倉津拓也×はるしにゃん対談「今こそ東浩紀を読み返す」

ーーー

※これはかつて『イルミナシオン』という同人誌に掲載した、倉津拓也さん(@columbus20) とはるしにゃん (@hallucinyan) の、東浩紀に関する対談です。二年前のものなのでブログに再掲。お読みになる前の注意書きとして、当時僕は二十一歳だったので若さゆえの誤りなどがあるということと、二年前のものなのでいまの僕の考えとは異なることも記述されているという二点を留意していただき、それでもよろしければ御覧ください、と述べておきます。ちなみに現在もじつはこのあいだの文フリで東さんにきちんとご挨拶したりもしてきたのですが、現在は信者ではないという断り書きも添えておきます。普通にファンではあるけどね。

ーーー

H(はるしにゃん):今回の対談は東浩紀の処女作である「ソルジェニーツィン試論」から、近年の『一般意志2.0』までの流れを追って行き、彼の著作にきちんとした流れと申しますか、ある種の一貫性=連続性を見出すことを目的としています。東浩紀はもちろん有名ですが、その著作は現状ではあまり「きちんと」読まれているとは言い難い、と言って良いかと思います。すなわち、動物化するポストモダンだけ読んで批評ってつまらねえなとか言っている方々もいらっしゃる、と。ですが、それはもったいないと思います。そこで東浩紀が初期からどういった理論的体系を築いていっているのかということを、イントロダクションとしてお話したいと思います。

 ではまず処女作のソルジェニーツィン試論から入りましょうか。これは東浩紀の原点としてあるもので、もともとは柄谷行人に持って行った原稿が面白いと言われて批評空間に載ったという記念すべきデビュー作です。これは簡単にどういう内容かというと、「彼が死んだのが悲劇なんじゃない、死んだのは彼じゃなくてもよかったということが悲劇なんだと」という、「確率の手触り」の問題について扱った批評となります。ようするに、人間の運命というのは偶然性に支配されていて、その「偶然性」というか「確率性」という問題が、東浩紀のそれ以後の著作の通奏低音になっていると言うことができます。

C(コロンブス): 『収容所群島』における「どうしてこの人は堕落しなかったのか?」という問いですね。ソルジェニーツィンは超越的な立場から語らず経験的に語る、彼をそうさせたものは何か、という文章です。収容所群島という地獄において、理性的に考えればどうしてもひとは絶望せざるを得ないように思える。しかし事実として「堕落しなかった」ひとがいる。彼が堕落しなかったのは単なる確率的問題でしかない。ソルジェニーツィンはその確率的=超越論的問題を、あくまで経験的に語るわけです。彼がきわめてベタに見えるのはその地点においてである、と。

H:超越論的なものは経験的なものから創発されるという考えが東浩紀の中にはありますよね。ある種のヒューム主義と申しますか。

C:ソルジェニーツィン論の言葉でいえば「非ユークリッド的思考はユークリッド的思考のなかにこそ見出される」といったところでしょうか。そして超越論的なものは実在せず錯覚としてあるが、しかし人はその錯覚にこそ囚われると。

H:そして、その「錯覚性」というものが、デリダ論においては「幽霊性」として表現されるわけですね。『存在論的、郵便的』はリーダブルな文体で書かれていると同時に、しかしかなり難解な部分も多い。そのためにこの著作を読んでもよくわからないと言っている東さんのファンもかなり多いわけですけど、やはり東さんの議論はここから始まっているといっても過言ではありません。簡単に内容を言います。すなわち、「論理的―存在論的脱構築」と「精神分析的―郵便的脱構築」を対比し、後者を肯定するといった議論ですね。

C:そうですね。この本の評価は様々ですが、そもそも偉大な問いを立てるのが哲学者の使命ともいえるので、このような問いを初めて立てたという点で東浩紀哲学史に残る偉大な業績を残したといえるように思います。

H:「実はデリダにおいて脱構築は二種類ある」ということを明言したわけですね。そのなかで前者の「否定神学」的な脱構築っていうのはラカンとかに似ている。デリダラカンは似ていることも言っているけど、デリダにはそれに抗うところもあったところがクリティカルであったと。ようするに否定神学的な脱構築っていうのは、ある閉じたシステムがあるがその閉じたシステムにはそこから何か剰余するものがある。それを超越論化することによって、いわばその不安定な剰余によって全体のシステムが逆説的に安定するというようなロジックですね。ラカンにおける「ファルス」や岩井克人の「紙幣」のような。柄谷の『探求』などを参照しながら東はそういった否定神学的な構図を「ゲーデル的」と言い換えています。それで、『探求』の言葉で言えば、ウィトゲンシュタイン的なオープンシステムのようなものを東は考えようとしたというわけです。ゲーデルからウィトゲンシュタインへ。システムというのは閉じていなくて、ある他者と話しているような時もその中に命がけの飛躍がある。ラングというのは実体としては存在せず、完全なコードの共有はありえない。これを「複数的超越論性」というふうに東は言っているわけですね。

C: 「複数的超越論性」というのは抽象的にいえばハイデガーフロイトの話ですよね。ハイデガーみたいに例えば「存在」という一つのキーワードですべてを自分の哲学に組み込んでいくようなものに対抗して、フロイトの「転移」のように具体的な一回一回のコミュニケーションのズレを見ていく。

H: 具体的な一回性のコミュニケーションに大きな重きを置いているということですね。東浩紀は最近の千葉雅也さんとの『atプラス』での対談の中でも、「レヴィナス的な絶対的他者に対する無限の責任は実は無責任だ」というような話をしていましたよね。そこで「ある種のデリダ的な他者というか身近な他者というものの近さと遠さを認識しながらそれを大切にしていくしかない」というような話がなされた。東浩紀のそのような認識は、やたらカジュアルブロックするということに端的に現れていますね。どうしても自分の中で処理しきれないような他者はブロックするしかないんだというようなことが、彼の哲学的なものの核心にあるわけです。レヴィナス的な他者はコミュニケーションコストが高すぎるので場合によってはブロックするしかないということが、いわば彼の中で理論的に正当化されている部分があるように思えます。

C:そこは「一般意志2.0」の議論にもつながってきますね。そこで言われているのは、例えばブロックによって遠い他者から閉じているように見えても、身近な他者への共感によってネットワーク的に世界がつながったりするんだということでした。

H:「スモールワールド性」というか、実際に狭い範囲なんだけどつながりのつながりというふうに遡っていくと案外みんなつながっていたりするというネットーワーク論的な話。

C:例えばグーグルのように全てのデータに曝されるのでもなく、SNSのように島宇宙にひきこもるのでもない、第三の道としてのツイッターということですね。さまざまな島宇宙を超越的に上から繋ぐのではなく、横の繋がりから別の公共性が可能なのではないかという。東さんが好んで引用するデリダの「偉大な哲学者、それはいつも、ちょっとは大きな郵便局なのだ」という言葉がありますが、この「ちょっと」というのが、横に繋ぐ、ということなのかなと思います。
 余談ですが、東さんのなかで、はるしにゃんの名前のもとであるハルシネーション(hallucination)というのは重要なキーワードなんです。『存在論的、郵便的』のなかにデリダが電話をかけるシーンが出てきますが、ここでは目の前の情景とネットワークの接続先、それぞれの現前性の分割によってデリダが幻惑される様子が表現される。複数の情報機械の衝突をいかに捉えるかという話です。また文化系トークラジオlifeに東さんが登場したとき、哲学は恋愛にいかに役立つかという話をしているんですね。そこで哲学には相手を幻惑して懐疑を引き起こす力がある、それが重要なのではないかという話をしている。彼氏もちの女の子に対し「彼氏」とは何かと定義問題に持ち込んで幻惑する(笑)。その意味でハルシナさんのインターネット上での即ハメ・キメセク・散種路線はとても郵便的といえるのではないかと思います(笑)。

H: にゃはは。さて、『存在論的、郵便的』は「複数的超越論性」についての議論だったわけですけど、次の『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』という著作もそのような一貫した流れのなかで見えてくると思うんですね。この本ではフィリップ・K・ディックを参照しながら、ディックにおける「不気味なもの」、つまり「かわいくかつ不気味であるもの」こそが「シミュラークル無限後退からの脱出の経路」になるという話をしていますよね。この不気味なものっていうのは一種の複数的超越論性と考えられるのではないでしょうか。

C:なるほど、不気味なものに直面することによって脱構築不可能なものを経験するということですかね。そういうふうに捉えることは可能だと思います。

H: 「不気味でかわいいいものが脱出の経路になる」ということで、それゆえに東浩紀は「萌え」というものに注目したわけです。萌えというのは「でじこ」とか見ればわかるようにある種の奇形として存在していて、それに対するアディクションがメタゲームを停止させるように機能する。

C:他にも言語とイメージの混同、スクリーン的な主体という話がでてきますよね。

H:近代的な主体というのは映画的に捉えられる、つまりイメージっていうのが映画におけるスクリーンに写されたイマージュで、それを支えているのが象徴的同一化としてのカメラとして存在するという話ですね。

C:ちなみに斎藤環さんによる「東浩紀は象徴的同一化と想像的同一化が区別できていないのではないか」という批判があります。サイバースペースを読むと、東さんはそこらへんの区別をした上で、さらに先の話をしているのだ、ということがよくわかります。

H:映画的な時代が終わった後のポストモダンにおける主体論というようなものをサイバースペースでは取り扱おうとしたが、失敗してしまったというか消化不良な感じで終わってしまったというのがありますよね。それで、その次に出たのが『動物化するポストモダン』です。僕はこの本は好きなんですけれどある意味で雑な本だと思っているんですよ。もともと大著の第三章として構想されていたのが動物化するポストモダンだったわけで。しかし、結果として一般の読者にわかりやすい形でこの部分だけ新書として出すことになって、東浩紀の哲学的な部分をシンプリファイすることになり、確かにわかりやすいんだけど、単純化されすぎていて誤解を招くことになったんじゃないか、と思うんですよね。その意味で、東浩紀の理論が今後より体系化されてこの本を乗り越えてくれると良いなぁと思っています。

C:まぁ、僕は誤解するやつが悪いと思いますね。動ポモについての一番象徴的な誤解は、後藤和智が『お前が若者を語るな』で東浩紀社会学者と言っていることですね。動物化というコンセプトが、まるでオタクたちをフィールドワークして観察した結果出てきたみたいな、いわば社会学者の視点で書いたものだと誤解してしまったわけです。確かにオタクの観察の記述もいっぱいあるので、そういう誤解も無理はない部分もあるのですが、東さんの出自はもともと哲学なのであって、ここで標的にしているのは人間と動物そのものではなくてあくまでその「概念」です。フーコーの『言葉と物』の最後、「人間は波打ち際の砂の表情のように消え去るだろう」という話もそうですよね。「近代的人間」批判という思想的文脈は明らかで、これを社会学の本だというふうに誤解をする余地はないと思うので、もっとちゃんと読んでほしい。批判するために読む、みたいなひとが「ちゃんと」読んでも、さらなる誤解が生まれるだけかもしれないですが。

H:社会学の文脈ではなくて哲学書として厳密に読むべきだ、と。まあ確かにそう思いますが、宮台真司大澤真幸がこの著作で大きな位置を占めていることからわかるとおり、社会学的に読もうと思えば読めるようにもなっていると思います。

 いずれにせよ、ともかく、「動物化するポストモダン」でどういうことが言われているか。要約します。近代というのはツリー状になっていて頂点としての大きな物語があって、それによって主体が規定されて主体化する、という図式ですね。しかし、ポストモダンでは大きな物語から大きな非物語、つまりデータベースしかないという形になって、そのデータベースを主体が読み込むという転換が起こっていると。そしてその萌え要素のデータベースの中から汲み取って個々人が小さな物語をつくっていくんだということになっていて、この図式は出版からもう10年ほどたっていますが、わりといまでもリアリティがあるように感じます。たとえばソーシャルメディアとかでもみんな見たいものしか見ていないわけですよね。ツイッターでも自分が好きなやつしかフォローしないし、ちょっとでも嫌なやつがいたらブロックするという形になっています。

 しかし重要な点として、動物化するポストモダンでは「コミュニケーションがスポイルされている」ということがあると思うんですよ。この点についてどう思われますか。

C: 東さんはコミュニケーションという言葉をすごく強い意味で使っていますよね。形骸化されたコミュニケーションみたいな言い方がされていましたが、たとえばインターネットやコミケとかではオタクたちは一見すごく社交的に見える。しかし彼らが人間的なコミュニケーションをしているかというと実はそんなことなくて、それはいつでも「降りる」ことができる形式的なものにすぎないと。

H:他者の欲望を欲望するといった回路が失調したといったさいの他者というものをどう定義するかというのがあるんですよね。つまり「大文字の他者」なのか「小文字の他者」なのかということで、僕はあの本はそのあたり両義的に書かれているように思います。ラカン批判の文脈で書かれているのだから大文字の他者だと読めるし、だけれど他方で小文字の他者として書いているようにも読める。僕としては大文字の他者が凋落するというふうに読んで、大文字の他者というのは公共性といったものに結び付けられると思うのですが、そういったツリーがあってその頂点から公共的コミュニケーションをするといった回路がなくなったんだけど、逆に小文字の他者との関係性というのは宇野常寛が言っているようにむしろ増しているわけですね。おそらくこの両義性というものを宇野は批判したように思います。だから動物化するポストモダンの内容としては、確かに大文字の他者とのコミュ二ケーションは凋落しているけど小文字の他者とのコミュニケーションは強くなっているというのが書けていないというのがあって、そこで宇野のコミュニケーション論とかコミュニティ論が重要になってくるように思うんですね。コロンブスさんは他にこの本でなにか気になるところはありますか。

C:そうですね。一章の日本論とかあまり注目されていないですけど重要だと思います。

H:日本のサブカルチャーというのは江戸時代にまで遡行できる日本的なものの正統な継承者であると語られがちだけど、そこにアメリカの影を見なければならないという話でしたね。鳥肌実とかの芸人もそういう文脈で捉えなければならないという話もあって、いずれにせよアメリカというのをちゃんと考えなければならないという認識は椹木野衣とかにも通じるところがあると思います。

C: 柄谷行人との関係でいうと、「探求Ⅲ」というか『トランスクリティーク』は『日本精神分析』と相互補完的なものとして構成されたものですが、西欧と日本、近代と前近代の乖離をいかに考えるか、という問題意識を東さんも受け継いでいるのではないか。
 あと細かい話ですが、ゼロ年代系の批評の人たちはなんというか素直にサブカルチャーについて語るじゃないですか。だけど動物化するポストモダンを読んでみると、なぜサブカルチャー批評が重要なのかとか意味があるのかという議論をとても丁寧にやっているんですよね。何かを始める人はまず道路をつくらなければいけないので、すごくいっぱい前提が必要になってくる。その意味で初めて道を切り開く人の気負いみたいなのを感じられます。その点、最近ネット論壇で話題の濱野智史前田敦子はキリストを超えた』などのAKB 48論に東さんが批判的なのは、そのあたりの手続きを省略しているところにあるのかな、と思います。

H:つまりサブカルを語ると同時に、なぜサブカルを語るのかというメタ言説もきちんと語られていると。この著作が出版されて以降サブカル批評が非常に栄えたわけだけど、その根底に社会批評がある、ようするにオタクからみた日本社会論だったことを忘れてはならないということですね。それとポストモダンでは人は動物化する、これはドゥルーズ的にいえば人間をモル的に捉えた時に出てくる概念だと思うんですね。確かに斎藤環東浩紀の対立はあるのだけれど、人間というのを分子的に考えた時に斎藤環的なセクシュアリティというか主体論が必要なのかもしれないが、群れとして人間を見た場合に人間はやっぱり動物的だよねということになる、という。

C:人間を個人として一人ひとりの実存を見る場合と、群れとして観察する場合では行動の原理が違ってくるという話ですね。

H:そうです。ドゥルーズの分子的/モル的という概念は非常に有用性が高いですね。人々を群れとして考えるという考え方は、たとえばフーコーとかも言っているけど近代の生―政治みたいなのが源流としてあるわけです。近代の生政治は人間を人口学的ないしは統計学的に捉えることによって人々を生きさせる権力だったとフーコーは言っていて、そのようなフーコーの権力論に関連する著作になるのが、東浩紀の次の著作である『情報自由論』です。この『情報自由論』でどういう議論がされていたかというと、近代は「規律訓練型権力」によって、他者のまなざしを内在化することによって自分で自分を律するという主体化の過程があったが、それと同時に現れてきた生政治の側面の方が現在では強くなってきていて(この用語法はフーコー的には厳密には違うんだけど東さんの文脈ではこう表現する)、そしてその生政治が「環境管理型権力」と言いうるものになってきているんだ、というものです。『記号と事件』に収録されている、ネグリによるのインタビューである「管理社会について」という文章の中で、ドゥルーズは「ディシプリンからコントロールへ」という話をしている。フーコーというのは確かに偉大な議論をしたわけだけど、ポストモダンではそれを修正しなければならないと。ようするに近代は自分で自分を律する主体化というのがあったのだけど、現在では情報技術と結び付く形で人々を動物として管理する権力が出てきた。ポストモダンというのは物語の凋落だけど、それを補うようにして情報技術が使われてきているという議論でした。アーキテクチャによるコントロール。

C:この『情報自由論』というのは東さんの中では失敗作として思われているらしくて、結局のところ環境管理批判というのが極めて左翼的な視点であり、そのような視点はやはり捨てなければならないという立場になった。

H:非常に左翼的であるゆえに論壇受けもよかった。この著作の可能性の中心というのは「自由というものについてどう考えるか」ということにあったわけですが、ここで展開されていた自由論は今からみるとどのように思われますか。

C: ここで言われている匿名の自由というのは今でも非常に新しい自由の議論だと思います。そして自由について考えるということは人間について考えることと切り離せない。いわゆる表現の自由というのはよくされている古典的な話ですけど、ここでいう匿名の自由、いわば動物の自由という新しい自由を守ることが自由の擁護になると。東さんの中では自由という言葉にはずっとこだわりがあって、ここでされた自由論というのは潜在的に残っているように思いますね。

H:『自由を考える』はそうですね。あと動物化するポストモダンでも「降りる自由」ということを言っていて、その議論は物議をかもしましたね。東浩紀における自由というのをどう考えるかというのはわりとクリティカルなポイントなのかもしれません。

C:『情報自由論』以降は自由という概念自体は後景に引いてしまいましたよね。しかしこの点については一般意志2.0に自由の話が少しだけ出ているのでそこにつながっているのかもしれません。

H:なるほど。僕は情報自由論で一番良いと思うのは、やはり最終章でされているハクスリーの『素晴らしい新世界』についての記述ですね。現代というのはハクスリーの素晴らしい新世界みたいな幸福な管理社会になっている。ハクスリーの小説の中ではソーマという非常に安全なドラッグが供給されていて、性科学的な取り組みもあって、非常に楽しい世界になっているわけです。だけれど東浩紀はそれを最終的に否定するんですね。「お前は苦しむ自由が欲しいのか」と問われて、「そうです、私は苦しむ権利を求めます」というようなことをこの小説の中で登場人物が言っていて、東浩紀はそれを肯定するんですね。苦しむ自由というのは何かというと、おそらく動物的な社会というのは快楽の社会なわけなんですよ。それに対して苦しむ自由を求めるのというのはラカン的に言うと「享楽の自由」であると言える。そこのあたりは東浩紀の中でアンビヴァレントなものとしてあって、一方では動物=オタクを超人として考えるというのが東浩紀のあたまのなかにあった。つまり宮台の女子高生擁護と同じような文脈の中で、オタクの動物性を超人としてとらえるという側面があったはずなんです。だからその点は極めて両義的なように思います。

C:この点に関しては『波状言論S 改』の大澤真幸さんとの対談で指摘されていますが、フーコーは『性の歴史』三部作で結局「自己への配慮」にいってしまう、あれは非常に凡庸である、とされます。享楽の問題は横において、快楽を最大限化するように自己と政治を組み替えていこう、というのは運動論としては非常に明確でわかりやすいが、あまりに単純なものではないかということです。フーコーは享楽の次元をどう考えるのかと。

H:あと、僕が情報自由論を読んでいて思ったのは、「ある種のデータベースによって生成するような創発民主主義みたいなのはルソーと的なものとは無関係なんだ」という話をここでしているんですね。だからここから一般意志2.0へは方向転換があったように思うのですが、この変化についてはどう思われますか。

C:これは明確に方向転換があったと思います。『動物化するポストモダン』にもルソーと共感という話が登場しますが、そこのルソーからも断絶している。それは東さんが一般意志2.0を書くにあたって、ルソーのある一節を読んでそこから閃いたという話があります。「もし、人民が十分に情報を与えられて熟慮するとき、市民がたがいにいかなるコミュニケ―ションも取らないのであれば、小さな差異が数多く集まり、結果としてつねに一般意志が生み出され、熟慮はつねによいものとなるであろう」という節ですね。単純にその再読経験が転換点になったのではないでしょうか。

H:つまり「動物的な世界でも政治性が成り立つんだ」という話でしたね。それで情報自由論の次の著作というと『ゲーム的リアリズムの誕生』なわけです。これはどういう内容かというと、まず現代社会というのは非常に流動性が増していて、社会学で言うところの再帰的近代であると。再帰的ってどういうことかというと、伝統さえも行為の基盤ではなく、選択肢の一つのオプションにすぎなくなるってことですね。こういった世界は非常に偶然性が増す、あるいは自分が本当はこうでもありえたんじゃないかという反実仮想的な可能世界的想像力というのがアンプリファイされる社会なわけです。そういった「可能世界的想像力が増した世界における文学性」とは何かというのを考えた時に、ゲーム的というかエロゲーの「マルチエンディング的な感性」が出てくるというのが、この本の主題ですね。具体的にどういうことかというと、いろんな世界がありえていろんな世界に私は行くんだけど、そのいろんな世界に行く私というのは同一性を持っている。いろんな世界を経験しうるんだけど、人生自体は一回性だというのが「ゲーム的リアリズム」なんですね。もっともそれが本当に新しい文学なのかという疑念もありますが。

C: ゲーム的リアリズムについてはそれこそ宇野さんが批判していますよね。美少女ゲームにおける「レイプファンタジー」がどうとか。

H:いや、それはゲーム的リアリズム批判というより「AIR論」批判ですね。宇野が東のAIR論をどう批判したかというと、「父になることの欲望を断念することで超越性を確保するやり方というのは実は単なる自己反省による自己強化にすぎなくて、結局のところ家父長制的な欲望は断念されておらず、断念するという身振りで再強化されているにすぎない」ということですね。しかし、はっきり言って男が女を好きになった時にそこに自分を強化する言説が入ってくるというようなこと自体はよくあることだし、美少女を欲望するというのは美少女ゲームのテンプレにすぎないのであって、それは物語の内容というより前提、すなわちフォーマットなんですよね。だから、あの批判はあまり意味がないと思います。それで他にゲーム的リアリズムにどういう批判があるかというと、小林秀雄に「人は様々な可能性を抱いてこの世に生れて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚く可き事実である」という文章があるのですが、「そういった感覚は小林秀雄の時代からすでにあるんじゃないの」という批判がありますね。それでポストモダンの「キャラクター性」を考えた場合、キャラクターというものは「死なない」わけですね。それでその死ななささというものを考えていくと最近の日常系というものにつながってくるんじゃないかと思うんです。コロンブスさんはゲーム的リアリズムの誕生でどういうところが面白かったですか。

C:僕は舞城王太郎論が一番面白かったですね。ここで論じられている代表的な作品というのは『ALL YOU NEED IS KILL』と『One』と『Ever17』と『ひぐらしのなく頃に』ですが、桜塚の『ALL YOU NEED IS KILL』と舞城はメタ物語的な宙づりの不能性に焦点を当てている。対照的に『Ever17』と『ひぐらしのなく頃に』はメタ物語的な宙づりの全能性の方に焦点を当てていました。私たちはいくらでも幸せになることができるという話ですね。それでその二つを受けたうえで舞城王太郎が出てくるわけです。舞城の『九十九十九』がどういうふうに解釈されているかというと、「私たちは、メタ物語的でゲーム的な世界に生きている。そこでゲームの外に出るのではなく(なぜならゲームの外など存在しないから)、かといってゲームの内に居直るのでもなく(なぜならそれは絶対的なものではないから)、それがゲームであることを知りつつ、そしてほかの物語の展開があることを知りつつ、しかしその物語の「一瞬」を現実として肯定せよ、これが、筆者が読むかぎりでの、『九十九十九』のひとつの結論である」となっているんですね。この結論は『九十九十九』の話であると同時に、ポストモダンにおける生の話、ポストモダンでは人間がどう生きるべきかという問題に対する東さんの解答なのかなというふうに受け取れますね。この現実を肯定する、一瞬を肯定せよというのはもしかしたらニーチェにもつながる話ではないかと思います。

H: なるほど。ニーチェ永劫回帰に関しては僕も感じました。東さんはニーチェにあまり言及しませんが、ポストモダンにおいて実存の問題を考えれば、ニーチェ的主題が滲み出るのは必然でしょうね。

 さて、『ゲーム的リアリズムの誕生』の次にあるのが『キャラクターズ』ですね。これは純文学のキャラクター小説化というのをもくろんだ作品だと思うのですが、この作品では文学論みたいなのが展開されていましたよね。純文学というものがどういうふうに構成されているかというと、構造/物語/文体からできていて、構造というのはある種の説話論的なものとしてわかりやすいし、物語の内容というのはセックスアンドバイオレンスであると。文体というのは柄谷が言っているように言文一致体でつくられたような透明な言語。

C:この東さんの理論と小説の関係というのはそれこそいくらでも読みこめそうな感じもありますね。とりあえず東さんの文体というのは特徴ありますよね。非常にシンプルで、情報圧縮的というか。構造としてはメタ構造をいっぱいとっていますし、内容は放尿が出てきたりとか(笑)。やはり性的なモチーフは大事だと。理論と小説の細かい対応関係というのは検討課題ですね。でもこれはたぶんいっぱい罠が仕掛けられているような気がします。

H:この作品で非常に印象的だったのは、桜坂さんの処女作である『よくわかる現代魔法』に出てくる登場人物と、阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』の登場人物が出てきて、その両者が拮抗しながらも、ライトノベルの側であるよくわかる現代魔法の登場人物の方が魔法で圧倒するというところですね。その二つのリアリズムの緊張関係、つまり自然主義的文学とキャラクター小説的文学の対立というのが内部で図式化されていて、その両者のはざまにいながら、しかしだけれどやっぱり東浩紀ラノベ的なもののほうに重きを置いている、という印象を受けましたね。

C:物語レベルではそういう表現になっていますね。でも、それも罠があって、「それを書いたのが本当に東浩紀なのか」というのがある。これはクイーン的な罠というか、書いている主体がどちらなのかわからないわけですよ。文体とか理論とかの書き方でこっちが東さんかなとか、たぶん交代交代で書いていると思うので、なんとなくイメージがわくんですけど、テクストのレベルでは決定不可能になってますね。

H:この作品は面白いのだけど、残念ながらあまり話題にはなりませんでしたよね。

C:あまりに荒唐無稽すぎたからですかね。朝日新聞テロするし(笑)

H:朝日新聞を爆破するのは作中でも言われているように凡庸でもあるわけですね。しかし、この作品はいろいろ含蓄もあるし面白いのだけど、そこそこ面白いよねで終わっている感じがしますね。『クォンタム・ファミリーズ』についてはどう思われますか。

C: クォンタム・ファミリーズはすごく好きで優れた小説だと思います。読むのはかなり難しいですけど。これもそれこそ批評家ホイホイというか、読み込もうと思えばいくらでも読みこめるようになっていますね。「35歳問題」として東さんの「村上春樹論」が展開されますが、それは結局、「虚構として」表現されている。これは東さんが指摘していることですが、舞城王太郎文芸誌で自己の小説内のキャラクター「愛媛川十三」に扮して評論を書いています。このことの意味は、「批評」などキャラクターにエンターテイメントとして書かせれば十分なのだ、ということではないか、と。クォンタム・ファミリーズは平行宇宙論などイーガン的なSFの要素を導入したり、舞台がショッピングモールだったりして、東さんの最近の思想地図β路線の言説ともリンクしていて、非常に東浩紀読者というかゼロ年代批評読者には萌え要素に満ちた小説だと思いますね。

H:そうですね。東浩紀読者にも萌え要素があるし、それと同時にSFの読者や純文学の読者も呼び込めるような作品になっていると思います。

C:すごく計算された作品かと思いきや、他方でなんかよくわからない文章もいっぱいある。僕がよくわからない文章だと思うのは、たとえば「汐子の物語」という嘘と動物がテーマの物語内物語です。それは父が残した絵本のプロットとして三つか四つぐらいのバージョンで語りなおされているんですね。そしてその物語は汐子という仮想人格にむけて語られる。これによって汐子の人格も形成されるので結構重要な話なのですけど、これがなにを意味しているのかは全くわからない。そこに言及した話とかもあまり聞いたことがなくて、その辺りの分析とかどこかにあったら読んでみたいですね。

H:東浩紀というのは2007年ぐらいから政治化していて、それと同時に文学というのもやっているんだけど、その政治化したのがある種結実したのが『ised』以降に書かれた『一般意志2.0』ですね。

C:そうですね。一般意志2.0というのはそれまでの東さんの仕事の総決算で、現代思想、政治哲学、情報社会論、サブカルチャー論といった東さんのこれまでの仕事の総まとめとになっていると思います。

H:そうですね。それでこの一般意志2.0で言われているのはどういうことかというと、ようするにフロイトとルソーとかを使いながら人の無意識というものをベクトルとして考える。とある人によるとベクトルじゃなくてテンソル場だ、というような議論もありますが。人の無意識というものをデータベースから汲み取って何らかの民意形成できないかという内容ですね。ネット民主主義みたいな問題は昔からあるのだけれども、それをルソーとフロイトによって基礎づけようとした、というのが重要なポイントでしょうね。

C:よく誤解されがちですが、これは集合的無意識に政治が従うべきだというポピュリズムのような主張ではなくて、それをいかにして熟議、政治家の側が抑え込むかという構図になってますよね。

H:そうですね。あくまで両者が相補的関係にあり、一方で熟議や討議という形での民主主義っていうのは残存させながらも、それが独裁に陥らせないようにするために、他方で民衆の無意識のデータベース的可視化というのがある。逆に民衆の無意識を暴走させないためにある種のエリートが存在するというような相補性。

C:二つのものが大事だっていうのが東さんの中にありますね。「存在論的/郵便的」という対比だったり、「人間/動物」、「熟議/データベース」という対比だったり、あるいは「否定神学創発神学」とか。どっちか一方だけじゃなく、この二つのものが重要なんだっていうことは、この著作においても一貫して見出される構造ですね。

H:ある種のトランスクリティークというか、その両者の往復が重要ということですね。ここまでで、東浩紀についてはソルジェニーツィン試論から一般意志2.0までのだいたいの軌跡をたどってきましたが、東浩紀以後の批評というものについてはどのように考えていますか。東浩紀がやっていることは非常に政治的な側面もあるし重要なことだと思うのですが、基本的に東浩紀以後の批評っていうのはひとつの島宇宙というか、はてなダイアリーとかでサブカル批評で馴れ合っていたりするようになっている部分があると思うんですよね。

C:僕が初めてはるしにゃんに会ったのは、大阪のスタンダートブックであった思想地図βのシンポジウムですよね。あの時に東さんがおっしゃっていたのは、「ゼロ年代批評というのは良くも悪くも子供の遊びで、震災以後それらは全く力を失ったのではないか」、ということですね。その意味でゼロ年代批評というのは非常に脆弱なものであって、批評の役割はこれから見えてくるのかという話がありました。

H:しかし、僕は思想地図β2を読んでもあまり面白いと思えなかったんですよね。その大阪のシンポジウムも収録されていますが、そこで鈴木謙介がどう言っていたかというと、名状しがたいなにか「外傷的な核」みたいなものをなんとかして言語化しようという試みが批評であり、思想であり、宗教なんだということを言っているんですね。しかし、思想地図β2というのは全くそのような書籍になっていない。非常にジャーナリスティックな文章が多く、佐々木俊尚津田大介の文章が一番面白くなってしまっている。それで、東浩紀以後の批評をどう考えるかという問題ですが、2007年ごろに東さんが文化系トークラジオLifeっていう番組の中で、「なぜ茂木健一郎的な脳科学と現代思想的なものが組み合わせにくいのか」ということが言われていて、東さんは「ただ僕が興味ないだけでいずれ出てくるでしょう」と言っていたのです。そして、そこでようやく出てきたのが千葉雅也さんだ、と思うんですね。茂木健一郎的なクオリア主義というのから抜け出して、インフラストラクチャとしての脳を考える。「アーキテクチャとコンテンツの二項対立を脱構築する形で脳というものの可塑性が出てくるんだ」という議論を思想地図β1の論文でしていて、それは一種の進歩というか躍進があると思うんですよ。

C:僕も千葉雅也さんは重要だと思います。たぶん趣味の問題と理論の問題の両方があると思いますが、東さんはネットの方に行きますよね。ようするに内部のネットワークとしての脳ではなく外部のネットワークとしてのインターネット。でも、これは分析の対象は違いますが、手法としては似ていると思います。

H:ある種の否定神学批判ということでしょうか。また、東浩紀以降の批評といった際に、どうしても宇野常寛というのがメルクマールというか転換点になったと思うんですね。宇野常寛的な批評言説というか、わかりやすい社会反映論批評みたいなものはネット上に跳梁跋扈していますよね。

C:僕は宇野常寛こそがゼロ年代批評の中心にいたと思うんですよね。もちろん東さんもゼロ年代批評の中心にいたといえばいたのですが、むしろ東さんはゼロ年代批評とは何か違う異様なことをやっていたようなイメージがあります。やっぱりやっているのは「哲学」であって、いわゆるゼロ年代批評の大まかな流れである宇野さんみたいな現代社会を考えるために批評をやるみたいな、それこそ福嶋亮大さんだったり村上裕一さんだったりもその代表になると思いますが、そのあたりとはまた違う流れにいるように見えるんですね。

H:まぁいわゆるサブカル批評において宇野さんは大きな地位を占めていますよね。宇野さんは東浩紀批判というのをやっていて、大きくわけてそれは動ポス批判とAIR論批判の二つがあると思っています。その批判というのはようするに「コミュニケーション」に関する問題です。宇野さんというのは非常に恋愛について言及する方です。東さんは運命論者で、セックスは市場で交換可能なわけですが恋愛というのは交換不可能性としてあって、それは運命としてもたらされるしかないんだという感じですね。それに対して宇野さんは違っていて、恋愛市場みたいなものはポストモダン化によってより色濃くなっていて、そのなかで適応して彼女をゲットして、その彼女との関係で一回生というか超越性みたいなのを磨きあげていこうという立場です。ようするに宇野さんの言ってることというのは恋愛マーケットにおいて努力してサヴァイヴしようぜという話なんですね。おそらくそれは間違っていなくて、非モテ理論武装をしている東読者の実在性みたいなのが決断主義トークラジオで議論されていましたけど、実際にそういう人はいると思うので。東の動ポスを「コミュニケーションしなくても萌えでいいんだ」というように受け取ってしまった若者というのは僕の観察範囲内ではそこそこいて、僕も昔わりとそうだったんですよ。

C:いやー、でも東さんがいっていたように、そんな人は全国で三ケタもいないんじゃないですか(笑)

H:いや、結構いると思いますけどね。宇野というのは非常に実存的というか人生論的に批評を読む人だったわけですけど、そういうのが強くなってしまったということは、つまり実存的に本をよんでしまう人が多くなっているということではないでしょうか。さっき言ったように僕も実は非モテ理論武装系だったわけですが(笑)、やっぱり非モテ論壇というのがゼロ年代本田透とかで流行ったのもありますし、文学の中でも滝本竜彦とか人気だったわけです。滝本とか見ているとわかるけど、大きな物語がないから俺は恋愛したいみたいな、彼女ができれば世界の悪なんてやっぱりなくてもいいかもしれない、というメンタリティがあるんですね。そういった恋愛至上主義化というのがあって、そのなかで「萌えとコミュニケーションの対立」があった。そこで動ポスは萌えに重点をおいてコミュニケーションをスポイルする側に機能したといえるのではないかと思います。その流れに対する反発として、宇野のコミュニケーションにある程度適応していかなければサヴァイヴできない、という主張は正当性がないわけではない。なぜかというと、たとえば滝本も最近は小さな成熟の方に向かっているんですよ。彼はじつは路上ナンパとかも始めちゃっているし、いずれにせよなんらかのコミュニケーションがないと生きていけないというのは正しい。また、滝本の最近の著作である『ムーの少年』というのは非常にニーチェ的なんですね。滝本は『超人計画』という本では、プラト二ズムというかキリスト教的背後世界というのを否定して僕たちは超人にならなければならないんだということでナンパとかをしている。ちなみに、パウロに歪曲される前のキリストの教えがどういうものだったかというと、いまここが天国なんだ、いまここが福音なんだというものだったんですが、そうした「いまここというのを天国として享受する」方向性に、滝本もシフトしていて、それはわりと宇野さんの小さな成熟に似ていると思う。いまここが楽園なんだというのは、日常系もそうだし、特にけいおん!とかそうですよね。非モテでコミュニケーションを断つというのは厳しくなってきていて、そこで宇野的なコミュニケーション論がある程度は実効性を持ってきていると言える。

C:ようするにこれからの批評の可能性は、コミュニケーションというものをいかに肯定するかというところにあるということでしょうか。

H:それもあります。しかし、そうなってきていると同時に、じゃあ萌えっていうのはやっぱりたいしたものではないのかというと、それは違うんだということで、村上裕一さんの『ゴーストの条件』が出てきたんですね。村上さんのこの著作は柄谷行人の『探求』と東浩紀の『存在論的、郵便的』における「固有名論」というものを「萌え」に適用してみたというものだと思います。どういう内容かというと、あるキャラクターの固有名があって、それが流通過程=郵便空間においてある種の幽霊性というか単独性らしきものを持つわけですね。そういった幽霊性を彼は「ゴースト」と呼んでいます。それで、ゴーストというのは象徴的統合の機能を持っていて、それぞれが趣味の共同体における「神」として存在する、というわけです。東の動ポスというのは「萌えはプロザックみたいなものだ」と言っていて、ある意味で非常に唯物論的な著作だったと思うんですが、しかし「萌え」というのはプロザックにすぎないのではなく、実際はもっと固有名の流通過程において涵養されるトランセンデンタルでヌミノースな性格というものをキャラクターは持っているのではないか、というのを論じたのがゴーストの条件です。たしかに、これは東浩紀の昔からの理論をちゃんと読んでいたら出てくる結論だと思うんですね。いずれにせよこれは「キャラクターに神を見る」ということを強く押し出した著作だったと思います。

C:つまり未来の批評の方向性として、村上裕一的な萌え肯定路線と、宇野常寛的なコミュニケーション肯定路線があるが、そのどっちもいいじゃないかということでしょうか。

H:僕はどちらも好きなのですが、村上さんがいて、宇野さんがいて、あと濱野智史さんがいますよね。宇野さんはコンテンツ派で、濱野さんはアーキテクチャ派だとよく言われていますが、その中間にいるのが福嶋さんとかですね。だからまぁコミュニケーション、萌え、アーキテクチャの三項図式があり、さらにその条件とも言える脳=インフラがあると。

C:思想地図β2が面白くないという話がありましたが、3号とかになるともうそのへんのゼロ年代批評の感じは完全に消えていますよね。ゲンロンのエロゲ風のバーナーに「おれが好きなのは昔の思想地図なんだ。…β3には宇野さんも濱野さんも福嶋さんもいない。仮面ライダーの「か」の字もないじゃないか」というセリフが登場しますが、やっぱりはるしにゃんさんも昔の思想地図は良かったけどβの方は寂しいなという感じですか。

H:思想地図ではβ前の3号のアーキテクチャと4号の想像力が好きでしたね。東さんというのはいま震災以後のモードに切り替えているのですが、震災によってなにがどう変わったのかというのは重要なポイントですよね。

C:震災直後はものすごい影響があると思っていましたけど、震災から時間がたつとわりとみんなするっと忘れていっちゃって、思ったほど影響ないという印象はありますね。

H:僕も全く同じように感じます。僕は震災当時は関西にいたのですが、関西というのは単純に震災を祭りとして享受したという側面があると思うし、やっぱり福島というのはカルチャーの出発点でもなんでもない単なる片田舎なので、もし震災の影響を考えるなら東京がどのような影響を受けるかということだと思うのですが。僕はいま関東に住んでいるのですけどそんなに大きな影響は感じていないですね。

C:震災からの復興というのは大事だけど、やはりその過程ですごいゴタゴタがあってシンプルに被災地のひとを考えるというのが難しいですよね。被災者のことを考える前に民主党政権の批判が挟まったりとか、そういうのが重なるとだんだんどうでもよくなるというか。

H:やはり現在のコミュニケーション環境においてはあのような大事件が起こってもネットワーク上での祭りとして消費されて終わってしまうという回路があると思いますね。現代美術なんかは影響を受けると思いますが、アニメなんかはむしろ忘却を志向しているように見えます。

C:個人的には震災のダメージは大きいと思っています。また、震災の悲劇をいかに記憶するか、とうことで、たとえば東さんが次の思想地図β4の企画として福島第一原発観光地化計画というのを立ち上げていますが、ああいうアイデアは面白いと思うので思想地図βはこれからも興味深いですね。

H:一般に震災以後サブカルチャーないしオタク文化が変わらざるをえないという言説がありましたが現在の状況を見るとそうでもないですよね。みんな普通に萌えアニメみて萌え萌え言っている。宇野さんは、震災が想像力に与える変化としては、日常のなかに時おり非日常が入ってきて不安になったり、それでも日常は続いていたりというような想像力が出てくるみたいな話をしていますね。政治について東さんと宇野さんがどう考えているかというと、東さんというのは一般意志2.0でしたようなデータベースを使っていこうという話なんだけど、宇野さんはAKBと政治というのを考えているようですよね。宇野さんが言うには、AKBの「推す」というのは自分が積極的にコミットをしているという感覚を与えるのに非常に優れていると。AKBやゲーミフィケーション的な楽しんで参加できるということを、あるいはサブカルチャーにおいて醸成されてきた想像力を政治に現実の政治に導入してみたらどうかというのを考えている人だと思いますね。

C:とりあえずいま東さんがやろうとしているのは出版社としてのゲンロンの運営をきっちりやっていくことと、あとは小説なんだと言っていますよね。批評から少し距離を置いている感じがしますね。

H:僕としては一般意志2.0以降の課題は何かというと、震災もあるのですが、アーキテクトの問題だと思うのですね。つまり一般意志2.0というのは夢を語ろうと思うという言葉によって免罪符を得て実装についてはあまり語れていない。おそらくニコ生と事業仕分けぐらいしか出せていないというのがあって、今後他にいかにして一般意志2.0を実装していくのかということが今後重要になってくるのではないかと思いますね。そしてアーキテクトを育成していこうというエリート主義が宮台であり、またそれに対してある種オープンソース集合知に期待しているのが東だと思います。それはどちかを選ぶというよりも、両立していくべきだと思います。つまり前者は熟議に近く、後者はデータベースに近い。

C:それはやはり相補的なわけですね。
 もうそろそろ時間ですので、最後になりますが、せっかくはるしにゃんの同人誌に参加できたということで、少し補足させてください。
 前置きとして、東さんの村上春樹ノルウェイの森』論を紹介します。村上春樹の作品にはほとんど固有名が登場せず、代わりに記号と数字が氾濫している。固有名が導入されるのは『ノル森』以降です。そして同時に死とセックスが描かれる。これは春樹がついに「実存」や「現実」を描いた、ということではなく、恋人や親友の死といった個人にとってかけがえのない経験さえシミュラークルにしてしまったということを意味する、という話です。
 さて、僕ははるしにゃんの文章で「親友の死――随筆、あるいは自殺において」がとても好きなんです。題名の通り、親友の自殺を感傷的に描写した、とても美しい文章です。これを読んで素直に感動する一方で、この文章を書く過程ではるしにゃんは親友の死を完全にシミュラークル化し、ある種の完璧なエンターテイメントとしてコントロールしてしまった、とみることもできるのではないか。まるで『ノルウェイの森』のように。そしてそのことで劇的に回復し、こうして同人誌を出すまでになった。批評が救い足りうることのパフォーマティブな実践として、大変興味深く読みました。また、死者をいかに記憶するか、という意味で、福島第一原発観光地化計画とも密接に繋がっているような気がします。

H:今日は東浩紀についてお話できて楽しかったです。自分で言うのもなんですが、東浩紀への再入門としてなかなか良い話ができたのではないでしょうか。ありがとうございました。

C:こちらこそありがとうございました。