緑あふれる広い公園の、とある一画。
小高い丘の上。丸木を組んだ柵の向こうはちょっとした崖になっていて、活気のある市街とその向こうのきらめく海を一望できる。
柵に腕をついてもたれかかるようにして男が街を眺めていた。
年の頃は三十をちょっとすぎたくらいだろうか。背は低いが、その分横と前に張り出した、四角い体つきをしている。太っているというのではなく、中身が詰まっている。岩みたいな男だ。
顔つきもまた岩を刻んだみたいで、逆三角形ぎみの三白眼が余計にとっつきにくそうな印象を与えている。
「かむい先生」
そんな、見るからに日陰者といった風の男の背後から、なんとも華やいだ声がかけられた。
振り向いた男の目の前に、純白のワンピース姿の少女がいた。
「…………おう」
神居は自分の教え子の姿を見て、まぶしいものでも見るように目を細めた。
髪の長い、どこかしら淡い光芒に包まれているような少女である。花のような美貌に、見られる方が気恥ずかしくなるくらいに明るい笑顔を浮かべていた。
「散歩か」
「おはようございます」
「………………」
少女、飛鳥理緒は両手を体の前にそろえて礼儀正しく頭を下げた。
挨拶された教師はあきれたように空を見上げた。
太陽は西に傾いている。
「もう午後だぞ」
「あら」
理緒は小首をかしげた。
「でも、おはようございますって口にしたら、いい気分になりません? 朝の光が夜の闇をぱああぁぁって追い払うみたいに、言うたびに心が晴れ晴れとなるんです」
両腕を大きく空に広げる。神居は映画サウンド・オブ・ミュージックを思い出した。理緒の表情はなるほど今すぐドレミの歌でも歌い出しかねないくらいに輝いていた。
「……お前らしいよ」
「ええ、ですから、わたくし、いつも人に会ったらおはようございますっていうことにしていますの」
神居の勤める天上高校には変わり者が多い。その中でも最強クラスの天然ボケ少女に、この程度の皮肉はまるっきり通じなかった。
「それで、先生、何をお悩みですの?」
いきなりそんなことを言いだす。
「……悩み?」
「何かお悩みごとがあるのでしょう? ですからここにいらっしゃるんですよね。いいお天気の休日に、男の方がおひとりで海を眺めていらっしゃるなんて、お悩みごとでもなければそんなことはいたしません。人は悩むと高いところに上りたがるものですわ」
「……余計なお世話だ」
憮然と言う。
「やっぱり悩んでいらっしゃるのですね。わたくしでよかったら、お聞かせいただけませんか? お力になれるかもしれません」
「悩みなんてない」
「いいえ、わたくしにはわかりますわ。お隠しにならずともよろしいですわよ」
「いい加減にしてくれ」
怒鳴りつけたいところだったが、相手はあまりにも華奢であった。この性格でさえなければ誰もが甘酸っぱい思いを胸に芽生えさせるであろう、清純美の結晶みたいな少女なのである。
神居は無視することにした。
青く輝く海原を、船が横切ってゆく。
五分ほどして振り返ってみると、白い妖精はまだ同じ場所でにこにこしていた。返事してくれることを疑っていないのである。
ため息をついて神居は言った。
「わかったわかった、俺には悩みがある」
「まあ、やっぱり」
「死んでしまいたいくらいの悩みだ。だからお前に打ち明けてもどうにもならん。わかったか。わかったら、さっさと家に……」
「そんな!」
百二十パーセント真に受けた声が返ってきた。見ると、理緒は子供みたいに大きな瞳をうるうると涙ぐませていた。
「いけませんわ! 人生には必ず希望があります! 生きていてよかったなと思えることが! 輝く明日はすぐそこにあるんです!」
びしりと指さした先をカラスがくえくえ鳴きながら横切っていった。
「……お前、アレか、宗教か何かに入ったか?」
「いいえ、わたくしは確かに天使様にお力をいただきましたけれど、他の方に教えを説くなんて大それたことは」
「………………おい」
駄目だこりゃといかりや長介みたいに心中につぶやくと、神居はその場から立ち去ろうとした。
「ま、頑張ってくれ。学校で布教活動するんじゃないぞ」
「お待ちください」
分厚い背中に向かって声をかけた理緒に、異変が起きた。
前髪が持ち上がる。
風も吹いていないのに、なぜ。
大きくあらわになった雪のような額。そこに、目に見えない鋭い刃に切り裂かれたかのように、赤い筋がひとつ水平にはしった。
その筋はすぐに上下に大きく開いた。皮膚と肉の裂ける無残な音が響いた。汚れなき柔肌に、生々しい赤い色合いの襞がめくれあがった。
不思議なことに血は一滴たりとも流れ出ない。
亀裂の中央に、円形のものが出現した。
眼球、であった。
そうとしか言いようのないものであった。
人間のものより一回り大きい。
その中央に瞳孔が開いており、出現と同時に左右を見回すようにきょろきょろと動いた。やや縦長で、どことなく猫科の瞳を思わせる。
周囲を彩る虹彩の色は赤。
しかし決して毒々しくない。むしろ熱帯に咲く花にも似た、明るい紅色である。
人間であれば白目にあたるところは琥珀色をしていた。ご丁寧に血管のような筋まで付属している。
跳ね上がった髪はまるでその目にかぶさるのを遠慮したかのように、左右に分かれて垂れ下がった。
「しつこいな」
ついてくる気配を感じて振り向いた神居は、理緒の額にあらわれた怪異を見ても表情ひとつ変えなかった。どうやら彼には見えていないらしい。
理緒の『瞳』が輝いた。
白、いや、黄金の光であった。
人間の場合、光の反射や見る者の心理によって、眼光を発するように見えることもある。
これは違う。本当に、その内部から光を放っている。
温かい光だ。
やわらかな、慈愛に満ちた輝きであった。
『あなたは私の言葉に耳を傾けなければなりません』
「……おい」
神居は怒って理緒を睨みつけた。だがすぐに、相手がまったく唇を動かさなかったことに気がついた。それに、鈴の音にも似た少女の声とは全然違う響きだった。今聞こえたのは、はるか天上からしんしんと降りそそいでくるような神秘的な声だった。
『あなたは私の言うとおりになるのです。気を楽にしましょう。あなたの体が光に包まれますよ。体に温かな光が満ちてきて、悪いものが全部流れ出していきます。足に力が入らなくなってきます。腕もだんだん重くなる。立っているのも辛い感じになってきますよ』
その声の命じるままに神居の体の力は抜けていった。声に従うことは甘やかな快感をもたらした。
『もう立っていられませんね。そこに腰を下ろしてしまいましょう』
神居はがくりと膝をついた。横倒しになりかかったその体を理緒が受け止めた。理緒は自分も草の上に腰を下ろし、神居の頭を膝の上にかかえて寝かせた。遠目には美少女に膝枕されるうらやましい姿に見えただろう。
『まぶたが重くなって、くっついてしまいます。もうその目は開くことができませんよ。いい気持ちですね。安らかな気持ち。私の声があなたを導きます。私にまかせていいんです。さあ、心を開いて……』
神居はその声の主が誰なのか、もう考えることができなかった。
心地よくて、考えるのが億劫だった。
理緒の手が神居の額を優しくなでさする。
「さあ、わたくしに話してください。先生の悩みを、一つ残らず。わたくしが先生を幸せにしてさしあげます」
神居はわずかに口ごもった。しかし理緒の手が額をなでるたびにその口元は緩んできて、やがて告白をはじめた。
「俺は…………あのひとが……好きなんだ……」
「あのひとというのはどなたです?」
「ミレーヌ……」
「外国の方ですの?」
「違う…………駅の裏…………ブラックサバスの……」
「ぶらっくさばす」
理緒はつぶやくと手帳を取りだした。
「ぶ、ぶ、ぶ……ブラック連合……ブラック商会……あ、ありましたわ。ブラックサバス、占い館。評価丁。最悪。店のデザインセンス俗悪にして邪悪。いつか粛正すべし」
ふむふむとひとりうなずく。
「ミレーヌさんは、そこの方なのですか」
「そうだ……。占い師…………あんなきれいなひとは見たことがない…………白い羽を持っているみたいなんだ……あのひとこそ天使だ…………ああ……」
脳裏に恋する相手を思い浮かべているのだろう、神居は恍惚となる。
「天使、ですか」
理緒はちょっと複雑な表情をした。
「その方を、とても愛していらっしゃるのですね」
「ああ………………だけど、俺は、こんなだ……お世辞にもハンサムじゃない、背も低い、やれイノシシだ、サイだって昔はよく馬鹿にされた……。俺なんかとあのひとがつりあうわけがない…………」
「まあ」
理緒は力強く言う。
「そんなことはありませんわ。外見がなんですの。大事なのは愛、ただそれだけです。大丈夫です、先生にはあふれるばかりの愛があるではありませんか。必ずその思いはとどきますわ。さあ、この手を強く握ってくださいまし」
理緒は神居の手を取った。
「今から先生に天使様の力をおわけいたしますわ。熱いものがどんどん先生の中に流れこんでいきます。この力があれば、先生はもう気後れすることはありません。先生は世界一勇気のある男性になることができるんですのよ。体中が熱くなってきましたでしょう? もうじき先生はどんな障害も乗り越えて、まっしぐらに愛の成就に向かって突き進むことができるようになりますわ」
「う……む……」
神居は高熱にうかされるように汗をにじませはじめた。
「彼女と歩む幸せな未来を思い浮かべるのです。本当にそうなると心から信じることができるまで、力が後から後から流れこんでいきますわ。あなたは強く、たくましくなっていくのです。あなたほど素敵な男性はこの世にはおりませんわ。彼女もあなたを待っていらっしゃるはずです。……もうよろしいのですね? では、お立ちなさい」
神居は言われるままに立ち上がった。
「わかりますか? あなたの体に愛の炎が満ちあふれているのが」
「うおお、熱い、熱いぞ!」
神居は上着を脱ぎ捨てた。小型の金剛力士みたいなたくましい体があらわになった。
「そうです! さあ、行きましょう! あなたの願いを、愛を、今こそ彼女にぶつけるのです!」
理緒が言うと神居は雄叫びをあげた。
「おう! ミレーヌ! 俺と一緒になろう! なるんだ!」
ミレエェェェェェヌゥゥゥゥと叫び声の尾を引きながら、神居は斜面を転がるように駆け下りていった。
丘の下の広場には沢山の人の姿があった。その中を上半身裸のいかつい男が、俺とひとつになろう、体を重ねるんだとわめきながら突進してゆくものだから、嫌でも注目が集まり、悲鳴があがる。
「……ちょっと痛かったですわね」
理緒は立ち上がってお尻をはらい、顔をしかめて神居に強く握られた手をさする。
「これだから男の人は嫌ですわ。がさつで、乱暴で。汗くさいし、毛は生えてるし、体は固いし、おまけにあそこにどうしてあんなにおかしなものが。やっぱり触るなら女の子に限りますわ。……いえ、いけない、天使様、わたくし、何てことを。神の愛はどなたにも平等に注がなければいけませんわね」
眼下の大騒ぎが目に入らないのか、空を見上げて満足そうに微笑んだ。
「理緒はまた、人を幸せにするお手伝いができました。愛の力で、邪悪なお店も美しく生まれ変わることでしょう」
肩越しに背中にうっとりとした目を注ぎ、翼をはためかせるかのように背中を揺する。そこに黄金の翼が生えているのが、理緒の目だけには見えている。雛鳥のような、一対の小さな翼。
「十二枚そろうまでにはまだまだかかるでしょうけれど、これからも頑張り続けます。天使様、見ていてくださいまし」
パトカーのサイレンが近づいてきてすぐ近くで止まり、それからまた動きだし、何かを追うようにだんだんと遠ざかっていった。
※
学校の廊下を、男子生徒の視線を一身に集めながら理緒は歩いてゆく。制服姿であるにもかかわらず、淡い光芒に包まれているような雰囲気はそのままだ。
「ねえ聞いた、神居のやつ、昨日、町中素っ裸で駆け回って捕まったんだって」
「ええ〜っ、やだあ。でも、あいつ、いつかそんなことやるんじゃないかって思ってたよね」
「うんうん、いつもたまってるみたいでさ、やばい感じしてたもん」
(どこかに悩める女の子はいらっしゃいませんか。わたくしが幸せにしてさしあげますわよ)
耳に入りこんでくる会話を反対側の耳からぼろぼろこぼしながら、理緒はどこまでも歩いていった。