今月3日。
箱根の美術館である作品が美術関係者に公開されました。
それは60年以上も行方不明になっていた幻の傑作。
全国から集まった人々の目がくぎづけになります。
喜多川歌麿渾身の大作「深川の雪」。
多くの人が探し続けていた作品がついに発見されたのです。
描かれてから200年。
作品は数奇な運命をたどっていました。
幾度も海を渡り現れてはまた消える。
唯一残された白黒写真がさまざまな臆測を呼んできました。
それが2年前突如姿を現しました。
しかし200年の歳月を物語る損傷が至る所に。
大がかりな修復が行われる事になりました。
熟練の職人たちも経験した事のない異例の大きさ。
奇跡の修復はどう行われたのでしょうか。
世紀の大発見「深川の雪」。
どのようにして生まれ今何を伝えるのか。
徹底分析します。
私たちのもとに幻の作品が発見されたらしいという知らせが入りました。
それは見た事もないほどの巨大な掛け軸でした。
開こうとしたその時緊張が走ります。
想像以上に損傷を受けていました。
慎重に下ろされると…中から鮮やかな色彩が現れてきました。
幅およそ3.5m縦およそ2m。
浮世絵史上最大級の大きさ。
200年以上も前に描かれたとは思えない美しさです。
(小林)お〜きれいですね。
表装がぼろぼろだから中の絵はどうかと思ったら非常に鮮やかに色が残っておりますね。
長い眠りから目覚めた…舞台は江戸を代表する遊里深川の料亭。
雪の積もった中庭を中心にさまざまな姿の芸者や遊女が配されています。
こまやかな筆遣いと流れるような構成。
喜多川歌麿の最高傑作と考えられます。
登場人物は総勢27人。
着物の紋様しぐさ表情まで一人一人丁寧に描き分けられています。
三味線の音色に合わせて何やら楽しそう。
「拳」という2人が数を当てっこするじゃんけんのようなゲームで遊んでいます。
手前の廊下では微笑ましい光景。
何かに驚いたのでしょうか。
芸者が後ろを振り返ると着物の裾に猫がじゃれていました。
坊やを優しく抱き締める母親の姿。
着物にも趣向が。
藍や茶などの渋い色合いは深川ならでは。
赤をのぞかせるのが粋な着こなしです。
前掛けをしているのはお酒や料理を運ぶ女中たち。
朱塗りの盆にヒラメの煮物トコブシインゲンなどが並びます。
入念に描かれた作品。
しかし歌麿の署名はどこにもありません。
本当に歌麿本人の手によるものなのでしょうか。
もう疑いなく歌麿美人ですね。
全て子供を除いてはもう女性たち歌麿の得意な美人たちが勢ぞろいしている。
これだけの数十人の人物がそれぞれの表情とニュアンスを与えられて一つの全体像が有機的に構成されている。
これは歌麿以外にはもうありえない描けない。
これは掛け軸として今も掛けるのに大変苦労したわけですけど現在残っている歌麿の絵画としては最大ですし浮世絵のあらゆる歴史を通してもこれだけ大きな作品は私は見た事がないので。
浮世絵史上最大級の大きさ。
しかもそれは歌麿が直接描いた肉筆の作品です。
喜多川歌麿は生涯多くの浮世絵を生み出した絵師。
作品数は現在確認されているだけでも2,000を超えます。
そのほとんどは版画です。
版画は絵師彫師摺師による共同作業。
浮世絵版画はそうした職人の分業によって大量に安く作る事ができました。
一方肉筆画は絵師一人が全て制作します。
歌麿は特に少なく40点ほどしか確認されていません。
2007年に肉筆画「女達磨図」が発見されると大ニュースとなりました。
こうした他の肉筆画の数十倍の大きさを持つ「深川の雪」はとりわけ貴重な作品なのです。
発見後最も懸念されたのが作品の状態でした。
絵の具部分は虫を寄せつけないため鮮やかさをとどめていましたがそのまま展示するには大きな危険が伴います。
シミや虫食い破れ折れなども目立ちます。
作品を本来の状態に近づけ再び掛けられるよう大々的な修復が行われる事になりました。
高精細デジタルカメラと赤外線カメラを使って作品の調査が行われました。
その結果下書き線とのずれや描き直しの跡はほとんど見られませんでした。
歌麿が当初から緻密に構成し描いていた事が分かります。
長い準備期間を経て修復作業が始まりました。
まず絵の周りの表装と何層にも重ねられた裏打ち紙を外していきます。
折れを伸ばし裏側から新たに補強していきます。
下ろすよ。
はい。
修復は表側に進んでいきます。
汚れは薬品を使わず水だけで除去されました。
絵の具が紙にしっかりと定着しているため水でにじんだり流れたりする事はありません。
修復と補強が完了すると次は表装の作業です。
発見当初は作品をしっかりと支え扱いがより簡単なパネルにするという案も検討されました。
しかし歌麿が制作したとおり掛け軸のまま保存する事に決めました。
手間がかかっても歌麿の思いを後世に伝えたい。
ミリ単位での作業が続きます。
そして今年2月全ての作業が完了。
鮮やかによみがえった「深川の雪」です。
折れ目はきれいに伸ばされふっくらした歌麿美人が現れました。
大きく目立っていたシミや汚れも元の姿に。
最高の職人たちの技と熱意によって200年前の輝きが取り戻されたのです。
ああ表情が見えてきた。
うわ〜…。
へ〜…。
全部で大人の女性は25人で少女や子供を入れると27人の人物が描かれてるんですけど一人一人が一幅の絵になるような大きさで描かれてる。
うわ〜この着物の柄が…。
一つ一つの柄が細かい。
細かいですね。
着物の柄も皆変わっているんですね。
一つとして同じ柄のものはないと。
これだけ女性がいてですか。
ええ描き分けてますね。
いやちょっと僕は言葉を失ってためいきしか出ないですね。
いやすごい。
小林先生が初めて「深川の雪」をご覧になった時どのようにご覧になったのでしょうか。
一体いつその本物に出会えるんだろうか。
これは私だけじゃなくて世界中の歌麿のあるいは浮世絵の美術のファンが期待してたものなんですけどそれをこう…大きな絵を恐る恐る広げてきた時最も意外なものはまず目に入ったのは雲なんですね。
これだけの大画面に青い雲かっていう。
だんだん下げてきますと一番奥の部屋の女性たちが三味線の伴奏で拳という遊びをしていたり内庭の雪景色を下に望み見ている。
そういう群像が色彩華やかに見えてくるわけですね。
もうドキドキドキドキ…。
これから一体どんな情景になるんだろうと。
全体が無事に掛け終わった時目に入った大きさと画面全体に埋め込まれた華やかな色彩目の満腹感というんでしょうかねほんとに感動しまして。
不覚にも涙が浮かんでくるようなにじんだような経験を致しましたですね。
一番きっと絵として最初にはっきりとしたものが見えてくるのって画中画のあの富士山ですよね。
この大きさで広げていった時にあの小さい富士山がちょこんと出てきて広げていくとズダダダダダッとこれだけの女性たちを描いている。
しかもこの迫力で。
これは何か歌麿の見る者を本当に喜ばすための何かこう仕掛けのようにも…。
頭の中でやっていてわくわくしてきてしまって。
大きな画面全体でご覧になっても遠くからですねその構成の見事さというものが印象づけられるんですけどどこの部分に寄っていってもその人物を中心に画面が広がっていくというか動いていくというか。
こういう部分と全体とが緊密に呼応していく。
今仕掛けとおっしゃったのがまさにいろんな所にはめ込んである。
それを実物大の現物を見る事によってその醍醐味を受け止められるという事をつくづく感じたんですね。
「深川の雪」はどんな運命をたどってきたのか。
最も古い記録は栃木にあります。
明治12年。
市内の寺で展覧会が開かれました。
その時に作られた目録です。
「深川の雪」は「雪月花」という3部作としてセットで展示されていたのです。
近年この3部作を写した写真が栃木市の旧家から見つかりました。
(小林)これがそのアルバムです。
それは江戸の三大遊里を描いた「吉原の花」「品川の月」そして「深川の雪」。
展覧会の数年後3部作は売りに出されていました。
私のじいさんが明治20年代だと思うんですけれどもこれが売りに出てた時に「買う」って一応約束したんだそうです。
ところが帰ってきたらおやじに怒られましてねそれで破談にしたんだそうです。
やっぱりいい絵ですからねそれは欲しかったんじゃないですか。
それで買えなかったんでしょうがないから写真を撮らせてもらったという事なんじゃないかと思うんですけどね。
結局誰が買ったのか記録はありません。
次に3部作が姿を現すのははるか海の向こう。
フランスパリです。
3部作のうち「品川の月」はパリの美術商林忠正が愛蔵していました。
明治36年に林が開いたオークションのカタログです。
1,585番目に「品川の月」が写真と共に掲載されています。
林は長い間この作品を手放しませんでしたが日本へ帰国する際に売りに出していました。
競り落としたのはアメリカのコレクターチャールズ・ラング・フリーア。
現在ワシントンのフリーア美術館が所蔵しています。
幅3.2mに及ぶ「品川の月」。
18世紀後半吉原に並ぶ人気を博した品川の遊里。
海のかなたに浮かぶ月。
月見の名所品川の情景を当時目新しかった遠近法で巧みに描いています。
美術館の作品は門外不出。
こうして3部作の一つ「品川の月」はワシントンを終の住みかとしたのです。
「吉原の花」も再び海を渡りました。
アメリカ東部コネティカット州のハートフォード。
1957年。
アメリカ最古の公共の美術館ワズワース・アセーニアムが購入しました。
掛け軸からパネルに仕立て直された「吉原の花」です。
舞台は日本最大の遊郭江戸の吉原。
咲き誇る桜。
その下で艶やかな衣装に身を包んだ遊女たち。
総勢52人。
美人画の第一人者として生涯吉原を描き続けた歌麿ならではの世界です。
こうして「品川の月」と「吉原の花」は栃木からパリそしてアメリカに渡っていきました。
残る「深川の雪」はどうなったのか。
ある人物が証言を残していました。
フランスの作家エドモン・ド・ゴンクール。
1891年の著作「歌麿」で「深川の雪」をパリの画商の店で見たと記しています。
「幅3.5m高さ2.4mという巨大な掛け軸にも言及しておきたい。
軸いっぱいに26人の女性が集うありさまが描かれている。
素足に豪華な着物をまとった遊女たちはさまざまに集い美しく並んで物憂げそうに立ち止まったり階段を早足に上っていったりしている」。
昭和14年。
「深川の雪」は日本人の浮世絵収集家によってパリから日本に持ち帰られていました。
以来モノクロ写真でしか存在を知られる事はありませんでした。
それがおととし東京で美術商が発見。
流転の果てにその姿を現したのです。
昭和14年に「深川の雪」は一度里帰りをして昭和23年に銀座に再び現れるわけですよね。
その当時の日本人がこれを見た時に一体どのように映ったと思われますか。
私が昭和23年は小学校にあがった年なんですけど残念ながら見る事はできませんでしたが。
当時思い起こすと日本は最貧国ですね。
最も貧しい国。
配給で物資も滞りがちで餓死される方もいらした。
そういう時代で戦争に負けうちひしがれている人たちに3日間だけの予定で公開されたらしいんですね。
ところが大変好評でその後数日間延長したって私の先輩などが言っておられますので大変好評裏に迎えられた。
勇気づけられた。
あのころこれからは文化の力で日本を立て直すんだという文化文化文化という事を学校で大変深く教えられたように記憶してるんですけどもその最もよい実例がこれだけの大きさで目の前に現れた時励まされたと。
あのころの大人は励まされたと思いますね。
誰かは分からなくとも大切に大切にどの節目でも大切にされてきた作品である事はもう揺るぎない事実ですね。
おっしゃるとおりですね。
それは日本人だけじゃなくて一度はパリに渡って多くの人々にこの作品が刺激を与えそして話題にもなりゴンクールは一流のあのころの流行作家ですからそういう人が書き留めてくれるほど評判になったんだと思うんですね。
大切に外国の人も保存して下さってた。
それが目のある人によって日本へ持ち帰ってくれた。
それをどういう経路でここまでつながったか全く私正直なところ分からないんですけどその間に善意が大切に守ってくれたという人の手から人の手へつながって今あるという。
だからほんとにほんとにうれしいですね残ってくれた事。
幻の大作「深川の雪」はいつどのように誕生したのか。
専門家による読み解きが行われました。
化粧など女性の風俗の歴史に詳しい村田孝子さんです。
下唇がグリーン色になってたんですよね。
笹色紅というのは紅花から作った紅を濃くつけるとグリーン色に発色するんですね。
下唇だけつけてるというのが特徴なんです。
紅花から作る口紅というのはすごく高価だったんですね。
だから一般庶民にはそういう贅沢はできないけれども遊郭の女性たちは自分たちを美しく見せるのにそういう事もやってたんだと思いますね。
化粧や髪形などから制作時期は歌麿の晩年と推定されました。
しかし歌麿は晩年画力が衰えたと言われてきました。
なぜ晩年にこのような大作を描いたのでしょうか。
歌麿は謎に包まれた絵師と言われます。
いつどこでどんな家に生まれたのか記録は一切残っていません。
分かっているのは本格的なキャリアのスタートが狂歌絵本だった事。
狂歌サークルの出す本の挿絵を描いていました。
雲母刷など贅を尽くした豪華な仕立て。
歌麿は瞬く間に才能を発揮します。
鋭い観察眼と精緻な描写力で将来を嘱望されるようになります。
人気の背景にはあるプロデューサーの存在がありました。
版元蔦屋重三郎です。
蔦屋重三郎は絵師や戯作者の才能をいち早く見いだし巧みに売り出す名プロデューサーでした。
蔦屋の営む耕書堂は浮世絵から狂歌絵本吉原のガイドブックまで出版。
時代の最先端を切り開いていました。
しかし江戸の情勢が大きく変わります。
松平定信による寛政の改革です。
武士を頂点とする支配体制を立て直すため厳しい風俗統制を敷き町人層を弾圧。
狂歌絵本のような豪華本や多くの色を用いる浮世絵も禁止。
蔦屋は財産半分没収という重い刑に処せられました。
筆を振るえなくなった歌麿は栃木に向かったと推定されています。
当時栃木は水運によって栄えた商業都市。
豪商が多く存在しました。
その栃木で歌麿は3部作を描きました。
最初が「品川の月」です。
月明かりの下艶やかに輝く遊女の姿。
客である男性の姿はシルエットにとどめられ遊女や芸者の色香が際立っています。
幅3mもの作品を制作するのは莫大な費用がかかります。
この大作はなぜ栃木で生まれたのでしょうか。
…というのが非常に興味深い事ですよね。
という事はつまり歌麿を含んだ当時の狂歌のグループがあって…期待のある絵師たちが自分たちの狂歌のサークルの中にいるわけですからじゃあその人を使ってちょっと大きな作品を描かせてみようという事ですよね。
だとすると十分それは支援をするという気持ちもあると思うので…3部作を発注したのは誰なのか。
歌麿作品に度々登場するのが狂歌師通用亭徳成。
本名善野喜兵衛という栃木の豪商です。
明治12年に「雪月花」3部作を所有していたのも善野家。
歌麿を支援し肉筆を依頼したと考えられます。
更にもう一つ歌麿は栃木で大作を描きます。
「吉原の花」。
遊郭の大通り仲の町に面した引き手茶屋。
花の向こうに町名が見え隠れしています。
吉原は幕府公認の遊郭。
遊女のトップが集まり美を競い合う様子をつぶさに描きました。
遊女ばかりではありません。
2階の部屋で花笠踊りを楽しむのは…事もあろうに武家の女性たちです。
華麗な画面の中に贅沢を禁止する寛政の改革への風刺を入れ込む。
それは歌麿ならではの抵抗でした。
こうして歌麿は江戸で活動できない時期栃木で肉筆の大作を生み出していたのです。
江戸に戻った歌麿。
復活した蔦屋重三郎と共に一躍時の人となります。
歌麿が生み出した新しい浮世絵が大ヒットとなったのです。
女性の上半身を画面いっぱいに描く「美人大首絵」です。
背景を無くし色数を減らしました。
顔を大きく捉える事で微妙な表情や内面までも伝える事に成功しています。
歌麿は華美を禁じる改革を逆手に取って新たな画風を切り開いたのです。
更に描く対象も広げます。
両国のせんべい屋の娘浅草の水茶屋の評判娘など江戸の町娘たち。
名前を書き入れる事で一層人気を高めようとしました。
しかしそれが幕府の逆鱗に触れます。
今後浮世絵に町娘の名前を書き入れてはならない。
明らかに歌麿と蔦屋を標的にしたものでした。
不幸は続きます。
最大の支援者だった蔦屋重三郎が他界。
その後も歌麿への弾圧は続きついに文化元年幕府を風刺した作品によって手鎖五十日の刑に処せられます。
一時は浮世絵界の頂点に立った歌麿でしたがもはやかつての勢いで制作する事はかないませんでした。
歌麿が再び栃木を訪れたのはそのころだと考えられています。
縦2m幅3.5mというこれまで以上に大きな画面。
そこに持てる力の全てを注ぎ込んだのが「深川の雪」。
「深川の雪」は歌麿がずっと描きたくても描けなかった世界だと考える研究者がいます。
非常に歌麿としては珍しい題材ですしこれだけ克明にあからさまに深川の様子を描くっていう事ができたというのは版画ではなく肉筆画だったというところもあったんじゃないかと思うんですね。
当時江戸で幕府公認の遊里は吉原のみ。
非公認の深川は度々取り締まりの対象となり遊女や芸者は捕らえられていました。
料亭でありながら客もとる。
したたかに生き抜く深川の象徴が「通い夜具」。
江戸では描く事のかなわぬ世界を存分に描いてみせました。
女性たちは皆生き生きとした表情。
冬の寒さをものともせず一人一人が輝きを放っています。
それは歌麿最後の大作となりました。
蔦屋重三郎が亡くなりそれから歌麿自身も処罰を受けるというような困難な時期の作品であってそれが善野家という後ろ盾を得て当時幕府が良くは思っていなかった「深川」という主題を得て描きたいものを描きたいように描くという事がここでできているんだと思うんですね。
絵師というのは時として蕭白であれば伊勢の方へとか芦雪であれば紀州へとか北斎であればそれこそ小布施という中央と地方の関係性というか歌麿と栃木の関係性というのは一体どのようなものがあったのでしょう?栃木には大変狂歌が盛んであったという事が歌麿の周辺では確認できてるわけですけどその他にも非常に文化財の転換があった時の目録を見てみますとかなりなレベルの高い教養が地域に広がってたんだとそういうものが証明してくれてるわけですね。
これだけの3部作を十数年にもわたって江戸から招いて描かせる。
その地方文化人の豪胆さというんですかね身分的には最下位に位置づけられた町人がこんな事だってできるんだぞというそれに共感した歌麿のあるいは他の例に挙げられた画家たちの意気に感じて大作力作傑作を生んでくれたんじゃないでしょうかね。
でもそれにしてもここまで大きくなきゃ駄目だったんですかね?そうですね。
どこに飾ったのかという事がありますよね。
どうしたんでしょうね。
これだけのものを個人がですね発想して個人の資力で個人の家に飾るために描いたというのはちょっと考えにくいと思うんですね。
これはやっぱり雲に囲まれているというのはよく「瑞雲」といいますけどこの世界にめでたさが表れてるんだ。
そういう特別な祝祭的な遊楽世界というものが今我々が考えてるよりももっと尊重される祝祭的な空間でそれらをあるハレの機会にお寺だとかに「雪月花」と展示する事によって地域の人々を楽しませる。
そういう事に役立てられたんではないのかなっていうのが今の私の推論ですね。
でも今日こうしてお話を聞きながらまた改めてこの「深川の雪」という作品を目の前にしますと美しい楽しそうだだけでは決してないさまざまなメッセージがひしひしと積もっていくような気がしますね。
歌麿は女性を描いた…美しく描いた画家ですね。
江戸時代は女性にとってそんないい時代じゃなかったと思うんですけどこの絵を見てペシミスティックになったり悲しくなったりする人はいないと思うんですね。
ですから多分このあとだと思うんですけど罰せられて反逆者としての悲惨な最期を迎える事になると思うんですが歌麿はその直前までこんなに元気にヒューマンな当時は抑えられていた女性像を幸せそうに描いてくれている事にある意味でほっとさせられるところがありますね。
頼んでくれた地域の人と一緒に作り上げた記念碑的な作品だと思いますけど。
今日は本当にどうもありがとうございました。
楽しゅうございました。
2014/11/16(日) 20:00〜20:45
NHKEテレ1大阪
日曜美術館「世紀の大発見!歌麿 幻の大作」[字][再]
特別アンコール!喜多川歌麿の幻の大作が発見された。27人もの遊女や芸者が描かれた巨大な掛け軸。最高傑作はなぜ姿を消していたのか。数々の謎と歌麿の実像に迫る。
詳細情報
番組内容
4月に大きな反響を得た番組を特別アンコール!江戸の浮世絵師・喜多川歌麿の幻の大作が発見された。美人画で名をはせた歌麿だが、縦2メートル、横3.5メートルを超える大画面に、27人もの芸者や遊女が描かれた、まさに最高傑作。しかも版画ではなく、歌麿自身の手で描かれた肉筆画で、歌麿の画業を読み解く貴重な作品として注目されている。60年以上もの間なぜ行方不明になっていたのか?数々の謎と歌麿の実像に迫る。
出演者
【出演】岡田美術館館長、学習院大学名誉教授…小林忠,【司会】井浦新,伊東敏恵
ジャンル :
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
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