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『フューリー』 - ケーニヒス・ティーゲルを撃て - 1953ColdSummer

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『フューリー』 - ケーニヒス・ティーゲルを撃て


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ューリー
FURY
2014(2014)/アメリカ/G 監督/デヴィッド・エアー 製作総指揮/ブラッド・ピット/他 出演/ブラッド・ピット/シャイア・ラブーフ/ローガン・ラーマン/マイケル・ペーニャ/ジョン・バーンサル/ジェイソン・アイザックス/スコット・イーストウッド/他
1945年4月――
たった5人で、300人の
ドイツ軍に挑んだ男たち。



『FURY』(憤り)と名付けられたシャーマン戦車を駆る古強者ウォー・ダディ。末期のドイツ最前線に斬り込んだ彼と3人の部下に擬似家族的な絆が形成されていると見るのは容易である。その絆を「友情」ではなく「家族」としたのは、ブラッド・ピット演じるウォー・ダディを天辺とした家父長制に命を預けざるを得ない戦場の組織的論理があるからで、また過去に対して寡黙な「父親」像にも由来する。

 フューリー号は家父長制度に欠くべからざるところの「家」であり、それぞれのメンバーが敵の視認、装填、発砲など役割を振り分けられている事により戦中の我が朝の家族のシステム分担を連想させる。……詰まるところ戦争はシステム化――人間の歯車化による効率を突き詰める事であるなぁ、あっそりゃ現代も一緒か。と、特に作中で主張もされてはいない阿呆みたいな事を思ってしまった自分にげんこつをくれて、続き続き。

 ほで、そこに戦闘経験ゼロで特技はタイピングだという新兵ノーマンが配属されてくる事から、海の物とも山の物ともつかぬ戦場(いや、主に平地戦市街戦なのだが)で家父と子供の哲人談義めいた殺人観が鎌首をもたげてくるのだが。

 自分自身は軍オタ/ミリオタとは程遠く、『メタルマックス』から戦車に興味を持ち始めたような凡俗なので、曳光弾がスターウォーズみたいだとかティーガーの装甲があんなに固いわけないだろとか言われても「はあ、そうですか」としか返答する事ができない。強いて言えばクライマックスで戦う敵がマウスラーテであったら目に楽しいだろうなあ、くらいは思ったのだが、そんな行動すら困難な戦車や移動要塞を用いずとも、ナチ伝説のティーガーの実物を博物館から引っ張り出してきて動かしたという事実だけで胸が打たれるし、砲撃戦のみならず戦車の外観/内観をたっぷりと色気すら感じさせる描写で舐め回した本作は、戦場のリアリティ・ラインとは別のニュアンスで戦車ポルノとしての趣を兼ね備えている。

 主人公機シャーマンの砲身の「FURY」の文字は、休戦中であろうが交戦中であろうが「憤りを忘れるな」とばかりに、ふと気を緩めそうになるとスクリーンに現れる。ナチスの捨て身の反撃に手こずりつつも、最早趨勢が決しつつある戦況の中で、何に対する憤りを忘れるなとフューリー号は語りかけるのだろう。
 本作のプロデューサーのイーサン・スミスは、「これまでの第二次世界大戦の戦場の様子は様々な映画に歪曲されてきた部分もあるが、デヴィッド・エアーは原点から出発している」と言う。映画史ではなく史実を基にこの映画を作りたかったと。名立たる激突ではない終戦間際の戦火をくぐる擬似家族に、「FURY」の4文字はどのような呪いをかけているのか?

 憤りを原動力とする行動はいくつかあり、その昔SNKの『怒(いかり)』なんてゲームもあったのだがそんな事はまあどうでもよくて、憤怒は自存自衛の気運を高めると同時に他者の滅殺に至る。その憤りを、新兵のひよっこに通過儀礼として自覚させゆくのであろう事は、戦場の擬似家族ものとして、戦車という殺人兵器をねぐらとする映画として約束された事柄であり、観る前から凡その戦争映画ファンが期待していた事でもある。
 が、それにしてはナチスSSの悪辣さ、外道っぷりが弱く、300人で歌いながら行軍しているシーンなどはむしろカッコイイ! と思わしめるところがデヴィッド・エアーのバランス感覚であったのかも知れないが、バキバキと音を立てそうになるこころ、たましいを憤怒によって奮わせるウォー・ダディの姿にはやはりモブ化したナチとは違う情動に震えさせられる。

 ナチ伝説のティーガーと一戦を交えるシーンなどは有無を言わさぬ迫力がある。迫力と言えばキャタピラが泥も死体も綯い交ぜにして轢き進むアップにも迫力があるし、武器を持ったヒトラー・ユーゲントは即殺せと命じるウォー・ダディの昏い視線にも迫力がある。フューリー号の乗組員は撮影に際して本当に6日間のブートキャンプを行なったらしいが、ナチに対する如何な座学があったのか興味は尽きぬところである。

 家、と言えば、フューリー号の他にクライマックスの民家や、途中、立ち寄る事になるドイツ人女性の家も印象的だ。本来の意味で言われる「家」――母親と恋人が居て、食事にピアノを楽しめる異国ドイツの「家」で、連合軍の新兵は戦車の狭っ苦しいねぐらを忘れそうになる。パンツァーファウストやコンバットナイフよりもお洒落な食器にふかふかのソファだ、嗚呼。という事になると映画が成立しないので、極めてガサツなフューリー号の面々に修正を食らう事になるのだけれども、ここは軍人が敵国の一般人に何をするか、端的に現した良いシーンだと思う。

 叙情的な音楽の使い方には賛否両論あるようだが、古強者と新兵が過ごす地獄の1日に表情と感情を強調するものとして、特に耳障りという事はなかった。良くも悪くも「日常系」なのである。ただその日常が敵国の最前線で過ごす日であっただけで、となれば戦車や硝煙の匂いはマイカーにコーヒーの匂いと何ら変わるところはない。が、ウォー・ダディがビル・キルゴア中佐と違うのはその家父としての記号化に特化した神秘性に依るところが大きく、過去が語られる事もなく、即物的な感情を時折見せるものの、結局は戦場の父親として職責に従う。十字砲火の敬虔な体現者。この地獄の1日にポッと出現した家族の単位、個人の単位を見るためだけにでも、劇場に足を運ぶ価値はある。


フューリーフューリー
スティーヴン・プライス

Interstellar Gravity

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