【土井たか子さんお別れの会・詳報】(2)村山富市元首相「僕より若いのに先立たれたのは本当に寂しい」

2014.11.25

お別れの言葉を述べる村山富市元首相=25日午後、東京・憲政記念館講堂(川口良介撮影)

お別れの言葉を述べる村山富市元首相=25日午後、東京・憲政記念館講堂(川口良介撮影)

 《衆参両院議長の弔詞の後、お別れの言葉が送られた。最初に登壇したのは、村山富市元首相だった》

■村山富市元首相

 土井さん、こうしてあなたの遺影の前に立つと、ありし日のあなたのことが昨日のことのように浮かんでまいります。

 あなたが低落傾向にあった党の委員長に就任要請された時、「やるっきゃない」と決意された。就任後は、圧力や甘言に屈することなく「だめなものはだめ」と強い意志で筋を通してきた政治家としての土井さん。半面、とても仲間を大事にする、人をいたわる、優しさを持った人でした。土井さんが委員長に就任後、再び社会党は息を吹き返し、強い国民の支持を得て「山を動かす」ほどの強い力をもった社会党に再生しました。

 当時の土井さんの国民的人気は素晴らしかった。1989年、参議院選挙で大分に応援に来られた時のことを忘れることはできません。8月、夏の暑い日差しの昼下がり、別に動員をしたわけでもないのに、今まで見たことのない人ほどの集まりでした。土井さんが宣伝カーの上に立つと、どよめきが起こるほどの拍手、拍手でした。

 司会者が開会のあいさつをした後、僕が10分ほどあいさつをして土井さんにバトンタッチをすることになっていました。司会者から紹介されてマイクを握って立ってみたら、みんなの顔が土井委員長に集中している。とっさに私は「僕のあいさつはいつでもできる。今日は暑い中を集まってくれた皆さんは委員長の顔を見たい、土井さんの声が聞きたい、その一心でお集まりいただいたと思うので、ただちに土井さんにバトンタッチします」と言ったら、また割れるような拍手。演説会が終わった後、「村山さん、今日のあいさつは良かったね」と褒められた。その時のことは今も商店街の語り草となっています。

 あなたの存在は本当に大きかった。あなたが衆院議長当時、私が総理に就任した時も、何かと気を使っていただいて、時折連絡もくれた。

 あなたが議長をお辞めになられたあたりから、再び小さくなった社民党の委員長に就任いただきました。おそらく、あなたは大役を終えた後、護憲運動に専念したいと考えておられたと思います。

 しかし、社会党の強い支持母体であった総評が解体し、主要な労働組合は民主党支持を表明、社民党議員の大半は民主党に移行。この際、党の再生のためには、もういっぺん土井さんに先頭に立ってほしい。そうした期待を受けて、再出馬をお願いする僕の役目はつらいものでした。本当に済まないことをしたと胸の痛む思い出です。

 その後、党首を降りられてからは「憲法行脚の会」を立ち上げ、「9条改悪は許さない」と先頭に立って全国を駆け回り、「歩く9条」とあだ名を付けられるほど頑張っていました。その後、体調を崩されて郷里に帰られた聞き、ぜひ一度お会いしたいと声をかけていましたが、会うことはできませんでした。「私が元気だった時のことを覚えていてくれればいいの」という返事でした。誰にも会わない、見事な意志の強さ、最後まで頑固な人だったと思うと同時に、本当に心優しい人でした。

 あれだけの大衆的な人気を得た裏には、並大抵ではない勉強、努力をされてきたことはあまり知られていないと思います。言葉を大切にする、何を言うべきかあらかじめ調べて、演説を粗末にしない人でした。それは大衆を偽らない、人を大事にする政治家としての姿勢だったと思います。

 今日の日本は安倍自民党政権の下、右傾化が心配されています。憲法を無視して解釈改憲で集団的自衛権を閣議決定し、すべてを既成事実化しています。

 僕よりも若い土井さんに先立たれたのは本当に寂しい。残念です。志を受け継ぎ、絶対に守り抜くとお誓い申し上げます。土井さん、おたかさん、ありがとう。本当にご苦労さまでした。

 どうぞ安らかにお眠りください。

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