1209年創立のケンブリッジ大学。
800年以上の歴史と伝統を誇る名門大学です。
ニュートンやダーウィンなどの自然科学から哲学者のベーコンや経済学者ケインズなどの人材を排出。
ノーベル賞の全ての分野で受賞者を出しその数は90名に上ります。
市内に点在する31のカレッジから成るケンブリッジ大学。
学生数およそ2万に対して教職員の数はおよそ5,000。
最高の講師陣をそろえた大学の授業。
中でも「スーパービジョン」と呼ばれる少人数・対話形式が特徴です。
そんなケンブリッジで今注目を集めているのが…サッカー好きで冗談好きイギリス人男性。
マーティン博士の専門はフランス哲学と文学。
サルトルを中心とした人間の実在を思考の中心に置く「実存主義」が研究のテーマ。
難解な哲学的観念を身近な実例に置き換えた講義は学生たちに大人気です。
私は毎日の日常は哲学にあふれていると思います。
私は「哲学は役に立たない」「机上の空論」「学者だけのもの」という考え方から離れて哲学は実践的で日常の経験を理解するために役立つ学問なんだと言いたいのです。
マーティン博士が贈る「ケンブリッジ白熱教室」。
哲学が扱う問題は人間の心理にも関連する。
だから哲学は心理学ともつながりが深いのだ。
大胆な仮説や奇抜な思考実験を駆使して現代人が心の中に抱えるさまざまな悩みや矛盾の解決方法を探る「実践的フランス哲学講座」。
第1回の「ベッカム実存主義」ではマーティン博士が考えたサッカー選手ベッカムがパリ生活の中で哲学的な考察を行う架空のブログを題材に講義を行いました。
アレックス・ファーガソンはベッカム実存主義者ではない。
ファーガソンは保守的な本質主義者だ。
ベッカムを「実存主義者」ベッカムの師匠とも言えるファーガソン監督を「本質主義者」と見立てた思考実験を行い自分自身を主体として変化や多様性を認める実存主義的な生き方を学びました。
第2回の「美と醜悪の現象学」では…。
彼は確かに20世紀の最高のパフォーマーの一人。
どうして彼は自分の外見にそんなに不安を抱くのか。
世界的なポップスターマイケル・ジャクソンの美に対する執着と苦悩について考察。
美は世界の人々に付きまとう亡霊だが決して実現されないもののままだ。
古代ギリシャのプラトンや自分の容姿に強いコンプレックスを抱いていたサルトルの哲学を用いて人間には「理想の形」というものが存在しない事「美」は人間を超越した状態だという考え方を講義しました。
第3回の「FBI対フランス哲学者」では…。
時々アメリカから大きな資料の包みが送られてくるのだが大きな文字で「FBI連邦捜査局」と刻印されている。
マーティン博士が入手したFBI捜査資料をもとにサルトルとカミュの2人を徹底分析。
第2次大戦後個人の存在にこだわり続けたカミュ。
そして実存主義を社会や共同体にまで広げたサルトル。
2人の変遷と対立について語りました。
第4回は「哲学的幸福論」。
私たちはなぜ不幸だと感じるのか。
幸せはどこにあるのか。
実存主義だけでなく現代科学や哲学の知見を駆使してその答えを探します。
(拍手)今朝ここに来る時19世紀の偉大なフランスの詩人ボードレールが言った事について考えていた。
彼の言った事はこれだ。
「世界は巨大な病院でそこにいる患者は皆ベッドを替えたがっている」。
これが面白いのはそれが本当だと気付いたところでベッドを替えたいと願うのをやめはしないという事。
なぜなら私たちはそれほど根本的に自分たちの人生に不満だからだ。
これは私がどうしてフランス哲学に興味を持つようになったかを説明している。
またどうして私がハワイでユートピア的な青年期を過ごす事になったかを説明している。
ここからは本当の話だ。
オアフ島で私は偶然精神科医に出会った。
彼女は私がどこから来たのかと尋ねたので「イギリスです」と答えた。
すると彼女は言う。
「あなたはとても幸運な人」。
私は思った。
「それはばかげている。
ハワイは世界で最高の場所。
あなたが私を幸運だと言う意味が分からない」。
すると彼女は言う。
「なぜならイギリスではあなたが惨めでも誰もそれを気にしないから。
イギリスでは惨めである事を期待されている」。
彼女は自分がうつ病の専門家である事を説明してくれた。
それで私は言った。
「そんなはずがない。
ハワイで鬱になる人がいるんですか?」。
でもそれは私の無知だった。
「この島は『幸福の島』『アロハの島』では?」。
そして彼女は私に3つの事を指摘した。
1つ目。
ハワイでは世界の他のどの場所とも同じ比率の人がうつ状態である。
2つ目。
ハワイの問題は幸福である事を期待されている。
だから鬱になった時ただ鬱になるだけではなく鬱になる事に罪を感じるのだ。
だから二重に打撃を受ける事になる。
そして彼女が指摘する3つ目の点はハワイは正確に言うとアメリカだから鬱になり罪を感じ更に豊かなはずの時にもお金がないとなると3重の打撃を受ける。
彼女はこう結論づける。
「ハワイは本当に最低な場所」。
フロイトも「ハワイは最低」とは言わなかったものの似たような事を言っている。
「文明とその不満」の中でフロイトが言うには私たちが根本的に惨めなのには3つの理由がある。
精神分析の創始者で独自の神経症治療をはじめ無意識と性的衝動を重視した精神分析学を確立。
文学や芸術の領域にも大きな影響を与えました。
フロイトの3つの理由を言う前になぜ私たちがこんなにも根本的に惨めなのかという理由を1つ挙げてくれないか?「講義に行かなければならないからです」とは言わないでほしい。
恐らく人間の性質の一部なのではないでしょうか。
何かうまくいかない事がなければならないと思う事です。
自ら望んでいる?そのとおりです。
劇的な事があった方が面白くなるからです。
そうに違いない。
はいクリスどうぞ。
私たちは強い願望を持っていて更なるものを成し遂げたいと思うからです。
だとすると決して到達する事ができないために欲求不満になるという事か。
そうだ精神的なゴールがいつも動いているから。
両方の意見が正しいに違いない。
恐らくフロイトの3つの理由の底にあるものだと思う。
その3つとは…。
これがフロイトが文明の失敗を責める理由だ。
1つ目は「宗教」。
なぜなら宗教は「天国がどこかにある」という可能性を設定するから。
2つ目は奇妙にも「発見の航海」。
後で話をするが18世紀の大航海時代それは「地球上に天国がある」という非現実的な期待を提示したから。
そして彼の3つ目の理由はとても面白い。
フロイトが思いついた3つ目の理由を知っている人はいるか?よし3つ目の理由。
これは驚くべき事に自己批判的だが「フロイトの精神分析学」そのもの。
それが責めるべきものだ。
なぜなら精神分析学は全てを治す事ができる事を示唆するからだ。
もちろん私たちは幼少期のトラウマなどを持っているが精神分析学者が治してくれるから心配しないという事。
だからフロイトは実は反フロイト派だと言える。
私は4つ目の理由を加えたい。
それが「違法な薬物」。
私たちはどこかにハイなものが存在していると思うから気持ちが沈んでいるように感じる。
私の考えではフランス哲学はこの解毒剤だ。
フランス哲学は私たちがなぜそんなにも惨めなのかを理解させてくれる。
また私たちを惨めすぎるところから解放する。
簡単に言えば不快だと感じる事をどうすれば快く感じられるかを教えてくれる。
惨めな事に対する罪の意識をそれほど抱かなくてもよくなる。
フランス哲学は日本人が「悟り」と呼ぶものを与えてくれる。
私が60年代を覚えている年齢だと言っても驚かないだろう。
自由恋愛超越の内在幻覚物質の広がり。
実は私は1760年代の話をしている。
個人そして社会の自由化が躍進した時代。
幸福は到達できるもので実際18世紀の後半に既に達成されていた。
フロイトが指摘するように私たちイギリス側を代表するジェームズ・クック船長が関わった偉大な発見の航海の中ででも忘れてはいけないもう一人のすばらしい船長ブーガンヴィル。
1771年に出版された「世界周航記」の中で「ポリネシアの天国」が海のかなたに実在するという印象を与え大きな反響を呼びました。
「世界周航記」によると彼の世界一周の旅はフランス帝国拡大や発見といった政治的理論とはあまり関係なくむしろ幸福の追求のためだったようである。
そして幸福は特に太平洋の楽園タヒチで実際に発見された。
ブーガンヴィルは2つの事を強調する。
一つはタヒチ人は快適で満足した生活を送っていてそれほど激しく働かなくてもよい。
彼はこれを奇跡のように感じた。
2つ目はみんながブーガンヴィルやクルーの気を引こうと言い寄ってくる事。
特に半分裸のタヒチ人女性たち。
でも男性も寄ってくる。
でも彼が驚いたのは女性が…概してフランス人船乗りたちは世界のどこに行っても女性を口説いていたという背景があるがブーガンヴィルいわく女性たちの方からフランス人船乗りたちを口説いてくるのは革命のようでこれが初めてだった。
それで彼は南半球では何かが逆転しているに違いないと思った。
ブーガンヴィルは幸福自体の追求を始めただけではなく幸福は単に追求されるだけのものではなく手に入れられるものだという考えを確かに発展させる。
幸福はまさに南半球にあって実現されている。
南のものを北へ輸送すればいいだけの問題だ。
フロイトは自分の理論を確立する際に18世紀の世界地図特に北と南の分断を人間精神の地図に無意識的に置き換えたと考える人もいるかもしれない。
つまり全ての楽しい事は南半球にある。
これはフロイトが「喜びの原理」と呼ぶものだ。
一方北半球は彼が「現実の原理」と呼ぶものがよく投影されていて快楽主義的で野性的な自己を抑制する。
私たちはこの物語には付随する結果がある事を知っている。
いくつかの名前に言及したいと思う。
一人はほとんど知られていない人物だが私の古い友人テッド・ディーハースト。
ちなみに彼は時々「ボード上の貴族」として知られている。
なぜなら彼は子爵だったからだ。
でも彼は封建的なもの貴族社会などを捨ててサーフィンをしにハワイに移り住んだ。
彼はハワイに行って暮らしそして最後にはそこで死んだ。
彼はアメリカ人とのハーフでもあった。
だからこれは彼の個人的な独立宣言でもあった。
よしもっと有名な人で言うとポール・ゴーギャンだと思う。
19世紀のフランスの画家ポール・ゴーギャン。
西洋文明に絶望したゴーギャンは楽園を求め南太平洋にあるフランス領の島タヒチに渡り数々の傑作を生み出しました。
北半球特にフランスに失望して19世紀の終わりに南に行きすばらしいタヒチやタヒチ人の絵画を生み出した。
私たちは幸福の理論がフランス革命に影響を与えた事を知っている。
例を挙げてみたい。
詩人カミーユ・デムーランは刑を言い渡され断頭台に上がる。
正確に言えばタヒチを夢みながら。
革命派のジャーナリストで政治家でもあったカミーユ・デムーラン。
1794年革命政権の恐怖政治を終焉させようとして体制側に告発され投獄後処刑されました。
これは彼が処刑場へと連れていかれる直前に牢獄で書いた最後の作品だ。
簡単に訳すと「私は詩を書くために不運に立ち向かうためにあなたを幸せにするためにあなたの母親と私の父親と数人の気の合う者たちを幸せにするためにそしてここフランスにタヒチを作り出すために生まれた」。
君たちは自問するかもしれない。
ゴーギャン私の古い友人テッドそしてデムーラン。
彼らの中に幸福に到達した人はいるのか?多分。
でもそれは短い間だっただろう。
よしここまでについて質問はある?幸福を本当に体験したある人物の特定の例を見ていく前に。
ここまでのところはほとんど理解できたか?あるいはここまでのところで特に質問はあるかな?どうぞ。
もし北の道徳観念が多文化の相互連結によると考えるならつまり私たちがたくさんの異なる文化を見る事ができる一方で1770年代のタヒチ人はそれまで他の文化圏の人に会った事がありませんでした。
だから幸福の概念は多数のものの統合ではなく小さな集団の概念に基づくものなのではないでしょうか?面白い。
確かにそれはありうる。
どこかで触れるつもりだが幸福についての一つの理論でコミュニティー全体にわたる類似性や調和を扱うものがある。
そこでの考えはそのコミュニティーは私たち自身のグローバル文化の混合に反して比較的分化されていないものだ。
確かに君の理論は非常にもっともな理論だと思う。
サルトルの「地獄とは他人のことである」という意味で考える事は別としてデュルケムが面白い事を言っている。
デュルケムはこう言う。
「世界には言うまでもなくたくさんの犯罪がある」。
そして犯罪は幸福あるいは幸福の欠落に関係のあるものだが彼は言う。
「よし聖人たちの社会を想像してみよう」。
もし「原始的な」という言葉を使う事ができるなら…。
よし君がそこで仮定しているようなコミュニティーの事だ。
でも聖人たちの社会について考えてみようとデュルケムは言う。
「そのコミュニティーでは今私たちにあるのと全く同じ比率の犯罪が起こるだろう。
基準が上がるために人々はそこでも必然的に規範から逸脱しようとする。
したがって罰を受ける事になるからだ」。
私は調和的で原始的なコミュニティーというものが恐らくどこかに存在すると想像したいが私たちは常にその中間的な混合状態にあってそれは非常に不満足で私たちはそれを直さなければと思い続けるのかもしれない。
クリスどうぞ。
はい僕は「隣の芝はいつも青い」と言おうと思っていました。
そしてそれは無知が幸福をもたらし知がその反対なのかという議論を持ち出すと思います。
そうだ。
隣の芝はいつも青い。
それはとてももっともな理論だ。
ここで1776年のブーガンヴィルとタヒチの場合に焦点を当ててみる。
よし先ほど見た絵を思い出してほしい。
これには間違った表現があると思うがそれについてなされたさまざまな説明から私が驚くのはたとえさっき言ったようにこれが比較的安定した比較的分化されていない元来のコミュニティーで彼らが幸福だと仮定してみよう。
彼らは「隣の芝は青いのでは」とは思っていないと仮定する。
でも現実はどこからか船が現れるとすぐにみんなが「わあ他の人たちが何をやっているかを見に行ってみよう」となる。
だからもし彼らが本当にコミュニティーに満足しているなら彼らに船は必要ないはずだ。
これは実際私たちがどこかで混じり合う事を熱望している事を示していると思う。
幸福は不思議な事にナポレオンによっても取り上げられている。
ナポレオンはフランス皇帝であり彼がしたいようにすれば何にでもなれた。
でも彼は最初から皇帝だったわけではない。
彼は初めルソーを手本にして作家になろうとしていた。
驚くかもしれないが彼の最初の随筆の一つは実際に幸福をテーマとしていた。
その作品は後に彼の秘書によって「賞を受賞した随筆」と表現された。
実際は賞の受賞には全く及ばずに終わったのだが。
君たちも恐らく知っていると思うがルソーは懸賞論文に応募し1等を受賞する事でキャリアをスタートさせた。
最初の対話篇「学問芸術論」だ。
だからナポレオンはこの懸賞論文の広告を見た時こう感じた。
「よしルソーができるなら私にもできるはずだ」。
それで辛口の批評を受けた。
「非常に明白な夢」と書かれた。
これは恐らくその時点で非常に優れたものだとは思わなかったという事だと思う。
ナポレオンは非常に不快に思った。
それでそのかわりに皇帝になる事に決めた。
だから私は学生の小論文にコメントを書く時いつも躊躇する。
もし否定的な事を書いたらどこかに行って皇帝になってしまうかもしれない。
でもそのうち「最も明白な夢」と書いてみよう。
それが君たちにどんな事を引き起こすか見てみるために。
とにかくナポレオンの革命後の自由化の理論が幸福の増大を約束している事は明らかだ。
フランス帝国が実際に幸福に関する約束を果たしているという事に納得していなかった人物がいる。
とても勇敢な思想家シャルル・フーリエだ。
自給自足の理想的生活を行う共同体「ファランステール」を基本とした共産主義を提唱。
彼は19世紀初頭状況をどのように改善すべきか彼の理論を述べた手紙をナポレオンに宛てて書いた。
「あまりうまくいっていない。
だから私はあなたがこうすべきだと思う」とナポレオンに言ったわけだがそれに対して感謝される事はなかった。
フーリエは「ファランステールの理論」を思いつく。
「文明の何がいけないのか」とフロイトが問う。
答えは「私たちには幸福がありすぎるから」。
私たちは自分たちを少し抑制する必要がある。
だから「昇華の理論」。
ある欲望を他のものに置換する事。
あるいは別のものに向ける事だと説明しよう。
だからナポレオンが失恋していやナポレオンが作家になりたいという欲望に破れてその欲望を「分かった。
ここで帝国を始めようと思う」という事に向ける。
あるいは方向転換するという事だ。
これは恐らく昇華の究極の行動だと思う。
言い換えればあるものを投げ出してそれを埋めるためのよりよいものを考えつく事だ。
でももともとの欲望は諦めなくてはならない。
特に性的欲望。
そして性的欲望を芸術や政治橋の建設などに置き換えるという事だ。
ここで私の友テッドの話に少し戻りたい。
一度彼に昇華の理論の概略を説明した事がある。
そしてその理論がいかに良い理論かを提示した。
なぜなら彼はある時欲求不満を感じていたから。
それに対して彼が何と言ったかを覚えている。
彼は言った。
「ノー」。
彼は今まで昇華の理論に出会った事はなかった。
彼は注意深く聞いてからこう言った。
「ノーだ。
それはやってみた。
でもうまくいかない。
私は自分の欲望を昇華させるのではなく自分の欲望を満たしたい」。
だからテッドはフロイトではなくもっとずっとシャルル・フーリエのようだった。
なぜならフーリエは言う。
「文明の主な問題は全ての人が欲求不満である事だ。
彼らの情熱は満たされていない」。
「全く満足が得られない」というのがごく普通の事になっている。
それに対するフーリエの解決法は「それなら満足を得てみろ」というものだ。
ファランステールは未来のものですばらしいユートピア的コミュニティー。
恐らく君たちが空想していたようなヨーロッパ人が現れて台なしにしてしまう前にタヒチに存在していたようなもの。
仕事は楽しみに変わり海はレモネードに変わる。
これはフーリエの奇抜な考えの一つだが。
そしてそこには常にセックスがある。
「幸福」は長い間フランスにおいて特に性的な意味を持っていた。
でも重要なのは革命後のフランスにおいて全ての人が幸せになるはずだった。
そしてその幸福は常に続いていなければならない。
いらだちや不満が時々介入してくるような隙間を残してはいけない。
それは災いのもとである。
フーリエもまた同世紀の少しあとにゴーギャンがやるようにタヒチとブーガンヴィルから着想を得ている。
フーリエはこう書いている。
「愛はこの惑星の残りのどの場所でよりタヒチの小さな島で最大の進化を遂げてきた」。
ファランステールについてフーリエはすばらしく詳細な説明を与えている。
例えば全ての人に良い食べ物が与えられなければいけない。
だからフーリエは料理オリンピックのようなものが未来に起こると思い描く。
そして彼は似たようなものがセックスのオリンピックという形で4年に1度ではなくファランステールにおいては毎晩行われる事を構想する。
これはフーリエの偉大な作品「愛の新世界」の中でも述べられている。
彼が「調和」と呼ぶすばらしい未来の時代。
そこで彼は大量姦通公開乱交緊急時の性的出動サービスを想像する。
誰かが満足できずに絶望的になっている時のための緊急出動だ。
その信じられないような性的ユートピアに関して非常に面白い事の一つはフーリエがそれを「ミニマム」「最低限」と表現している事だ。
私がまず思ったのは「なんて事だ。
では『マキシマム』『最大限』は何なんだ?どうしてそんな時間があるのかどうやって他の事をやるのか」。
これがフロイトの言わんとする事だ。
昇華はどこにあるのか。
どうやって他の事を達成するのか。
でも重要なのはすばらしい機械のように永遠の幸福機械を動かし続けなければいけない。
飽和するまで満足するまで隙間や休憩なしに動かし続けなければいけない事だ。
ワーズワースの「不死の暗示」を引用すれば「満ち足りている事」。
ワーズワースの良い表現「満ち足りた至福」。
これがファランステールが生み出さなければならないものだ。
ファランステールは大量の嫉妬を生み出す事はないのですか?「大量の嫉妬」それは面白い。
もしみんなが最高のものになろうとしたら敗者には何が起こるでしょう?ああ銀や銅メダルの人?全くメダルを取れない人です。
金を目指して懸命に競争しなければいけないという事か。
う〜んこれはとても面白い質問だと思う。
だから恐らくフーリエの理論は実際には意味をなさないわけだ。
更に不幸と嫉妬の歴史は19世紀の作家たちのテーマにされている。
フランスの文脈で言えば「悲嘆小説」とでも呼ぶべきものとして最もよく知られているのが1857年に書かれた「ボヴァリー夫人」。
でも私がここで言及したいのはトルストイのもう少しあとの小説「アンナ・カレーニナ」だ。
この作品は冒険心の強い女性がフーリエの言うような「魅惑され満たされた状態」の夢を持って若くして人生を終える話だ。
トルストイの冒頭の一文は今から引用するが恐らくそれなりになじみがあると思う。
「幸福な家庭はどれも似たものだが不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」。
これはどういう意味か。
幸福は抽象理論であるが一方で不幸は何か現実的で特定のもので作家がそれについて書く事ができるという意味だと思う。
不幸は模倣現実主義に属するものだが幸福はユートピア哲学者たちだけのものだ。
ならば一体誰が私たちを救う事ができるのか?マイケル・ジャクソンが哀れな声で尋ねるように。
恐らく誰でもない。
だが私は新実存主義の二元的実践は少なくとも私たち自身の精神疾患に洞察を与えてくれると考えたい。
答えはサルトルの「即自対自存在」の分析そしてカミュの「不条理の理論」の中にあると思う。
彼らの説明が意味を成すようにするためにある特定の現代神経認識科学を利用して考えてみたい。
まず君たちに2つの事を尋ねてみたい。
なぜ私たちにはデジャビュがあるのか。
もう一つは足のフェティシズム。
私はこの2つの現象が説明を与えてくれる事を願っている。
よしデジャビュ。
君たちは何かを以前見た事があるという感覚を持った事があるか?例えばある家に行って過去に訪れた事はないはずなのに何か薄気味悪いとてもよく知っているもののような感じがする。
君たちはみんな経験があるに違いない。
誰か説明してくれないか?なぜならデジャビュには完全に信じられるあるいは証明できるような説明がないのではないかと思うから。
どうぞ。
時間と空間は流体のようなものです。
私たちの潜在意識が気付かないうちにその流体を通って今までに行った事のある場所にたどりつくのです。
なるほど。
とてもいい説明だ。
だからこれはいわば魂あるいは精神あるいは肉体から離脱した自己が時間を自由に動き回って空間を自由に動き回っていて組織化されてはいないが連続性がある。
よしこれはすばらしい。
他の理論はあるかな?よく分かりませんが私に起こるデジャビュはずっと昔にどこかに行った事があるように感じるようなものです。
前世の生まれ変わり説?いいえ。
君の理論は実際に君は過去のどこかの時点でその場所にいたのにそこにいた事を忘れてしまったという事?恐らく。
それは精神のトリックのようなものだと思います。
よく分かりませんが異なる場所からの異なる要素の組み合わせが一つのものとなって現れているのではないでしょうか。
はいクリスどうぞ。
僕もその意見に同意します。
なぜなら私たちの脳は美的に心地よいものに惹かれます。
無意識の中で僕たちはこれらの画像を作り出しそしてこれらの画像が現実に再現された時つまり頭の中で作り出された像に一致する家を見た時過去に見たものを思い出したと思わせるのだと思います。
なるほど。
それはいい。
だから私たちはこの先行する画像をいつも持っているという事か。
これはとてもプラトン的な考え方ではないか?なぜならプラトンはもし家の先行する像つまり理想形を持っていなければそれが家だとどうやって理解できるのかと言っている。
だから理解する前に家の知覚を家の認知的地図と比較している。
通常これらの2つのものは一致する。
でもデジャビュの場合君は「ああ」と言う事になる。
通常デジャビュにはならずにこれら2つのものが一致するがそれが分離してデジャビュの瞬間2つのものが少しずれている状態になる。
だから現実と非現実の感覚を同時に持つ事になるのだと思う。
ここにもっとつまらない説明があるがそれでも私は気に入っている。
これがもっともな理論かどうかはよく分からないが。
ある情報処理と関係している。
そうだ時々デュアルプロセス認知と言われる。
これはよく知られたダニエル・カーネマンの著書「ファスト&スロー」からだ。
「ファスト&スロー」は人間の意思決定システムから経済学までを網羅した代表作です。
彼の説明は「前にここに来た事があるか?」。
この本屋カフェーホテルこの場所に?「イエス」私は自分にそう言うかもしれない。
ほんの数ナノ秒前私が最初にこの部屋がどんな場所かを調べていた時に。
比較的組織化されていない自発的なやり方で情報を処理していた時に。
第2の段階はもちろん私たちの日常の知覚だ。
「ああ私は部屋に歩いて入った。
家に歩いて入った。
この人に会った」それが第2段階だ。
通常私たちは第1の認知の段階を持たない。
時々第1の段階にいくとデジャビュを経験する。
恐らくこれは理想的な精神の状態プラトンやマイケル・ジャクソンが哲学の中で振り返り思い出そうとするものだ。
そしてまたルソーの「自然の状態」でもあるのではないかと思う。
情報処理の最初の形式。
それは組織化されていない状態。
一時的な幻影の状態。
私の古い友人テッドがそれほどにも憧れた状態。
ここで足のフェティシズムの問題に移ろう。
そうだここで無遠慮にならせてもらう。
他人の爪先を愛する人々がいる。
でもなぜ?これが決定的な問題だ。
一体なぜ彼らはそんなにも爪先に対して熱心になるのか?君は恐らくこれについての理論を持っているだろう。
どうかな?考えはありますがここでは言わない方がいいと思います。
なるほどそれは興味をそそる。
私がもっともらしいと思う理論を挙げよう。
私は偉大な脳の専門家ラマチャンドランに言及したい。
独創的な研究と洞察を発表しています。
彼はこの問題に関するすばらしい答えを思いついたと思う。
彼は脳が体の地図を持ち歩いていると言う。
でももちろんこの地図は体と同じ構造を持つわけではない。
ちょっと難しいがこの脳内地図では化学的電子的な形式認識的形式において足は生殖器の近くに格納されている。
だからそこにはいわゆる神経交差がある。
あるいは配線の交差があると。
だから私たちは性的特徴づけされた爪先の感覚を持つわけだ。
そしてラマチャンドランは幻肢の現象を持ち出す。
手足が切断されたあとも脳の混同によってまだそこにあるかのように感じる。
脳が理解できていない状態だ。
自分の腕がもがれてしまった事を知っているがまだそこにあるように感じる。
自分の体の認識的地図を持っていてそれが混乱させているからだ。
これを単純に「混乱」あるいは「混とん」と呼ぶ事もできる。
でもこの状態から私たちは「融合」や「調和」の観念もまた引き出せると思う。
そしてこれは私たちがすがり続ける事のできない維持する事ができない状態だ。
そして恐らく感情移入と自閉症の違いについて議論する事もできる。
ここで私は心理学者サイモン・バロン=コーエンが生後1日の乳児たちに対して行った非常に面白い実験に言及したい。
ケンブリッジ大学サイモン・バロン=コーエン教授。
この実験は魅力的な女性の大学院生によって行われた。
乳児は大学院生の顔を見る選択肢を与えられた。
あるいはここにとても面白いものがある。
ひもにぶら下がって回っているおもちゃがある。
無機的な動きをしていて魅力的な院生とは反対に機械的なもの。
その選択をする事ができる。
それで彼らは何人の子供が大学院生の顔を見て何人の子供がおもちゃを見たかを書き留めていった。
統計の数値には詳しく触れないが彼の主な推測は男の子はおもちゃを見る傾向があり女の子は顔を見る傾向があるというものだった。
彼の理論の一部は性別による違い。
私は次の彼の考えは面白いと思う。
彼が主張するのは性差を越える人がいて彼はそれを「体系化する人」「感情移入する人」と呼ぶ。
私がこの実験で問題だと思うのはもし私が子供でベビーベッドに横たわる生後1日の乳児の立場にいると考えたら私はこう言うだろう。
「両方とる事はできないの?魅力的な学生とおもちゃ両方とる事はできないの?彼女を見ている間におもちゃで遊んでもいい?」。
これに何の問題があるというのか?これまでの講義でも触れたがどのように「脱構築」という言葉が生まれたのか?もちろん偉大なジャック・デリダの発明。
1960年代後半から70年代にかけてフランスで誕生したポスト構造主義の哲学者。
「私たちの哲学の営みそのものが常に古い構造を破壊し新たな構造を生成している」という「脱構築」の概念を提唱しました。
デリダは文章の中の神髄を拾い出すのが非常にうまい。
対立その核にある分離的差異。
これが彼のやる事だ。
この簡単な例。
誰か彼のニーチェについての随筆を知っているかな?彼はとても不思議な奇妙なそして面白いものを選ぶ。
それはニーチェのノートの端に書かれていたものだったと思う。
ニーチェはこう書いている。
「私は傘を無くした」。
そしてその奇妙で重要とは思えない文章からデリダは彼の哲学全体を導く。
これができるのはすばらしい事だ。
物事がうまくいっているように見える時それは哲学ではない。
何かがうまくいかなくなる時こそが哲学だ。
そして何かを無くしてそこにあってほしいものが無い時。
それが哲学が最もその姿をあらわにしている時だ。
なぜなら機械がうまく機能していないから。
そしてこれは先日私が重要な会議へと急いでいた時に起こった事を考えさせる。
自転車のチェーンが外れてしまったのだ。
これは私に現代コンピューティングの父アラン・チューリングの事を思い出させた。
彼もケンブリッジで私の自転車に似たよく壊れる自転車に乗っていた。
「人工知能の父」と呼ばれるイギリスの数学者アラン・チューリング。
計算機科学の発展に大きな影響を及ぼしコンピューターの誕生に重要な役割を果たしました。
彼が書いた人工知能についての「イミテーション・ゲーム」は君たちも読んだ事があるに違いない。
人間と機械を対抗させる思考実験。
彼の偉大な論文を読んだ事があるかな?その中で彼は「コンピューターと人間の違いを言う事ができるか?」と問う。
彼が1950年代にこの論文を書いた時人間と機械の違いを言うのは実際とても簡単だったが今はもっともっと難しい。
そして彼は当時既にこの区別をするのがどんどん難しくなると言っていた。
恐らく人間と機械を区別するのは不可能になると。
現代のフランス人哲学者ベルナール・スティグレールが「技術」の話をする時SFの父ジュール・ヴェルヌが作り出した小説「海底二万里」の登場人物ネモ船長の事を考える。
自分の快適な潜水艦ノーチラス号の中にいる。
著書「技術と時間」では人間の生み出した技術がつくり出した時間とその時間に支配される人間を描き出しています。
潜水艦の中には人間と機械があってスティグレールならば人間と機械は分解できないと言う。
そして人間と機械は世界の他の部分から切り離されている。
私たちは機械の窓から世界を観察しているのだ。
チューリングが人間と機械を比較して2つの違いを区別する事が不可能になると言う時それは人間は既に機械的なチェーンがかかったり外れたりするものを含んでいるからだ。
故障あるいはサーフィン用語ではワイプアウト転倒への必然的な傾向を持っている。
次は偉大な人類学者クロード・レヴィ=ストロース。
代表的な概念の一つ「料理の三角形」では「生のもの」「調理したもの」「腐ったもの」の3つの頂点を設定し複雑な社会現象の基礎となる構造を研究しました。
彼のすばらしい「料理の三角形」の中で「生のもの」と「調理されたもの」について話している。
私はレヴィ=ストロースが主張した事をやってみるがこれらの言葉をもともとの文脈から剥がして使う。
最初に私たちは20世紀のフランス哲学的思想の歴史の中に実存主義的思考と構造主義自体の間の違いを見る事ができる。
知的歴史におけるこれらの象徴的な瞬間を生のものと調理されたものという言葉に当てはめてみると生のものの実存主義から調理された構造主義へ。
脱構築は2つの違いが分けられたあとに出てきたものだが即自存在の周りで踊っている対自存在の壮観を風刺している。
レヴィ=ストロースの「料理の三角形」とは「生のもの」生のものに手を加えて変化した「調理したもの」生のものが自然に変化した「腐ったもの」の3つを頂点とする三角形を社会や文化の考察に用いる方法論の一つ。
マーティン博士はこの料理の三角形に実存主義を「生のもの」構造主義を「調理したもの」と置き換える事で共に人間や社会を考察する「実存主義」と「構造主義」の密接な関係性を指摘しています。
生のものと調理されたものの間のどこかに私たちの持つ2つの情報処理システムがある。
そして不安不条理な自己脱構築不幸嫉妬がそのギャップを埋める事になる。
新実存主義について私がすばらしいと思うのはこれが失敗の哲学だからだ。
「うまく失敗しなさい」。
成功は単なる慣習の順守の中でやっている事にすぎないと新実存主義者は言うだろう。
これはカミュが「反抗」という言葉を使う時に指しているものだと思う。
彼は逸脱性を受け入れる事を意味している。
2つの例を紹介しよう。
ブリジット・バルドー。
私はバルドーが大好きだ。
理由の一つには彼女は彼女についてボーヴォワールが書いたすばらしい随筆「ロリータ症候群」を笑ったから。
バルドーは「ロリータ症候群」を実際に読んでそれを笑って捨てた。
恐らく「真実」であるべきだという要求のせいだと思う。
バルドーは動物愛護のために映画を諦めた。
彼女はそうやって自分自身の神話から逃れたんだ。
そして2つ目の例は私の古い友人テッド。
彼は転倒の芸術を極めた。
サーフィンは存在が不安定である事を証明するという意味で実質的に脱構築と同等だと思う。
そしてテッドは偉大な18世紀の航海者たちとは違ってサーフィンが必ずしも精神の動揺の癒やしにはならない事を発見した。
私が実証してきた幸福というのは抽象的で手に入れられないものだ。
むしろプラトンの理想形真善美の理論のように地球上に存在しない理想的な状態。
私が何かについて不平を言っていた時古い心理学者の友人が私に言った事がある。
確か仕事が忙しすぎたのだったと思う。
その時の彼の言葉はこうだ。
「痛みを楽しめ。
それがそこにある全てだ」。
私の心理学者の友人がこの言葉で言おうとしていた事は私たちはこれらの命令から自分を解放する必要があるという事だ。
私たちの人生を支配する規範要求幸福でなければならないこの不可能な理想的状態に到達しなければならないという要求からの解放。
私たちをこんなに惨めにしているのはこれらの理想的状態だ。
なぜなら私たちはそれを手に入れる事はできないからだ。
私たちは理想的な認知的地図と二級品である日常経験の間の不一致に苦しんでいる。
テッドにささげる意味を込めてサーフボードを取り出してみたい。
私はテッドをここで象徴するためにこのサーフボードを使っている。
死んだテッドは今日ここに私たちと一緒にいる事はできない。
このサーフボードの形で「もの」として姿を持つ事を除いては。
だから私はこのサーフボードをテッドだと考えたい。
でも私はこの授業の最後に私のお気に入りの2人の哲学者サルトルとカミュに戻る事にしたい。
2人はサーフボードにうまく象徴されていると思う。
私がテッドを象徴するために使っているこのサーフボードの中で二元的実践が起こっている。
これがサルトルでこちらがカミュだと考えたい。
少なくともこのサーフボード上では二元的実践のダンスの中で2人はつながれている。
その一つは不可能な単一性を達成しようと努力しもう一方は差異と多様性を探しているのだ。
でも最後にこれが美しいところだが今回うまく論証できているとよいが二元的実践は君たちが実際に理解しなければならないようなものではない。
君たちはそれをここに見る事ができそれになる事もできる。
ここで終わりにしよう。
どうもありがとう。
(拍手)2014/10/31(金) 23:00〜23:55
NHKEテレ1大阪
ケンブリッジ白熱教室 第4回「フランス哲学的幸福論」[二][字]
ケンブリッジ大学のアンディ・マーティン博士がおくる実存主義講座。現役大学生たちを相手に大胆な仮説や思考実験を駆使して、現代人の悩みや矛盾の解決方法を探ります。
詳細情報
番組内容
1209年創立、長い歴史と伝統を誇る世界的な名門ケンブリッジ大学で、いま注目を集めているアンディ・マーティン博士の特別授業。第4回の「フランス哲学的幸福論」では、マーティン博士は、実存主義だけでなく、南太平洋の楽園タヒチに理想郷を求めた画家ゴーギャンや探検家ブーガンヴィル、さらに、ジャック・デリダなど現代の哲学や最新の科学、社会学・人類学など多様な知見を駆使して、答えを探します。
出演者
【出演】ケンブリッジ大学フランス学部講師…アンディ・マーティン,【声】斉藤茂一,杉山奈美枝,南雲大輔,渡部紗弓
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
趣味/教育 – その他
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