(ナレーション)
白装束を身にまとい集まってくる男たち
彼らは八瀬童子と呼ばれます
先祖代々比叡山の麓京都の八瀬に生きてきました
ここはほんとに寂れた所でございますけどず〜っとこの間長いこと…ほんとに長いですね1000何十年いいますとね。
(かしわ手)
山里でひっそり暮らしてきた八瀬童子ですが歴史と伝統に裏付けられた誇りが彼らの支えでもあります
1928年11月即位の礼を執り行うため昭和天皇が皇居から京都御所へ向かうときの映像です
行列の中に輿をかつぐ人たちの姿が見えます
輿には皇位の象徴である三種の神器の一つ八咫鏡が収められていました
古式にのっとった装束に身を包みこの輿をかついでいるのが八瀬童子なのです
京都市歴史資料館には昭和天皇即位の際に八瀬童子が身に着けた装束が収められています
100人以上の方々がですねこれをお召しになって行事が終わってからこれを頂かれて現在まで残してこられたと。
後醍醐天皇をはじめ奉り明治天皇の御御霊大正天皇の御御霊…。
いにしえより皇室とつながってきた八瀬童子は今も月に一度関わりの深い天皇や皇族の法要を欠かしません
ただこうした伝統をどう引き継いでいくのかが今大きな課題です
やっぱりそういうことを
(かしわ手)
皇室とのつながりが深いがゆえに多くの謎に包まれてきた八瀬童子
その実像がようやく明らかになってきました
悠久の歴史と伝統を背負う現代の八瀬童子とそれを支える人々の1年です
京都駅から北東へおよそ10キロ比叡山の麓の谷間に細長い集落があります
その先は観光地・大原へとつながっています
代々農業や林業を営んできた家が多いこの地域は集落を流れる川に急流を意味する「瀬」がいくつもあることから「八つの瀬」「八瀬」と呼ばれるようになったといわれています
玉川勝太郎さんは八瀬童子の一人です
定年まで郵便局で勤めた玉川さんは今は農業をしながら地元の八瀬童子会の理事をしています
八瀬童子は代々八瀬に暮らしてきた家の長男が引き継ぐ役目でした
玉川さんの家には祖父の代まで実際に使っていた八瀬童子ならではの品々が残されています
木箱には提灯が入っていました
その昔提灯は八瀬童子にとって大きな意味があったといいます
忠誠を誓うと。
八瀬童子の存在が注目されたのは1989年昭和天皇崩御のときでした
大喪の礼で玉川さんたち4人の八瀬童子が参列し柩に手を添えました
(玉川さん)これはほんでまあ先輩もそういうことを口にね…。
自分もだんだんとそういう気持ちになっていって。
八瀬童子とはどのような人々なのでしょうか
その歴史ははるか古代にまでります
西暦672年壬申の乱で大海人皇子後の天武天皇が背中を矢で射られました
その傷をこの地のかま風呂で癒やしたことから「矢背」と呼ぶようになったという言い伝えもあります
八瀬童子の「童子」とはもともと寺のこまごまとした作業を担う人々のことです
平安時代中期比叡山延暦寺の領地だった八瀬に暮らす人々は延暦寺で働き八瀬童子と呼ばれるようになりました
1336年後醍醐天皇と関わったことで八瀬童子と天皇の間に深いつながりが生まれました
足利尊氏と対立した後醍醐天皇が京を脱出し比叡山へ逃れる際八瀬童子が弓矢を携えて輿をかつぎ助けたというのです
八瀬童子の働きに報いるために後醍醐天皇が出したとされる綸旨と呼ばれる命令書です
八瀬の年貢と労働奉仕を免除するという内容で八瀬童子の特権を認める綸旨はその後明治天皇まで続きました
まあ後醍醐天皇さんのご縁があった認識っていうのは確かに持ってますよ。
(スタッフ)あんな急な山道を皆さん…。
そう輿に乗せて八瀬の人が。
明治に入り皇居が東京に移ってからも八瀬童子と天皇の特別な関係は続きました
天皇の輿をかつぐ輿丁という役目を果たすため八瀬童子16人が皇居に派遣されたのです
宮内庁に残る八瀬童子に関する記録がメディアに初めて公開されました
1897年当時の宮内省が出した電報の文案です
孝明天皇の后英照皇太后の葬儀に伴って柩をかつぐ八瀬童子を集めるようにという内容です
「ヤセムラニテヨチウニサシツカエナキモノロクジウニンシキウセンテイアレ」。
そのとき選ばれた人たちの名簿も残されていました
八瀬村から直ちに70人が輿をかつぐ輿丁として駆けつけました
八瀬には菊の紋章が入った食器を大事に守ってきた旧家もあります
(スタッフ)これはどういうものなんですか?
88歳の玉置鈴子さんは19歳のときから戦中戦後の5年間皇室で働いていました
仕えていたのは大正天皇の后だった貞明皇太后です
当時八瀬からは男性だけでなく4人の女性が皇室で働いていました
玉置さんは食事の支度や配膳掃除などを担当しました
今でもあるでしょうそら。
そういうようなことはしてましたけどね皆。
戦後さすがに八瀬に対する税金免除の特権や宮中での仕事はなくなりました
でも皇室とのつながりがまったくなくなったわけではありません
この日は八瀬童子会の理事玉川さんにとって特別な日です
これから行ってきます。
寒いのにご苦労さんで。
(スタッフ)いえとんでもないです。
ああ〜寒ぅ〜。
向かった先は京都御所にある宮内庁京都事務所です
毎年天皇陛下から古い伝統を守るためという名目で金一封が御下賜金として出されているのです
皇居の方からね…僕らにとっては。
皇室との関係も昔とは大きく変わりましたが八瀬童子としての誇りはまだ失っていません
この日は700年近く前年貢免除の特権を与えてくれた後醍醐天皇の命日です
正装した八瀬童子が早朝から足元の悪い山道を登ります
後醍醐天皇が輿から降りて休憩したと伝えられる御所谷を参拝します
10世紀に創建され古くから八瀬の中心的な存在となってきた八瀬天満宮には神主はいません
そのかわり政一切を取りしきるのが高殿と呼ばれる役職です
1年交代で原則として八瀬童子の家の長男から選ばれます
(スタッフ)この高殿という役職に就かれるというのは大変名誉なことということになるんでしょうか?そうなんですね。
自薦はやっぱり無理なんで他薦。
いわゆる持ち上げてもらわないと。
ところがお受けするのは決心がいりますね。
家内の同意ももちろんいるし親戚縁者にもやっぱり多少の迷惑をかけますからね名誉なことでありながらははははっ…難しいそういうとこありますね。
高殿の1日は夜明け前から始まります
朝高殿の石川さんはまず自宅に設けた祭壇に手を合わせます
灯明を上げて新鮮な水を供えます
神棚にも同じことを繰り返します
(かしわ手)高殿をお受けいたしました以後ですね大体まあ4時半から4時45分ぐらいに起きますね。
(スタッフ)今の時期でもまだやっぱり真っ暗…。
真っ暗ですね。
これからねもっともっと暗くなりますね。
寒くなりますしね。
冬がいちばん大変ですね。
午前6時八瀬天満宮に参拝します
この朝参りには同じ町内の人が交代で高殿に付き添います
雨が降る日も雪が降る日も八瀬の繁栄と安寧を祈ってほぼ毎朝参拝しなければなりません
(かしわ手)
天満宮の境内に10か所ある社一つ一つに同じように参拝します
(かしわ手)
更に八瀬を遠く離れた神社や伊勢神宮のある方向に向かってもかしわ手を打ちます
1時間近くかかる朝参り
石川さんは退職した今だからこそできると言います
朝参りだけではありません
天満宮では主な行事だけでも年に18回ありその度に餅や野菜などを準備しなくてはなりません
行事ごとに供える餅の数や形が異なり手伝う家族も大変です
しかも高殿の部屋は女人禁制
掃除も満足にできません
この他にも葬式に行けなかったり食べ物に制限があったり1年限定とはいえ高殿の生活は楽ではありません
精神的なものから日常のものからですね精進が入ってきますので生活が不自由になるっていうのはありますね。
これはやっぱりしたらいかんなとかこういう所に行ったらいかんなとかですねこういうものを食べたらいかんなとか日日朝・昼・晩やはり考える面がありますね。
11月
普通なら次の年の高殿が決まる頃ですが困った事態になっていました
高殿は八瀬に8つある町で1年ごとに交代で回していますが次に担当する町で高殿をやろうという人がいないというのです
次の高殿を担当するはずの町では天満宮の正月準備としてしめ縄作りに取りかかる頃になってようやく高殿が決まりました
それも本来1人の高殿を5人で分担するといいます
本来はもっと早う決まってなあかんのですけどもなんやかんや言いながらちょうどひと月前ぐらいに最終的にこの5人でやるということが決まりました。
今回初めてですので…。
けどなんとかつないでいかんと行事が進みませんのでねまあそういう形で。
農家が中心だった昔とは違い5人のうち3人はサラリーマンです
2〜3か月ごとに高殿を交代しなんとか1年つないでいくことにしたのです
(鼻歌)
(鼻歌)
1月と2月の高殿を担当することになった坂本圭宏さんはタクシーの運転手をしています
1人で1年間高殿を務めるのは到底無理だといいます
まあこれでそんなんやったらどっかへ
坂本さんは仕事が忙しい観光シーズンを避け冬の間の高殿を担当することにしました
年末が近づき次の年のトップバッターを務める坂本さんの高殿修行が始まりました
この日は石川さんの朝参りに初めて同行しました
(本坪鈴の音)
(石川さん)
(坂本さん)はい。
(石川さん)二礼。
(石川さん)
(石川さん)二礼。
(かしわ手)
(石川さん)
(石川さん)上がるぐらい上げんねん。
(石川さん)こうして
(石川さん)チェックしながら…回りながら。
まあお願い事は八瀬の住民がみんな幸せになれますようにというこの3つぐらい。
これだけや。
これ参詣したらそれで済むこっちゃ。
ん?行かない。
(坂本さん)はい。
(石川さん)高殿はね。
(石川さん)一礼。
(石川さん)はいはい。
これで一応終わり。
(坂本さん)はいはい。
はぁ〜。
代々八瀬童子の家だからといっても坂本さんは四男坊
これまで積極的に行事に関わってきた方ではありません
まさか高殿になるとは思ってもいませんでした
(スタッフ)大役がね…。
うん。
大変ですよ。
はははっ。
ちょっと…行事が多いんでねここ11月からずっとね。
はい。
1112…2月ぐらいまで結構多いです。
(スタッフ)奥様も大変ですよねいろいろ着付けだったり…。
そうなんです。
うん。
なんかこう…分からへんしね袴の結び方とかなんか…。
(スタッフ)ああ〜。
うん。
なんかインターネットで出してきてこう…はははっ。
本来高殿は家に祭壇を設けなくてはなりませんが坂本さんの家にはそんなスペースはありません
5人で話し合って広い和室のある人の家に1年間置くことにしました
(スタッフ)今回神棚をここにちょっと飾ろうかなっていうお話にはならなかったですか?もうそんなん嫌。
(スタッフ)あっ…。
面倒見んのが嫌なんですよ。
(スタッフ)やっぱ大変なこと…。
うん。
だからそういうあれがあるからなかなか引き受け手がないということですね。
この日高殿が交代します
天満宮では八瀬の人たちが新年を迎える準備を進めていました
いよいよ高殿交代の儀式です
石川さんに続いて坂本さんが本殿の中に入っていきました
本殿はこれまでの高殿と新しい高殿しか入れない神聖な場所です
本殿から出てきた坂本さんは石川さんと同じ青い頭巾をかぶっていました
この頭巾が高殿になったしるしです
これが神のお使いをさせていただく資格が出来たという証しですからね。
心清くして頑張りたいと思います。
(かしわ手)
年が明け1年で最も寒い季節がやってきました
朝6時出勤前に新しい高殿として朝参りをする坂本さんの姿がありました
(本坪鈴の音)
八瀬童子の家系は現在115世帯
かつては八瀬童子にとって名誉な務めだった高殿もライフスタイルに合わせて変化しつつあります
(かしわ手)
八瀬の春は市内中心部より少し遅れてやってきます
この季節八瀬小学校の子どもが楽しみにしている行事があります
はい。
はい。
はい。
子どもたちだけでなく八瀬からは毎年90人近くが葵祭に参加しています
京都三大祭りの一つ葵祭
平安装束に身を包んだおよそ500人が都大路を練り歩きます
もともと朝廷の行事だったことから明治以降八瀬の人々も葵祭の行列に招かれてきました
最近八瀬の子どもの数が減り以前から参加していた6年生だけでなく下級生も行列に加わるようになりました
少子高齢化は八瀬でも頭の痛い問題です
代々田畑や森を守ってきた八瀬童子の家も今ではサラリーマン世帯がほとんどです
子どもの世代が独立して都市部へ移り住み八瀬に戻らないケースも少なくありません
八瀬童子会に参加する家も少しずつ減り残った家も高齢化が進んでいます
一方八瀬全体で見ると実は人口は増えています
市内中心部から車で30分と便利なことから宅地開発やマンション建設が進みこの50年で世帯数は実に3倍近く増えて800世帯を超えました
ただ人口が増えたからといって地元のにぎわいが戻ってくるわけではありません
夫婦…老後にええかなと。
はははっそれで。
(スタッフ)あっ引っ越されたんですかこちらの方に。
昔の祭り参加せなあかんねんけどね。
分かってんねんけどねはははっ。
(スタッフ)参加しようかなっていうふうに思われたこと…。
全然ないです。
はい。
(スタッフ)そういういろんなおつきあいとか…。
したくないからここに移ってきてるんで。
いにしえから続く八瀬の習わしなどを知らない新しい住民がいつの間にか多数を占めるようになりました
そうした変化に八瀬童子も無縁ではいられません
それはもう
(鈴の音)
京都では子どもが主役の地蔵盆が今も盛んに行われています
八瀬では昔からお年寄りの女性を中心にお地蔵さんの前で念仏を唱え歌を奉納してきました
(一同・御詠歌の吟詠)
珍しく小さな子どもを連れた夫婦がやってきました
(星川さん)おはようございます。
(敦子さん)おはようございます。
(星川さん)新しく越してきた星川といいます。
7月から越してきました。
よう来てくれはりました。
1番に来てもうたの?僕。
(星川さん)あははっ。
(星川さん)
(星川さん)またよろしくお願いします。
草太っていいます。
キョウタ君?
(星川さん・敦子さん)「草太」。
(星川さん)草に太いで「草太」いいます。
いやかわいい。
賢いなぁ。
(星川さん)「こんにちは」って。
星川さん一家は今年7月八瀬へ引っ越してきました
小学校の先生をしている和也さんは宮城県出身妻の敦子さんも岡山県出身でもともと京都には縁もゆかりもありません
子どもが生まれたのをきっかけに便利だけど近所づきあいがない京都中心部のマンションからの引っ越しを考えるようになりいろいろ見た中で八瀬に惹かれたのだといいます
「大変ですよ」とかなんかね引っ越してくるときにもいろんな方に…それこそ八瀬の方に「まあいろいろね煩わしいこともあるかもしれへんし」いうことを聞いてたんですけどもなんか自分の子どもの頃を思い起こすというか。
昔こういうとこで誰々さん家の息子さんやないうて声掛けてもらったのとか思い出してこの子もそういうふうになっていって…もともと自分たちが京都じゃないのもあったのでここがこの子の帰ってくるふるさとみたいな場所になるんやったらそれがいちばんいいな…いちばんおっきなことやなと思ってここにしよういうふうに最終的には決まっていきました。
八瀬天満宮の大掃除の日地域の人たちに交じって星川さんも参加しました
(星川さん)おはようございま〜す。
おはようございます。
あっ草ちゃんのお父さんやははっ。
草ちゃんのお父さんほうきか?ほうき裏側にあるであそこの。
(星川さん)どこの裏側ですか?この社務所の裏側に。
ありがとうございます。
はいはい。
昔から住んでいる人たちにも気さくに話しかけているうちに少しずつ顔なじみの人も増えてきました
まあ来てへんかったけど。
(星川さん)そうかイノシシが鳴いてるんですねあれ。
・うちなんか…。
・こないだ。
(星川さん)あっほんまですか。
・しょっちゅうやからね…。
鹿?・来てるの分かってるんだけどね夜中にね…。
どうもありがとうございました。
どうもありがとうございました。
(星川さん)ありがとうございました。
お茶もうていって。
(星川さん)頂きます。
ありがとうございます。
お茶持っていって。
早朝川原へと下りる人たちの姿がありました
洛北地域に今も残る…
八瀬では川原に石を積んでおにぎりなどを供えお盆に帰ってきた先祖の霊が川の流れに乗って迷わず帰れるよう祈ります
八瀬の夏が終わろうとしています
実りの季節を迎えました
八瀬童子の一人玉川さんもこの日は稲刈りです
八瀬で米作りをしている家は僅か4軒だけになりました
秋の祭りの準備が進められていました
祭りのクライマックスを彩る八瀬赦免地踊で使う灯籠作りです
独特な形をした灯籠に障子紙を貼っていきます
かつては八瀬童子だけで作っていた灯籠ですが今では新しい住民も制作に加わっています
灯籠に貼り付ける細かい切り絵を制作している口野さんももともと八瀬出身ではありません
赦免地踊の灯籠の美しさに魅了され20年前から切り絵作りをするようになりました
武者や動物魚といった古くから八瀬に伝わる図柄を基に制作します
魚のうろこや動物の毛の一本一本を表現する細かい作業は根気が必要です
完成するまで半年かかります
やっぱり一大イベントじゃないですか。
もちろん緊張はするでしょうし失敗したらあかんいうのもあるんですけどやっぱり無事きちっと役こなす。
で見てる人とか聴いてる人が…。
まあ「去年より今年よかったな」とか言ってもらえればまあそれで上出来かなという。
赦免地踊の由来は江戸時代中期にります
比叡山延暦寺と八瀬の間で争いが生じた際老中・秋元但馬守喬知が八瀬の言い分を聞き有利に決着するよう尽力してくれたことに感謝して秋元神社が創建されました
「赦免地」とは税を免除する特権を持つ八瀬の土地のことで八瀬童子たちは秋元喬知への感謝の気持ちを表すため毎年踊りを奉納するようになったのです
灯籠に完成した切り絵が貼り付けられていきます
赦免地踊の準備はもう八瀬童子だけでは賄いきれません
新しい住民と一緒に八瀬全体の祭りとして盛り上げていこうという機運が高まっています
そういう意味では
音頭衆と呼ばれる男性たちが仕事を終えたあと師匠の家に集まります
(音頭衆「道歌」)
赦免地踊の唄の練習です
楽譜があるわけではなく八瀬の人たちが口伝えで受け継いできた唄です
八瀬に移り住んでから唄に取り組んだ人も少なくありません
(音頭衆「道歌」)私ももともと八瀬ではないんですけども引っ越して数年後ぐらいにやってみないかと。
ははっはい。
一度参加してみないかということで。
まあそのときはものすごい気軽な感じで来てみたらまああの〜大変なものだったという感じですね。
はい。
・いや偉いと思いますよ自分からこう入ってきて…はい。
いろんなことをねまあ消防軍団もやってますし。
・なかなか地元の人がね…なかなかやってくれないんで逆に今そうして来ていただいた方が…やっぱり歓迎しますよねそれなりにね。
祭り当日
八瀬童子が天満宮の中にある秋元神社に集まります
(太鼓と銅拍子の演奏)
祭りの無事と八瀬の五穀豊穣などを祈り巫女による湯立ての神事が厳かに行われました
日が暮れるといよいよ赦免地踊が始まります
踊りの主役は中学生の男の子8人
大人の手を借りて華やかな着物を着付けしてもらいます
唇には紅を差します
・おいで。
うわっ女っぽい。
・あはははっ!・そやな今日は女の子やしな。
あははっ頑張ってね。
はい。
・はい。
ふふふっ。
マンションでも男の子が化粧をしていました
なぜ男の子が女装して踊るのかその理由は謎です
灯籠に明かりがともされました
踊り手は5キロの重さがあるこの灯籠を頭にかぶります
前前…ちょっと。
でこれねまっすぐ顎引いて。
ほんであんまり首下げんと正面向いて。
両手で…脇をちょっと締めてねこういう感じで。
ゆっくり行こう。
(音頭衆「道歌」)
音頭衆の歌う「道歌」に導かれ8つの灯籠が神社の境内をゆっくりと進みます
(音頭衆「道歌」)
(音頭衆「道歌」)
いにしえから続く八瀬の歴史と伝統
そこに思いをはせるのはもはや八瀬童子に限りません
新たに八瀬の住民となった人も少しずつ加わり新しい八瀬の伝統が作られようとしています
(音頭衆「道歌」)
八瀬の秋は赦免地踊の灯籠の明かりとともに一気に深まっていきます
八瀬童子の大役来年の高殿の任命式が行われました
今年は5人で分担しようとした高殿ですが来年は1年間1人で引き受けてくれることになりました
そういう務めが…これはもう先の人間がやっていくのが…。
それはしっかりとやっていきたいと思ってます。
京都の山里で悠久の時を生きてきた八瀬童子
歴史と伝統を受け継いできた誇りを胸に童子たちは過去から現代へそして未来へとまた歩みだそうとしています
2014/11/17(月) 00:50〜01:50
MBS毎日放送
映像’14 われらは八瀬童子〜悠久の山里に生きる人々[字]
京都比叡山の麓に庶民でありながら天皇家とのつながりが深く、輿を担ぐ役割を担ってきた人々がいる。しかし近年、里人が高齢化により減っていき継承が危ぶまれ——。
詳細情報
番組内容
京都洛北の比叡山の麓にある山里・八瀬。ここで千年以上もの間、独特の村落共同体を作り、生活を続けてきた人々を「八瀬童子」(やせどうじ)と呼ぶ。庶民でありながら、天皇家とのつながりが深く、輿を担ぐ輿丁(よちょう)の役割を担ってきた。しかし、近年、里人が高齢化により減っていき、八瀬ならではの伝統と風習の継承が危ぶまれている。時代の変化の中で、伝統を守ろうとする「八瀬童子」の姿を追う。
出演者
【ナレーター】
高井美紀
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
福祉 – 文字(字幕)
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