先人たちの底力 知恵泉(ちえいず) 発信力を磨け!▽ジャーナリスト石橋湛山 2014.10.21

天高く馬肥ゆる秋。
実り大きな先人の知恵。
(眞鍋)大将どこ行っちゃったんですかね。
お酒ももうないんですけど。
空になっちゃった。
もう2時間ぐらいたつかな。
このままお金払わないで帰っちゃおうかなみたいな。
勝手についじゃいますか?もう。
あっ!
(井上)あぁ〜。
帰ってきた!いやいやいやいや。
すごい格好ですね。
いや〜。
何事ですか?待ちました?だいぶ待ちましたよ。
いや〜ねここの通りの商店街がねいきなり「組合費を値上げする」って言うんで「説明もなしに値上げはおかしい。
みんなでデモして反対しよう」と言って呼びかけてきたんですよ。
それがね集合場所に現れたのが私一人だけでですね。
さみしかったなぁこの一人シュプレヒコールっていうのは。
何かあれじゃないですか?冷たい言葉を言いますね。
こんな大変な事やるんだったらこんな意見なんて表明するのやめりゃよかったなと思ってね。
いやいやでもそれはちゃんとね言った方がいいですよ。
言わないと何も動かないんだもん。
たった一人でも言い続けるのが大事。
そう言って頂けるとね。
でね…こういう雑誌を仕入れてねこれに勇気づけられたところがちょっとありましてね。
実はこれ「東洋経済新報」という雑誌なんですけど今でも「東洋経済」っていう雑誌ありますよね。
株価とか株式の情報載ってる。
それのね昔の雑誌なんですけれども。
これってね見て下さいよ。
「昭和12年」。
言論統制が厳しくなっていった時代。
ちょうど世の中は植民地やそれからね軍備を拡張しようという流れの中で「そんな植民地は要らない。
軍備は撤廃しろ」というような主張を堂々と言っていた雑誌なんですよね。
そういう事も書いてたんですね。
経済の情報だけじゃないんだ。
これは主張しなくちゃいけないと僕も勇気づけられたんですよ。
でねデモに行ってみたら「人望が無い」とか言われてね。
今日はね厳しいこの戦争の時代でも「言うべき事は言うんだ」という発信力を守り抜いたそんなジャーナリストの知恵を味わって頂きたいと思います。
20世紀前半の日本治安維持法の制定などにより体制に批判的な言論は厳しい取締りに遭いました。
そんな言論統制にも屈せず声を上げ続けたジャーナリストがいます。
日本は明治以来西洋の帝国主義に追随。
朝鮮半島や台湾中国東北部などへ進出します。
そして多くの国民がそれを支持していました。
湛山はそんな世論に真っ向から異を唱えます。
「朝鮮台湾樺太も棄てる覚悟をしろ」。
「植民地経営は国家衰弱を招く」。
独自の分析を基に植民地放棄や軍備縮小を訴えたのです。
戦争が始まると更に困難が立ちはだかります。
自らの意見を発表するために不可欠な用紙やインクの制限です。
言論の自由が奪われていく危機を湛山はさまざまな知恵で乗り切っていきます。
厳しい状況の中で…湛山の知恵を読み解くのは…警視庁捜査一課の事件記者を務めるなど…その後フリーのジャーナリストに転身。
インターネット時代のメディアの在り方を分析してきました。
ツイッターの…世界中のさまざまな話題を発信するサイトの共同編集長も務めています。
戦争という大きな時流にあらがった反骨のジャーナリスト石橋湛山。
その発信力の神髄に迫ります。
という事で今日はジャーナリスト石橋湛山の知恵。
テーマは前回に引き続きまして「発信力を磨け!」とさせて頂きました。
ただ「発信力を磨け!」といっても発信する事自体が難しそうな時代ですね。
そうなんですよ。
その中にあって発信し続けたジャーナリストなわけです。
佐々木さんにとってはジャーナリストとしての大先輩なわけですよね。
すごいリアリストのジャーナリストっていう。
やっぱりジャーナリズムどうしても感情的な事言いたがるんだけどそうじゃない人もちゃんといたんだっていう。
しかも戦前のあの恐ろしい時期にっていう。
これはやっぱりすごい事なんですよね。
非常に勇気が要るんじゃないかと思うんですが…。
いらっしゃいませ。
ようこそいらっしゃいました。
湛山を長年研究してきた増田弘さん。
石橋湛山研究学会の会長も務めています。
増田さんね今お話をしていたところなんですけれど当時というのはやっぱり言論統制の時代非常に厳しかったわけですよね。
そういう事ですね。
戦意高揚の時代ですしその中で「大日本主義」と言うんですけれども領土をどんどん広げていこうという事が当時の当然視された常識でもあったわけですね。
そうそう増田先生からね以前預かっていたものがあるんですよ。
それを示すようなものだと思うんですけれどもこちらですねはい。
「往け若人!」。
「北満の沃野へ!」という事ですね。
増田先生これはどういうものなんでしょうか?これは1930年代に入ってからですけれども事実上日本の傀儡国家という満州に日本がどんどん移民植民をしようじゃないかと。
特に若い世代を送ろうじゃないかと。
狭い日本から広い大陸へと行こうという。
そういう意図もあったわけですけどね。
そういった世論の中で湛山は一体どのような知恵で発信力を使っていったのか?石橋湛山の知恵まずはこちらから味わって頂きたいと思います。
東京・日本橋にある東洋経済新報社。
明治44年1911年石橋湛山はこの会社でジャーナリストとしての道を歩み始めます。
当時の社員数は僅か17名。
政府の軍備拡張に反対を唱えるなどもの言う経済誌として知られていました。
当時日本は日清・日露戦争を経ていわゆる世界の一等国として名乗りを上げた時代でした。
台湾朝鮮半島樺太の南半分を領有。
更に中国東北部でも南満州鉄道など権益を拡大していきました。
こうした膨張政策は本当に日本の発展のためになるのか?疑問を抱いた湛山はあるアプローチから検証を始めます。
それは「データ」でした。
湛山は日本の植民地経営に関わるデータを集め朝鮮や台湾など各地の財政状況を分析していきます。
日本本国からの現地への補充金や借入金防衛に必要な陸軍費や海軍費といった費用を総合した結果日本の国家財政への負担は増大し合計5,000万円以上。
当時の国家予算の1割近くに達していました。
「植民地経営は経済的発展ではなくむしろ母国衰弱をもたらす可能性がある」。
湛山はデータを基に訴えます。
しかし日本の海外進出は止まりませんでした。
湛山はこうした動きに真っ向から反対します。
「一切を棄てる覚悟をせよ」。
「朝鮮台湾樺太も棄てよ」。
それはなぜか?湛山の主張はこうです。
日本と朝鮮半島台湾中国東北部との間の貿易額は9億円。
それに対してアメリカイギリスとの貿易額は18億円。
もし日本が東アジアで膨張政策を続ければアメリカイギリスとの関係は悪化。
この18億円を失う事になるというのです。
更に湛山は植民地放棄にはもう一つのメリットがあるといいます。
それは…植民地を放棄すれば各国との緊張関係は解消され国家予算の5割を費やしている軍事費も大幅に抑制できると主張します。
湛山は感情論ではなくデータを基に冷静に分析し社会に対して声を上げていったのです。
何かポスターがいっぱい貼られて雰囲気がちょっと変わりましたね。
当時はやっぱりこういうものがあふれてたんですかね。
こういった雰囲気の中でそれでも冷静にってなかなか難しそうな感じがねこう囲まれてみると思いますよね。
そうですよね。
「貯金しましょう」とかね。
ほんとだ。
この中で声を上げていく。
そしてデータに基づく冷静な分析を展開する。
これは当時珍しい行為だったんですか?そうですね。
今でこそデータ主義というのは当たり前ですけど当時においてはこういうデータに基づいてそれを分析して理論化するというのは非常に珍しい事だったと思いますね。
昭和11年1936年なんですけどその時に外務省の調査部がこういうマル秘の文書を出しているんですけど。
その中でどういう事を書いてあるかといいますと日本はこの間に総計58億程度の国家予算を支出してると。
40年間に21万人もの戦傷者あるいは戦死者を出してると。
ところがそこから得た利益はどうかというと僅か20億円でしかないと。
つまり支出の1/3程度しかないという事で経済的に見たらもう全くこれは話にならないと。
という事はとりもなおさず石橋湛山の主張していた考え方と政府外務省の考え方は一致するというこういう事になりますね。
植民地をつくったりするのはよくないよとかそういう話なのかと思ったらものすごくドライというかある意味。
お金損するからっていう。
何か説得力はすごいありますよね。
それが一番実は説得力がありますよね。
実はその奥には彼の倫理観とか道義性とか平和主義とかあるんですがあえてそれをオブラートに包んでですね…というのはやっぱりなかなか大したもんだと思うんですね。
何が一番伝わるかっていう事が分かってたわけですね。
佐々木さん説得力がある話のためにはやっぱりデータを使う。
これ大事ですか?そうですね。
例えば典型的な例で言うとよく「今の日本社会は犯罪が増えてて子供がいろんな被害に遭って危険だ。
昭和30年代ぐらいはもっと安全だった」とかよく言うじゃないですか。
「昔はよかった」と。
あれは真っ赤なうそで刑法犯罪凶悪犯罪両方とも昭和20年代30年代が一番多かったんですね。
その後一貫して日本社会今の平成20年代に至るまでず〜っと犯罪減り続けてる。
昔僕は警視庁捜査一課とか担当してたんでそういうのはよく調べたんですけども全然そんな増えてるって話はないです。
気分的に増えてるような感じがするだけっていうね。
何となく危険になったよなというのだけが広まってしまって。
これもやっぱりデータはすごい重要なんですよねほんとはね。
ただやっぱり感情的になっている世の中に対して真っ向から異を唱えるってこれ結構勇気が要りますよね。
そうなんですよね。
みんなが誰かを非難してる時にそれに抵抗して…相当メンタルが強くないとできないよねっていうね。
私今は大学にいる人間としてね教授会というのがあるんですが教授会で1回ぐらいは全員を敵に回して自分の主張を展開するというのは1回ぐらいはできますけど。
でも石橋湛山はまさにそれを1年どころか10年30年やったわけですからこの度胸心臓たるや並大抵のものじゃない。
今日はその湛山にちなんだ料理をですね皆様にご用意をさせて頂きました。
実はこちらなんですけれどもね。
何でしょう?すごいこう…。
いい香りがするでしょう。
何かお正月みたいな。
こちらは「いものこ汁」という名前です。
実は湛山もこれをよく食べて「思い出深い料理だ」というふうに記録に残しているんですけども。
ゴロッと入ってるのがいいですね。
何かほっとしますね。
ちゃんとお芋食べてるっていう感じがするでしょう。
ゆで具合が絶妙。
ありがとうございます。
実はねこれ秋田のお料理なんです。
このお料理が湛山の知恵と深く関わっているんですね。
そんな知恵を味わって頂きたいと思います。
大正13年湛山は40歳で「東洋経済新報」の主筆に就任。
翌年には代表取締役を任され会社を背負って意見を発信していく立場となります。
そのころ社会の状況は刻々と変化していきました。
大正14年治安維持法が制定され社会主義者を中心に国内の言論が徐々に締めつけられていきます。
湛山は取締りを恐れず政府や軍部に対して意見する社説を発表し続けます。
しかしその後長い戦争の時代に突入すると湛山たちに更なる言論統制が襲いかかります。
用紙とインクの制限です。
当時の様子をうかがわせるものが東洋経済新報社の地下の書庫にありました。
こちらに創刊以来の「東洋経済新報」が保管されています。
ちなみにこちらが昭和11年1936年のものなんですけどもこれですと114ページですかね。
こちらの方ですと。
(取材者)かなり厚みが。
(小方)そうですね。
これが戦中…これ終戦の年なんですけどもこちらになりますと…8ページ。
8ページの薄さになってしまいますね。
物資の不足によって政府や軍部の宣伝に使われる紙が優先され「東洋経済新報」などの雑誌は軒並み紙の配給を減らされていきます。
更に湛山を悩ませる事件が起こります。
政府や軍部へも積極的に意見する湛山が軍部ににらまれる要因だとして湛山退陣を要求する社員が出てくるのです。
外部からの圧力と社内からの不満にさらされる湛山。
しかしここから湛山の言論を守る闘いが始まったのです。
雑誌の発行が困難になり社の意見を発信できなくなったらどうするのか。
そんな時に備えて湛山が準備していたのがこの「経済倶楽部」と呼ばれる講演会活動でした。
湛山はこの講演会を「無形の東洋経済新報」と位置づけ重要な情報発信の場と捉えていました。
経済倶楽部は既に昭和6年に設立されていましたが戦時中も途絶えさせないよう力を注ぎました。
その経済倶楽部現在まで受け継がれています。
この日は4,081回目の講演会でした。
一部の論調において昭和の初期のような感傷的な精神高揚主義みたいなのが出てきつつあるというところに大変危惧を覚えています。
湛山はこの経済倶楽部に政治家や財界の要人軍の幹部や学者など特定の思想に限らないさまざまな論者を招いていました。
ここの倶楽部では例えば当時の軍人たちを呼んだりとかですね。
限られた人たちの集まりというよりは右から左までいろんな方を呼んで自由に議論をして頂くと。
自由にものを言う空間を何とか残したかったという事だと思いますね。
湛山は全国52か所に経済倶楽部の支部を展開。
会員はおよそ7,000人。
仮に戦時下で雑誌が廃刊に追い込まれても有力な社員や講師を派遣し講演活動によって意見を伝える仕組みを作ったのです。
湛山はもう一つ最悪の事態に備えていました。
日本本土への空襲です。
太平洋戦争の戦況は悪化の一途をたどり太平洋上の重要な軍事拠点は次々と陥落。
アメリカによる空襲が開始されたのです。
東京の本社や印刷所が被害を受ければ雑誌の存続は危うい。
危機を察知した湛山は東京から400km離れた秋田県横手市に対策を打ちます。
これです。
この建物を使って戦時中に石橋湛山が「東洋経済」を印刷していたようです。
安全に印刷を続けられる場所を探していた湛山。
経済倶楽部のネットワークによってこの印刷所の存在を聞きつけ買い取る交渉を進めました。
これが湛山の危機を救う事になります。
昭和20年3月10日東京大空襲。
都内の印刷所は大きな被害を受け「東洋経済新報」の社員も被災。
雑誌の発行は困難になりました。
すると湛山はすぐさま横手の印刷所と正式な契約を結びます。
契約書の日付は東京大空襲から僅か2日後の3月12日。
湛山は鎌倉の自宅を離れ陣頭指揮を執るためにこの横手に疎開します。
自らの発信は自ら守る。
湛山は数々の対策をとる事によって雑誌の発行を継続させ社会に声を上げ続ける事を可能にしたのです。
さまざまな手を打っていた湛山ですけれども非常に用意周到だったという事ですね。
経済倶楽部を作っていわば世論の形成を非常に考えてるわけですね。
当時はテレビのない時代ですからそうやって経済倶楽部を中心に……というのが経済倶楽部を作った意図だったと思うんですね。
それからもう一つ「大陸東洋経済」というのがあるんですけどこれは朝鮮のソウルから出していたものなんですね。
これは実はなんと終戦後の9月15日に出されたものなんです。
どうでしょう?こういう非常に薄っぺらで…。
えっ終戦後ですか。
1か月ですよね。
これよく小学校とかでがり版とかで刷ったような。
手書きですよね。
ほんとそうですね。
全くそういう。
そういう気持ちで謄写版刷りで出した。
「新亜細亜の建設へ」って書いてありますね。
でもほんとに政府の方針と違う事を書くし世論とも違うじゃないですか。
ぶっちゃけ売れてたんですか?それで雑誌は。
決して多い数ではありませんがでもやはりインテリそれから経済界の人は大体おもだった人はこれを読んでいた。
いわば「テキストみたいにして自分は読んでいた」というそういう証言を残してる方もいらっしゃいますね。
実は町村金五さんという警察を取り締まる警保局長という人物に東条英機が「この『東洋経済』はけしからんから暗に潰せ」と。
こういう指示を受けた。
しかし結局自分はそれを実行しなかったという事を戦後になって明らかにしてるんですね。
そういう事ですね。
ですから官界にしても政界にしてもあるいは軍部の一部でさえもやはり湛山の言う事は正しいと。
その主張は間違ってないという支持者はいたと思うんです。
ただそれがなかなかおおっぴらに言えない空気はあったと思うんですけどね。
これは何かある種…メディアってね単に発信するだけじゃなくてそこに一つの……というのはすごい重要だなと思うんですよ。
そのためには単に雑誌を作るだけではなくてそういう講演会とか実際に会う。
実際に会う事によってよりそのつながりが強くなるというそういう設計を多分したんじゃないかなと。
そこに参加した…例えば何百万人もいなくてもそれが1万人とか何千人とかしかいなくてもその1万人や何千人の人たちが顔をお互いに知ってる仲間になるってすごいこれは大事でそうするとねどんな事が起きて例えば雑誌が発行できなくなりましたとか軍部から付け狙われてるとかいうような事が起きても…だからこそ多分さっき先生がおっしゃってたように東条英機が「あいつを逮捕しろ」と言っても「いややりません」っていうふうに潰しちゃうみたいな人たちが多分現れたんじゃないか。
中に軍人さんとか入ってましたもんねメンバーに。
何か敵同士のような気がするんですけど。
実はそういう人たちが守ってくれていたっていう。
仲間。
へえ〜。
…って事だと思いますよ。
でも戦時下このようにジャーナリストとして毅然と声を上げ続けた湛山ですけど戦後はですね自らの政策を実行しようと政治家に転身していくんですね。
そこでも信念の発信というのはやめなかったんです。
戦後政治家となった湛山は何を目指しどんな行動をとっていたのか。
それを知るため今も残る湛山の家を訪ねました。
失礼します。
(ノック)井上と申します。
よろしくお願いします。
(2人)よろしくお願いします。
ここは応接室ですか?はい。
湛山が首相をやってた時もずっとここが応接で何人もの政治家の方とかお客様がこちらに入られて。
まさに昭和の政治史の1ページというか一場面ではあったわけですね。
そうですね。
こちらに大体座っておりました。
こちらの方はだいぶ使い込んだ感じがありますよね。
(省三)ここですね。
ここがまさに定位置だったという事なんですね。
昭和21年政治家としてのスタートを切った湛山。
その後一貫して志したのは戦後の世界を二分した東西冷戦構造の打破でした。
湛山は冷戦を終わらせるために「日中米ソ平和同盟」構想を打ち出しその実現に向けて動きだします。
昭和29年通産大臣となった湛山は国交のなかった中国との貿易を推進。
翌年使節団を招き民間貿易協定を実現させます。
昭和31年湛山は第55代内閣総理大臣に就任。
日本のかじ取りを任されます。
(アナウンサー)「石橋総理大臣の病状が気遣われるうちに…」。
ところが首相就任から僅か2か月後脳梗塞で倒れ退陣を余儀なくされます。
湛山に代わって首相となった岸信介は湛山が進めてきた方針を大きく転換。
中国との関係は冷え込んでいきます。
このままでは冷戦を終わらせる事はできない。
昭和34年湛山は病の体を押して中国訪問を決定。
しかし空港で賛成・反対双方の民衆に取り囲まれます。
一部からは非難の声も浴びせられました。
それでも湛山は訪中の重要性を訴えます。
中国に渡った湛山は周恩来首相と会談。
日中の友好的な関係を回復するべきだとした共同宣言の発表にこぎ着けます。
しかし中国との関係回復には反対も多く湛山も身の危険を感じていました。
この書斎です。
厚い戸が。
そうですね。
だいぶ厚みがありますね。
鉄板の戸が2つ。
ここからが実際新しくコンクリートで建ててる頑丈な造りになってます。
扉が一枚あって更にもう一枚あると。
これはこんなに…これも相当な重みですよ。
(省三)やはり先ほど言いましたように中国との関係ソ連との関係を改善しようというと当時の右翼はそれに全く反対してたので割合そういう身の危険というのを感じてたところがあるんです。
しかし湛山はひるみませんでした。
昭和37年には2回目の訪中を果たし毛沢東主席との会談を実現させたのです。
こうした湛山の訪中は日中両国の関係改善への礎となります。
2回目の訪中から10年後の昭和47年田中角栄と周恩来によって日中国交正常化が達成されます。
その知らせを聞いた湛山の言葉です。
ジャーナリストとして活躍してた時はすごくデータを出してきてドライにも見えたんですけどでもそれはあくまで手段であってやっぱり誰よりもほんとに世界の安定というか平和っていうのを望んでた方なんだなというのを総理になってからの行動ですごく感じますね。
すごく熱いものを感じますよね。
そうですね。
増田さんは今の時代から見てこういった湛山の行動というのはどういう事を私たちに投げかけてると。
そうですね。
まず一つは…そういう人間がやはり世のリーダーとなるべきだという事だと思うんですね。
戦前はジャーナリストとしてまさに軍部を相手に一歩も引かないで闘う。
それから戦後は今度はマッカーサーのGHQを相手に政治家として今度は闘う。
その根底にはやはり自分の考え方が正しい主義主張が正しいというそういう見識が根底にあってそしてそれを最後まで貫くというそういう基本姿勢があるんですね。
そういう意味で戦前から戦後へと連続性がしっかりと描かれてるわけですね。
戦前は「鬼畜米英だ」と言って戦後は「親米主義」に流れる。
そういう政治家とか知識人多かったわけですよね。
そういう中で湛山は非常に珍しいという事は誇るべき日本人の一人ではなかったかというふうに私は考えますね。
佐々木さんはどういうふうにご覧になりました?すごい情熱的な人だと思うんですけどでも同時に僕ねすごいリアリストだなっていう。
リアリズムに基づいて行動してる人だなっていう。
最近だとそれこそイスラム過激派とアメリカの自由主義って対立があっていろんなイデオロギー対立ってあるんだけど…大きな強い声でイデオロギーを言うのって気持ちいいんですよね。
だから例えば今だったら「中国けしからん」とか言うのは言いやすいから気持ちよくみんな言っちゃうしイスラム世界の人たちが「アメリカの資本主義けしからん」というのも言いやすいから言ってしまう。
常に何か大きい声で気持ちよく言ったら何か自分が正義を背負ってしまうような気持ちになってしまうのでイデオロギーは人を批判するための簡単な言いやすい言葉になっちゃってるというのはすごくあって…。
そういう観点から立つと石橋湛山という人は戦前のジャーナリスト時代もそれから戦後の政治家時代も一貫してそういう言いやすい言葉でものを語らない。
そういうところに依拠してるっていうかですねそれを芯に据えてる人なんじゃないかなと思います。
それとイデオロギーの問題と同時にやっぱり湛山が重視したのはナショナリズムの問題なんですよね。
湛山は…まさに今そういう方向に来ているわけで。
そういうナショナリズムのぶつけ合いっていうのは何ら生むものがないわけですね。
不毛ないわば争いであるわけですね。
もちろん愛国心というか郷土に対する愛とかですね日本人の誇りとかこういうのは大事なんだけどでも過度なナショナリズムはこれは「よくない」って言っても誰もそんな事聞かないわけです。
「ナショナリズムはけしからん。
愛国心を持ち過ぎるのはよくありません」って言われて「いやそんなの別に個人の自由だろう」ってなっちゃう。
でもその時にそうじゃなくて…だから我々はそこをちゃんとこれから考えていかなきゃいけない。
そこをきちんと訴えていかなきゃなと思うんですよね。
冷静に考えたいですよね。
戦って勝つのが別に幸せではないっていう。
やっぱり損をせずにできればウィン・ウィンっていう。
何かすごくちょっとビジネス的思考じゃないですけど。
でもそれが幸せですよねできるんだったら。
さあこの店もどこよりもおいしいすばらしいと信じて私一人でも発信していきたいなと思っておりますので今後もますます商売繁盛でやっていきたいと思います。
本日はどうもありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。
ごちそうさまでした。
今も当時のままに残る石橋湛山の書斎です。
湛山は日中国交正常化から7か月後の昭和48年4月88歳でこの世を去りました。
湛山直筆の色紙です。
歩みは遅くともたゆまず前に進む事が志を実現させる近道である。
大きな困難にひたすら立ち向かった男のメッセージです。
2014/10/21(火) 05:30〜06:15
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉(ちえいず) 発信力を磨け!▽ジャーナリスト石橋湛山[解][字][再]

周囲の圧力に負けず、勇気をもって自らの主張を貫くには?戦前、厳しい言論統制にも負けず戦争や植民地主義に反対したジャーナリスト、石橋湛山から発信力の知恵を学ぶ。

詳細情報
番組内容
周囲の人や世間と違う主張をするのは勇気がいる。しかし戦前、厳しい言論統制にも負けずに戦争や植民地主義に反対し続けた男がいた。反骨のジャーナリスト、石橋湛山だ。雑誌「東洋経済新報」の主筆として、大陸に利権を求める政府や軍部とは一線を画す「小日本主義」を主張。当局の弾圧や社内の批判を受けながらも、発信を絶やすことなく、自らの主張を貫き通した。自らの信念を貫いた湛山から、発信力を磨く知恵を学ぶ。
出演者
【出演】ジャーナリスト…佐々木俊尚,眞鍋かをり,東洋英和女学院大学教授…増田弘,【司会】井上二郎

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ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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