その時代考証、本当に必要ですか?
創作物の時代考証が批判されることは多い。
このあいだ、とあるブログで、某アニメの時代考証がおかしいという内容の記事が書かれていた。記事の内容としては「キャラがジャガイモを食っているのはおかしい、この時代にジャガイモは西洋に入ってきていない」という趣旨だった。まあ、それはまあそうで、ジャガイモが普及するのは結構あとだ。
で、それは作品の本質と何か関係あるだろうか。
とかく考証というのは批判されやすい。とくに時代考証はそうだ。あの時代にあれはなかっただの、この建築様式はおかしいだの。
じっさい、ぼくも創作物を見ていておかしいなと思うことは多々ある。中世が舞台なのに考え方ヒューマニズムと自由主義だし明らかに現代だよなとか、熱帯魚の水槽に海水魚と淡水魚が一緒に泳いでたりとか。反乱した農民が太刀を片手でラクラク振り回しているのはおかしいだろうとか、頭をよぎることはある。
でも、べつに大した問題じゃない気がするんだな。
前述のアニメだって、そもそも、その話は巨大モンスターが出てくるような話で、その時点で現実の西洋を舞台にしてるわけではないのだ。ジャガイモがストーリーやキャラクターの重要なエピソードに関わってこないかぎり、大した問題じゃない。だって視聴者は「ジャガイモがいかにして重要農産物となったか」なんて話を見たいわけじゃないんだから。
逆に、褒めるときにも考証はよくネタになる。
たとえばある小説を褒めるときに、綿密な調査だとか時代考証を褒めることは多い、膨大な資料を読み込んだとか、実際に現地に行ったとか、そういうの。
逆に超有名小説家がエッセイで「実地はあえて見ず想像して書いた」と書いたことはその人のアンチの間でたびたび批判されている。資料を見ずに想像して書くのは「よくないこと」らしい。
でも、本当に綿密な考証をすればいいものになるかというのは一度検討してもいいと思う。というか、個人的にはならないと思う。
もう少し踏みこんで書けば、ストーリーや構成やテーマ、手法やキャラクター……などに対して、考証なんて比較的「どうでもいい」し「表面的」で「最後の詰めで検討すべきところ」だと思う。
考証がいくら正確だって、いかによく知ってたって、いいものが作れるとは限らない。よく知っていればいいものが作れるなら、勤続五十年のサラリーマンはみんな偉大な企業小説を書けるはずだ。
考証はクリティカルなポイントじゃない。
なぜかというと「最悪あとで直せる」からだ。たとえばストーリーの構成がまずかったら、組み直すために作品の当該箇所をぜんぶ再制作する必要がある。キャラクターが変わったら登場シーンをぜんぶ再編集、手法を変えるなら全体を再検討する必要がある。
それに比べると「キャラクターの食ってるものがおかしい」なんて些事だ。ジャガイモを黒パンか何かに替えればいいだけである。一分で修正できる。ほとんどの人はジャガイモについて見たいワケではない。
ストーリーの根幹に関わらない部分であるかぎり、あるいは時代小説や歴史ミステリみたいにメインテーマに考証が関わってこないかぎり、考証はあくまで表面処理だ。家を建てることに例えるなら最後の壁紙貼りだ。
じゃあ、なぜ考証ばかりが批判されがちなのか?
だれでも批判できるポイントだからだ。
構成やストーリーを批判しようとすると、全体の流れをみて抽象的に考える必要がある。これはけっこう大変な事で、本格的な批評能力がないとむずかしい。ネットのなんちゃって批評家には手に余る。それに究極的には「作者が何をやりたいか」ということになるので正解がない、手が出せない。
採用している手法やキャラクターに関しても、批判しようと思えばかなりメタな考え方をする必要がある。こちらは一応批判できなくもないが「こうすればよりよかったのではないか」という代案を出さないと説得力がない。
上記のような批判はむずかしい。明確な正解がないから。
それに比べて時代考証なんかを非難するのは簡単である。なぜなら正史という「正解」がいちおうあるからだ。それに合ってない、という言い方ができる。
ようするに、批判する側にとって便利な道具だから重箱の隅をつつくために使われているだけで、言われるほどには重要じゃない。
アニメや小説は計算ドリルではないし「物事には正解があって、それに合わせなければいけない」という考え方はむしろ物語のパワーを削ぐ。どっちかというとそういう学校的なドグマを否定していかなきゃならないんじゃないかとすら思う。
だから考証は気にしなくていい。
だいたい、魔法やモンスターが出てくるような世界でほかの要素が正史とおなじだったらそっちの方がおかしいじゃないか。現実にルーラがあったら間違いなくインフラに使われるんだから、経済史はぜんぜん違った様相を見せているはずだ。
このあいだ、とあるブログで、某アニメの時代考証がおかしいという内容の記事が書かれていた。記事の内容としては「キャラがジャガイモを食っているのはおかしい、この時代にジャガイモは西洋に入ってきていない」という趣旨だった。まあ、それはまあそうで、ジャガイモが普及するのは結構あとだ。
で、それは作品の本質と何か関係あるだろうか。
とかく考証というのは批判されやすい。とくに時代考証はそうだ。あの時代にあれはなかっただの、この建築様式はおかしいだの。
じっさい、ぼくも創作物を見ていておかしいなと思うことは多々ある。中世が舞台なのに考え方ヒューマニズムと自由主義だし明らかに現代だよなとか、熱帯魚の水槽に海水魚と淡水魚が一緒に泳いでたりとか。反乱した農民が太刀を片手でラクラク振り回しているのはおかしいだろうとか、頭をよぎることはある。
でも、べつに大した問題じゃない気がするんだな。
前述のアニメだって、そもそも、その話は巨大モンスターが出てくるような話で、その時点で現実の西洋を舞台にしてるわけではないのだ。ジャガイモがストーリーやキャラクターの重要なエピソードに関わってこないかぎり、大した問題じゃない。だって視聴者は「ジャガイモがいかにして重要農産物となったか」なんて話を見たいわけじゃないんだから。
逆に、褒めるときにも考証はよくネタになる。
たとえばある小説を褒めるときに、綿密な調査だとか時代考証を褒めることは多い、膨大な資料を読み込んだとか、実際に現地に行ったとか、そういうの。
逆に超有名小説家がエッセイで「実地はあえて見ず想像して書いた」と書いたことはその人のアンチの間でたびたび批判されている。資料を見ずに想像して書くのは「よくないこと」らしい。
でも、本当に綿密な考証をすればいいものになるかというのは一度検討してもいいと思う。というか、個人的にはならないと思う。
もう少し踏みこんで書けば、ストーリーや構成やテーマ、手法やキャラクター……などに対して、考証なんて比較的「どうでもいい」し「表面的」で「最後の詰めで検討すべきところ」だと思う。
考証がいくら正確だって、いかによく知ってたって、いいものが作れるとは限らない。よく知っていればいいものが作れるなら、勤続五十年のサラリーマンはみんな偉大な企業小説を書けるはずだ。
考証はクリティカルなポイントじゃない。
なぜかというと「最悪あとで直せる」からだ。たとえばストーリーの構成がまずかったら、組み直すために作品の当該箇所をぜんぶ再制作する必要がある。キャラクターが変わったら登場シーンをぜんぶ再編集、手法を変えるなら全体を再検討する必要がある。
それに比べると「キャラクターの食ってるものがおかしい」なんて些事だ。ジャガイモを黒パンか何かに替えればいいだけである。一分で修正できる。ほとんどの人はジャガイモについて見たいワケではない。
ストーリーの根幹に関わらない部分であるかぎり、あるいは時代小説や歴史ミステリみたいにメインテーマに考証が関わってこないかぎり、考証はあくまで表面処理だ。家を建てることに例えるなら最後の壁紙貼りだ。
じゃあ、なぜ考証ばかりが批判されがちなのか?
だれでも批判できるポイントだからだ。
構成やストーリーを批判しようとすると、全体の流れをみて抽象的に考える必要がある。これはけっこう大変な事で、本格的な批評能力がないとむずかしい。ネットのなんちゃって批評家には手に余る。それに究極的には「作者が何をやりたいか」ということになるので正解がない、手が出せない。
採用している手法やキャラクターに関しても、批判しようと思えばかなりメタな考え方をする必要がある。こちらは一応批判できなくもないが「こうすればよりよかったのではないか」という代案を出さないと説得力がない。
上記のような批判はむずかしい。明確な正解がないから。
それに比べて時代考証なんかを非難するのは簡単である。なぜなら正史という「正解」がいちおうあるからだ。それに合ってない、という言い方ができる。
ようするに、批判する側にとって便利な道具だから重箱の隅をつつくために使われているだけで、言われるほどには重要じゃない。
アニメや小説は計算ドリルではないし「物事には正解があって、それに合わせなければいけない」という考え方はむしろ物語のパワーを削ぐ。どっちかというとそういう学校的なドグマを否定していかなきゃならないんじゃないかとすら思う。
だから考証は気にしなくていい。
だいたい、魔法やモンスターが出てくるような世界でほかの要素が正史とおなじだったらそっちの方がおかしいじゃないか。現実にルーラがあったら間違いなくインフラに使われるんだから、経済史はぜんぜん違った様相を見せているはずだ。