女優、李香蘭。
ジャーナリスト、そして政治家。
山口淑子さんを突き動かしていたのはしょく罪でした。
先月、94歳で亡くなった山口淑子さん。
戦時中、李香蘭として日本の男性に引かれる中国人女性を熱演しました。
♪「蘇州夜曲」
結果として、日本の戦争に協力することになった山口さん。
戦後はジャーナリストに転じました。
ベトナムや中東の戦場にたびたび赴き、争いに翻弄される人々に寄り添い続けました。
今回、半世紀近くを過ごした自宅の撮影が初めて許されました。
そこには、かつて戦争に利用されてしまったことへの悔いとみずからが果たすべき役割を問い続けてきた山口さんの足跡が残されていました。
戦前、戦中、そして戦後。
94年の波乱の人生が今に訴えるメッセージです。
こんばんは。
「クローズアップ現代」です。
先月亡くなった山口淑子さんは自分の人生を振り返る本の中で次のように書いています。
私は物心がついたころから戦争のさなかにいた。
国と国、人と人とが殺し合う現場に囲まれていた。
1920年、旧満州で日本人の両親の間に生まれ中国で育った山口さんは戦時中、李香蘭という名前で女優、歌手として活躍し波乱に満ちた人生はミュージカルやドラマでたびたび取り上げられました。
自分にとって祖国は日本。
母国は中国と言っていましたが2つの国がせめぎ合う現場の真っただ中で幼少期を過ごし時に中国人と思われ差別されることを恐れ時に反日感情を恐れて日本人であることを隠して過ごしたのです。
山口さんの人生を象徴するのが戦前、戦中、戦後に使ったさまざまな名前です。
中国人歌手女優として名乗った李香蘭。
戦後はシャーリー・ヤマグチとして、ハリウッドやブロードウェイで活躍。
その後はジャーナリストに転身しベトナム戦争や中東紛争の真っただ中を取材。
そして54歳で国会議員となり72歳で引退するまで外交問題に取り組みました。
紛争や戦争で傷つく人々に寄り添う姿勢を貫いた山口さん。
彼女の生き方に大きな影響を与え続けたのは女優、李香蘭として生きた時代です。
中国大陸に進出する日本人を受け入れ心引かれていく中国人。
いわば、日本人にとって都合のよい中国人を演じ結果的に戦争に協力したことへの強い後悔の念でした。
山口さんの94年の生涯を見つめます。
映画資料の管理・収集を手がける国立近代美術館フィルムセンターです。
ここに、山口さんの代表作のオリジナルフィルムが残されていました。
1940年に公開された映画「支那の夜」です。
(中国語)
日本人であることを隠し中国人として出演したこの映画。
記録的な興行成績を上げた女優、李香蘭としての代表作です。
山口さんと共に李香蘭の自伝を執筆したジャーナリストの藤原作弥さんです。
今回、私たちは、晩年の山口さんの肉声が収められた貴重な記録を入手しました。
映画史の研究のために行われたインタビュー。
当時86歳だった山口さんが語っていたのが「支那の夜」に出演したことへの罪の意識でした。
山口さんは1920年中国東北部の旧満州に生まれました。
幼いころから語学力にたけ自在に中国語を操りました。
家族で交流していた中国人から与えられたのが李香蘭という中国名でした。
日本と中国はともに山口さんのルーツだったのです。
しかし、少女の人生は日本と中国のはざまで引き裂かれていきます。
1937年に始まった日中戦争。
日本は中国の主要都市を次々と攻略し、支配地域を広げていきました。
新聞や映画などで戦争を正当化しようとする日本軍。
目をつけたのが、美貌を持ち語学にもたけた山口さんでした。
山口さんが繰り返し演じたのは日本に反感を持つ中国人の少女。
誠実な日本人男性に引かれ次第にその態度を改めていくという役どころでした。
代表作「支那の夜」もその一つでした。
以後、気をつけろよ。
(中国語)
李香蘭の自伝を出版した藤原さんです。
執筆当時67歳だった山口さんはこのときまで李香蘭の映画を見返したことは一度もありませんでした。
2人で「支那の夜」を見た藤原さんはそのときの山口さんの姿に驚いたといいます。
当時、戦争の大義として暴支膺懲
(ぼうしようちょう)ということばが盛んに使われていました。
乱暴な支那・中国を懲らしめよという意味でした。
山口さんは、みずからが演技を通じてそのメッセージを体現していたことを改めて突きつけられたのです。
支那の夜から5年多くの命が奪われた戦争が終わりました。
日本に協力した中国人として中国の国民党政府から銃殺刑を求刑されたという山口さん。
その寸前で日本人であることが証明され、生きて帰国することができました。
しかし、一緒に映画を制作した仲間の中国人たちは祖国の裏切り者として次々に処刑されていったのです。
中国人女優として映画に出演したことで山口さんが背負った罪。
帰国後、山口さんはしばらく映画に出演したあとスクリーンから姿を消しました。
罪の意識を抱え続けていたという戦後、山口さんはどのように歩んだのか。
生前、一度も撮影が許されなかった自宅には山口さんの足跡が数多く残されていました。
秘書として長年、山口さんを支えてきた寒川一郎さんです。
終生こだわり続けたのは戦争の悲劇を繰り返させないことだったといいます。
山口さんは49歳のときジャーナリストとして再び人々の前に姿を現しました。
山口さんが目を向けたのが戦場。
ベトナム、そして中東でした。
女性ジャーナリストが少なかった時代山口さんは戦場に何度も赴き弱い立場にある人々のことを自分の目で確かめ伝えようとしたのです。
Howoldareyou?
10years.
10years?
私、じゃあ、パレスチナ人のパレスチナの赤ちゃんもらってって…。
中東の難民キャンプでは人々から親しみを込めて美しい人・ジャミーラと呼ばれるようになっていました。
山口さんの中東取材に同行した映画監督の足立正生さんです。
後に、山口さんと共にまとめた取材記録。
山口さんは、みずからが果たすべき役割を問い続けていたといいます。
戦争に人生を翻弄された人々にまなざしを向け続けた山口さん。
晩年の山口さんと行動を共にしていた人がいます。
大鷹さんも何度もいらしたとこですからお越しください。
国際法学者の大沼保昭さんです。
70歳を過ぎてからの山口さんは大沼さんと共に、いわゆる従軍慰安婦の問題の解決に力を注ぎました。
山口さんは一人の元慰安婦と電話や手紙で交流を続けていました。
2人を結び付けたのは出演したことを後悔し続けていた映画、あの「支那の夜」でした。
李香蘭が川辺で花と戯れる何気ないシーン。
当時、慰安婦だったその女性はこの撮影現場を訪れていました。
慰安所を出て、遠くから李香蘭の姿を見つめ続けていたという女性。
そのときのことを事細かに山口さんに語りました。
戦争の時代を全く違う立場で生きた2人。
交流は元慰安婦の女性が亡くなるまで続きました。
今、李香蘭の映画を通してあの時代を学ぶ授業が行われています。
山口さんの激動の人生を語り合うのは日本と中国の若者たちです。
山口淑子さんの94年の生涯。
今回、入手した記録の中に次世代への遺言ともいうべきことばが残されていました。
今夜は映画ジャーナリストで、早稲田大学客員教授を務めてらっしゃいます、谷川建司さんをお迎えしています。
今のVTRに出てまいりました、山口さんが86歳のときに、行ったインタビューを谷川さんが行われているわけですけれども、率直に、本当に94年間、人の何倍も生き抜いた方という印象を受けたんですけれども、どんな方でしたか?
そうですね、まず最初の印象というのが、彼女の持つエネルギーに圧倒される、普通、86歳にもなると、もう枯れていてもおかしくないけれども、そのエネルギーにこちらがたじたじになってしまう、それだけの方、パワーを持っている女性だなと感じました。
今のリポートを見まして、李香蘭、女優・李香蘭に対して、非常に複雑な思いを持っていらっしゃるんだなっていうのを、私は許せないってまで、言い切ってらっしゃいましたよね。
それはもう、恐らく、ただ当時はもう、渡された台本に書かれたせりふを読むだけで何も考えてなかったと。
自分の出た映画を見る機会もない、撮影が終わればもうすぐ次の映画ですから、ただそれがあとになって、その自分の演じてた役が、どれだけ中国人の人を傷つけたのかということに、気が付いた瞬間が来たと思うんですね。
そこから、それは恐らく彼女が、李香蘭時代の最後のころに、中国人の記者から、記者会見で、なんでそういう映画に出るんだということを言われて気付く。
そのことが、彼女のそれ以降の、戦後の人生の自分の本来の李香蘭という名前を取り戻すために、しょく罪のための闘いをしなきゃいけないという、そのモチベーションになっていったと思いますね。
祖国は日本、母国は中国。
その母国の中国人の人々を、自分は映画に出ることによって、傷つけていたって、67歳で初めて支那の夜を見たときの、震えていたっていうのも、非常に印象的だったんですけれども、そうやって自分が映画に出ることによって、人々に与えた影響。
アメリカのブロードウェイに行って、出たときも、日本人が受けた印象というのは、非常に彼女にとっては、衝撃だったそうですね。
そうですね、ブロードウェイの舞台に立ち、ハリウッドの映画でも、ヒロインを演じているわけで、それはもう日本人の女優としては稀有なことなんですけれども、ただ、戦後のアメリカ映画で彼女が演じた役は、日本人には受け入れられないものだったわけですね。
今まで戦時中は中国が日本に従う、その従ってくれる女優、女性の役を演じていた。
それが今度は、アメリカに従っていく女性の役を演じることに、日本人の観客は当時、それを受け入れなかった。
そのことがさらにまた彼女を傷つけた。
ただ、彼女のすごいところは、いろいろ失敗をしている、図らずも人の心を傷つけてしまった。
でもその失敗に気付いたときに、それを逆にエネルギーに変えて、次の自分の行動のためのエネルギーにしていくところだと思いますね。
その一つが、こだわり続けたパレスチナへの取材ですけども、なぜそのいろんな紛争地域がありますけれども、パレスチナがとりわけ、彼女の心を引きつけたんでしょうか。
それは恐らく、彼女にとって、イスラエルという国、それはもう、自分が生まれ育った満州国、彼女にしてみれば、生まれたときからその国があって、自分がそこで生まれて、ほかの民族の子どもたちと仲よく暮らしていた。
でもそれが、中国の人から見ると、日本人が勝手にやって来て造った国だ。
そのことにあとから気付いた。
そしてイスラエルの問題というのも、シオンの丘に自分たちの国を造るんだという、ユダヤの人たちの理想があって、一方で、パレスチナの人々にとってみれば、勝手にやって来て、自分たちの先祖のお墓がある土地に国を造って、自分たちを追い出した。
なんとかこれを取り戻さなきゃいけないというふうに思っているわけですね。
その構造が、満州国とイスラエルが、全く同じなんだというふうに、たぶん思ったんだと思うんですね。
だから、そのことに気付いた以上は、それに対して何か自分のできることをしたいというのが、彼女の駆り立てる思いだったんではないでしょうか。
そして同じように、政界を引退されたあと、精力的に関わられたのが、元慰安婦の方々を支援するということだったわけですよね。
その思いというのはどう捉えてらっしゃいますか?
それは先ほどのVTRの中でもあった、あとになってから自分が支那の夜という映画に出ているときに、それを遠巻きに眺めていた人の中に、慰安婦の方がおられた。
その方が訪ねてきた。
そのときは、全くそんな方が見てるなんて思ってもいないけれども、自分は女優としてちやほやされていたけれども、同じときに、自分と同世代で、これだけひどい目に遭っていた方がいた。
そのことに気付いてしまった以上、なんとか自分で、それに対してアクションを起こさなきゃいけないという、その行動力が、やっぱりあったんだと思うんですね。
ものすごくシンプルな、あっ、これは悪いことだ、そのことに自分は今気付いた。
だから、それを是正するために、自分に何ができるのかというのが、彼女の行動の論理だったように思います。
非常に純粋な方ですね。
期せずして、李香蘭が演じた映画を見て、今、日中の若者たちが、話している、彼女のインタビューの最後に、本音で話してほしいというメッセージがありましたけれども、そういう意味では、まだ役割をまた果たし続けているんですね。
そうですね、日本の学生も中国の学生も、あまり歴史について深く考えてみるということをしたことがない、若い人たちが多いと思うんですね。
それをああいう、彼女の出た古い映画を見せて、満州国っていうのは、当時、そこに暮らしていた人たちにとっては、こういう世界だったはずなんじゃないのかなという、違った視点からものを見ること、そういう機会を与える。
それは僕は大学の教員として、そういうことをやっていかなきゃいけないし、山口さんが後世に託したいことというのは、そういう、相手の立場でものを考えてみる、そうするとお互い、より理解できる。
2014/10/21(火) 19:30〜19:56
NHK総合1・神戸
クローズアップ現代「李香蘭 激動を生きて」[字]
先月亡くなった山口淑子さん。戦前は中国人女優李香蘭として、戦後は女優山口淑子として日米で活躍、さらにジャーナリスト、政治家として「一身で五生」生きた足跡をたどる
詳細情報
番組内容
【ゲスト】映画ジャーナリスト、早稲田大学客員教授…谷川健司,【キャスター】国谷裕子
出演者
【ゲスト】映画ジャーナリスト、早稲田大学客員教授…谷川健司,【キャスター】国谷裕子
ジャンル :
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
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