東京都新宿区で開催されたトークセッションに登壇(?)した。今回は、私だけではなく主催者も「家がない」という異色の時間となった。今回の主催者は「婚前道中膝栗毛」を絶賛開催中のカヤノさんと恋人のみのりさん。生活道具一式を詰めたリヤカーを押しながら日本を徒歩(!)で縦断している。
【参考サイト】婚前道中膝栗毛 公式ホームページ
日本列島を徒歩で縦断するというだけでもクレイジーなのに、カヤノペアは重量およそ70kg(!)のリヤカーを手押しで進みながら日本縦断に挑んでいる。「だから坂道が大変なんですよ〜」とカヤノさんは笑うが、そういう話ではないような気もする。荷台には寝袋や食料や一年分の衣類などが積まれており、ソーラーパネルも設置しているために電源確保も完璧だ。炊飯器まで荷台に積んである。
そんな(?)カヤノペアと対談形式(でもない)形でトークイベントは開催された。参加者は約20名、前半はカヤノペアによる婚前道中膝栗毛の話をした後に、後半は私の実体験を軽く話したあとに全員参加のフリートークスタイルで時間は流れていった。私は、私が一方的に話をして(聴衆の方々に)その話を有り難がって聞いてもらう、というスタイルを好まない。出来ることならば、その場にいるひとりひとりが日常的に考えていることや、自分の人生観を形成した出来事について知りたいと思っている。
参加者の若い女性の方が話してくれた。
「私は過去に重病を患ったことがあり、医者には余命一週間だと宣告されました。私は残された日々を決して暗いものにはしたくなかったので、その瞬間から『とにかく生きる』ことに決めました。余命が一週間ということは、今日が木曜日であれば、これが人生最後の木曜日であり、その次の日は、これが人生最後の金曜日ということになります。私は、目の前にある瞬間瞬間を味わうことだけに専念して生きようとしました。結果的に、私の病気は奇跡的に完治し、半年後には退院することができました。こうした体験を通じて、私は『私は一回死んだのであり、残りの人生は余生のようなものだ。それならば、自分が心からやりたいと思うことをやろう』と思い、今の仕事をはじめました」
冒頭からこうした体験談が飛び出してきて非常に驚愕した。これがトークセッションの醍醐味である。ひとりの参加者の発言に触発された人たちが、それに続くように自分自身の経験談を話してくれる。
また別の女性の方が話してくれた。
「私には中学三年生の子供がいます。この前、学校の授業で『30年後にどうなっていたいか』をテーマに作文を書けという宿題を出されていて、私はびっくりしてしまいました。30年後にこうなっていたいから、そのために今はこうして、これからはこうして、やがてはこういう形でその夢を実現するだとかなんだとか、そんなことをまだまだ人生経験の少ない中学生の子供が、今の段階で明確に描けるはずなんかないでしょ!と思いました。夢とか目標というのは大切なことかもしれませんが、私にとって大切なのは、こどもが30年後にどうなっていたいかということよりも(自分の夢が実現できるかどうかということよりも)、何よりも明るく楽しく自分がやりたいと思うことを思う存分やっちゃって、何はともあれ元気でさえいてくれたら、それだけでいいと思っています」
また別の女性の方は話してくれた。
「私は、まさに今日、今の職場に『二月にやめます』と辞表を提出してきたところでした。私には、家族がある日突然死んでしまう出来事が今までにも何度かあり、その度に『生きているのは今だけなんだ』ということを痛感してきました。それなのに、そうした体験を過去に何度も経験したはずなのに、今の私はほんとうの意味で生きているとは言えない状態が続いていました。こうした違和感が消えることはなく、『自分に忠実に生きたい』と思って辞表を提出してきました。まるで自分に嘘をついているかのような生き方をしているのはつらく、これからどうなるのかはまるでわからないけれど、(自分ではない他人の人生を生きるのではなく)もっと自分に忠実に生きていきたいと思っています」
私自身も触発されて、話をした。
「自分が何かをやりたいと思った時、同時に、湧き出してくる恐怖心がある。告白したいけどフラれたらどうしようとか、大学を辞めたら親を悲しませてしまうのではないのかとか、こうした恐怖心の根源を乱暴に言い換えると、それは『(自分が)傷つきたくない』からなのだと思う。結局、(事象は様々な形で起こるにせよ、それを通じて)自分が傷つきたくないから踏み出せないのだ。しかし、傷つくことよりも傷つくことを恐れているときのほうが、ずっと苦しくてつらいのではないかと私は思っている。実際にやってみればどうにかなることも多く、たとえ傷つくことがあったとしても、人間は想像を超えてタフで、意外とどうにかなるばかりか新しい知恵や勇気を獲得することができる。『傷つくことを恐れる気持ち』は勇気を奪い、勇気が奪われてしまうと、人生全般が暗く後ろ向きなものになってしまう気がしています」
そしてイベントは終了した。
その後、懇親会のようなものが開催され、食事をとりながら参加者の方が私に話しかけてくれた。「今日はありがとうございました。坂爪さんの話もよかったのですが、参加者のみなさまの話もなんだかすごいよかったです。今日はいい人がたくさん集まりましたね」と言ってくれた。私は「そうですね」と答えたあとに、それだけじゃない別の要素(?)があるような気がして、私はその方に話した。
「きっと、世の中には『いい人』と『悪い人』の二種類の人間がいるのではなく、誰の中にも『いい部分』もあれば『それだけじゃない部分』があるのだと思います。そして、今日、あの空間においては『みんなの中の《いい部分》が出た』だけなのだと思います。きっと、自分が置かれた場所によって、人はいかようにも変化する(変化できる)ものだと思います。もしも、この世の中に悪い人や自分の嫌いな人がいるとしたら、それは、たまたまそういう部分が前面に出てしまう環境に、その人が置かれているだけのことなんだと思います。だからこそ、多くの人たちの中にある(悪い部分ではなく)いい部分が前面に出てくるような、そんな空間をつくりだしていけたらいいですね」
この日、私が得た教訓は以下の三つ。
1・一回死んだ人間は強い。一度でも死を強烈に意識したことがある人は、自分の人生の中で「自分は生かされている」という感覚を強く抱く。この感覚が「思い煩うことなく自分の人生を生きよ」というメッセージとなり、自分自身を根底から鼓舞してくれるエネルギーになる。
2・「傷つく前に傷つくな」ということ。実際に傷つくことよりも、傷つくことを恐れて行動できなくなってしまう方が、自分自身をずっと深く苦しめてしまうことになる。恐怖心の正体は「傷つきたくない」という思いである場合が多くの、自分を守るから自分が弱くなってしまうのだということ。
3・「いい人」と「悪い人」の二種類がいるのではなく、誰もが「いい部分」と「悪い部分」を持っているだけに過ぎない。そのどちらが強く出るかは環境によって左右される。これは犯罪にも言えることで、本来であれば誰もが犯罪者にもなる可能性を帯びていて、実際に犯罪者になってしまった人は、その人自身に問題があったのではなく「そうせざるを得なくなった社会的な環境」があったということ。
極論、自分の中にある美しい部分をどれだけ信じられるかの勝負なのだと思う。誰の中にも、美しい部分もあれば、どうしようもなく醜い部分もある。人間は弱く、そして、人間は強い。美しいものに囲まれていれば人は勝手に美しくなるし、醜いものに囲まれていれば人は勝手に醜くなる。
「君が自由だと思えば、君はもう自由なんだ」
生まれてから死ぬまでの間に、どのように生きるのかを決めるのはその人の自由だ。自分は自由だと思えば、その瞬間から自由になることができる。自分がどのような感情を選び取るのかは、(他の誰でもない)自分で決めることができる。この世の中のあらゆる状況は「そうなるべくしてなったもの」であり、それらを打破していくことも、現実に打ちのめされて終了する道を選ぶのも、その人の自由だ。
人生は続く。
坂爪圭吾 KeigoSakatsume《ibaya》