京撮で苦闘、スターに 菅原文太さん死去、環境や原発にも関心
菅原文太さんの訃報に京都の映画関係者をはじめ、ゆかりの人々から驚きと悲しみの声が広がった。
菅原さんは東映京都撮影所製作の数々の作品に出演。「仁義なき戦い」(1973年)に代表される、暴力団の抗争と男たちの人間模様を生々しく描いた「実録路線」の作品群は、「任侠(にんきょう)もの」に陰りが見える中、より強い刺激を求める観衆の心をとらえ、スターの座に押し上げた。
「懲役太郎 まむしの兄弟」(71年)など多くの主演作を撮った映画監督の中島貞夫さん(80)は「本当にがっくり来た。普通じゃないほどの寂しさを感じている」と力なく話した。
菅原さんとは互いに駆け出しの時代からのつきあいで、後に「トラック野郎」シリーズを手掛けた故鈴木則文監督と3人で、よく酒を飲みながら映画論を交わした。「お互い30代、役者と監督の関係を超えた、同志のようなつきあいだった」。下積み生活が長かった菅原さんは「いつも飢えた感じを漂わせていた」とし、「鬱屈(うっくつ)した思いが、後年の彼の芝居や存在感につながった」と惜しんだ。
東映元会長で同撮影所元所長の高岩淡さん(84)は「京都で悪戦苦闘してくれた彼のおかげで、東映は任侠映画から実録路線に移行することができた。心からお悔やみ申し上げます」とコメントした。市川崑監督の「どら平太」(2000年)の製作に携わり、交流した美術監督の西岡善信さん(92)は、突然の悲報に「びっくりしています」と驚いた。今春も京都市内のホテルで食事し、その際は「元気な様子で、タケノコ料理に舌鼓を打っていた」という。
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菅原さんは近年、農山村の再生や脱原発などの社会問題に対し、積極的に発言。その活動の一環で京都府内にも足を運び、関係者と親交を深めた。
環境学習などを進める「水源地の水の一滴塾」の活動で2009年2月、綾部市五泉町市志などの過疎集落「水源の里」を訪ねた際、案内した阪田享一郎さん(83)は「高倉健さんに続き、あんないい人が亡くなるなんて」と声を落とした。「緊張していた私に気さくに話しかけてくれたのが思い出。うちで採れたフキノトウを渡したら『大好物』と言って喜んでくれました」と振り返った。
清水寺(京都市東山区)の森清範貫主(74)は、10年前に北海道の知床半島で開催されたフォーラムで出会い、交流を深めたが、昨年のテレビ番組での対談が最後となった。収録中、出演者なのにカメラ位置をスタッフに指示していたといい、森さんは「命のことをよく考えておられ、仏教では命をどう捉えるのかと質問されたことが印象に残っています」と話した。
2年前の衆院選で「卒原発」を訴える日本未来の党が結成された際、菅原さんは賛同人に名を連ねた。党代表を務めた嘉田由紀子・前滋賀県知事(64)は当時、脱原発へ転換したドイツの女性首相を引き合いに「日本のメルケルになって」と激励を受けたことに触れ、「選挙前に電話し、命を粗末にしている国はおかしい、頑張れと励まされた。憂国の同志だと感じて心強かった。もう一度会って話をしたかった」と悼んだ。
【 2014年12月01日 23時34分 】