知人の名前が思い出せない。
通い慣れた道で迷ってしまう。
物忘れや判断力の低下など認知症の症状は時間と共に進行していきます。
近年認知症の早期診断が広がるにしたがいまだ症状の軽い「初期」の段階で診断される人が増えています。
この日「初期認知症」の人たち自身が日頃思い悩んでいる事を語りました。
認知症っていうのを私はいつも言ってるんですけど正しく理解してほしいという事ですね。
認知症だから何もできないわけじゃないんですよ。
そういう事を私は言いたいです。
私は結婚していて子供たちがいて夫もいてっていう家族構成なんですが少しずつ少しずつ何か違和感と何かちょっとした失敗と不安感とが常に常にある状態で本人が日常生活をしていくために必要なサポートのしかたというものを考えなくちゃいけないかなと思います。
現在日本で認知症の人はおよそ500万人。
そのうち160万人以上がいわゆる「初期」の人たちです。
しかし医療にも介護にも助けになる体制がないため「早期診断早期絶望」ともいうべき現実を経験したという声が次々に上がりました。
偏見を恐れ診断された事を周囲に言えない人もいました。
語り始めた初期認知症の人々。
その声にどう応えるのか?海外の先進的取り組みと比較しながら日本の課題を考えます。
イギリス北部スコットランド。
認知症に関する画期的な取り組みで知られています。
国立スターリング大学。
ここで行われる「認知症入門」の授業では認知症の人自身が先生役を務めます。
15年前認知症の初期だと診断されました。
彼こそはスコットランドで認知症への見方を一変させた人物です。
この日の受講者は各地から集まった森林保護官たちです。
森林浴ウオーキングなどに認知症の人に参加してもらう場合注意すべき事は何かジェームズの指導を受けていました。
まず女性と男性は一緒がいいです。
話し相手になりますから。
でも初期の認知症の人と症状が進んだ人とを混ぜるのはやめた方がいいです。
自分もすぐにそうなると思い取り乱しまう事があります。
進行の度合いには気をつけて下さい。
いいですね。
認知症になると家に閉じこもりがちになります。
私も一時期家から一歩も出ないで何も映っていないテレビの前にずっと座っていた事がありました。
しかし一度外に出れば気分が良くなります。
運動するとよく眠れるようになります。
すると家族もよく眠れます。
家族の事を忘れてはいけません。
あなた方はウオーキングが終わればそれまでですが家族はずっと私たちから離れられませんから。
質問は何でしたっけ?忘れてしまいました。
(笑い声)認知症についてはまず認知症の人に聞いてみるという原則。
それはスコットランドで行政が執り行う政策の基本原理にもなっています。
認知症の人たちの声をどのようにして行政に届けるのか。
その声を集約する仕組みもできています。
ジェームズ・マキロップが作った認知症の人たちによる認知症の人たちのためのグループです。
彼らの合言葉は…今回私たち日本の放送局の取材を受けるかどうかも事前に会議にかけられました。
決めるのは認知症の人たち自身なのです。
撮影にあたって全員が同意書にサインしました。
この日の会議の議題は認知症を研究する際研究者が心得ておくべき原則は何かという事でした。
近年認知症の人に直接話を聞く研究が急速に増えています。
前回の会議でいくつかの原則が提案されました。
その一つが……というものでした。
(ドット)アグネスあなたはこの件についてどう考えますか?
(アグネス)私たちは自分の認知症についてはよく知っています。
でも全ての認知症を知っているわけではありません。
ですから病院の職員への研修を頼まれて「認知症の人との話し方を教えて下さい」と言われても全部は教えられません。
認知症の人の妻や夫は自分の連れ合いが何に困っていて何ができないか深く理解しようとしています。
「認知症を理解しているのは認知症の人だけだ」とはねつけるのが正しいとは思えません。
賛成です。
前回私たちが話し合ったのは認知症であるという事がどういう感じかは本人にしか分からないという事でした。
私の妻は認知症を理解していますがどんな感じかは分かりません。
(ドット)「理解する」のと「経験する」のとは全く別ですからね。
(ジェームズ)私はお産に立ち会いましたがどのくらい痛いかは分かりません。
(笑い声)
(ジェームズ)分かるわけがありません。
私が産んだのではありませんから。
(ジョシー)分かるはずないわよねぇ!自分の認知症について自由にしかも深く語り合う人々。
その声に耳を傾けるよう行政に働きかけたのは認知症の人たち自身でした。
1999年イギリス政府の地方分権政策によりスコットランド自治政府が誕生しました。
人口およそ530万のスコットランドの人々にとって政治が身近になりました。
ジェームズたちは担当者に手紙を書いて話し合いを求め大臣と年2回の面会が認められました。
そして認知症に関する政策を決める自治政府の会議に参加。
そこで求めたのは「診断されたその日から始まる支援」でした。
認知症の人たちのためのサービスについて私のような者が決めるよりもはるかに良い方法です。
一口に認知症と言っても100以上のタイプが存在しています。
アルツハイマー型や脳血管性認知症などさまざまなタイプがありそれぞれ症状が違っています。
認知症ワーキンググループにスコットランドのさまざまな地域のさまざまなタイプの認知症の人が参加しているという事はとても重要です。
認知症の人にとって診断を受けた直後の時期は極めて大切です。
もちろん「認知症である」という診断は本人だけでなく家族や友人にも大きな打撃を与えます。
しかし初期で診断を受ければ将来に向けて時間をかけて準備する事ができるのです。
認知症の人たちがそう教えてくれました。
今では認知症の人を政策づくりに欠かせない存在と位置づけるスコットランド。
しかし以前はここでも認知症の人に聞いても意味はないと考えられていました。
それを変えたのがジェームズ・マキロップです。
彼は長く困難な道を歩んできました。
長年銀行で働いていたジェームズが認知症と診断されたのは1999年。
59歳の時でした。
一番下の子供はまだ小学校に通っていました。
毎日職場から帰ると子供たちに手品をしてみせたりおとぎ話をして聞かせたりする家族思いの父親でした。
診断は…脳梗塞を繰り返しながら脳が委縮していくタイプの認知症でした。
ジェームズは打ちひしがれました。
思い浮かんだのは家族の顔も分からず24時間介護される自分の姿でした。
認知症の兆候は診断される7年ほど前から始まっていました。
最初に気付いたのはジェームズ自身でした。
同僚の名前を思い出せない。
お金を数え間違える。
何年もやっている仕事の手順を忘れてしまいいつまでも仕事が終わらない。
夜遅く家に帰ってからも家族に怒ってばかり。
いつもみんなを笑わせていたジェームズがまるで別人になっていくようでした。
本人は変化に苦しんでいても周りはなぜ変わったのか分からないため家族の中で孤立していく。
初期認知症によく見られるすれ違いが起きていました。
次男が転んだ時以前のジェームズなら起こして抱きしめたのにたたくようになったのです。
「前を見ずに転ぶなんてバカだ」と。
子供たちは彼と一緒に出かけるのを嫌がるようになりました。
診断されるまでの3年間は闘いでした。
私はどうしても必要な事以外彼と口を利かなくなり家の中は険悪になっていました。
ジェームズは何もせずに居間に座っていました。
テレビの前でただボーッとしているだけでした。
私は居間には一切近づきませんでした。
もう限界でした。
もし診断を受けていなければ子供たちを連れて出て行くつもりでした。
でも原因が何かが分かり彼を見捨てられなくなったのです。
ジェームズが診断を受けたあとで長男のルイスが大学になじめず苦労している事が分かりました。
パニック発作を繰り返しました。
そして大学を中退しました。
次男は見るもの全てに触りたがるようになりました。
丘の上の小学校に行く途中いくつも触りたいものがあるため登校に30分もかかってしまうのです。
当時私は長男と一緒に大学のカウンセラーに行き次男と児童心理のカウンセラーへ行きジェームズと精神科医に行っていました。
すさまじい状況でした。
次女は家を出ていきました。
長女は私をバカだと言いました。
「出ていける間に出ていけばよかったのに」と。
私は言いました。
「誰かと結婚するという事は白黒を付けられる事ではないのよ」。
彼女は部屋に閉じこもり何年もジェームズと口を利きませんでした。
暗く閉ざされたようなジェームズの家に一筋の光をもたらした女性がいました。
ブレンダ・ヴィンセントです。
妻のモーリンからの問い合わせで訪れたアルツハイマー協会の職員でした。
ジェームズが認知症と診断され受け取る事のできる年金の申請手続きをするのが役割でした。
当時ブレンダはアルツハイマー協会で働きながら疑問に思っている事がありました。
協会の職員が家族とだけ話をして手続きを進めていた事でした。
この時も事務所でモーリンから話を聞き必要な書類が整えば訪問する必要はないはずでした。
しかしブレンダはジェームズ本人と話す事を申し出ました。
そして自信も気力も失い抜け殻のようになっているジェームズを見て何か彼にできる事がないかと考えました。
もともと趣味だった写真を勧めてみたりバザーへの参加を促したりしました。
当時アルツハイマー協会の仕事は職員と家族との間で進められており認知症の人に話をする人は誰もいませんでした。
私は「それはおかしい」と言い続けていました。
ジェームズはとても謙虚な人です。
以前は銀行で働き30人以上の部下がいた人ですが認知症と診断されその事実をなかなか受け入れられずおびえていました。
協会職員としての私の仕事は彼の年金の手続きをする事だけでした。
しかしそれが済んだからといってあれほど落ち込み気分が沈んでいる人を放っておく事は私にはできませんでした。
ちょうどクリスマスの時期で私の職場はバザーの準備の真っ最中でした。
私は「一緒に来ませんか?」と誘いました。
ジェームズは「気分が落ち込んでいるから」と断ろうとしました。
「私を手伝って下さい。
商品に値札を付けてくれませんか」と頼んだのです。
それが私とジェームズの共同作業の始まりでした。
更にジェームズを社会へと導く人との出会いがありました。
エジンバラ大学で社会福祉を研究するヘザー・ウィルキンソンです。
研究プロジェクトを組み認知症の人が早期診断を受けた場合その診断をどう受け止めたのか調査しようとしていました。
その方法は本人に直接インタビューする事。
当時の研究者の常識では無意味だと思われていました。
研究の結果認知症の人たちは自分が認知症である事を十分認識しており診断を受けた事について結局は「よかった」と考えている事が分かりました。
プロジェクトが終わりに近づくにつれ私たちは研究成果を世間に知らせたいと考えエディンバラのホテルで大勢の聴衆を集めたイベントを企画しました。
その中で認知症の人たちにも発表をしてもらう事にしたのです。
そして当日。
ジェームズが演台に立ちスライド映写機の電源を入れました。
しかしスクリーンは真っ白で何も映りませんでした。
聴衆は彼がスライドを入れ忘れたのだと思いました。
それはジェームズの演出でした。
つまり以前の彼の生活は完全に空白だった。
そして研究に参加する事で生活が豊かになったと次のスライドでその内容を映し出したのです。
あの時のジェームズの姿が今も私の心に焼き付いています。
明確で力強く心を動かすような主張でした。
聴衆は「認知症の人の声はこれほど力強いものなのか」と感じ会場を後にしました。
そのころブレンダに励まされジェームズは写真を再開。
これは初めて撮ったブレンダの写真です。
ヘザーとブレンダ2人の女性と共にジェームズは外の世界に踏み出していきました。
2人が関わる活動の場にも参加し他の認知症の人たちとも出会いました。
診断された頃打ちひしがれていたジェームズ。
いつしか独特のユーモアで人から愛される元の人柄を取り戻していきました。
ここが「認知症ワーキンググループ」が最初の頃会議を行なっていた部屋です。
ジェームズたちはこの部屋に集まってはコーヒーを飲みながらこれから何をするか話し合いました。
そして2002年他の認知症の人たちに呼びかけ…ジェームズはその初代議長に選ばれました。
バスの運転手にはその組合があり炭鉱労働者や医師看護師にも組合があります。
介護する家族の会もあります。
しかし認知症の人のグループはありませんでした。
これはおかしいと思いました。
「さあグループを始めよう!」他の人たちにも呼びかけて最初のミーティングを開きました。
最初私の役割は認知症の人たちに集まるよう呼びかけ話し合いをサポートする事でした。
認知症の人同士が自然に話せるよう一歩下がるけれども手助けが必要な時はいつでもそこにいるようにしようと心に決めました。
それがうまくいったのです。
こうして結成された認知症ワーキンググループは発言の場を求めてブレンダが働いていたアルツハイマー協会に働きかけました。
アルツハイマー協会は1979年に設立されスコットランド全域に60か所以上の拠点を展開する民間団体です。
デイケアや電話相談などのサポートを行うだけでなく認知症の人の声を代弁し社会に発信する活動を行うものとされていました。
しかし実際には意見を述べるのは常に家族であり認知症の本人が発言できる場はありませんでした。
ブレンダはアルツハイマー協会が主催する会議にジェームズを参加させたいと伝えました。
しかしその申し出は拒絶されました。
アルツハイマー協会の主張はこうでした。
「会議では認知症が進行した時どうなっていくのかという話も出るので本人が聞くと動揺するだろう。
知らない方がいい」。
ジェームズは「納得できない!」と憤慨しました。
そしてブレンダのアイデアでカメラマンとして参加する事になったのです。
会議への参加は認められたものの質問する事も発言する事も許されませんでした。
しかしその後ずっと交渉を続けました。
1年後ジェームズは会議に招かれ壇上に上がって話しました。
この時からスコットランドでの認知症への見方が大きく変わりました。
ジェームズが立ち上がったあの一件が変化をもたらしたのだと思います。
ジェームズが仲間たちと作った認知症の人自身が読むためのパンフレットです。
伝えたかったのは人生を諦めない事。
考え方を変える事でできる事の例を示しました。
車の運転や仕事なども診断されたからといって直ちにやめないで続ける方法を具体的に提案。
たとえできなくなっても他に手がある事を示したのです。
ジェームズは妻が仕事に出ている日中自分一人でも外に出かけるようになりました。
欠かせないのはバスの定期券と携帯電話。
道に迷うなど困った時いつでも妻に連絡できるようにしているのです。
外に出て街を歩き人に会う。
毎日が人生を諦めないための挑戦です。
行き先は自宅からバスで10分ほどの商店街。
訪ねる店はいつも決まっています。
福祉関係の団体が開くリサイクルショップを見て回ります。
これがリサイクルショップです。
いろんなものがありますけど私の場合は本やCDDVDですね。
あの角の店にも行きますよ。
一番のお気に入りです。
ジェームズは大の読書家でミステリー小説や実在の人物の伝記など毎日読んでいます。
自分の楽しみのためそしてプレゼントするためあれこれ考えていると毎日何軒も訪ねて飽きないようなのです。
認知症になったからといって苦しい事ばかりではない。
人生を楽しむ事はできるし人を喜ばせる事もできる。
ジェームズは「認知症と共に生きる形」を追い求めています。
Thankyouverymuch.Thankyouverymuch.ジェームズはお金の支払いに困ったり自分がどこにいるか分からなくなる事があります。
そういう時のため認知症ワーキンググループで作ったものがあります。
常に定期入れに持ち歩いています。
これは私のヘルプカードです。
手助けが必要な事を知らせる時に使います。
このカードがあれば家に引きこもっている人も外に出られるようになります。
ジェームズが一つの新聞記事に目を留めました。
自ら認知症である事を公表したイギリスのベストセラー作家についての記事でした。
「認知症とよく生きる事ができる」という彼の意見に賛成です。
私もそう言ってきました。
しかし見出しにある「認知症患者」という表現は好きではありません。
なぜなら私たちは認知症を患い苦しむ人ではなく認知症と生きる人だからです。
誰もが苦しみを抱えて生きているのですからこういう表現は不適切です。
私は2002年から使用中止を呼びかける活動を行ってきました。
今ではスコットランドの自治政府もアルツハイマー協会もヨーロッパのアルツハイマー協会もこの表現を使わなくなりました。
この活動は今も継続中です。
ジェームズたち認知症ワーキンググループは新聞やテレビの取材を積極的に受け社会に働きかけていきました。
その活動は海外でも注目され認知症の国際会議に招かれるようになりました。
医療やケアの専門家や家族が参加する場だった会議で認知症の人たちが発言する新しい動きが起きていました。
「私たち抜きに私たちのことを決めないで」。
世界共通の合言葉になっていきました。
世界で高まる認知症の人自身の声。
国境を超えたネットワークが作られていきます。
そこで大きな役割を果たしたのが…ワーキンググループ発足後の2006年認知症と診断されました。
もともとは「1人で3人分働く」と言われた有能な看護師。
若い頃には海外で働いた経験もありました。
その後地域の診療所で働きながら認知症の父親の介護もしていました。
物忘れに悩むようになったアグネスにある日父親が声をかけました。
(アグネス)夜父が床に就くのを手伝っていると父が私の方に向き直って言いました。
「俺は認知症だがお前の物忘れの方がひどいぞ」。
その時にガツンと来たのです。
アグネスは専門医を訪ね脳に特定の物質が蓄積する事によって萎縮が起こるアルツハイマー型認知症と診断されました。
(アラーム)薬をのみ忘れないよう携帯電話のアラームをセットしています。
認知症の進行を遅らせる効果のある薬です。
「のむと頭の霧が少し晴れるようだ」とアグネスは言います。
しかしのみ始めた当初は症状が急速に悪化していくように感じ気分が落ち込むばかりでした。
薬をのんでもシャワーを浴びたり朝食を作ったりという日常生活がうまくできず悪夢のようでした。
私は自分の事さえうまくできませんから父の介護をきちんとできるはずがありません。
そこでアルツハイマー協会に連絡したんです。
そして父の生活を立て直すため協会の職員が来てくれて私にこう尋ねたのです。
「アグネス気分はどう?」。
そんな事を聞いてくれる人は誰もいませんでした。
私はこの何気ないひと言で泣きだしてしまいました。
「実はね私は困っているの。
でも誰も気にかけてくれない」。
彼は言いました。
「あなたの助けになるところを知っています。
もしよければそこに行ってみませんか」。
私は「はい」と言いました。
連れていかれたのは認知症ワーキンググループでした。
その時から暮らしが変わっていきます。
アグネスのために娘が特別に作ってくれた手順書。
これがあれば料理だってできます。
庭の手入れや趣味のヨガなど今自分にできる事を大切にしていこうと考えるようになりました。
アグネスを変えたのは「認知症と共に生き生きと生きる」人々との出会いでした。
(アグネス)私は子犬みたいにジェームズのあとをついて歩きました。
彼を見つめて「あんなふうになりたい」と思っていたのです。
ジェームズは言いました。
「僕はこうやって認知症とつきあってるんだよ。
僕から学ぶといい。
そして認知症を君の認知症にするんだ」。
必要なのは「認知症になっても人生はある」と言える事です。
それが希望なのです。
アグネスはワーキンググループの活動に積極的に参加していきます。
更に今年8月には認知症の人たちが作る国際ネットワークの理事に就任しました。
インターネットを通じて活発に議論を交わします。
参加するのはアメリカオーストラリアヨーロッパなど世界10か国以上の認知症の人々。
この日話題に上ったのは英語で「認知症」を意味する「dementia」という言葉について。
もともと「精神の死」という意味の言葉です。
さまざまな場に広がった認知症の人たちの議論。
どうすればリラックスして話せるか。
そのうえで話をまとめていけるのか。
その議論は福祉の研究者が蓄積したノウハウに支えられています。
「認知症の人にとって色の持つ意味」というテーマはどうでしょう?緑という色は心を落ち着かせてくれます。
私は緑の中で暮らしていてとても幸せです。
私は認知症が進むにつれて自分に今できる事をやり続けるのが難しくなっています。
これからも続けていくには何か工夫が必要だと感じています。
失いながらも生きていくためには助けが必要なんです。
「緑という色の沈静効果について」。
そして「失う事とどう折り合いをつけるか」ですね。
両方とも重要な課題です。
ビリーまだ話していませんね。
(ビリー)そう思います。
司会を務めるのは研究者です。
話の要点を確認し全員が納得できるように議論を進める。
更に報告メモを作成し政策立案の担当者などに伝えるのもその役割です。
現場の実践を変えるにはまず政策を変えねばなりません。
初期の認知症の人たちは政策や実践を変えるために有効な提言を行えます。
その事を何年もかかって実証してきたのです。
これは一生かかる仕事です。
現在ワーキンググループの活動を支えているのはアルツハイマー協会です。
その活動拠点の一つは人気のスポーツサッカーのスタジアムの一角にあります。
このように協会は行政だけでなく企業からも理解と協力を引き出し多彩なキャンペーンを展開しています。
社会全体に認知症をめぐる変革を引き起こそうとしているのです。
アルツハイマー協会は基本的人権に基づく団体です。
私たちはさまざまな研究に資金を提供しています。
エジンバラ大学とウェスト・スコットランド大学には私たちの政策と実践に関する研究センターがあります。
また研究者同士のネットワーキングを促進する団体に資金を提供し深く関わっています。
政府と話をする時私たちが認知症の人たちを代表していると言えなければ信頼は得られません。
その信頼があるのは認知症ワーキンググループのおかげです。
その原則は「私たち抜きに私たちのことを決めないで」です。
日本でも初期認知症の人たちが声をあげ始めています。
藤田和子さん。
7年前45歳の時認知症の初期と診断されました。
しかしせっかく早い時期に診断を受けてもその後の支援がないため早期絶望になってしまう現実に直面。
その体験から支援充実を求め講演などの活動を行っています。
3人の娘を育てながら看護師として働いてきた藤田さん。
看護師の仕事は診断後事故がないうちにと考え辞めてしまいました。
食事の用意は今も藤田さんの役割です。
一見不自由なくできているようですが少し以前と違うところがあります。
調味料が底を突きかけていました。
火も止めずにメモに書き込みます。
「ない!」と思った時にすぐ書いておかないとまた忘れるので。
後からとか思っても今度使う時に気が付くんですよ。
だからそれじゃあ遅いので。
ないと思って買いに行くでしょリストとか作ってない時に。
牛乳とか卵とかバッてしまおうと思ったら3本目とか2個目とか。
そんなんだったからね。
やっぱり自分で…頭の中だけで記憶の整理ができないんだなというのを自覚したというかそれが病気なんだって自分で理解して…。
じゃあいただきます。
(一同)いただきます。
7年前認知症を疑ったきっかけは娘たちとの会話でした。
「その日自分が食べたものの事をすっかり忘れている」と指摘されたのです。
深刻に受け止めたのは看護学校に通っていた長女でした。
学校で習った認知症の人の初期症状のやった事を忘れる…自分がやったけどその事は忘れちゃったっていうそういう事が今のお母さんの状況なのっていうそういう感じですね。
一日の中の出来事を45歳の私が思い出せないなんて絶対異常だって思って。
2〜3日前とか1週間前の事だったら誰でもねどうだったかなって思うだろうけども朝の事を夜に思い出せない状態は絶対おかしい。
これは何かしらの病気である。
でアルツハイマー病じゃないかという疑いが自分の中でバーッと一気に湧いたのがその事ですよね。
藤田さんは総合病院の脳神経内科で検査を受ける事にしました。
医師から告げられた診断は…しかしこれからどうなるのかどう過ごすべきなのか説明は全くありませんでした。
手がかりを求めて本を読むと「診断後およそ10年で死に至る」と書かれていました。
私はどうしたらいいんだろうとかどうなっていくんだろうっていう不安感絶望感みたいな感じがやっぱりその不安がね…。
自分がこの世に存在している事が家族にとってもすごく負担でしかないようなそんな不安感…。
私がいない方がいいだろうなぁとかその苦しみから逃れたいとか。
自分がね。
その不安から逃れたいとか。
自分はここで…死んでしまった方がみんなのためではないかみたいなフッとそういう気持ちが起きる。
この悩みをどこに相談すればいいのか?医療機関にも介護保険の窓口にも思い当たるところがありませんでした。
藤田さんは考えあぐねた末以前娘の学校のPTA活動を通じて知り合った人権福祉センターのカウンセラー川口寿弘さんを訪ねました。
突然いらっしゃって相談があるって事で。
この病気が進行していけば当然仕事は続けられないだろうと。
娘さんたちが進路を決めなくちゃいけない時期でもあったので学費の問題とかあるいはそういうタイミングで自身の病気の事をどう子供たちに伝えるのかなとかそういった不安を持たれてたように思いますね。
認知症に対しての認識というものが私自身そんなになかったですから…まあほとんどなかったと言ってもいいと思いますけども。
ですから…ひたすら傾聴に務めるというか。
診断を受けてから藤田さんの悩みは日に日に増えていく一方でした。
得られた情報は認知症が進行するという事。
そして介護する家族のためどういう備えが必要かという事ばかり。
本人がどう生きていけばよいかを考えるため役立つ情報を教えてくれる人は誰もいませんでした。
藤田さんは買い物の時娘に同行を頼むようになりました。
一人でできないわけではないものの買い忘れるのではないか支払いに手間取るのではなど不安になってしまうからです。
家事や母親の役割を誰かに代わってもらいたいわけではありません。
娘の就職や結婚の相談にも乗ってやりたい。
自分の役割を一日でも長く果たしていくためのサポートが欲しい。
しかしそれがどんな形かは藤田さんにも分かりませんでした。
買い物も料理も頑張ればできます。
しかしそのつど神経を集中し全力を振り絞ります。
そのため疲れ果て激しい頭痛を起こし一日に何度も横になるようになっていきました。
藤田さんどうぞ。
最初の診断から1年後藤田さんは認知症の専門医の診察を受ける事にしました。
この医師の診察は前の医師と全く印象が異なりました。
最大の違いは家族だけでなく本人の話をじっくり聞き説明してくれるという事でした。
こんにちは。
いかがでしたか?ご様子は。
何か忙しくて…。
それで血圧は上がるし不整脈は出てしんどくって横になったりしながら何とかいろんな事を生活なり活動なりをしているという感じで。
医師との対話を重ねるうちに認知症のイメージが変わっていきました。
どうにもならない怪物ではなく活発に脳を使う事や薬により進行を遅らせる事ができる。
藤田さんは認知症とつきあいながら生きていく手がかりが得られたように感じました。
私はとにかく頑張り続けてちょっとでもいい状況を保つ。
いろんな事を試してみたり挑戦していって病気であっても一人の人としては生き抜くっていうかそういう姿勢を見せたいって。
残念ながらもうお仕事は辞めてしまわれてたんですけども何か役割を失わないようにして差し上げる事が大事なんじゃないかいう事でそういう生活面のアドバイスであるとかご相談に乗るとかそういう事をさせて頂いて。
私も以前は若年性認知症いうのはすごく経過の悪い病気でどんどん悪くなっていくもんだと私思ってたんですけどもそうじゃなくてちゃんと役割を持ってある程度脳の機能をどんどん悪くさせないようにするような活動をしてるとこんなに効果があるのかなと思います。
藤田さんはPTA活動で知り合った川口さんと認知症を考える会「クローバー」を立ち上げました。
シンポジウムを開くなど初期認知症の人への支援体制の整備を訴えたのです。
現状では「初期」で診断されても有効な支援がない「空白の期間」になっていると指摘しました。
活動を始めて4年がたちました。
しかし医療機関や行政の動きは鈍いと感じています。
行政のいろんな制度サービスを新たな企画・立案をして変えていくというような事が本来ないといけないんですがなかなかそこまでなってないですね。
これは私たちの訴える力量の弱さも当然あるとは思うんですけども現状としては聞いて頂いたというとこにとどまってるって感じですかね。
本人の声を聞いてくれと本人の意思を尊重してくれというクローバーはずっと取り組みをやってきたんですがどうも本人の声を聞いてくれって一生懸命言えば言うほどいやいや家族の大変さを理解してくれっていう声が同時に沸き起こってくるという場面が数多くあってここがなかなか現状として難しいとこだなあと思ってるんですけども。
今年1月藤田さんたちに東京で開かれる勉強会への誘いがありました。
日本でも認知症の本人が講演などで自分の体験を語る機会が増えてきました。
その声によって医療や社会はどう変わるのか認知症の本人と共に考えようという集まりです。
医師や介護職行政報道関係者などが立場を超えて話し合います。
今回のテーマは「認知症の人基本法」。
これまでの勉強会を通じ社会のあらゆる仕組みが認知症の人の側に立っていない現実が明らかになっていました。
それを変えるため新しい法律が必要ではないかというのです。
人なのにアルツハイマー病になると…まあ認知症になると人として見られなくなってしまっているっていう事があると思うんです。
なぜか。
やっぱり本人から見た医療であり本人から見たケアでありというところにとことんこだわらなくては社会は変わらないだろうなというのをすごく学びましてそういう意味でもこういう本人から見たこの社会がどうあるべきかっていう事を考えるうえでこの基本法っていうのは欠かせないなと…。
(藤田)こういう事を助けてほしいっていう事をみんなで職場で考えられるような状況って本当にないんですよね。
もし法律ができたらそうすべきだという事に変わっていくと思うのでいろんな事を考える義務が出てくると思うし。
なのでやっぱり期待はしますね。
藤田さんが求める認知症初期の人に対する支援について国はどう考えているのでしょうか?厚生労働省は2012年に今後の認知症の政策の方向性を示す報告書を発表しました。
その中で「認知症初期集中支援チーム」を編成する計画を打ち出し現在全国14か所でモデル事業を行っています。
しかしその計画は家族への支援が中心で結局初期認知症の人本人への支援は不十分であるという指摘が数多くあがっています。
日本の場合はどっちかと言うと初期集中支援でやった方がいいというのは外国が大体そういう方向に来てるからそれは日本でも取り入れてみようと。
だから医療関係者や福祉関係者はそういう事をやってみた方が多分認知症の人もずっとだんだん病状が進行していくのに合わせていろんなサービスっていうのをあらかじめセッティングできるからその方がいいだろうという事の下にやってるという意味だから。
どうしてもケアっていうと体が弱ってきたのを助けてあげるとか料理とか洗濯とか掃除とかねやってあげるみたいな…。
どうしても定型化してしまってるわけですよ。
ところが本人が欲しいのは自分でやれるようになるべく自分でやるためにはどうすればいいかというところにサポートが欲しいっていうかね。
その事をよく分かったうえでどんなやり方をやったらいいんだろうというのはこれからやっていかなきゃいけない話なんだろうなと思いますけどね。
(号砲)スコットランドで最も多くの参加者が集う女子マラソン大会です。
赤や紫など色取り取りのTシャツ。
これはがんやてんかんなど病気の人やえん罪貧困などさまざまな問題に直面する人への支援団体のものです。
Tシャツを着て走る事で活動への寄付を呼びかけているのです。
緑とピンクのロゴはアルツハイマー協会。
家族や友人に認知症の人がいる多くの人たちが参加していました。
認知症などの問題を隠すのではなく全ての人の問題として問いかけていく一つの文化が根づいています。
ゴール地点にマラソンの参加者に記念品を渡すジェームズ・マキロップの姿がありました。
(ジェームズ)Bye.Bye.Thankyou.Thankyou.2010年から実施された「スコットランド認知症戦略」。
その中に認知症ワーキンググループの要望で盛り込まれた政策があります。
どんな方法が有効か直ちに研究事業が始まりました。
この研究事業による支援で救われた男性がいます。
グラスゴー郊外で暮らす元警察官ヘンリー・ランキンです。
ヘンリーは4年前57歳の時脳血管性認知症と診断されました。
その時事実を受け止めきれず混乱状態に陥りました。
医師から半年後の受診を勧められた時なぜか「半年後に死ぬ」と誤解してしまうほどでした。
Hello!Comein.間もなく自宅にやって来たのはトレイシー・ギルモア。
「リンクワーカー」と呼ばれる専門スタッフでした。
このリンクワーカーの仕組みこそがスコットランド認知症戦略の核でした。
リンクワーカーは1年かけて診断後の人生の基盤を整えていきます。
私はあなたに「自分はあと半年しか生きられない」と話したのを覚えています。
明らかに私の理解が間違っていたのですがあなたが「半年で死ぬ事はない」と言ってくれてほっとしました。
私も覚えています。
ヘンリーはいつでも相談できるようトレイシーの電話番号を教えてもらいました。
まず相談したのは薬の管理について。
糖尿病のため毎日決まった時間にインスリンを注射しなければ命に関わります。
ところが打つのを忘れたり間違って二度打ってしまう事が起きていました。
トレイシーに相談しながらアラームなどいろいろ試した結果結局注射のタイミングを知らせる事だけは家族に頼む事になりました。
その他にも金銭的な事を含めさまざまな生活上の問題を相談。
必要に応じて弁護士などの専門家も紹介してもらいました。
将来認知症が進行した時に向けたケアの計画も作りました。
認知症の人と家族にとってどこにどんな支援があるのかはなかなか分からないものです。
そこでただ一人の人に聞けば何でも応えてくれるリンクワーカーを作ろうという事になったのです。
時間をかけてその人について知り関係を育てていきながら認知症とよく生きるための支援やアドバイスを提供するのです。
診断後最も必要な支援は何か。
トレイシーは生きる希望を取り戻す事と考えていました。
トレイシーはヘンリーを認知症についての勉強会に誘います。
本人だけでなく家族も参加しました。
病気について学ぶとともにその症状とどうやってつきあい生きていくのかを学びます。
その中に認知症ワーキンググループのメンバーの話を聞く時間が設けられていました。
診断された直後の人が認知症について思い浮かべるのは大体末期の人の姿です。
介護施設にいる何もできない人というイメージです。
そんな時認知症ワーキンググループというものがあり認知症の人たち自身が運営していると伝えるだけで悪い先入観をひっくり返す事ができるのです。
人々に多くの希望を与えます。
芝生の上のボウリングはヘンリーの長年の趣味でボウリングクラブの会長を務めた事もありました。
ところが診断後ヘンリーはこの趣味を中断していました。
自分が認知症である事を人に知られたくなかったのです。
これに対しトレイシーはボウリングを再開する事を勧めました。
自分の認知症を周囲に打ち明けるのなら手助けをしたいと申し出ました。
このように認知症と診断された人が周囲の人々とのつながりを失わないように支援するのもリンクワーカーの役割です。
そして支援の最終段階。
ヘンリーの家族に集まってもらいヘンリーが実現したい事を3時間かけて集中的に聞き取り書き出していきます。
いわば未来予想図を作るのです。
「3か月後妻と2人でアラスカに旅行したい」。
「1年後娘の結婚式に出席したい」。
ヘンリーはこれらの夢を家族と共に一つ一つ実現させていきました。
リンクワーカーの支援を受け一度は終わったと諦めていた人生に希望を持てるようになりました。
私は自分の病気を理解しました。
どうつきあえばいいかが分かったのです。
つまり症状に合わせて工夫するのです。
私はどんな事でもやってみようと思います。
それには自信が必要です。
自信さえあれば何とかできるのです。
リンクワーカーは去年から制度化され新たに診断された全ての人に対して提供されるようになりました。
スコットランド認知症ワーキンググループ。
現在4代目議長を務めるのはリンクワーカーによって人生を救われたヘンリーです。
最近の活動について報告します。
保健大臣と面会しました。
大臣とは年に2度面会する事になっています。
今回4つの質問をしました。
まずケアを改善するための取り組みについて。
2つ目は65歳未満の認知症の人の医療費について。
3つ目は認知症への偏見を助長する言葉について。
私たちの活動によっていくつかの言葉はもう使われなくなっています。
あまりにもひどい言葉なので今ここでは言いませんが。
私たちの目標は認知症への間違った思い込みを取り除く事です。
それはできると思います。
前に首相が「患者」と言ったので修正を求めました。
首相がここに来れば改善すべき点をきっちり教えてあげられるのになあ。
(笑い声)我々は認知症と生きているので苦しんでいるのではない。
楽しければ今日が何曜日だっていいじゃないか。
(笑い声)分からない方が面白いわよ。
ジェームズが緑の札を上げています。
患者という言葉については2002年からキャンペーンを続けてきましたが報道機関はこの言葉が好きなようです。
私たちは病気ではなく人として見てほしいのです。
ジェームズ・マキロップが認知症と診断されて15年がたとうとしています。
認知症と共によく生きるとはどういう事か今も手探りの日々が続いています。
この日ジェームズとモーリンは講演のため出かけます。
モーリンの役割はただ付き添うだけではありません。
ジェームズと共に話す事になっています。
彼女にとっても波乱に富んだ15年でした。
始まりは子煩悩だったジェームズが家の中で当たり散らすようになった事。
そして認知症と診断。
3年後には認知症ワーキンググループが生まれました。
その成果を語るためヨーロッパ各地はもちろんドミニカやレバノンにまで出かけました。
認知症になるまで想像もしなかった世界が開けていました。
今日の講演は訪問介護の会社。
介護職員の教育のため2人の経験を話してほしいと頼まれたのです。
講演ではジェームズとモーリンが代わる代わる話します。
認知症の本人と家族それぞれの立場で診断から15年をどう生きてきたか振り返りました。
まだ終わっていませんよ。
ごめんなさいね。
ここで一つ歌を紹介したいと思います。
我が家の日常の光景そのままなのです。
(拍手)認知症のお年寄りに良い刺激を与えたいと思っています。
写真がいいと伺いましたが他にはどういうものがありますか?介護施設でこんな場面を見た事があります。
何年も言葉を話していない人に以前好きだった曲を聴かせるのです。
すると音楽に合わせて歌いだしました。
ところが音楽を止めるとまた話さなくなってしまうのです。
音楽には人の心を開く力があるようです。
夫や妻に先立たれたお年寄りが連れ合いが帰ってこないといって悲しんでいる事があります。
そういう人を慰める時とてもつらいです。
私の母もそうでした。
「お父さんを見ないわ。
今日は来るかしら?」などと言うので私が「いやお父さんは亡くなったよ」と言うと取り乱してしまいました。
私は母にうそをつきたくなかったのでこう言う事にしました。
「今日は来ないけどもうすぐ会えるよ」と。
母は死ねば天国に行くと信じていましたから。
母はとても幸せそうでした。
このように言い方しだいで切り抜けられる事があります。
またすぐに話題を変えるのがいい場合もあります。
確かに見ているのがつらい事がありますね。
お年寄りの家族から「何もしないでいい。
ただ座らせてテレビを見せておいてほしい」と言われる事があります。
以前2週間認知症ワーキンググループの活動が何もなかった時ジェームズの認知症が進んでしまったように感じた事があります。
ジェームズが今ここにこうしていられるのは脳を活発に使い続けているからだと思います。
どの刺激に反応するかは人によって違います。
その人に効果のあるものが見つかるまであらゆるボタンを押してみて下さい。
ある日の午後お年寄りを外に連れ出しても翌日全く覚えていない事がありました。
それでも続けた方がよいのでしょうか?そう思います。
ある時牧師に向かってこう言う人がいました。
「認知症の人にはどうせ分からないのだから会いに行かなくてもいい」。
私は言いました。
「どうか行って下さい。
あなたといる間幸福を感じられますから。
たとえ後で忘れても幸福感は残るのです」。
先日コーヒーを飲んでいるとジェームズが言いました。
「あなたは私の妻ですか?」「違ったら困ります」と答えました。
時々そういう事があるのです。
頭が真っ白になる事があるんです。
娘を他の人と間違える事もあります。
それでも私はその時を楽しんだのです。
その事実は変えられません。
(アンナ)Thankyouverymuchforcomingtodayandtalkingtous.It’sabsolutelyfantastic.
(拍手)ジェームズと共に認知症を見つめる日々。
モーリンは幸せとは何か考え続けてきました。
これはジェームズのコレクションです。
彼はリサイクルショップでありとあらゆるものを買い全部ここに押し込むのです。
「もう買わない片づける」と言うのですが絶対にやりません。
彼が何かを買ってきて私が「うれしいわ」と言うと同じようなものを見ると買わずにいられなくなるようなのです。
私は要らないと思うのですがいつもそうやって喜ばせようとしてくれるのです。
私もまた認知症と生きる事を学びました。
ジェームズは認知症私は介護では済まなかったのです。
私は今ジェームズが認知症だとは意識しません。
ただこういう人で一緒に生きていこうと思うのです。
一時は崩壊寸前になった子供たちとの関係にも変化が起きていました。
大学を中退した長男のルイスは8年前からオーストラリアに移り住み結婚していました。
毎週土曜日インターネットを通じて話をします。
スコットランドではオペラ劇場が主催するあるイベントが毎年開かれます。
認知症の人とその家族のための音楽イベントです。
費用は寄付で賄われます。
今年もその練習が行われていました。
認知症の人が声をあげ認知症への見方が変わり制度が変わり社会全体が変わっていったスコットランド。
認知症になった人とその家族が生きる形も変わっていきました。
ジェームズの認知症は当初予想したより遅かったものの年々確実に進行しています。
ジェームズは介護が必要になった時に自分が入る介護施設を決めました。
ジェームズとモーリンは仕事のない週末できるかぎり海や山に出かける事にしています。
週末の遠出はもう5年続いています。
ジェームズは行くさきざきで心に留まった草花や一瞬の輝きを見せる風景を飽きずに撮り続けます。
自分はこれから変わっていくかもしれない。
しかしたとえ妻や子供の顔を思い出せなくなったとしてもこの時の幸せは自分の中に残るだろう。
ジェームズは最後まで自分の人生の主人公であり続けようと思っています。
彼はこう書き記しています。
「自分の家族や友人職場を見渡して周りに認知症の人がいないという人はまれでしょう。
今から心の準備をした方がいい。
助けたいという人はたくさんいるのですが何をどうしたらよいのか分からずにいます。
私たちの経験はこれから認知症になる人たちのためにきっと生かされるはずです。
私の話を聞いて何かを感じたなら何か行動を起こして下さい。
やるべき事はたくさんあります」。
2014/09/27(土) 00:00〜01:30
NHKEテレ1大阪
ETV特集「私たち抜きに私たちのことを決めないで〜初期認知症と生きる〜」[字][再]
認知症は早期発見が重要だと言われるが、初期支援の重要性は十分には理解されていない。当事者の声を聞くことで認知症政策を大きく転換させたスコットランドを取材した。
詳細情報
番組内容
スコットランドでは2002年、一人の男性が声を挙げたことがきっかけとなり、認知症当事者の「ワーキンググループ」が結成された。認知症になると人は何を感じ、どんな困難に直面するのか、本人の声を聞くことが重要だと認識されるようになったからだ。これにより診断直後から必要な支援が受けられる体制が整備されるなど政策は根本的に変化した。認知症と生きる人たちを支えるためには何が必要なのか。日本と比較しながら考える
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