだよ、一体……。何か、あたし、悪いことした? だったらあやまるからさ…………ねえ!」
「どきな」
 冷酷にアヤは万里江を押しのけた。
「アヤ!」
「うるせえ、人形」
「……なんだよ、それ……」
「あ、いたいた」
 別の声が廊下の向こうから飛んできた。
 ショートカットの生徒であった。襟章は二年生。笑顔が明るく動作が機敏、ボーイッシュな美少女だ。
「よう」
 アヤは万里江を無視してそちらに挨拶した。
「どっちだ、おめー?」
「へっへっへー、わかる?」
「だ、誰よ……それ…………」
「それ、はないでしょ、上級生に」
 万里江を見た表情こそ明るいが、目に油断ならない光が宿っている。“邪悪”と、万里江はそういう第一印象を持った。
「ボクたちのこと知らないの?」
 万里江の背後から声がした。振り向くと、今見たばかりの美少女がそこにいた。
「え……?」
 双子だ。同じ髪型をしていて、どちらがどちらかまったく見分けがつかない。
 双子はアヤの左右に立った。見ればみるほどそっくりだ。アヤの腕に腕を絡めたポーズまで同じ。鏡を見ているようだ。
 思いだした。二年生の、有名な双子。名前は……。
「おっしゃあ、来た来た、待ってたでえ〜っ!」
 甲高い声がさらに加わった。
 小学生と間違えられても不思議のない小柄な体。くりっとした大きな目に両側でしばった髪、愛くるしい笑顔。迫水千尋、という名前は万里江も知っていた。新聞部の名物部員。
「よう、ちひろ」
 アヤは笑顔で応じた。万里江はがんと頭を殴られたように感じた。アヤがこんな顔を他人に向けたのは見たことがなかった。
「やっぱアヤさんおらんとガッコもつまらんわー。これからばりばりやるでえ、な!」
「オレに何させる気だよ」
「へへ、それは秘密。ま、今度、な。とにかく、行こか」
「待ってよ! アヤ!」
 背中を向けたアヤと双子、千尋がそろって振り返る。
「アヤさんのツレ? だったらうちのツレもおんなじや。紹介してや」
「……いや。知らねーな」
「アヤ…………」
 愕然と立ちつくす万里江に、今度こそ背を向けて去っていくアヤ。
 その丸まった背中に、稲妻がはしった。
 窓ガラスが振動して音を立てたのは気のせいか。
「アヤさん? どしたん?」
 アヤは振り向いた。
 万里江を見たのではなかった。その頭上、廊下の向こうに憎悪の視線が飛んだ。
 千尋と双子がびくっとなって離れた。万里江でさえ総毛立って後ずさった。
 戦闘モード。
「氷上…………!!」

「どうしたんですか?」
 足をとめた麻鬼に令子は尋ねた。麻鬼の視線を追うが、生徒が多くてよくわからない。身長差はどうしようもなかった。
「……いえ、いいの」
「誰かいたんですか?」
「ふふ。面白いことになりそうね」
 麻鬼は艶然と微笑んだだけで、それ以上は何も言わなかった。

          ※

 金曜日、放課後。
 全ての日程を終えた教育実習生たちを前に、校長が訓辞を垂れた。
 立派な教師目指して頑張ってくれとか何とか言っている内容を、令子は右の耳からから左へ聞き流した。
 言われるまでもない。これからは全身全霊打ちこんで教師への道を進む。
 来年度から高陵学園は麻鬼の補助として音楽講師を一人増やすらしい。この少子化の時代に、逆にそうすることによって教育内容の充実を図る方針だそうだ。入学志望倍率の高いお嬢様学校としては、まあそれもありかと思う。
 その増員枠に必ず入りこんでみせる。麻鬼はそれには力を貸しはしないとはっきり宣言した。でも構わない。おねえさまと一緒にいられるようになるためなら、ライバルは残らず蹴落としてやる。どんなことをしてでも。
 そういう先のことはともかく、令子の脳裏には官能的な光景が満艦飾で展開されていた。
 明日明後日の休日、麻鬼とデートだ。強引に約束を取りつけた。
 数年来の想いが実った。最高の休日になるだろう。
 麻鬼のことだから、自分に催眠をかけて色々遊んでくれるに違いない。数十枚の舌で全身を愛撫される暗示が与えられるかもしれない。数十分にわたって覚めることのないオーガズムが来るかもしれない。普通のセックスでは味わえない悦楽の世界が待っている。
 体が熱くなってもじもじした。緩んでくる頬を必死で引き締めなければならなかった。

 音楽準備室へ挨拶に行った。明日会うのだから必要はないのだが、麻鬼の顔を見られる口実があるのならどんなものでも使うべきだ。
 それともう一つ、確認しておかなければならないことがある。……

 麻鬼は音楽室にいた。金管パートだけで練習する金管分奏を見ている。
「お世話になりました」
 一応表面的には折り目正しく礼をする。
 同時に部員たちに目をやった。
 どの目も険しい。おとといまではこうではなかった。昨日今日のうちに、令子に対する反感が深く根を張っていた。誰にも理由はわからないのだが、朝霞は気にくわないということで一致している。潜在意識のレベルで令子に嫉妬しているのだ。もちろん令子は気にもとめない。嫉妬されるのは勝利者の特権であった。
 音楽室を出てから、木管パートが練習している各教室を一通りのぞいて回った。
 サックスの部屋で、羽住祥香を見つけた。
「………………」
 これまでは親しく話しかけてくれていた祥香もまた、不快げにそっぽを向いた。
「さて、と。……」
 令子は平然と学園を引き上げた。

 駅までの坂道を下ってゆく。
 駅の手前で立ち止まり、少し思案してから足をよそへ向けた。
 繁華街を歩いてゆく。目的地があるのかないのか、右に左に無造作に歩く。
 やがて、薄暗い路地に入りこんだ。
「………………」
 何があるのか、何の変哲もないビルの壁面を見上げる。
 その背後に激しい足音がした。
 令子は横に飛んだ。脇をかすめるようにして突き出された腕をかかえこみ、ねじり上げる。小さな手からカッターナイフが落ちた。
「やっぱりね」
「くっ…………!」
 腕を取られた佳奈は、脂汗を浮かべつつも令子を睨みつけた。
「あんたは35号? それとも……?」
「35号って何よ! 知らない!」
「あら、本人」
 令子は驚き、すぐに納得した。
 今の佳奈は、一種の二重人格に仕立て上げられている。
 影の人格ともいうべき35号は、この世で一番大切な御主人さまを奪った自分を憎んだ。
 だが35号はあくまで影、麻鬼の言葉がないと表に出てこられない。
 そこで、主人格である佳奈を表層意識の下からそそのかしたのだ。
 佳奈はどうして自分がこんな大それたことをしたのかよくわかっていなかっただろう。ただ令子が憎くて、我を忘れて――――まさにその通り――――カッターを振るった。問いただしてみても、どうして令子が憎いのかさえ答えられないに違いない。
「ふん」
 せせら笑い、その目の前に赤い指輪を突きつける。
「わたしは二年半あのひとのものになっていた。あんたはまだ一月もたっていない。それでわたしにかなうと思ってるの?」
「?」
“本人”である佳奈にこの言葉の意味はわからない。
「いい、お前はね、“猫ちゃんの集会”でニャーニャー言ってるのがお似合いなの」
「!」
 佳奈の後催眠はそのままになっている。佳奈に関しては麻鬼の支配権の方が強いので、簡単に麻鬼が解除できるからだ。
 剣呑にぎらついていた佳奈の目つきが光を失う。
「そうよ、お前は催眠状態に入った。とてもいい気持ち。わたしの言葉には逆らえない」
 ふらふら立つ佳奈を壁によりかからせる。手早く催眠を深化させた。
「お前が後輩でなかったら、ここでストリップでもさせてやるところだわ」
 冷酷に言う。麻鬼の前とはまるで違う。これが本性であった。
「わたしの質問に答えなさい。答えるとすごく安心できる。嘘をつくと乗り物に酔ったような嫌な気分になっちゃうから、正直に話すのよ」
「はい……」
「わたしを襲ったのは……誰かの命令?」
 特定の名前、あの高貴な名は口にすることができなかった。おねえさまと言いたかったが、そう言うと佳奈が反発するだろう。催眠から覚めてしまいかねない。
「いいえ」
 令子は安堵した。
 佳奈をこういう行為に走らせることは麻鬼なら簡単にできる。もしやと思って訊いてみたのだが、やはり違った。麻鬼が自分に危害を加えるつもりなら他にいくらでも方法がある。こんな稚拙、かつ卑劣な手は使うまい。
(やっぱり、おねえさまはわたしを愛してくれている……!)
 令子は確信した。
 麻鬼は佳奈がこのような行動に出ることを危惧していたのだ。
 だから、佳奈と自分が似ていることを示唆した。
 令子はそれを聞いて、自分が佳奈の立場だったらどうするだろうと考えた。
 結論は、「許さない」だった。お礼参りしてやらねば気が済まない。
 だから帰る前に吹奏楽部をのぞいた。佳奈はじめ部員たち、特にナンバーズの所在を確認した。すると佳奈がいなかった。これは来るな、と思い、誘い出したのである。
「はい、こっちを向いて」
 令子は佳奈を壁に向かって立たせた。
「校歌を歌いなさい。三番まで、元気よく、できるだけ大声で。歌っていると晴れ晴れした気持ちになるわ。三番まで歌い終わると、今あったことは何もかも忘れて目を覚ます。はい」
 背中を叩くと、佳奈はぴんと背を伸ばし、やや顔を上げて堅苦しい歌を歌い始めた。
 何だ何だと足を止める人々を尻目に、令子は笑いながらその場を離れた。

 駅のホームは帰宅ラッシュで混雑していた。
 さて、これからと令子は考える。
 家で姉にいつも通りの暗示を与える。姉にとっては土日は平日、いつも以上に一生懸命“働く”日だ。
 大学で自分の帰りを待っている“子猫ちゃん”も沢山いる。帰ったら早速可愛がってやろう。
(そうだ、おねえさまにも紹介しよう。わたしのものはおねえさまのもの。だからあの子たちもみんなおねえさまのもの)
 麻鬼は喜んでくれるだろう。
 狙っているのだがなかなかうまく落とせない子がいる。麻鬼に力を借りてみようか。
 電車が入ってきた。
 令子は夢想し続けていた。
 背中を押された。
 強く。
(え)
 耳をつんざくブレーキ音。
 巨大な車体がのしかかってくる瞬間、令子はホームに立つ制服姿を見た。
 あれは……
 吹奏楽部の……!
(どうして……!)
 ナンバーズでもないのに。
 笑っていた。
 甲高い悲鳴がホームを切り裂いた。

「あのひとを! 手が! 男のひとの手! 突き落としたんです!」
 駆けつけてきた駅員に少女は泣きながら説明した。目の前で惨劇を見たショックからか、真っ青になって震えている少女の言葉はまったく疑われることはなかった。
 少したって、警官が事情聴取をしようとしたが、もうその少女はいなくなっていた。

          ※

 気がついたら大勢に見物されていた。佳奈は赤面し、混乱した。親指を内側に巻きこんだおかげで、泣き出すことだけはこらえることができた。うつむきながら逃げ出した。
 何がどうなったのだろう。思い出すよりも、早く安心できる所へ、頼れる人の所へ帰りたかった。
「……あれ?」
 声をかけられた。
 知り合いか。びくっとなって立ち止まった佳奈は、相手を認めて目を丸くした。
「あ……?」
「佳奈、どうしたの? 部活は?」
「……そっちこそ…………まだ練習中じゃ……」
「たまにはね。ついでだし、ね、そこらで遊んでかない?」
 腕を取られた。断わろうと思ったが、思い直した。何だかむしゃくしゃする。やろうと思ったことがうまくいかなかった。何だったのかはわからないが、発散しないと収まらない。
 繁華街を歩いて、薬局の前を通った。暑いシーズンを前に、殺虫剤が店先に積まれていた。
「…………邪魔な虫……いちころ」
 その声を聞いて佳奈はなぜか心底ぞっとした。
「……これで二人っきり」
 自分のことを言っているのではないと、それだけはすぐにわかった。
 駅前に救急車が止まっていた。
「何かあったのかな」
「さあね」
 須藤真央は、上機嫌に微笑んだ。


                                                 ……続く

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