言いたくないけど、僕が青二才です

言いたいことも言えない世の中で、言いたくないけどつい言っちゃうポイズンなブログ

なぜそれなりの文字数が書ける人でも小説だけは書けないのか?



昨日、Skypeで喋ってた内容の中で面白かった話を備忘録として残す。

 

結論から言うと「僕が小説や物語を書こうとすると【観察の成果物】みたいになって、物語として面白いものができない」という相談を小説側に明るい人と喋った。

映画で言うとイノセンススカイ・クロラなどの押井守作品…ジブリで言うと「借りぐらしのアリエッティ」みたく観察や知識を羅列していくような書き方になってしまう。それはそれで技術であると思うんだけど…面白くはない。

 

興味深いかもしれないけど、どこかに発表してウケるようなエンタメにはならない。

 

もっと突き詰めた言い方をすれば、僕はエヴァンゲリオングレンラガンなどでお馴染みのガイナックス・TRIGGER作品が好きで小説なりゲームなりを作るなら「考える事すら放棄させて作中の理由がよくわからないものを視聴者に受け入れさせる手法」をやってみたいと思ってるが、ちっともそのやり方がわからない。

 

そんな話をしてると彼は僕に言う。

「それはブログと物語の技術が真逆だからです。」

…小説書いたことあって、自分の書いたものがちっとも面白く無い・夜に出てるものとは似ても似つかないという経験をしたことのある人に是非読んでもらいたい。

そもそもライティング技術とはなんぞや

まずは書き物全般の基本的な技術の話から。物語やろうが、自分の視点でブログや評論をやろうが、次の3つの能力が何かを書くときには必要だ。

構成力…プロット、起承転結、校正。全体を通した読みやすさや理解しやすさ。長文を書ききる体力・つないで行く力。

キャラ…媒体に問わず、共通してるのは観察眼。ブログなどキャラが自分の場合は、自分自身の文体や知識など。物語の場合は作品研究。

演出…より気持ちや言い分を伝わりやすくするために、表現の解像度(具体性)を上げる技術

 

構成力とキャラは媒体を問わず共通点が多いので、「ブログや評論、日記を綴ることが物語を書く訓練にならない」とは断言できない。

むしろ、文章を書くだけの体力がない・第三者を意識して文章を書く習慣がないという人にはブログで訓練することは個人的におすすめである。

 

小説を一人で書いてる・友達数人に見せる人にありがちな失敗は世界観が狭いがゆえに駄サイクルにハマったり、自分がより高いレベルに行くための情報や意識、交流の場を築きにくいことだ。

それを補填する意味でブログやTwitterは有用といえる。

Web媒体で小説の感想ってそんなにもらえないイメージ強いし、即売会で出しても小説のブース・イベントは立ち読みして購入を決めるかどうかという判断に向かないため、交流が増えていかず、周りがオタクだらけな場所で過ごさない限りはどうしてもぬるま湯になりがちなのよね…。

 

でも、演出だけは違う。ブログ・評論・エッセイなど「自分の視点を綴る媒体」と、小説・脚本・シナリオなど「世界観やキャラ・事象など自分が設計するもの」では演出の発想が根本的に逆だ。

 

 ブログは圧縮・物語は拡張

演出の違いを一言で表すと「圧縮と拡張」となる。

 

例えば、物語を一言でまとめると実はすごくしょーもない話であったり、身も蓋もない言い方で「なんでそんなことを何ページも、映像なら何分も、回想や映像演出まで入れて四の五の言ってるの?」という内容であることがある。

 

でも、作り方としてはそれで正しいのだ。

「そんなこと」をふくらませて何百ページにするのが物語で、逆に自分の視点で綴る書き物は複雑なことを「要するに」にしぼりこんでいく段取りなんだ。

起こったこと、ニュース、感情…これらはもう世界にすでにあって、それらが猥雑に絡まったものに「軸」を示すのが論ずるということ。

 

この構造の違いをきっちり理解できないまま物語を作ると、物語ではなく「観察や考察の成果物」が生まれる。

 

僕の場合が典型的で、ブログを作る考え方に慣れすぎた結果物語の手法自体が「なんでこんなに中身がないの?」と自分が物語を書こうとするときについつい抽象的なものを省いたり、中身があるように見せたいがために要素を増やしすぎてしまう。

 

料理でも素材が多すぎると味がわからなくなってしまうし、ラーメン屋でも色んなラーメンがありすぎると何を頼んでいいかわからず儲からない(作り手も1つの商品に力を入れきれずに、いいものが作れない)。

 

結果として、猥雑とした人間観察の成果のような「何か」ができあがる。物語というほど文学的な隠喩、仮想の世界観が盛り込めないまま完結し「なんだこれ?」という「何か」ができあがる。

 

筋の通りすぎる物語はつまらない

物語の演出をより詳しく語る上で大事なことは「物語はわかり過ぎたらいけない」ということ。もちろん理由はあるべきだが、パッと見わからない・すぐには説明がないぐらいのモノをサクサク作れるぐらいじゃないといけない。

 

評論やブログのように自分の見たものをわかるように伝えるそれと大きく違うことは「仕草や世界観に落とし込んだものをいちいち説明しちゃいけない」「説明できないぐらい飛躍してしまう場合は、それを受け入れさせる前置きや伏線で考えさせないようにする」ことだ。

 

例えば、フリーゲームの名作にはボスキャラがキャラクターの心のイメージを投影してる場合が多い。最も顕著な例がこのキャラだ。

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なんとこれは白龍だそうだ。書籍化もされた有名なゲームのボスだが、龍を見たことないキャラが想像した「妄想」がボスになってるので、よくある「でっかいトカゲ」みたいなのは出てこない。

 

よく考えると龍なんてものは実在しない以上、こんなデザインでも良かったりするし、何よりも重要な事は「登場人物が連想したことで生まれた敵」であることをわかるようにするためにこのデザインで白龍となっている。

 

「気持ちや感情の解像度を上げることで表現を生み出す」のは物語でもブログでも同じことだが、大きく違うのは解像度を上げたものを動作や仕草、痛みや自分の状態のみならず、物語の場合は世界観やキャラクター、その時に起きるできごとやキャラクターの持ってる所持品として考えて細かに配置しないといけないことにある

 

それも、できるだけかっこよくなるように!

 

わかんないことを分かんないで済ませたり、ゴリ押ししたりするのは優れてないと思うがそれをいちいち説明せず「絵になるなぁ~」と相手に納得させてしまう説得力を生み出すのが演出の技術だ。

こういう視点を持って作品を見た上で、自分が書いてる時にちゃんとキャラの感情を把握して付け加えられる人が物語をかける。

 

何でもそうだけど、視点の違い・メディアの違い・他人のことだと気づくのに自分がやってるとどうして他人のようにならないかが気づけずに迷い込むことに無自覚だと「できるつもりが、やってみると案外できない」のだ。

 

それを思い知らされた面白い内容だったので、この内容は残しておくことにした。

 

 

ハリウッド脚本術―プロになるためのワークショップ101  

 視点を増やす意味ではトライ・アンド・エラーして詰まった時に勉強したり、ノウハウ習った人に聞いてみると面白いですよね。この話にかぎらずですが。