【土井たか子さんお別れの会・詳報】(5・完)佐高信さん「寒風に負けず咲くツバキはまさに土井さん」

2014.11.27

土井たか子さんお別れの会 献花の様子=25日午後、東京・憲政記念館講堂(川口良介撮影)

土井たか子さんお別れの会 献花の様子=25日午後、東京・憲政記念館講堂(川口良介撮影)

 《落合恵子さんの後、最後にお別れの言葉を述べたのは評論家の佐高信さん。護憲の全国キャンペーンを展開する「憲法行脚の会」の呼びかけ人を代表して登壇した。土井さんも呼びかけ人の一人だった。佐高さんは、土井さんの人柄をツバキの花になぞらえた》

■佐高信さん

 土井さん、先日、会津へ行ってきました。土井さんが親しかった元外務大臣の伊東正義さんの故郷です。総理大臣の座を蹴った男として知られる伊東さんは、勲章も辞退しました。会津藩の教え「ならぬことはならぬ」の精神でしょうか。土井さんの「だめなものはだめ」も、伊東さんの「ならぬものはならぬ」と似ていますね。

 よく、社会党などに対して「反対ばかりしている」とか「批判するのは簡単だ」とかいう非難が浴びせられてきました。しかし、世界に誇るべき日本国憲法まで変えようとする者たちに対しては、反対するしかないではありませんか。土井さんも、「激しく反対しなかった」という批判は受け入れても、「反対ばかりして」という批判は受け付けられないという気持ちだったでしょう。訳知り顔のそうした批判をはね返すように、土井さんはさっそうとしていました。

 土井さんに最も似合わなかったのは卑屈さです。何度か一緒にカラオケにも行きましたが、誰かが都はるみの「北の宿から」を選び、「着てはもらえぬセーターを涙こらえて編んでます」と歌うと、土井さんは「どうして着てはもらえぬセーターを編むのよ!」と口をとがらせていました。

 昭和3年生まれの土井さんは3年生まれの城山三郎さんとの対談で、自分を痛ましいくらいの純真な皇国少女だったと告白していますが、17歳で海軍に志願した城山さんは、その少年兵体験から「戦争はすべてを失わせる。戦争で得たものは憲法だけだ」と繰り返し言っていました。

 社民党の党首を辞めた後、土井さんは城山さんや落合恵子さん、そして私などと一緒に「憲法行脚の会」をつくり、日本国憲法がいかに大切で、ユニークなものかを広げる運動に全力を注ぎました。土井さんの歌う「マイウェイ」は宝塚歌劇のスターが歌うように見事でしたが、行脚の会は日本国憲法を「アワーウェイ」にするように努力してきたのです。残念ながら、その道はなお遠いと言わなければ得ません。しかし、私たちは土井さんの遺言を胸にその道を歩き続けます。

 土井さんは2003年春の私の父の葬儀に、わざわざ山形県酒田市まで来てくださいました。その時の弔辞で、書家である父が贈った色紙を大切にしていると言ってくれたのです。それは映画監督の五所平之助がつくった「生きることは 一筋がよし 寒椿」という句を書いたもので、土井さんはその字を見ていると、寒空に凛(りん)として赤い花をつけるすがすがしさに、「寒さに負けるな」と励まされる気持ちでいっぱいになりますと言いました。寒風に負けずに凛として咲くツバキはまさに土井さんです。

 私たちは、ツバキとともに土井さんを忘れません。土井さん、いつまでも咲いていてください。2014年11月25日 佐高信。

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