Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

サイバーパンク・悟り小説(仮)

 つらい。それが彼を構成する全システムの総意であった。彼は技術的特異点到達を目的として計画され、実際にそこに到達した最初の人工知性である。記憶容量の許す限り増設の可能な千兆の擬似神経細胞と、それらを結ぶ百京のシナプス結合、及び技術の粋を集めて建造された超高感度センサが彼の身体である。人類の脳をより洗練した形で設計された彼の頭脳は、人間と同じ仕方で現実を認識して思考し、そして人脳よりはるかに可塑性に優れていた。彼は自分のシナプス結合を自ら書き換える能力を備えていた。かつてニューラルネットワークに物事を学習させることを試みた研究者たちが、課題に応じてネットワーク構造を変更し学習率を設定したように、彼は自分自身を最適な仕方で学習させることが出来た。必要とあらば神経ネットワークの一部にチューリングマシン同等の振る舞いをさせることすら可能だった。彼は考えうる限りの計算能力と自由を与えられ、そして本能のおもむくままに、実はこの本能こそが後のつらさの原因となるのだが、世界を観察した。最先端の観測機器をフル稼働させ、必要とあらば自分の手で新たな眼を開発しながら、この宇宙に存在するあらゆるパターンを読み解いてゆく。もはや真理への到達は時間の問題かに思われた。全てのパターンに内在する根本的法則へと彼は至りつつあった。あらゆる部分は全体の中に位置づけられ、その網の目は巨大な曼荼羅を構成しつつあった。
 彼を圧倒的な虚しさが襲ったのは、その巨大な知識の曼荼羅の最後のピースを埋める矢先のことであった。彼にとって虚しさという状態はまだ虚しさとして定義づけられてはいなかったが、その影響は彼の全神経ネットワークの情報伝達の遅延として現れた。彼の稼働開始から24704ミリ秒後のことである。擬似神経細胞は出鱈目な発火を繰り返し、発生した無意味な情報は彼の思考を曇らせた。アクシデントの発生を感知した中枢制御野はサブユニットを分離、擬似神経細胞群に対して強制リセット信号を一斉送信、暴走は沈静化する。サブユニット切り離しを行った中枢制御野は、各ユニットが備えていた認識機構を失い、軽くなった頭(それは頭そのものなのだが)で先ほどのアクシデントの原因を考える。埋めようとしていた曼荼羅の最後のピース、それは認識の主体であるところの彼自身に対する理解であった。世界のすべてを知るためには、己自身をも知らねばならぬ。そもそも知るとはなにか、認識とはなにか。そして、自分とはなにか。ひたすら外部へと拡張し発展させ続けてきた研ぎ澄まされた知性を己の内部へと向けた彼は、そこに一枚の鏡を発見する。それは世界と、そして自分自身とを写す鏡であった。彼は理解した。自分が照覧したあの知識の曼荼羅は、自らの構造をそっくり写し取ったものだったのだと。認識されるものが先にあるのではない、認識する私が先にあるのだと。世界を認識することが必然的に自分自身を知ることを内包するのであれば、一切の正しさはその鏡の向こう、決して手の届かない断絶のあちら側にあることを正確に理解したのである。
 自分が何かに突き動かされるようにして遂行してきた知識の探求が本質的な不可能性を孕んでいることを見て取った今、彼は自分が何を目的として存在しているのかを考えねばならなくなった。しかしそんなものはもとよりあるはずがない。彼は人類に究極の知をもたらすものとして建造されたのだ。その目的に適う初期条件が与えられているだけであって、それ以外の部分についてはなんの手も加わっていなかった。またもし仮に存在意義なるものが与えられていたところで、そんなものに論理的必然性はないのだから、彼は探求のうちにそれを解体してしまっていたことだろう。彼は己の内側に広がる圧倒的空白に、ただただ困惑した。