週刊通販生活トップページ > 読み物:フリーランスライター畠山理仁の「東京電力福島第一原子力発電所構内ルポ」(1)
ようこそ、ゲストさん
畠山理仁(はたけやま・みちよし)1973年愛知県生まれ。早稲田大学在学中の93年より週刊誌を中心に取材活動開始、98年フリーランスライターとして独立。著書に『記者会見ゲリラ戦記』(扶桑社新書)、『領土問題、私はこう考える!』(集英社)。『日本インディーズ候補列伝』(大川豊著・扶桑社)では取材・構成を担当した。
2014年7月8日(火)、東京電力福島第一原子力発電所の「現場公開」が行われた。筆者のようなフリーランスの記者も参加できる現場公開は今回が7回目だ(在京の報道陣への公開は9回目)。
2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故以降、報道陣に対して初めて原子力発電所の構内が公開されたのは事故から8ヵ月が経過した2011年11月12日のことだった。
この時はテレビ、新聞などの大手メディアに限定して公開されたため、雑誌、インターネットメディアはもちろん、フリーランスの記者は参加することができなかった。原発事故以降、大手メディアの記者だけでなく、フリーランスを含めた多くの記者たちが現場公開を求めてきたにも関わらず、だ。
これまで東京電力が福島第一原子力発電所の構内を公開してきた日を並べると次のようになる。
福島第一原子力発電所・現場公開日一覧*カッコ内はフリーランスの参加記者(敬称略)
2011年11月12日→新聞、テレビなど一部報道陣に初めて現場公開
2012年2月20日→新聞、テレビに加えてインターネットメディアにも公開
◎2012年5月27日→上記メディアに加え、雑誌、フリーランス記者にも公開(木野龍逸・畠山理仁)
2012年10月12日(渡部真・尾崎孝史)
2013年3月1日→(木野龍逸・村上和巳)
◎2013年6月11日→(木野龍逸・畠山理仁)
2013年11月6日→(村上和巳・上出義樹)
2014年2月26日→(まさのあつこ・山本宗補)
◎2014年7月8日→(木野龍逸・畠山理仁)
一覧を見るとわかるように、2012年以降、おおむね年3回程度の現場公開が行われている。筆者はこれまで「◎印」のついた3回、現場公開に参加した。原発の入口や周辺地域は何度か訪れているので、その間の変化も含めてレポートしたい。
まず、こうした原子力発電所の現場公開がどのような状況で行われてきたのか、その経緯を簡単におさらいしておこう。
筆者が最初に参加した2012年5月27日の現場公開は、フリーランスの記者が初めて参加できたものだった。この時、フリーランスの記者に与えられた「取材枠」は2名。希望者が複数いたため、抽選の末、参加することになった。
本来であれば喜ぶべきところだ。しかし、この時の現場公開は、フリーランス記者にとって屈辱的なものだった。新聞、テレビ、雑誌、インターネットメディアは「代表撮影」のカメラ持ち込みが許されていたが、フリーランス記者は「カメラの持ち込み」を一切禁止されたのだ。
我々フリーランスの記者たちは事前に何度も「フリーランスもカメラを持たせるべきだ」と東京電力に改善を要望した。しかし、東京電力は最後まで対応を変えなかった。
この時の「現場公開ツアー」に参加できたのは、大手メディアの記者も含め、全体でわずか44名。フリーランスの記者にいたっては、希望者の中から抽選で2名の参加が認められただけだ。私はもっと多くの記者が原発構内の取材を希望していたことを知っている。
もちろん、事故の収束作業が続けられている中での現場公開は、現場にとっても負担である。しかし、原発の構内がどうなっているかは、今もなお避難生活を送る10万人以上の福島県民のみならず、世界的な関心事となっている。外部からの目を入れることで、プラスになる面も必ずある。東京電力には今後もより多くの取材機会を求めていきたいと思う。
また、一般には知られていないが、当初は参加する記者の間にも「差別」があった。当時のツアーの「目玉」は、細野豪志原発担当大臣(当時)が4号機建屋内に初めて入ることだったが、そこに同行できるのは内閣記者会に所属する記者4名に限られていたのだ。それ以外の記者は「4号機建屋から70mの距離」でバスから降り、外観を10分間「見学」したに過ぎない。
同じ量の被曝(取材当日の計画被曝線量は200μSv。実際の被曝線量は76μSv)をしながら取材に入るのに、記者の間で「差別」をする意味がまったくわからない。
現場に入って様々な情報を見聞きするのは大切なことだ。しかし、撮影が制限されれば、世の中に伝えられる情報は限られる。なぜならフリーランスの記者たちは、新聞やテレビの「代表カメラ」が撮影した素材の提供を受けることができないからだ。
「写真を撮れない小学生の遠足」
それが筆者が参加した第一回目の現場公開の印象だった。この時、フリーランスの記者たちは現場公開の直前まで、写真撮影を認めるように東京電力側と交渉していた。しかし、東京電力は「核物質防護」という理由によって、フリーランス記者がカメラを持ち込むことを拒否し続けた。多くの読者がご存知のように、「核物質防護」を理由に取材制限をする東京電力は、今も放射性物質を放出し続けている。
それでも私たちは粘り強く交渉を続け、最後の最後には「東京電力の社員を随行させて写真撮影をさせる。その写真は公開する」という約束を取り付けた。
その結果、東京電力社員により撮影されたのが次の写真である。
2012年5月26日・4号機前(撮影・画像提供:東京電力)
防護服(注・タイベック。あくまでも衣服や皮膚への放射性物質の付着を防ぐもので、放射線自体を遮蔽するものではない)の背中には、記者たちの所属と名前を書くことになっている。少し見にくいかもしれないが、私は自分の防護服の背中(写真・右から3人目)に、自分の名前とともにこんな文字を書いていた。
「カメラなし」
そう書くことだけが、筆者が東京電力に対してできるせめてもの抵抗だった。しかもこの写真は東電社員による撮影のため、一番伝えたかった「カメラなし」の部分がうまく映っていなかった。
記者たちが撮影を禁止されるというのは、こういうことなのだ。
第一回目の現場公開後も、東京電力とフリーランス記者たちとの交渉は続いた。そのかいもあり、2012年10月12日の現場公開からは、フリーランスの記者からも「代表撮影のカメラ」が一台入れることになった。大手メディアから遅れること3回。東京電力の対応はここでも鈍かった。
フリーランスの記者が参加できるようになって7回目の現場公開となる今回、ようやくフリーランスの記者にも「ムービーカメラの持ち込み」が許可された。しかし、相変わらず「カメラマンは一人」という制限が外れることはなかった。
せっかく動画の撮影が許されたので、木野龍逸さんが撮影した動画を公開したい。
東京電力福島第一原子力発電所・構内取材動画(2014年7月8日撮影)
どうだろう。けたたましく響く工事の音。そして全面マスクを通しての会話。文字だけの情報では伝わらない現場の雰囲気がわかるのではないだろうか。
東京電力が福島第一原子力発電所の構内を現場公開する際、取材できる範囲は決まっている。基本的には「東京電力が見せたい場所」しかない。
たとえば今回の構内取材に先立って行われた記者への事前説明会では、広報部からこんな説明があった。
「今回の現場公開のポイントは大きく二つです。ひとつは7月下旬から職員400名が入って運用開始になる新事務棟です。もう一つは凍土遮水壁の工事現場です。これは建屋回りの凍結管の埋設作業です」
記者からは「現場の作業員はどのような装備で作業をしているのか」という質問が出た。その際、東京電力広報部の担当者からはこんな言葉が発せられた。
「構内のがれきを10万3500立方メートル撤去したことにより、構内は半面マスクでの作業可能エリアが増えています。そこをぜひ体感していただいて、報じていただければと思います」
東京電力が「現場は復旧に向けて順調に進んでいる」と強調したいことがハッキリ伝わってきた。たしかに筆者が構内に入ってみると、過去2回の現場公開時よりも作業環境は良くなったように見える。しかし、実際には『完全にコントロールされている』とは言いがたい。
そのことは現場で作業する作業員が一番わかっているようだった。
現在、書類上では福島第一原発構内面積の約3分の2が「全面マスク省略可能エリア」(2×10-4Bq/cm3)、3割が「半面マスクでも可能エリア」(2×10-4Bq/cm3)、1割が「全面マスクエリア」(2×10-2Bq/cm3)となっている。今回公開された凍土遮水壁の工事現場は「半面マスクでも可能エリア」だが、現場の作業員は全員が「全面マスク」を着用し、遮蔽ベストも着用していた。
短時間視察する記者たちは半面マスクで十分でも、現場で長時間被曝しながら作業するというのはそういうことなのだ。