人と人とのつながりが人生を支えます。
「知恵泉」ではすてきな出会いをご用意しております。
酒樽君僕の悩みを聞いてくれるかい?この店オープンしてからすばらしい方々に来て頂いた。
でも二度と現れない。
これ何でなんだろうねえ。
えっ?人望がない?小さい声で悪口言うんじゃないよ君。
やっぱり人脈作るっていうのは難しいもんだねほんとに。
こんばんは。
いらっしゃいませ。
ああどうぞ。
はなさんお待ちしておりましたよ。
数少ない私の人脈。
どうしたんですか?岩田松雄さんでいらっしゃいますね。
さまざまな企業でCEOを務められたというね。
どうぞお掛け下さいませ。
失礼します。
見て下さいよこれ。
すごいそうそうたるメンバーですね。
この店オープンしてから来て頂いた方々。
最初はねはなさんとも一緒にいらっしゃって頂きましたね。
宇宙に「はやぶさ」を送り出した川口淳一郎さん。
ここから始まってさまざまなジャンルの方。
例えばスポーツでいえばあの北島選手を育てた平井コーチですね。
クリエーターの佐藤可士和さん。
経済界の重鎮の宮内義彦さん。
ほんとにそうそうたるメンバーですよね。
この中でいうと秋元さんぐらいですかね2回来て頂いたのは。
皆さん一度っきりなんですよね。
何ででしょうね。
はなさんはこの人脈作りという点ではどうですか?どちらかと言うと苦手です。
そうですか。
岩田さんはさすがに人脈作りは得意?いやいや僕もね人見知りするんですよね。
あんまりねどっちかと言うとしゅっとしちゃうんですね。
たまたまいろんな企業でねやらせてもらったんで…そうですか。
興味深いですね。
今宵はいかに人と人との信頼関係を築いていくのか。
人脈作りの知恵を味わって頂きたいと思います。
心にあふれる思いを率直に歌に詠んだ西行。
日本の文化に大きな影響を与え「新古今和歌集」では最も多くの和歌が選ばれた歌の名手です。
しかし実は西行にはもう一つの顔がありました。
あらゆる階級の人々とネットワークを築く人脈の達人だったのです。
西行が生きた平安末期は貴族の権力闘争が激しさを増し平氏・源氏などの武士が台頭する荒波の真っただ中。
派閥争いで親兄弟すら敵対し血を流し合う状況でした。
そんな中西行は出家。
そして世を捨てる道を選びます。
世俗の価値観から離れた立場から天皇上皇貴族源氏平氏僧侶…。
さまざまな身分の人の心に寄り添い独自の人脈を築くのです。
そして晩年西行は奈良・東大寺の大仏を復興に導きました。
そこには初対面の人物とも人脈を作り出せる西行の知恵が隠されていました。
今宵西行の知恵を読み解くのは数々の会社で最高経営責任者・CEOを務めた…サラリーマン時代留学して経営を学び帰国後さまざまな業界に飛び込みます。
46歳で抜てきされたのは外資系化粧品を扱う日本企業のCEO。
社内での人脈はゼロ。
しかし4年後には売り上げを倍以上140億円に引き上げました。
更に大手コーヒーチェーンの日本企業でもCEOを務め人間関係を鍵に業績を伸ばしました。
独立し大手企業の肩書がない今でもさまざまな立場の人からつながりを求められています。
腹の底から信頼し合える人脈を築くにはどうしたらいいのか。
現代の経営のスペシャリストが西行の知恵に切り込みます。
はなさん西行という人物和歌の達人なんですけれども人脈作りの達人でもあったんです。
和歌と人脈ってかけ離れてるような気もしますがどういう事なんでしょうね。
それがどういうふうにつながるのか今日は見ていきたいと思います。
そして岩田さん。
やっぱり人脈作りというのは大事ですか?そうですね。
最後…この西行どんな人脈だったのか。
こちらでねご説明しようと思うんです。
西行の人脈地図を作ってみました。
はいこちらです。
ほんと広いですね。
まずは天皇家です。
このころは皇位を譲った上皇や法皇が力を持ちそれぞれ対立していました。
しかし西行は過去に仕えた関係や和歌によって交わりを深めていきます。
得意の和歌は貴族との絆も強めました。
一方武士との関係はというと平清盛とは元同僚。
奥州藤原氏とは血のつながった仲。
更には僧侶たちとも仏の道でつながっていたのです。
どうでしょう?この人脈。
すごく不思議ですよね。
こういう360度いろんな人とね。
普通どっちか偏ったりしますしあるいはよくあるのは嫉妬がありますよね。
例えば武士とつきあったら貴族がやきもちやくとかね。
そうなんですよ。
そういう事はよくありますよね。
こんばんは。
ああ本郷先生よくいらっしゃいました。
ほんとに私のはなさんと共に数少ない人脈のお方であります。
本郷先生でいらっしゃいます。
よろしくお願いいたします。
よくぞいらっしゃいました。
さあこの西行今ねみんなで話をしていたんですよ。
はいはいはい。
この当時としてもこれだけのネットワーク人脈があるというのはどうなんでしょう?珍しいですよね。
ところが今度武士にしてみると私は関東に行ったら何ほどかの者です。
それなりにブイブイいわしてますみたいな人がじゃ今度京都へ行ったらもうはいつくばっちゃって貴族様の前に出たら自由闊達に話ができるというわけではないでしょう。
ではどのようにしてこのような幅広い人脈を作る人間になっていったのか。
まずは西行の若かりし日々からひもといていきたいと思います。
平安時代の末西行はこの一帯の荘園を管理する裕福な武士の家に生まれました。
二十歳になった西行は「北面の武士」として朝廷の実権を握っていた鳥羽院に仕えます。
「北面の武士」は武術はもちろん家柄教養容姿も優れた者たちが選ばれていました。
鳥羽院の御所を守り行幸に従うエリート武士。
そのころ和歌の習得にも励んでいた西行は北面の武士にふさわしい人物と見なされたのです。
一方当時の皇族や貴族たちは政治的な駆け引きに心を砕き…。
また貴族などに仕える武士たちは自分たちの勢力を拡大していこうと画策していました。
そうした中西行は23歳の時突然鳥羽院に願い出て出家。
世を捨てます。
その時の心の内を詠んだ歌です。
「私がこの世に執着したところで世の中の方は私などを惜しむ事はないだろう。
だからこそ私は身を捨てる事で執着で苦しむ自分を救ってやるのだ」。
出家後西行は妻や子とも離れ都の周辺で転々と庵を結びます。
紀伊半島の山々を駆け巡り修験道にもまい進。
衣食住も構わず宗教者として研鑽を積みました。
一方政治の中枢では皇族や貴族の権力争いが激化。
そこに武士が加勢した大きな争乱が立て続けに勃発。
親子や兄弟さえ敵となり刃を交えました。
エリート武士の地位を捨てた西行は一歩引いた目でこの戦乱の世を見つめていきました。
本郷先生当時の出家っていうのはどういうものだった?これよく間違えられちゃうんですけど…出家というのは当時の…だからやっぱり…そういう形なんですよ。
だから上下関係がきちっとしてるんです。
じゃあ出家したから全部リセットってわけじゃない。
全然違うんです。
でも西行が行ったのはそういう世界ではなくて…これがいわゆる遁世です。
そしたら…。
逆にフリーな立場でいろんな人とつきあえる。
そういう事。
なるほど。
だから言ってみるとね何か今の僕ね誰に近いのかなと思ってアーティストなんてそういう感じの方いらっしゃいますよね。
例えばジョン・レノンとかさ。
ああなるほど。
国王陛下にお目にかかったりそれから大統領に呼ばれたりするんじゃないですか。
両方とも岩田さんは経験されてますけども組織の中の自分とフリーの自分。
どっちの方が居心地いいですか?でも今は気を遣う相手はいなくて…「何でこんなやつに」って思っちゃう方だから。
これやったり歌うまかったりマージャンやったりね。
ゴルフやったり。
接待。
そっちの方の技術。
その競争のルールでは勝っていけないというのもあった。
だからもう…そういう感じだったんですね。
志を高く世を捨てた西行ですけれどもその修行というのはやっぱり大変だったようなんですね。
そのころをしのばせる特別メニューを今夜はご用意いたしました。
ええこちらでございます。
え〜?これは…これねといだお米を水につけただけのものなんですけど。
火にかけてないんですか?修験道ではね山に神様がいると。
もしも燃えてしまったら大変だという事で火気厳禁になったんですね。
このような形で御飯を食べていた。
食べられるんですか?これ。
いや〜皆さんにちょっとね食べて頂くのもちょっとね心苦しいところもありますので私が味見をしてみようと思いましてね。
ちょっと勇気が要るんですけどね。
いただきます。
おいしい?う〜ん。
あんまりおいしそうな顔してない。
硬いですよね。
芯がすごい残ってる状態ですよね。
お米を炊くっていうのはすばらしい知恵だな。
(笑い声)さあそれではいよいよ西行の知恵をご紹介です。
こちらは組織に属している我々でもまねできますよ。
西行が欠かさなかったちょっとした心掛けまずはその知恵から味わって頂きましょう。
都で吹き荒れる権力闘争。
ある者が巧みな駆け引きで生き残ればある者は敗者となる。
勝者に近づくのが世の常と申しますがしかし西行は弱い立場になった者を見捨てずかえって和歌を贈り合い絆を深めます。
例えば待賢門院の女房たちとの関係。
待賢門院は西行の仕えた鳥羽院の后でしたが院は別の女性を寵愛。
待賢門院はやがて出家します。
彼女を世話していた女房の多くも共に都を離れました。
西行はその女房たちを度々訪れ歌で励まし仏の道を説いていきました。
やがて西行は彼女たちから「しるべ」と呼ばれるようになりました。
西行は「しるべ」として都で有名になります。
弱い立場の人に寄り添う姿勢が結果的に僧侶としての信頼を高めたのです。
不遇に落ちた人の中で西行が最も気にかけていたのが和歌に造詣が深かった崇徳院です。
崇徳院は鳥羽院と待賢門院の子。
しかし父・鳥羽院からは疎まれ弟・後白河天皇が後継者に指名されました。
やがて崇徳院は保元元年7月後白河天皇へ戦いを挑みました。
保元の乱です。
しかし結果は惨敗。
乱勃発の翌日には京の仁和寺に逃れ出家しました。
絶望の淵に立った崇徳院。
そのもとを月夜密かに訪ねた人物がいました。
西行です。
西行は寺の僧侶に一首の和歌を託します。
「あなた様の身を案じているのにいつもと変わらず澄んでいる月を美しいと見とれてしまう。
そんな自分が我ながら恨めしいかぎりです」。
敗者となった崇徳院を見限らずむしろ悲しみに共感する和歌を贈ったのです。
しかし崇徳院には厳罰が下ります。
それでも和歌を贈る西行に崇徳院は本心を吐露した歌を返したといいます。
彼もまた西行を頼り浄土への「しるべ」の役目を求めたのです。
保元の乱から8年後。
崇徳院は讃岐に流されたまま亡くなります。
古来非業の死を遂げた人は怨霊となり災いをもたらすと考えられていました。
崇徳院が怨霊になる。
そんな懸念が上がり始めました。
西行は讃岐へ赴く事を決意します。
荒れ果てた墓の前で詠んだ歌。
「陛下もうやめませんか。
崩御された今となってはたとえ昔のまま玉座にあられたとしてもそれが何になりましょう」。
いにしえから和歌には鎮魂の霊力があると信じられていました。
「保元物語」には西行の歌によって崇徳院の怨霊は鎮まったと記されています。
しかし西行は崇徳院と絆を深めた代わりに彼の政敵・後白河院からにらまれる事はなかったのでしょうか。
実は讃岐への旅から3年後。
大坂の住大社に後白河院が行幸した際西行はそこに立ち会っているのです。
しがらみを超え後白河院からも一目置かれていた事がうかがえます。
こうして西行は弱者でも寄り添う姿勢を貫き身分や地位にとらわれない独自の人脈を築いてゆくのです。
何かすごい安心しました。
何か「人脈」っていうとやっぱり自分に得がある人との絆を求めてがつがつする人が多いのかなと思いきや違って…よくいませんか?偉い人が来る会合には必ず顔を出すけど平場の会合に全然来ない人。
いるいる!そういう感じじゃ全くなかったという事なんですよね。
でもね本郷さん崇徳院に心を寄せていた西行ですよね。
なぜこっちの対立している後白河院は行幸につきあわせたんですか?周りがだんだんだんだん信用できなくなってくる部分があるわけじゃないですか。
そういう中で例えば…そうですねうん。
だから自分に耳痛い事とか実際生の情報を伝えてくれる人って非常にありがたいですよね。
岩田さんも社長をされてた時は役員よりむしろ平場の人間との人脈作りを大切にしてたそうですね。
僕自身ね…スターバックスの場合は…ザ・ボディショップの時は毎週3,000文字。
それからスターバックスは月2回ぐらい大体平均に…そうすると業績も自然と上がってくるんでしょうね。
業績がちょっと厳しい時に何かこれでよかったんだ。
もう一回そこのね原点に戻ればいいんだっていう偶然かもしれないけどそれはちょうどそういう事をねみんなが気付きだしてワーッと業績が戻っていったわけですね。
本郷さん西行の場合ですねこの和歌っていう武器があった。
これは人脈を作るうえでは非常に強かったんじゃないかなと。
だからそこの部分を忘れてはならなくて組織から離脱して「一抜けた」って言っただけではあとはもう埋没するだけなんですよね。
それは絶対そうですよね。
何か人脈作りばかりに時間を費やして…人脈がいくら広がってもここがスカーンってなってたらきっと人もついてこないし…。
すぐ飽きられちゃいますよね。
役職とかじゃなくて…それがすごく大事な気がしますけどね。
人とつながるうえではきちんとしたそういう提示できる武器っていうんですかね。
これはやっぱり大事ですか?岩田さん。
どこか一つ欠けてしまいそうな気がしますけれど。
でもねこれは…例えば手芸とかね裁縫をやってましたと好きですと。
特技があります。
何か技を作っちゃったと。
それ手芸教室を開いてお金頂けるじゃないですか。
人に教える事で。
なかなか好きな事が分からないという方もいらっしゃいますよね。
そういう方たちにはどういうアドバイスをされてるんですか?それをずっと自分に問い続ける事がすごく大事な事のような気がしますけどね。
幅広い人脈を築いた西行はやがて「勧進僧」としての役目を求められるようになります。
「勧進僧」とは大事業のため資金を集める僧侶の事。
当時は貴族社会が衰えていたため皇族の呼びかける大事業でも資金がなかなか集まりませんでした。
そこで西行のように人脈があり信頼される人物に依頼が来たのです。
西行がおよそ30年にわたって庵を結んだ高野山にもその功績が残っています。
今は「大会堂」と呼ばれているこのお堂は西行が勧進僧として移築した名残です。
皇族などから資金を集め数多くの僧侶が勉学に励める場を造ったのです。
平清盛あるいはその上皇様方天皇様方とも深い関係があったので…勧進僧として名を挙げた西行に晩年大きな依頼が舞い込みます。
奈良・東大寺の大仏復興です。
源平の争乱によって焼失した大仏。
その後再建が図られ全身は形になったものの仕上げの鍍金は金が足りず頭の部分しか出来ていませんでした。
その調達役として白羽の矢が立ったのが西行だったのです。
西行が向かう先は栄華を極める奥州藤原氏。
当時奥州は日本最大の金の産地でした。
実は西行は奥州藤原氏と遠い血縁関係がありまた若い頃東北の歌枕を訪ね旅した時当主の秀衡とも会っていたと考えられます。
西行の頼みなら秀衡も莫大な金を寄付するのではと期待されたのです。
しかしここで立ちはだかるのが源頼朝です。
既に平家を滅ぼし武家の棟梁として支配力を強めていました。
当時金は鎌倉で頼朝の許可を得なければ京へ運べません。
ところが頼朝は奥州藤原氏と対立していました。
またこの時頼朝に追われた弟・源義経が秀衡にかくまわれていたため緊張が高まっていました。
更に西行にとって不利な条件がありました。
西行は頼朝と面識がなかったのです。
こうした状況でどうやったら人脈を切り開けるのでしょうか。
文治2年1186年。
鎌倉に入った西行は8月15日鶴岡八幡宮へ向かいます。
「吾妻鏡」ではこの日の西行と頼朝の行動が詳しく記されています。
西行は鶴岡八幡宮の鳥居の前をうろついていました。
するとそこに頼朝が参拝に現れます。
家臣を通じて名前を伝えると「和歌の事を話してほしい」と屋敷に招かれました。
中世史が専門の橋昌明さん。
西行と頼朝のこの日の会談にはさまざまな駆け引きがあったのではないかと考えています。
この日に何かしようと。
西行は水面下で根回しをしていたのかまずは和歌に長けた客人として招待される事に成功します。
ところが部屋に通されると歌の事だけでなく弓馬つまり武術についても頼朝から教えを請われます。
しかし西行の返答は意外なものでした。
弓馬については「世を捨てる時家に伝わる兵法書は燃やしてしまいました」。
更に和歌についても教えるのを断ります。
「花や月に心動かされた時に僅か31文字を作るだけであって奥義は全く知らずお答えする事は何もありません」。
なんと西行は頼朝の要求を2つとも断ってしまったのです。
せっかく訪れたチャンスをふいにしようというのでしょうか。
しかし頼朝は聞き入れず弓馬の事については重ねて質問をしてきました。
ここにきて西行は頼朝が最も欲しがっている情報は「和歌」ではなく「弓馬」の事だと確信します。
実は西行の身につけていた弓馬の術は藤原秀郷という武士の流れをくむものです。
秀郷は平安初期反乱を鎮圧した手柄として武士で初めて貴族の位を賜った人物です。
西行はその末裔でした。
更に俗世の頃北面の武士として鳥羽院に仕える中でその技を洗練させていたと思われます。
一方頼朝率いる鎌倉の武士たちは実戦には長けていても宮廷行事などで披露する弓馬の術は分かりません。
多分具体的にね…西行は頼朝が最も欲しい情報を瞬時に見抜き惜しみなく伝えました。
こうして初対面の権力者と人脈を築いたのです。
その後奥州から金は無事届けられ国家の安泰を願う大仏は輝きを取り戻したのです。
全国を平定していくその途上の段階にあって是非ともやっぱりその洗練された技っていうのは頼朝にとっては必要だったという事なんですか?もうただの要するに戦う集団だけではなくなってくるわけです。
…ではないぞと。
今度人を治めなくちゃいけないってなるじゃないですか。
面白いのは…ああやりますね。
どうでしょう岩田さん。
相手が求めているものを提示してあげる。
それまさしくマーケティングですよね。
例えば上司との関係で例えばね僕は…例えばねゴマすってるような人だったらこの人は多分心の中でゴマすってほしいと思うんですね。
意外にね上にズケズケ言うような人だとしたら多分部下からもそういったズケズケ言ってくるようなちょっと生意気ぐらいの方がかわいいとかね。
結局自分を求める事が多いからそれを観察してマーケティングしとくとすごいいいヒントになる。
僕今までの経験でもね結構それは当たってるなと。
この人は本来は「フランクに接してくれ」と口で言ってるけど本来はちゃんとゴマすってほしいんだなとか。
そういうのをね見えちゃう時があるんですよね。
しかし社内マーケティングが必要だというのはこれはちょっと目からうろこですね。
是非是非。
さあここからは西行が愛した桜。
そして西行の人柄を伝えるネタをお届けします。
向こうの山の稜線までくっきりと見えますね。
晴れてると大阪の方まで眺められるそうなんですよ。
店長お久しぶりです。
関西支店の荒木です。
春になるとここから見る桜が本当に美しいんです!
(荒木)
奈良の吉野。
いにしえから続く桜の名所です。
西行は春の吉野山を何度も訪れ20首以上の歌を詠みました
「花が咲けば心が浮かれ出ていってしまう。
もうそれは一生治らないとしてもせめて山桜が散ったあとは心が我が身に帰ってきてほしいのだが」。
西行はどんな桜をめでていたのでしょうか。
吉野で最も多いのは昔も今も「シロヤマザクラ」です。
その桜を守り続けている人たちがいます。
「桜守」と呼ばれる皆さんです。
吉野山には桜の木が3万本あると言われています。
桜守の皆さんは全国の寄付に支えられながら一年中手入れをしています。
西行が見ていたシロヤマザクラは白い花びらと共に赤い新芽が出るのが特徴です
太陽の光が当たった時にこの新芽が映えて花が薄ピンク色に見えるんです。
花ばっかりのソメイヨシノはそりゃ花爛漫で豪華なところですけど吉野のシロヤマザクラは何かもう一つ他に気品っていうのがあるようなええとこがありますね。
(荒木)気品?はい。
花と新芽そして光が織り成す美しさ。
西行はそこに心奪われてしまったのです
次に訪れたのは…
高野山の麓にある天野集落です。
西行の妻と子供が暮らし最期を迎えたと言われる地。
西行も度々訪れたといいます。
西行のほほ笑ましいエピソードが伝えられていました
西行が子供たちに「わらべどもわらびとれどもやまやくな」と。
そしたらその子供たちの中での一人が「さいぎょうよひのきがさですこやくな」。
(荒木)これどういう事ですか?
(谷口)「ひのきがさ」というのは帽子あるでしょ。
(荒木)お坊さんが…。
それで「すこ」というのは頭の事なんです。
それで「すこやくな」と。
「頭を焼いてしまうなよ」と。
こういう受け答えをしたという。
ほんとに西行さんが子供たちとすごく近い距離にいたという事。
そういう事ですね。
だから自分たち天野の里人でも今でもですけどもその当時でもやっぱり西行さんとは親しみがあった。
最後に訪れたのは…
こちらの正面が西行法師のお墓です。
西行は文治6年1190年2月16日この地で亡くなったと言われています
…という歌がございます。
「願う事ならば桜の花の咲いているしかも満月の頃に死にたい。
花と月に見守られて死にたい」。
そう念願されてたんですね。
西行法師の亡くなられた年は旧暦の2月16日がちょうど望月の日だったそうなんですね。
花に囲まれて願いがかなってきっと安らかな最期だったんでしょうね。
里人と交わり桜を愛し続けた西行。
そんな温かい人柄が庶民から天皇までさまざまな立場の人に好かれた理由の一つだったのかもしれません
今日はこの西行の人脈作りについて見てまいりましたけれども。
何か「人脈」っていうとどうしても損得で聞こえてしまうイメージがあるんですけれども西行のこの生きざまを見ていると…さあ最後に岩田さんにお伺いします。
人脈力を養うこの極意というのはどういうものが挙げられますか?まずギブする事から始まれば相手も同じようにこちらにギブできてくるという事だと思うんですね。
まず自分が相手に返す。
関心を持ってまず相手に与える事。
これがただの知り合いではない人脈に発展していく。
だから人脈は数じゃないと思います。
やっぱり質ですよね。
ありがとうございました。
いや〜皆さんにはですね最後私から一首プレゼントしたいというふうに思います。
詠み人二郎。
これはですねこの「知恵泉」が人脈の拠点となるようなそんな場所になってほしい。
そして「花咲き誇る」桜で咲き誇る頃に満月のもとで皆さんもう一度集いましょうというような意味を込めて歌ってみたんですけれども。
皆さん是非もう一度来て頂けますでしょうか。
本日はありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
2014/10/21(火) 23:00〜23:45
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)▽人脈力〜西行 派閥を超えたネットワーク[解][字]
仕事をしていく上で大切なのが「人脈」。どのようにすれば強い人脈を築いていくことができるのか?あらゆる身分の人と深いつながりを持った西行から、人脈力の知恵を学ぶ。
詳細情報
番組内容
ビジネスパーソンにとって重要な「人脈」。強い信頼で結ばれた人脈を持っていれば、いざというときに役立ち、自分の価値を高めていくことができる。そんな「人脈力」の達人が西行だ。平安末期の歌人として有名だが、実は天皇家、貴族、武士、僧侶など、あらゆる立場の人と深いつながりを持っていた。動乱の時代、様々な勢力と話をつけることのできた西行は、キーパーソンとして重宝されたという。人脈力を養う知恵を西行に学ぶ。
出演者
【出演】はな,株式会社リーダーシップコンサルティング…岩田松雄,東京大学史学編纂所教授…本郷和人,【司会】井上二郎
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
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