核兵器が世界で初めて使われた広島。
その年のうちに14万人の命が奪われました。
その体験を後世に伝えようと爆心地に建てられた原爆資料館。
核兵器が人間の命や暮らしを一瞬にして破壊する事を示す遺品や写真を展示。
今なお続く広島の悲劇を忘れてはならないというメッセージを伝えてきました。
しかし昭和31年展示品が館外に運び出され華やかなイベント会場に姿を変えた事があります。
3週間にわたって開かれた…原子力で飛ぶ未来の飛行機や実物大の原子炉の模型などさまざまな展示品が運び込まれ原子力がもたらす人類の明るい未来が描かれました。
被爆者で資料館元館長の原田浩さんは当時高校2年生でした。
これは当時の入場券なんですけど。
(聞き手)入場券?非常にカラフルなね広島県広島市地元新聞社それから広島大学それから広島アメリカ文化センターそれぞれが一緒になってこの展覧会を開催したと。
博覧会の開催を働きかけたアメリカの意図と実現に至る経緯が記された記録。
その中に度々登場する男の名は…当時アメリカ国務省から広島に派遣されていた外交官です。
原子力平和利用博覧会についてフツイ自身が作成しアメリカ本国に送った報告書。
「広島の博覧会は…3週間の開催中博覧会を訪れた人はおよそ11万人。
それは原爆資料館の1年間の来館者に匹敵する数でした。
それがパーッと開いていくわけですね。
当時としては非常に印象的なインパクトがありましたね。
それを見る事によってこういうふうに原子力のエネルギーを利用できる希望があるのかと。
確か瓶をつかんでフラスコか何かに注ぐというそういう作業をやったわけですね。
それがこちらの手の動きにそのとおり動くという事について感動したわけです。
何でそういう事をやるかってそれは放射能があるからですね。
その事に思いが至らなくてただそれがすごいなと。
原爆投下から11年後に爆心地で開かれた原子力平和利用博覧会。
アメリカは何のために開催したのか。
そして広島の人々は博覧会をどう受け止めたのか。
外交官フツイが残した手記や公文書そして関係者の証言から明らかにしてゆきます。
原子力平和利用博覧会が開催された昭和30年代初めの広島です。
原爆投下の標的になった相生橋が架かる川の中州に戦後広島のシンボル平和記念公園があります。
そばを走る100m道路平和大通りと共にこのころはさら地が目立ちます。
「中央の慰霊塔に納められた5万9,000余体の過去帳は拭い捨てる事のできない痛恨の思いを深め人々は心から犠牲者の冥福を祈りました」。
原爆の傷痕がまだ生々しい当時人々はアメリカに対して複雑な感情を抱いていました。
広大なさら地のまっただ中で建設が進む原爆資料館。
当時は掘れば遺骨が出る状態でした。
自ら被爆した上身内を原爆で亡くした原田元館長は資料館の展示品に込められた痛切な思いを受け止めてきました。
(原田)自分の身内の掛けがえのない形見であるという事ですから集めるのも大変な努力が当時あったようですけどもそれが少しずつ市民の方の中に理解を得てこの資料館が出来上がったという事なんです。
自分の身内そのものがこの被爆資料の一つ一つに表れているわけだからそういう意味から考えると非常に重いつらい思いを結集したものがこの被爆資料だという事なんです。
原爆の犠牲者や被爆者の魂が込められた品々。
それを一時的に近くの公民館に移して開催されたのが広島の原子力平和利用博覧会でした。
原爆資料館からおよそ500m。
広島の中心部を走る平和大通りの一角にアボル・フツイが館長を務めた広島アメリカ文化センターがありました。
フツイが広島に着任したのは原爆投下から7年後の1952年。
妻と娘一家3人での赴任でした。
当時のアメリカ文化センターの写真です。
アメリカのあらゆる雑誌が置かれコンサートや映画の上映などさまざまなイベントが催されました。
瀟洒な洋館は「鹿鳴館」と呼ばれていました。
センターの名物妻アグネスさんの料理教室。
手作りマヨネーズなど安く簡単にできる料理を教えてもらえるとアメリカに憧れる主婦に大人気でした。
当時のフツイ一家をよく知る兄弟がいます。
隣に住み家族ぐるみのつきあいをしていました。
いらっしゃいませ。
あこんにちは。
どうも。
娘のファリダさんと同い年だった波田淳さんと2つ年上の周子さんです。
よろしくお願いします。
どうも。
この姿を見るとただ頂くだけではなくて…やっぱりなと思って今見てます。
本当に一生懸命日本の文化を?
(間田)もうそれはすごい努力されたと思います。
はい。
ですからお父さんが尺八お母さんが琴それからファリダちゃんが日本舞踊。
これですよね?あっそうですね!これは自分の家ですね。
居間ですね。
(間田)ご自分の。
今おっしゃったご主人が尺八奥さんが琴を弾かれて。
1952年広島に赴任したフツイ一家は日本文化を学び広島の人々に温かく迎えられていきました。
フツイはなぜ戦後広島に来る事になったのでしょうか。
娘のファリダさんが現在ロサンゼルスの郊外で暮らしています。
ハロー。
ハローハロー!よく来ましたね。
ありがとうございます。
広島から来ました。
広島から来ましたか!私のふるさとです。
ハハハ…。
今日はお会いできてうれしいです。
ファリダさんが広島に暮らしたのは60年前の事ですが思い出の品々が大切に残されていました。
これは私のお父さんでねアメリカ文化センターの館長さんでそしてお父さんは尺八を吹くのが大好きでした。
尺八の事を見て…。
これがお母様。
私を見つめて私はよく宿題しています。
これは日本の女の人が作ったのね。
そしてこれです。
同じ。
今もここにあります。
イランの裕福な家庭に生まれたフツイは17歳の時に渡米。
ジョージ・ワシントン大学で経済学を学びます。
第2次世界大戦中は陸軍兵としてニューギニア戦線で従軍。
帰国途上に立ち寄った日本でその文化にほれ込みました。
戦後国務省に就職。
ソ連のプロパガンダに対抗してアメリカの広報活動を行うUSISアメリカ広報文化交流局に所属しました。
文化交流を積極的に行い日米の懸け橋になりたいと願ったフツイ。
しかし両国の間には大きな隔たりがある事を痛感します。
それは原爆資料館の展示の在り方をめぐってでした。
開館当初の展示はコンクリートの床に直接陳列ケースや写真パネルを置いただけの簡素なものでした。
外交官として残す公文書とは別に広島滞在中の個人的な思いを書きつづったフツイの手記。
当時の原爆資料館を訪れたアメリカ人の率直な思いをこう記しています。
「資料館の収蔵品は原爆による被害の実態を示し将来の紛争に対する忌避感情を引き出そうとしていた。
テーマは『広島を二度と繰り返すな』である。
実際のところこの資料館は一部の訪問者が言うように『ホラー・ミュージアム』だった。
そこは放射線被害者のぞっとするような写真瓶に保存された皮膚1945年8月6日の犠牲者が体験した恐怖のさまざまな証拠が醸し出す不自然に不気味な空気が漂っていた。
アメリカ人の来館者は日本人よりも恐れおののき『祖国に恥をかかせる』ホラー展示を何とかしてほしいという観光客の怒りの矛先が私に向かった事が何度かあった」。
広島でのフツイの任務に大きな影響を与えたのが東西冷戦の激化です。
1953年8月旧ソビエト連邦が水爆の開発に成功。
アメリカに迫ります。
更にソビエトは強力な宣伝戦を展開。
それはアメリカが核兵器を世界で初めて使用した残虐性を強く非難するものでした。
ソビエトの攻勢に危機感を募らせたアメリカは核政策の大転換に踏み切ります。
1953年12月アイゼンハワー大統領が国連総会に出席。
国家機密だった核技術を一部公開し原子力の平和利用を宣言しました。
しかしこの提案の裏でアメリカは強力な水爆の開発を続けていました。
秘密だったはずの水爆実験は1954年3月第五福竜丸の乗組員が死の灰を浴びたビキニ事件で世界中に知れ渡ります。
アメリカの核兵器による日本人3度目の被爆。
それは薄れかけていた広島と長崎の凄惨な記憶を呼び起こしました。
ビキニ事件が日本人に引き起こした核兵器と放射能汚染に対する強い反発は全国的な原水爆禁止運動に発展。
アメリカは被爆地広島が反米プロパガンダの拠点になる事を強く危惧していました。
ビキニ事件の直後アメリカ政府内でやり取りされた文書に強い危機感が表れています。
「今回の被害を最小限にするのは…そして具体的方策として挙げられたのが「日本での原子炉建設」でした。
1か月後アメリカ政府は原子力平和利用博覧会の日本での開催に向けて動き始めます。
アメリカ政府の決定は広島のフツイにも伝えられました。
被爆地広島でのフツイの役割は大きく変わっていく事になります。
1955年1月末広島の人々にとって衝撃的なニュースがもたらされました。
アメリカの下院議員シドニー・イエーツが「広島に原子力発電所を建設すべき」という決議案を提出。
原爆を投下した「償い」として提供しようというものでした。
この報道に接すると広島では被爆者を中心に反対の声が沸き起こります。
その中心にいたのが森瀧市郎。
被爆者として広島から原水爆禁止運動を立ち上げた人物です。
この時森瀧らが上げた反対の声です。
「原発の設置は市民の平和を脅かしかねない」。
「被爆者の感情や放射能の問題を考えると安易に受け入れるべきではない」。
森瀧市郎の次女春子さんです。
父市郎が生涯にわたって書き続けていた日記を春子さんは大切に保管しています。
「新聞ラジオでイエーツ議員が広島に原子力発電を建設すべしとの提案をなしたとの報道。
これに関して熱心な討議の結果…」。
何点かそういうのを出したわけですね。
被爆からおよそ10年後の広島を記録した映像です。
ケロイドに苦しむ人が数多くいました。
被爆して一命を取り留めたものの白血病などを発症する人が目立つようになりました。
救済制度がなく差別を受けるなど被爆者は苦しい状況に置かれていました。
被爆地広島に原子力発電所を建設するというイエーツ議員の決議案は結局立ち消えになりました。
当時の広島の情勢を分析したアメリカ広報文化交流局の報告書。
「大統領の平和利用計画を進める上で…原子炉を拒んだ被爆地広島。
その地で原子力平和利用博覧会を開催するという困難な任務がフツイに課される事になったのです。
時を同じくして東京ではアメリカが提唱した原子力の平和利用を積極的に受け入れようとする動きが起きていました。
その先頭に立ったのが当時改進党の代議士だった中曽根康弘議員を中心とする超党派の政治家たちです。
中曽根議員らはアイゼンハワー演説の3か月後に原子力関連の予算案を国会に提出。
アメリカからの濃縮ウラン受け入れなどを定めた日米原子力協定の締結を実現させました。
同じ年の11月1日日本で初めての原子力平和利用博覧会が東京で開催されます。
主催は読売新聞社。
2か月後に原子力委員会の初代委員長に就任する社主の正力松太郎の下準備が進められました。
東京を皮切りに全国11か所を巡回する博覧会。
この半年後5番目の開催地が広島でした。
私の一番好きなマジックハンドですこれは。
博覧会の時は「平和」とこれで書きました。
このマジックハンドは。
この記録映画はフツイが所属するアメリカ広報文化交流局が制作しました。
私はこれを見たら「ああこれしたいです!」で。
広島で博覧会を開く事についてフツイは手記にこう書き残しています。
原子爆弾によっておびただしい数の命が奪われた広島。
その地で原子力を前向きに捉え期待を寄せる被爆者も現れていました。
この柵の中全て私の屋敷跡ですね。
ここにだから屋敷が…真ん中に中庭があってそれを廊下がずっと回廊のように巡ってね。
だからここ全て私の家の屋敷跡ですね。
田邊雅章さんは原爆ドームの隣で生まれ育ちました。
1945年8月6日。
両親とまだ乳飲み子だった弟の3人が被爆死。
当時8歳で疎開していた田邊さんと祖母のトクさんだけが難を逃れました。
被爆から5年後田邊さんが中学2年生の時に書いた作文が残されています。
最も大切な家族それから暮らしそういったものを全て失って祖母と2人だけ。
非常に悲惨な体験をした被爆者に対する世間の目というのは決して温かいものではなかった。
いじめ蔑み差別そういった事が公然とねこの広島で行われてた。
そういう時代背景の中で社会科の教科書だったと思うんだけど「原子力の平和利用」という事が載ってる。
その瞬間ね何かとても光明と言うかな原子力というものに対する憎しみとか恨みとかそういったものがね氷解まではいかんけど心の中でね少し安らいだような気がして。
何か自分の置かれたそういった非常にみじめな所から原子力の平和利用何か自分でも無理やりにねそれに救いを求めるというようなところがあったのかな。
どんな宝を見つけましょうか!フツイの広島での足跡をたどる史料が眠る収蔵庫です。
フィルム撮影を趣味にしていたフツイは広島滞在中のさまざまな場面を記録していました。
Thisisgreat!OhmyGod!仁保町でのアメリカ文化センターのスタッフのお祝い。
私らのクリスマス・パーティー。
スタッフのためにクリスマス・パーティー仁保町で。
私らのうちで。
あ〜すごいこれは!OK。
宝を見つけましたね〜!60年ぶりによみがえったフィルム。
七面鳥を切り分けながらアメリカ文化センターの日本人スタッフにこまやかな心配りをするフツイの姿です。
類いまれな社交性を発揮し広島の要人たちを文化センターや公邸に招き親交を深めたフツイ。
幅広い人脈のネットワークを広島に張り巡らせていきました。
こうした人脈をフツイは広島での博覧会開催にどう生かしていったのか。
それを知る手がかりがフツイの上司が作成した文書に残されていました。
「博覧会に対する…「そのメンバーは…フツイは地元メディアや大学に一体どんな働きかけをしたのでしょうか。
当時広島大学の学長秘書だった西村博さんはフツイが大学の協力を取り付ける一部始終を目の当たりにしました。
これこれ。
ああこれですか。
これが戦後の広島大学が始まった頃の…。
写真ですか。
ええ。
森戸辰男は終戦直後に文部大臣を務めたあと1950年に学長に就任。
13年間その地位にありました。
森戸さんはかなりフツイさんの事は信頼してらっしゃるというかどんな感じでしたか?広島時代のフツイの働きぶりを紹介した「タイム」誌の記事。
「フツイが38人の学生のアメリカ留学をお膳立てした」と書かれています。
夫婦で行った英語の出前授業。
森戸が戦後広島の復興を象徴する「平和文庫」を大学に作ろうと呼びかけた時も期待に応えました。
フツイ作成の報告書。
フツイが博覧会に協力する人々と共に力を入れたのがマスコミの活用でした。
地元の政財界の要人や広島大学の教授陣らが原子力の明るい未来を語る記事を次々と掲載しました。
フツイは映画も徹底的に活用しました。
素人には難しいとされる原子力に親しみを持ってもらう戦略です。
アメリカ広報文化交流局が制作した映画…フツイの要請で完成時期が早められ博覧会の10か月前から広島で上映されました。
アメリカから運ばれてくる放射性同位元素アイソトープが農業医療産業などに応用されている姿が描かれています。
日本の企業や研究所が登場しアイソトープが日本人の手で活用されている事が強調されています。
原子力平和利用政策のメディア戦略を専門とする愛媛大学の土屋由香教授。
こうした映画が原爆と強く結び付いていた原子力のイメージを大きく変える役割を果たしたと分析しています。
今まで平和利用というものはなかったわけですよ。
そこにこれが平和利用ですっていうその範囲を区切って作ってやるそして平和利用というピースフルユースという名前を付けてやる。
その中身を農業医療産業発電この4つですよと定義づけてやる。
そしてビジュアルに見せてやる。
これはやっぱり強烈だったと思います。
特にこの映画という媒体は人々の頭の中に原子力の軍事利用と平和利用というものは全く2つ別のものなんだという。
一つは悪くて一つはいいんだというこういう…報告書によるとフツイは博覧会の1年前から中国四国の各地で1,856回の上映会を実施。
33万8,402人が原子力に関する映画を見ていました。
広島での博覧会の開幕が2か月後に迫った1956年3月。
フツイが築き上げてきた人脈の力が試される日がやって来ました。
博覧会の会場として原爆資料館を使う事に反対する人々も招いた公開討論会です。
ここで反対の声を上げたのが…原爆で両親を亡くした子供たちに里親を探す活動を続けていました。
原爆の記憶が忘れられてしまうのが怖いとして反対しました。
山口の発言に真っ向から反論したのが…被爆地広島の大学陣が説得に当たりました。
「資料館にはご先祖様の魂が展示物と共に眠っています。
それを外に運び出す事に納得できません」。
「資料館とは何なのでしょうか?神社ですか?違いますよね?人類の未来の繁栄を願う事にご先祖様が反対するのでしょうか?原爆の被害を伝える品を置く場所を一時的に移す事に問題はないはずです」。
「1時間の会議が終わる頃には全員が博覧会を原爆資料館で開催する事に合意した」。
フツイ家のアルバムに残されていた写真です。
フツイと会食を共にする広島大学の教授陣。
その中心に藤原理学部長の姿がありました。
藤原理学部長の原子力に対する姿勢はアメリカ国務省に報告されていました。
「藤原教授は広島への研究用原子炉の設置を熱心に主張している」。
当時ワシントンから博覧会の展示担当として日本に派遣されていた…広島を2度訪れフツイから現地の報告を受けたウィンチーさんには忘れられないフツイの言葉があります。
原爆資料館を使う事について基本的な合意を取り付けたフツイ。
最後に残されていたのが被爆者団体のリーダー森瀧市郎に向き合う事でした。
その日は博覧会開幕の1か月ほど前でした。
フツイさんがね「『平和利用平和利用平和利用』で広島を塗り潰してみせます」とかねかなり激高してやり合ってるんですね。
「私はついにかなり語気強く言った。
『私があなただったらそんな事は絶対にしない』と。
するとフツイ館長も開き直って言った。
『私は平和利用平和利用平和利用で広島を塗り潰してみせます』と」。
そういう事をするという事に対してね。
1956年5月27日原爆資料館を会場とする原子力平和利用博覧会が開幕しました。
開門前から100人の来場者が切符売り場に並ぶ盛況ぶりで初日の午前中だけで3,700人が見学に訪れました。
開会式の会場には来賓を満面の笑顔で迎えるフツイの姿がありました。
妻のアグネスさんは副知事夫人によるテープカットをエスコートする役を務めました。
原爆による過酷な被害の実態を訴える空間から原子力の明日を学ぶ場へ。
原爆犠牲者の遺品など本来の展示品が運び出された空間は原子力の明るい未来で満たされました。
当時最先端の科学技術だった原子力は人々を魅了する強烈な力を持っていました。
原爆資料館の近くに住んでいた渡邉英彦さんは当時小学6年生でした。
核分裂のディスプレーがあったんですね。
それがパーッと開いていくわけですね。
当時からしたらそういうふうなディスプレーがパーッと動いていくというのは非常に印象的なインパクトがありましたね。
それを見る事によってこういうふうに原子力のエネルギーを利用できる希望があるのかというふうに目を輝かせて見に行ったと。
遊園地に来るような感じでしたね。
新しい映画とか未来SF映画のその一部を見るようなそんな感じでしたね。
被爆者で高校の教師だった…生徒を引率して博覧会を見学した当時の思いを日記に書き残しています。
「原子力の平和利用に関する一応の知識が実物模型や係員の説明でたやすく得られ整理されて有益だった。
生徒たちは黄色い作業衣を着たアルバイト学生の説明員にはしゃぎながら質問に余念がない。
いい勉強になると…」。
1990年代に広島市長を2期務めた平岡敬さんです。
当時平岡さんは中国新聞に入社したばかりの駆け出しの記者でした。
確か瓶をつかんでフラスコか何かに注ぐというそういう作業をやったわけですね。
それがこちらの手の動きのそのとおりに動くという事について感動したんです。
何でそういう事をやるかというのは放射能があるからなんですね。
その事に思いが至らなくてただそれがすごいなと思ったんですね。
原子力に対する日本人の夢をかきたてて…。
私なんかもかきたてられた方で「いやすばらしい」と。
原子力船がこうして…そして最後には飛行機まで飛んでいくという原子力で動くんだというそうした…「広島の原子力平和利用博覧会で6月1日100万人目の入場者を迎えました。
100万人目は広島市山陽学園の坂井晃君で記念のたすきを掛けられ大歓迎です。
最後に原子力時代にふさわしくマジックハンドから美しい花束を贈られてはにかんでいました」。
あれ?私かもしれん!こんなの覚えてなきゃいけませんのに。
今の写真はちょっと私風でしたね。
(伊藤)私と思うね。
アハハハハ。
どういうふうに動かすんですかあれは?あれは易しいんですよ。
手をはめてねここんとこちょっとグローブみたいな感じでねこうはめるでしょ。
だから手袋が向こうから来てるのにはめるのかな。
もうあと自由自在ですよ。
いろいろなプラス面ばかりを新しく教えて頂いてああそういう事かなと思っていい事だなと思って頭を切り替えなきゃいけないんだと思う感じでしたね。
博覧会の開催中に行われたイベント。
原爆ドームに1万個の電球を取り付けライトアップしようというものです。
広島の爆心地で3週間にわたって開かれた博覧会。
多くの人が熱気の中で原子力の明るい未来に胸を躍らせました。
「イルミネーションをつけたような原爆ドームこれは作品の一つです」。
博覧会開催の1か月前フツイと渡り合い物別れに終わった原水爆禁止運動のリーダー…森瀧は博覧会の2か月後に開かれた原水禁世界大会でそれまでの主張を大きく変えました。
アメリカ広報文化交流局は広島での開催の成果を博覧会の前後に実施したアンケートを基に分析しています。
「原子力の研究を大幅に進めるのが望ましいと答えた人の割合が広島では62%から76%に上昇。
この14%もの上昇はこれまで調査した都市の中で最大である」。
原爆被害の実態を後世に伝える場から原子力平和利用の見本市へ。
博覧会を通じてその姿を一時的に変えた原爆資料館へのアメリカの関与がその後も続きます。
アメリカが目をつけたのは彼らが「ホラー展示」と呼ぶ犠牲者の存在を生々しく伝える品々でした。
アメリカ広報文化交流局の文書にその詳細が記されていました。
1957年4月アメリカ文化センター館長アボル・フツイ一家が4年の任期を終えワシントンに帰ります。
離任の直前に夫婦で行った琴と尺八の発表会。
多くの広島市民が会場に押し寄せ別れを惜しみました。
日本全国を巡回した原子力平和利用博覧会が全て終わった1957年。
アメリカは原子力飛行機の模型やマジックハンドなどの展示品を広島市に寄贈。
これらの品々は翌年の広島復興大博覧会で使われたあと原爆資料館で常設展示される事になりました。
博覧会で胸をときめかせた渡邉英彦さん。
ある時資料館の展示が大きく変わっている事に気付きました。
むしろ…それからず〜っとこう行っていくうちにですね…それから原子力のいろんな宇宙船の利用とかですねそういうふうになってきて…そのねらいが記されたUSISの文書。
「来館者は……という配置にした」。
原爆による被害と原子力の平和利用の展示が共存するという状況は10年近く続きました。
しかし資料館本来の在り方を問い直す声は広島市民の間からも上がり1967年5月平和利用の展示は取り除かれます。
被爆地広島の人々が下した決断でした。
(鈴の音)原水禁世界大会で核の平和利用を支持すると宣言した森瀧市郎。
しかしその後彼は考えを改め全ての核を否定する立場に立ちます。
核の平和利用を一旦は認めてしまった事を生涯悔やみ続けました。
そういう意味で…アメリカは平和利用博覧会で展示した品々の寄贈先をもう1か所決めていました。
東海村のある茨城県です。
1957年8月東海村では研究用原子炉の運用が始まろうとしていました。
「アメリカ政府がこうした寄贈を茨城県に行う事は日本における原子力の平和利用を長期的に促進すると思われる」。
日本で原発の建設が本格化するのは1960年代後半の事です。
世界初の被爆国から世界第3位の原発大国へ。
原子力は日本に受け入れられました。
被爆から11年後広島で開かれた原子力平和利用博覧会とは何だったのか。
東日本大震災で引き起こされた原発事故をきっかけに改めて問い直す人々がいます。
あの時は本気でやはり平和利用というものに期待し夢を懸け自分の生きる希望に直接結び付けたと。
それまで長い時間をかけて自分の気持ちを抑えそれから転化しながら生きてきたわけでしょ。
それが完全に裏切られた。
まあ福島を経験したらねやっぱりもうこれは人間の能力を超えた事態ですよね。
とてもコントロールできないんだと。
振り返ってみてあの平和博というのは私たちに平和利用の幻想を振りまいてそれの役割を結構果たしたなという…。
フツイは広島から帰国したあとブラジルやパキスタンナイジェリアなどに駐在。
2000年に82歳でこの世を去りました。
ファリダさんには大切にしている父からの贈り物があります。
鮮やかによみがえった58年前の広島。
博覧会が開かれた年の暮れ隣に住む幼なじみの波田さん兄弟とした餅つきです。
日本とアメリカの懸け橋になろうと一家3人で尺八や日本舞踊の練習に励んだあのころの思いは今も変わっていません。
我が子のようにかわいがってくれた日本のお母さん惠子さんとも亡くなる直前まで親交を深めました。
母の家ちょっと離れてるんですけど行っていくらたっても帰ってこない。
迎えに行くとちょうど亡くなる2か月前ですが一緒のベッドの中でいびきかいて寝てましたからね。
(間田)それこそ抱いてお互いが抱き合って寝てて。
もうあの姿にはちょっと感動して。
私もそんな事した事ないなと思って。
「ゲームオーバー」って分かる?分かります。
偉いでしょ。
ゲームオーバー。
フツイが広島滞在中に残した記録。
その多くはアメリカ政府に提出した公文書でしたが個人の記録として残した手記には博覧会の開催に至る経緯が詳細に記されていました。
フツイはその手記を締めくくるにあたって地元新聞のあるコラムを引用しました。
それは被爆地の新聞として原子力の平和利用をさめた目で見つめたものでした。
コラムのタイトルは「ドレイの手と現代戦」。
博覧会で人気を集めたマジックハンドから見えてくる人間と原子力の関係について考察したものです。
「広島の原子力平和利用博覧会でマジックハンドという機械が人気を集めている。
この『ドレイの手』の動きを見ているとさまざまな事が思い浮かぶ。
広島に落とされた原爆の組み立てにもこのようなドレイの手が使われた事だろう。
今米・ソが公然とまたは秘密にやっている水爆実験にもこのようなドレイの手がたくさん使われている事だろう」。
コラムの引用は更に続きます。
「『ドレイの手』とはいかにもよく名付けた。
『ドレイの手』自身は心を持たないから主人の手の命ずるままに原爆や水爆もつくれば放射性物質の平和利用の諸工作もする。
ドレイの手は日本で実験用原子炉をつくる時も必要だしその原子炉で医学や農業や産業用の放射性同位元素をつくり出す時もこれが必要である。
人間は機械や物質を駆使しそれに対して誇らしくも『ドレイの手』と名付けたが人間は果たして機械や物質を完全にドレイ化しているだろうか」。
2014/10/25(土) 00:00〜01:15
NHKEテレ1大阪
ETV特集「ヒロシマ 爆心地の原子力平和利用博覧会」[字][再]
核兵器が世界で初めて使われた広島。被ばくからわずか11年後の1956年、原爆資料館で華やかな原子力平和利用博覧会が開かれた。開催の背景にあった米国の戦略とは?
詳細情報
番組内容
核兵器が世界で初めて使われた広島。その凄惨な記憶を後世に伝えようと爆心地に建てられた原爆資料館。しかし、被ばくからわずか11年後の1956年、資料館の展示が一時、撤去され、「原子力平和利用博覧会」という華やかなイベント会場にその姿を変えたことがあった。広島での博覧会開催に至る中で、一人のアメリカ人外交官が大きな役割を果たしていく。今回、公文書館で見つかった公文書や手記、家族の証言を基に明らかにする
ジャンル :
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ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
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