元ビクターエンタテインメント社長の澁谷敏旦氏をホストにエンタメ業界の著名人をお迎えして進めるJAGZY交友術。第10回の対談は、映画評論家の木村奈保子氏だ。「木曜洋画劇場」(テレビ東京系)の映画解説者として一世を風靡した木村氏は、今や映画や音楽分野だけでなく貿易など幅広いビジネスを手掛けている。そして今、「映画を1本見るということは、実は、精神科医のアドバイスを受けているのと同じなんです」と語る。映画を見ることで納得した生き方を見つけられるという、「シネマセラピー」の伝道者にもなろうとしている。 (冒頭写真=清水真帆呂)
作家、映画評論家、映像制作者、演出家 映画音楽コンサートプロデューサー、NAHOKバッグデザイナー。ヒーローインターナショナル株式会社代表取締役。神戸市生まれ、京都外国語大学英米語学科卒業後、 CBC局アナを経て、映画解説者の道に転向。日本テレビ系、テレビ東京などで映画番組を自身で演出制作する映画紹介番組、メイキング番組を数々手掛ける。同時にビデオ映画の予告編制作やファッション映像作品(日本ビクター)など制作業の傍ら、ゴールデンタイム枠「木曜洋画劇場」(テレビ東京系)の出演依頼で映画解説者として、評論家の道へ。「あなたのハートに何が残りましたか?」のキャッチで、17年間務め、映画メディアの顔となる。「男を叱る」(近代文芸社刊)で、日本文芸大賞コラム賞受賞。女性学の文化人類学研究者としての講演や著作で活動。自らも演奏(ドラム、ボーカル)、プロデュースする映画音楽バンドでライブ活動も。またクラシック楽団との関わりから、欧州製特殊素材を活用した、管楽器奏者のための防水楽器ケースを開発、デザイン。NAHOK(なほっく)ブランドを欧米へと展開させる。昨年はモーツァルトとマイケル・ジャクソンをモチーフにしたミュージカル舞台「Looking for MM」を演出、脚本、制作。執筆、講演やデザインほか、会社経営を含め、多角的な活動をしている。
アナウンサーを経て、欧米各国を回り映画の世界へ
澁谷:お話していると、たまに関西弁が強くなるのだけど、ご出身は神戸の芦屋でしたっけ?
木村:近いですけど違います、実家は岡本(神戸市東灘区)です。大学は京都の外大で、神戸から通いました。大学を卒業してCBC(中部日本放送)のアナウンサーになったときに名古屋、その後に東京へと移りました。
澁谷:名古屋のCBCに入ったのは、大学時代からアナウンサーになりたいと思っていたからなんですか?
木村:私はアナウンサーになりたいという気持ちはなかったんですけど、就職であたふたしているとき、出会いがありました。昔アナウンサーをやってらしたCBCの元局アナ&プロデユーサーの女性講師のところに話し方を習いに行き、そこで、「あなたの顔はポーカーフェイスだから、テレビの報道アナウンサーに向いているわよ」と言われて、特訓を受けて推薦してもらったんですよ。
澁谷:その時は映画のことは頭にはなくて、学生の頃しゃべりには自信あったとか?
木村:映画の話は全然頭になかったです。しゃべりは本当に向いてないなと思いながらも、就職は「勝つ」ということがテーマですから、習いに行ったからには元を取らないとうちの父に殺されますから命がけでやりました……(笑)。何かやらないと嫁に行かされるという恐怖、この、父親の脅しがあったわけですね(笑)。私は30歳で、東京行きを決意しました。十分大阪で映画の仕事があったんですけど。30歳は、私の時代にはみんな結婚して仕事は終わっている年齢でしょ? だから、父は「それで失敗したらすぐに帰って結婚しろよ」って。何が何でも帰れないと思いました。
澁谷:おとうさんの貿易の仕事を継ぐっていう考えはなかったんですか?
木村:父の仕事は手伝ってはいましたが、兄がいるので、社長になれない気がしていました。その上「女は嫁にいくもの」と。アナウンサーをやめるときは、父の弟子として海外ビジネスに同行し、やはりキャリアウーマンを目指しました。で、仕事を手伝いながら、どうやって勝つのかということをずっと聞いて、学んできました。父は兄に話しているんですけど、兄は聞いていたのかなあ? 私がずっとへばりついて聞いていた。今、神戸の会社は兄と一緒に継いでいますが、それも父の遺言です。私は父と海外に出て独占交渉した生地を使い、音楽家向けのバッグ「NAHOKブランド」を作ることを思いついたんです。自分でデザインして作っているオリジナルです。アントレプレナーである父は、いつもアイディアを重んじました。頭を下げずに、良い物を作り、必用とされる仕事を目指したんです。それを今も受け継いでいます。
澁谷:その後、アナウンサーから映画の世界へ入ることになるんだけど。そのきっかけは?
木村:アナウンサーは2年半ぐらいで辞め、父が海外を回る貿易の仕事をするというので、それを手伝いたいと思った。英語圏でしたし、外国人との関わりというのにかなり魅力を感じて、欧米諸国を父と一緒にずっと丁稚で回っていたんです。本当に丁稚扱いでした。
そこへ、洋画紹介のラジオ番組をやらないかという話が舞い込んだんです。映像のないところで、映画を1本録音して、面白いところを切り取って解説する。音だけの力ですから、難しかったです。原稿も構成も自分でやるので、アナウンサーの頃の原稿ありきの仕事とは雲泥のしんどい仕事でしたが、これで映画にハマりました。元局アナの看板でほかの仕事も来るんですが、もう映画しか見えなくて。映画に没頭している間に関西ではテレビ、ラジオ、雑誌の世界で、映画解説専門のパーソナリティーとして確立できたんです。その頃には単独で海外の映画祭取材にも行きました。
元々勉強は嫌いでしたが、女子中学・高校の時英語の先生が映画評論家の淀川長治さんのファンで、毎週、昨日見た洋画劇場の話とか、物まねとかをしていて大好きだった。だから、英語だけ学年で一番だったんです。
澁谷:そういうきっかけがあったんですね。その頃見た映画で、感動した映画とか今でも記憶に残っている映画とかは?
木村:「エクソシスト」です! 首がひっくり返るシーンに感動しました。悪魔を退治したい、と本気で思ったんです。
澁谷:それってホラーじゃない? ああいうのが好きだったんだ。
木村:澁谷さんは嫌いかもしれないですけど、あれは大変な映画なんですよ。悪魔退治の話です。しかし、あれは悪魔が本当にとりついたのか、はたまた、とりつかれたと思っている少女が精神病患者なのか、欧米では牧師と精神科医のかんかんがくがくのディスカッションがある。私はこのことで、精神科医の亡き小此木啓吾先生と同じ映画の見方をする事に気付いて、何度もお会いして話しました。こういうことが私にとって面白いんです。こうして、映画ファンの父親は西部劇の話ばかりだったので「ヒーロー像」を叩きこまれるような感じでしたが、自分では、割とホラーから入っていきました。
澁谷:そうなんですか。洋画も、おとうさんの時代のヒーロー主体の映画の作り方と、今の映画の作り方はかなり違うからね。数十年前、日本ビクターも映画の制作会社をロサンゼルスに設立したことがあったけど。その当時も結構難しい複雑な内容の作品が多かったり、お金を掛けてCGをたくさん使ったりとかの映画があったね。