今日も深夜の抱っこ中です。寒くなったから外は出れなれないので,家で寝かせる日々が続きそうです。早くうまく寝てくれるようになると良いなあ。そんなことを考えつつ,勉強したり,ブログ書いたりして深夜の時間を過ごしています。
もうすぐ今年も終わりで,我が息子も今月で産まれてから3か月が経とうとしています。早いと言われれば早いですし,遅いと言われれば遅いですし,辛いと言われれば辛い…(笑)。
産まれる前は「2人目はよく寝るよ」なんて言われ,まあ我が家の場合,長男の時に「○○ヶ月経ったら楽になる」と散々言われて,結局そのようにはならなかったので,次男が寝る子になるなんていうのは信じていなかったのですが,予想通り寝ない子で嬉しいんだから悲しいんだかという感じです。しかも我が次男は外ではよく寝ている姿を見せるものですから「まあいい子だねえ」と言われており,早くも地域の人気者です…。
あのくわばたさんに妻が会った時も「2人目寝えへんの?それ辛いわ~」と言われております(笑)
妻がくわばたりえさんのママ友会に行ってきたという話 - いつか朝日が昇るまで
それで次男を抱っこして寝かせているというのもあるのですが,寝ない次男を連れて,夜,散歩していると「君はなんで私達のところに来たの?」と聞いてみたくなるんですよね。「子どもは親を選んで産まれてくる」というスピリチュアルな解答を期待しているのではなくて,純粋になぜ?と思っていて,そうした巡りあわせにとても不思議な気持ちになります。
長男はもう三歳ですから「なんで家に来たの?」と聞いてみたい気もするのですが,妻が「あなたがお腹にいるときに萩に旅行したのよ」と言うと,「○○君ね,おなかの中にいるときに萩に行ったんだよね」と自分の記憶ではなく人の記憶を横取りして語り始めるので,私の「なぜ?」に答えてくれそうもありません。
もし妻と出会わなければ,もし妻と結婚しなければ,さらに言えば妻と同じ職場で働くことがなければ今のような人生は用意されていませんし,私たちの子どもも生まれてなかったのかもしれません。
生きる苦しみや死ぬ怖れに出合って,人はそのことの意味や理由を求める。そうしなければ,その苦しみを納得できないと思うからだ。でも,いいかい,納得できるということなら,宇宙が存在する,なぜ存在するのかわからない宇宙がなぜか存在するというこのこと以上に,納得できないことなんかあるだろうか。宇宙が存在するということは,神が創ったのではない宇宙が,しかし存在しているというこのことは,とんでもないこと,ものすごいこと,まったく理解も納得もできないことなのではないだろうか。これは,奇跡なんだ。存在するということは,存在が存在するということは,これ自体が驚くべき奇跡なんだ。存在するということには意味も理由もない。だからこそ,それは奇跡なんだ。
自分が,存在する。これは奇跡だ。人生が,存在する。これも奇跡だ。なぜだかわからないけれども存在する自分がこの人生を生きているなんて,なんて不思議でとんでもないことだろう。まさか今さら両親から生まれたなんてことで,この不思議が納得できるわけがないよね。だって,その両親が存在するということだって,やっぱり同じ奇跡なんだから。
(182-183頁)
今までこういう主張は良いなあと思いこそすれ,それを信じるまでには至りませんでした。自分の人生を「奇跡」だと認めることにとても大きな抵抗があったからです。
挫折続きで自分の人生を呪った10代,20代 - いつか朝日が昇るまで
でも子どもたちが今,私たちのところに来たということは「奇跡」だと言っていいかもしれません。そんな風に思うことで自分の人生を肯定しているだけなのかもしれませんが,そんな不思議な巡り合わせを子どもたちに感じているのは事実です。そんなことを考えつつ,私は次男を抱っこしています。時計は0時を回っております。もう少し寝てもらおうかな…。