東京で勉強したかったです。
東京で勉強がしたかったです。
電気つかないし水道もガスもつかないんで何ていうんですか…。
東日本大震災で被災した若者達の教育支援をしています
遠い昔飯沼さんの祖父もまたこの若者達と同じように学ぶ機会を与えられました
幕末から明治へ激動の時代を生きた祖父の名は飯沼貞吉
今の福島県会津藩の少年兵白虎隊士でした
白虎隊は集団自決をしたことで知られていますが喉を突いた貞吉だけが自決に失敗
一人生き残ってしまいました
しかしその後ひたすら学問に打ち込むことで生きる道を見つけたのです
その様子がなぜか会津の敵である長州で脈々と語り継がれていました
「貞命を大事にせぇよ。
そしてしっかり勉強せぇ」。
その話を黙〜って聞いていた貞さぁはまるで生まれ変わったように一心不乱に勉強した。
145年の時を超える息遣いをたどります
長州藩今の山口県は薩摩藩と共に倒幕を果たし新しく明治政府を樹立して行きます
長州藩を軸とする新政府軍と会津藩率いる旧幕府側の勢力が各地で戦った戊辰戦争
最終的に新政府軍が勝ち明治国家が確立されることになりました
白虎隊の悲劇を生んだ会津では多くの血が流れました
東京に住む飯沼さん
死ねなかった祖父のことで肩身の狭い思いをして来たといいます
飯沼家では代々白虎隊の話は一切タブーでした
しかし6年ほど前からそのタブーを破って白虎隊について調べ始めました
実家から祖父の手記が見つかったのがきっかけでした
調べて行くとこれまでの通説にある疑問が湧いて来たのです
(飯沼さん)可能な限り史実に近いことは…。
…ということをまずははっきり整理したいということがありますね。
戊辰戦争の終盤追い詰められた会津藩は予備隊であった15〜16歳の白虎隊もやむなく戦地へ送り出します
そして集団自決という悲劇が生まれました
通説はこうです
炎に包まれる会津の城下を見た少年達はお城が落ちたと錯覚しけなげにもお殿様の後を追って衝動的に命を絶った
しかしただ一人真実を知る貞吉の手記には全く違うことが書かれていたのです
『白虎隊顛末略記』
貞吉が語ったことを別の人物が書き記しさらに貞吉自身が細かく修正を加えたものです
少年達の自決は衝動的ではないと記されていたのです
「決して城は落ちてはいない戻って戦うべき」
「いや敵軍を突き倒すべき」
甲は怒り乙はののしり激論を交わしました
その結果集団自決自刃の道を選んだのは武士の本分を明らかにするためだったと記されていました
会津藩は教育を大切にした藩でした
白虎隊をはじめ武士の子は文武両道に励みました
白虎隊が集団自決をした飯盛山です
この春飯沼さんは家族を連れてやって来ました
息子達は幼い頃以来
孫達は初めてです
遠いあの日会津城下を望むこの場所で白虎隊士達は若い命を絶ちました
飯沼貞吉もここにいました
大事なことはねこっから見てね…。
殿様も亡くなったと…。
それで…。
(飯沼さん)お城が燃えてるように見えたと。
周りはみんな火煙の中にあったんですけども…。
実際に白虎隊の集団自決の後も会津藩はひと月の間新政府軍の攻撃に屈しませんでした
(飯沼さん)はいここは十九士のお墓です。
ここにはねひいひいおじいさんはいないんだからね。
飯盛山には集団自決をした者だけでなく戦いで命を落とした同じ隊の仲間も加え19人が一緒に祭られています
この中に飯沼貞吉さんはないんですね。
それは1人だけ生き残ったのでこの19人の中には入ってないんです。
一人だけ自決に失敗
「死に損ない」とまで言われた貞吉
後に名を「貞雄」と改め昭和6年に78歳でその生涯を閉じました
墓は19人とは少し離れた所に建てられたのです
(飯沼さん)この飯沼貞雄の墓っていうのがここに出来たのはね飯沼貞雄が死んでから27年経ってやっと出来たの。
それまではね「会津に来てはいけません」と。
「19人の仲間にすぐ入れるわけにはいかない」と。
一人だけ生き残っちゃったから。
まぁ白虎隊が死んでから90年経った時に初めてここに入れてOKということになったんですね。
会津と長州
戊辰戦争以前から敵対するいわば宿敵でした
負けた会津では今なお長州山口に対してわだかまりが残っています
その長州のことが書かれたある文書が飯沼家に送られて来ました
そこにはとんでもないことが書かれていたのです
祖父貞吉は死に損なっただけでなくその後あろうことか長州にかくまわれていたと
同じ時期に貞吉が別の所で生活をしていましたという証拠を1個見つければですねその怪文書の話っていうのは全部消え去るわけです。
で私一生懸命研究したんですね。
だけど見つからない。
集団自決をした会津白虎隊
喉を突いた飯沼貞吉は一人だけ自決に失敗し虫の息だったところを助けられました
会津で医師の治療を受け傷は奇跡的に回復します
その後新政府軍に捕らわれの身となりました
しかしそれから先孫の飯沼さんがいくら調べても一切記録が残っていない空白の2年間が存在するのです
会津の宿敵長州
山口県美祢市の小杉で昔村の庄屋をしていた高見家にそれはひそかに語り継がれていました
今も盆や正月など親族が集まる場で語るのが習わしです
小雪の今にも舞いそうな寒い日じゃった。
しばらくするとはるか鍵峠ってあそこの道の所のほうからねお殿様の一行がやって来た。
お殿様の馬のくつわ持っている少年がおった。
会津の白虎隊の飯沼貞吉という少年じゃった。
戦争に敗れて飯盛山という所で仲間とみんなで自刃をする。
しかしたった一人生き残ってしまう。
その貞吉さんがここに連れて来られたんだね。
この高見家に。
貞吉を長州へ連れ帰ったお殿様は小杉村をおさめる長州藩士崎頼三
見どころのある貞吉を庄屋の高見家に託します
しかし引き取られてすぐに14歳の貞吉は崎のお殿様を囲むうたげの席で再び死のうとしたのです
そのうたげがだいぶ進んだ頃村人が「お前生きちょってよかったのまぁ一杯飲め」って言ってお酒を勧めようとした。
ところが貞さぁにとってはその「生きちょってよかったの」っていう言葉がとても心に痛くてサッと血相を変えて土間に飛び降りて今にもまた死のうとした。
そのただならぬ様相に崎のお殿様はサッとそこに駆け付けられて「貞こっちへ来い」って別室に連れて行かれた。
そこで懇々と崎のお殿様は貞さぁに諭しをされた。
「今私達の日本の周りには黒船外国の軍艦がうじょうじょしちょるでよ。
いつまでも会津長州っちゅうて戦争しとる場合じゃないぞ。
今から日本人がみんな心を一つにしてこの日本を豊かで強い国にして行かにゃいけんのだ。
ええか?貞そしてそれをする日本の中心はお前達若者なんだ。
貞命を大事にせぇよ。
そしてしっかり勉強せぇ」。
その話を黙〜って聞いていた貞さぁはまるで生まれ変わったように一心不乱に勉強した。
その崎のお殿様頼三さんという方もホントに立派な人やったんやね。
それに応えた貞さぁも素晴らしかった。
その2つをこれからも皆さんがいつまでも受け継いでこの話をね子孫にまで伝えて行ってほしい。
分かりましたか?ええね。
じいちゃんの話は以上で終わりです。
貞吉の身の回りの世話をしたのは高見家の娘1歳年下のフサです
後にフサが子や孫達に話して聞かせたことが脈々と語り継がれて来たのです
貞吉の話をフサから直接聞いたであろう孫の高見三郎は小学校を卒業後炭焼きをしながら独学で教員免許を取得し文部大臣まで上り詰めた人物です
今語り継いでいる吉井さんはそのまた孫の世代
貞吉のことは母親から妹と一緒に何度も聞かされました
あまり私の両親は「頑張らないといけない…」…っていうことはあんまり言わなくって何かほんのりと「こんな人がいらっしゃってすごかったね」…っていう感じが多かったですね。
(吉井さん)「貞吉さんはすごいのう」っていう。
「ホント気の毒じゃったけどよう頑張ってのう立派な人じゃったのう」という話をねよくしてくれておったんですよ。
言外には「お前達も頑張れよ」フフフ…。
そんな雰囲気はいつもありましたけどね。
真っ先に聞いたのはなぜそんなに長い間ですね伝えて来たのですかということなんです。
そしたら回答は単純明快で「それは高見家の誇りだからです」…っていう答えが返って来たんですね。
飯沼さんは言い伝えを聞いて空白の2年間は長州にあったと信じ始めました
そしてある人に手紙を送りました
崎のお殿様の子孫から返事が来ました
驚いたことに貞吉のことは崎家でもひそかに語り継がれて来たといいます
貞吉の母親に密書を出し「息子さんは見どころがあるから長州で養育している」と伝えたこと
また「長州養育の件が会津に知られてはならない長州でも敵を守ったと知られるとまずいので誰にも言ってはならない」ということも
手紙を書いた松葉さんは崎のお殿様の孫の孫玄孫に当たります
幼い頃一緒に暮らしていたひいおばあさんによく聞かされたという松葉さん
ひいおばあさんは崎頼三の一人娘です
(松葉さん)ちょこんって横に座るんです。
「外には言うな」と。
「決して言うな」と。
でも家では「言え」って言うんです代々。
ウフフフ…。
死のうとするところが何度かあったらしいとおばあちゃんが言うんですだけれど「お前な」と。
「生き残ったんじゃない」と。
「死に損ねたんじゃない」「生かされてるんだ」と。
だからそれをね切り替えなさいということで「生かされてるから国のために役に立つような仕事をしろ」と。
「だから勉強しろ」と言ったそうです。
会津藩と同じように長州藩も教育を大切にした藩でした
崎頼三も幼い頃から文武両道に励みました
崎の陣中日記には東京で「書籍を数部手に入れた」とあります
戦争を終え長州へ戻る前の忙しいさなかわざわざ本屋を呼んで貞吉のために買いそろえたと見られます
当時のベストセラーは福沢諭吉の『西洋事情』
最先端の技術であった「電信」電気通信のことが紹介されています
学問に打ち込んだ貞吉は長州を出た後電信の道を歩みました
後に日清戦争では陸軍の技術部総督として朝鮮半島の電信架設という大事業を成し遂げました
飯沼さんは去年から各地で講演活動を始めました
祖父のたどった数奇な運命を多くの人に知ってもらいたいといいます
145年前のことをなぜ語り継いで来たのかということが私には驚きであります。
逆に言うとそこに重要な意味合いがあったんではないか…というふうに思っております。
・皆さん拍手でお迎えください・
この日は貞吉の運命を変えた2人のその子孫が駆け付けてくれました
今一度ご紹介いたします。
向かって私の隣です皆さんから右のほうが飯沼貞吉の直系のお孫さんであります飯沼一元さんです。
(拍手)それから次のご婦人が長州藩士崎頼三の子孫の方で松葉玲子さんです。
(拍手)
飯沼さんはこの機会に2人に伝えたいことがありました
(拍手)
3人そろったのは初めてのこと
話は尽きません
それをマツさんはですねしっかり記憶にとどめて…。
(吉井さん)「それがこの部屋なんよ」って。
自ら…。
(吉井さん)「ここでね貞吉がここからこの土間に飛び降りたんよ」とかね。
祖父は学ぶ機会を与えられ人生を生き抜くことができました
今度は自分が与える側に…
東日本大震災で被災した若者達の教育支援を始めました
(飯沼さん)6月までの奨学金です大事に使ってください。
ありがとうございます。
(拍手)
3か月で15万円の奨学金は返済の必要はありません
単に自分の中にしまっておくだけではなくてですねいろんな被害に遭った方と気持ちを共有していただいて前進していただきたいとこういうふうに思っております。
東北にゆかりのある人を中心に寄付を募り東京でNPO法人を組織しました
将来は地元のために働きたい被災をしてもなお学びたいという大学生7人を見守っています
まっしぐらに走ってほしいと思ってるわけ。
ですから無駄道を通らずにそこにスパっと入ってですね…。
やっぱり電気つかないし水道もガスもつかないんで何ていうんですか…。
公務員だったのでやっぱり…。
カンパイ。
カンパ〜イ。
飯沼さんは幕末に壊滅状態になったかつての会津と東日本大震災の被災地を重ね合わせています
(飯沼さんの声)今回の大震災もですね場所によってはほとんど壊滅的な打撃その中からやっぱり若い人に託すという気持ちは同じだろうと思うんですね。
まぁ昔とは全然時代は変わってしまったんですけども思い入れというのはそこにあるんですね。
幕末から明治そして今も思いは時を超えて息づいています
長年がんと闘い続けている方への言葉の処方箋は「天寿を全うしてがんで死ぬ天寿がんだね」
なるほど。
天寿がんでいけるかなぁ僕も。
2014/09/29(月) 00:50〜01:20
読売テレビ1
NNNドキュメント「会津白虎隊の残映〜思いは時を超えて〜」[字]
戊辰戦争で集団自決をした会津白虎隊。飯沼氏の祖父は一人だけ自決に失敗した。さらにその後、敵である長州で養育されたことを知る。それは山奥で密かに語り継がれていた。
詳細情報
番組内容
東日本大震災で被災した若者たちの教育を支援する飯沼一元さん。その昔、祖父も同じように教育支援を受けたからだ。146年前の戊辰戦争で、祖父は会津藩の白虎隊士として集団自決をした。しかし、一人だけ自決に失敗したのだ。さらに、敵である長州にいたという説を耳にする。飯沼さんは祖父の汚名をそそごうと調査をするうち、祖父は長州で教育の場を与えられていたことを知る。それは長州の山奥で密かに語り継がれていた。
出演者
【ナレーター】
中里雅子
制作
山口放送
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ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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