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フェイク 第1174号

 投稿者:シーズン3  投稿日:2011年 2月 7日(月)23時09分49秒
  (発行=11.02.07)
大宣寺の菅野日龍(慈雲)が死亡
日顕に 「次の次」 と騙された惨めな生涯
注目される「相承箱」の行方と後任人事

 日顕宗大宣寺(東京都国分寺市)の菅野日龍(慈雲)が六日午前九時過ぎ、肝臓
ガンのため入院先の順天堂病院で死亡した。享年七十八歳。通夜は八日午後七
時、告別式は九日午前十時から大宣寺で行なわれる。

 つい先日、同寺の副住職として日龍の息子の菅野道渉が府中市・妙観院の主
管から異動したばかりだが、このまま住職に昇格することはないとみられてい
る。

 常在寺の細井珪道が他界した後、同寺で住職を補佐していた息子の信哲が冷
や飯組になったように道渉も大宣寺から追放される可能性が大きいと言われて
おり、「相承箱」の行方と共に後任の住職人事が注目されるところである。

 菅野といえば、まず思い出されるのが、日顕に手玉に取られて「盗座」を黙
認してしまったことである。

 細井日達法主が逝去した昭和五十四年七月二十二日の朝、日達師の息子の珪
道と琢道、娘婿の菅野らがいた大石寺の西奥番室に当時、総監だった阿部信雄
(日顕)が血相を変えて入ってきて「後のこと(相承)は、どうなっているか、君
たち聞いているか?」と問うた。

 すると菅野が「いやぁ~、それは総監さんじゃないですぅ?」と言うと、阿
部は「あっ、そうかぁ……」と呟き、考え込むような表情で頷いた。阿部信雄
(日顕)が相承詐称を決意した瞬間である。「盗座」を決めた日顕は、自分の次
は菅野にするからと騙し、その口を封じた。菅野は騙されているとも知らず、
弔問に駆け付けた学会首脳に場所柄もわきまえずに「次の次は私と聞いていま
す」と言って唖然とさせたこともあった。

 こうして菅野を騙した日顕は緊急重役会議で、昭和五十三年四月十五日に血
脈相承に関して甚深の御指南を受けた旨、大ウソをつき、これを重役だった椎
名法英はウソと知りながら「重大発表」として紹介した。

 あの時、菅野が別の対応をしていれば、日顕というニセ法主は誕生していな
かったかも知れない。

 この翌五十五年三月、椎名は「重大発表」の功で、法主に次いで宗教的権威
があるとされる能化に昇任して「日澄」を名乗った。

山崎正友と結託し、海外組織の檀徒化に狂奔

 菅野は相承箱を持っていると言われていたが、日顕には渡さなかった。そこ
で昭和五十六年一月十三日に日顕は早瀬義寛(今の日如)、早瀬義孔、八木信塋、
息子の信彰の四人を引き連れて大宣寺に乗り込んだ。しかし、菅野に機先を制
されて日顕らは退散した。

 しかも、菅野は身近な人に「相承箱は大宣寺にある。代が替われば本山に返
す」と語っていた。こんな菅野は、日顕にとって目の上のタンコブで、今はそ
の死を喜び、安心しているとも宗内から伝わってきた。

 沈黙を続けた菅野は平成十四年十月五日、能化に昇格。常観院日龍と名乗っ
ていたが、日顕宗の能化とか日号などは、ご褒美や口封じの役割を果たす程度
の、いい加減なものでしかない。

 また、菅野は第一次宗門事件の際、正信会の要の存在で、山崎正友の策謀に
加担。山崎の発案で設置された宗務院の海外部長に担ぎ出され、海外組織の檀
徒化に手を染めたこともある。
 

法太郎氏はやくざだった!

 投稿者:朗報  投稿日:2011年 2月 7日(月)20時54分10秒
  http://www3.ezbbs.net/04/hotrokaka/

現在は削除されたものの、プリントスクリーンしたものをここにアップする!

法華講は既にヤクザ化したことがここに伺える。

真面目で心優しい方は、法太郎やれいなのようなやくざには用心するべきである。

 

訃報

 投稿者:一信徒  投稿日:2011年 2月 6日(日)12時56分19秒
  東京都国分寺市の大宣寺住職の菅野日龍(慈雲・常観院日龍贈上人)が肝臓癌の為に
逝去された。
享年77歳
謹んで哀悼の意を表します。
 

大月天管理人の妄説を砕く

 投稿者:孫悟空  投稿日:2011年 2月 6日(日)02時57分53秒
  >直に日什は仰せを日蓮大聖人に帰する処也』
と一番大事な内容を自分の意見として書き遺しているではないか。おかしいではないか。

■ 答う、顕本法華宗の基本である経巻相承を理解せずに批判、反論に値しない痴論は、論なき論の繰り返しになるのであり、しっかり理解した上で反論すべきであろう。
まずは、大月天の破折から迫ることにしよう。
大石寺の本門戒壇が正しいという思考停止は、まさにオウムと同じ発言を繰り返す事、猿がセンズリを覚えたら死ぬまで止められない事と同義ということを大月天は知るべきであり、知る前より批判するは大きな悪を生み出す憎悪宗教の証しである、こういう馬鹿を「大避顕」というのだ。
肝に命じて脳味噌を冷やすことが肝要である。
「内証は独り法華経に依るが故に、然りと雖も、末代においては真の知識なし、法を以て知識となす」

「日什跡之事」
「右日什門徒においては付弟、嫡弟とて一人定め置くこと有る可からず。但誰にても門徒僧衆の内に京都の弘通を致し、諸宗は堕獄、法華宗計り限りて成仏す可しと堅く申さんずる人を、門徒の僧俗共に供養を捧げ給う可く候。亦、同じ器用の人候はば、一夏一会、打ち替わり打ちかわり弘通す可く候。此の如く弘通し候わん人を、日什真実の弟子となす可く候。仍て後日の為、置文状件の如し」
せめてこのくらいの説明は大月天よ、書かなければ恥を搔くのは御主であるぞ。

ここに書き置くのは経巻相承においてである。
大石寺の歴史などは、簡単に崩すことは出来るのだよ(笑)
よく、わかったかね、大月天よ、書いてる内容とは違いハンネ負けしているように思わないかね?
「富士年表より」
「一」1379 天授 5 己未 長慶 足利義満 康暦 1 3.22 後円融 滅後 98年 日時
▽玄妙改心して富士門流に帰し日什と改名(什譜) 4.27 平賀本土寺3代日満寂(宗全18ー76) 9.5 義満、河野通直をして細川頼之を討たしむ(花営)
「二」1380 天授 6 庚申 長慶 足利義満 康暦 2 後円融 滅後 99年 日時
6.4 富士妙蓮寺日眼五人所破抄見聞を著す(4ー26) 3.23 玄妙日什富士門流を出で下総真間弘法寺に至る(宗全5ー3)12.1 玄妙日什起請文を真間に呈す(宗全5ー4)

「三」1382 弘和 2 壬戌 長慶 足利義満 永徳 2 後小松 滅後 101年 日時
日興・日目50遠忌3.5 日向の法一土地をあいのやつの御堂〔保田妙本寺〕に寄進(8ー76) ○玄妙日什鎌倉管領足利氏満に申状を上る(宗全5ー巻首3)○玄妙日什第2次天奏(宗全5ー巻首3)

「四」1383 弘和 3 癸亥 後亀山 足利義満 永徳 3 後小松 滅後 102年 日時
夏 玄妙日什第3次天奏(宗全5ー巻首3) 1.6 義満を淳和・奨学両院の別当と為す(足官)6.26 義満を准三宮と為す(足官)

「五」1384 元中 1 甲子 4.28 後亀山 足利義満 至徳 1 2.27 後小松 滅後 103年 日時
3.19 大石寺塔中南之坊2代大輔阿日善寂93(過)8.22 富士妙蓮寺5代大法坊日眼〔南条時光の子・乙次丸〕寂(過) 2.15 玄妙日什分立して一派を唱う(宗全5ー120)

「六」1385 元中 2 乙丑 後亀山 足利義満 至徳 2 後小松 滅後 104年 日時
1.8 保田日伝制誡3ケ条を定む(8ー231)2.7 日向定善寺2代日礼寂(過)3月 保田日伝幕府に申状を上る(8ー373) 10.14 八品日隆越中に生る(宗全3ー巻首1)○玄妙日什遠江府中にありて本迹勝劣を論ず(宗全5ー巻首4)○玄妙日什武蔵品川に本光寺を創す(什譜) 3月 新田義則兵を陸奥に挙げんとす(鎌草)
「七」1389 元中 6 己巳 後亀山 足利義満 康応 1 2.9 後小松 滅後 108年 日時
9.8 上総藻原寺4代和泉房日海寂54(過)○玄妙日什京室町に妙満寺を創す(寺誌) 2月 高麗の賊対馬に寇す(東通)
「八」1391 元中 8 辛未 後亀山 足利義満 明徳 2 後小松 滅後 110年 日時
7.6 下総猿島富久成寺3代日慈寂(過)▽日時、本因妙抄を写す(石蔵) 1月 玄妙日什幕府奉行松田丹後守につき目安を将軍義満に上る(宗全5ー47)3.7 玄妙日什将軍義満に直訴(宗全5ー47)○身延日叡立法華肝要抄を著す(奥) 12.30 山名氏清戦死(明徳)
「九」1392 元中 9 壬申 後亀山 足利義満 明徳 3 後小松 滅後 111年 日時
4.13 日時本尊を書写し陸前一迫伊予公に授与(8ー191) 2.28 京妙満寺開基玄妙日什寂79(宗全5ー57)○大妙坊日栄相模三浦に法華堂〔大明寺〕を創す(寺誌) 3.2 細川頼之卒64(明徳)閏10.5 南北朝合一(続正統)

ところで日什が富士門流にいたと書いてあるが、実際そんな証はあるのか?

ところで、日什大正師と鎌倉大興寺にて弟子である日仁と本門戒を授与されるのである。

  法華本門戒血脈
               塔中聴法之次第
久遠成道釈迦牟尼如来
日蓮大師
日什僧都      日仁

右相州鎌倉本興寺に於いて、無上菩提のため本門戒をもって日仁に授与しおわんぬ。
     至徳二年乙丑霜月八日
           日蓮沙門日什花押
       (東金本漸寺御真蹟蔵)

ここでいう至徳二年は「一三八五年」、富士年表では1385 元中 2とある。

これは明らかに富士年表編集を間違えた証しになる。
笑われちゃうね(笑)

写真は法華本門戒血脈事



 

法太郎ちゃんへ、クルチイか?まだレベル1にもなっていない質問だよ(笑)

 投稿者:三島  投稿日:2011年 2月 5日(土)19時21分46秒
  弘安二年で留まり然も大御本尊ではなく、「大本尊」と呼称され、本門寺に懸けなさいという「教示をされていることは紛れも泣く板本尊ではなく、紙幅の曼荼羅本尊を指す決定的な文ではないだろうか。
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法太郎の反論①
※こらぁ!!、また、勝手な妄想で妄論を述べておるのう。(苦笑)、「大御本尊」が板で、「大本尊」が紙幅であるという文証・道理・現証を挙げよ。(笑)、
小生反論①
物理的な話に反論で文証・道理・現証が必要か否か、まずそこへの確固たる文証が法太郎には必要であるにも関わらず、何等反論的内容に触れていない。
こういうのを無知者の愚問というのである。
法華講と自ら明かしたならば歴史的な根拠、論証して始めて反論となるだろう。
そのくらいのことは小心者の法太郎氏も理解出来るものと思い、長い目で見てあげようと思う。
板本尊を絶対とする大石寺としては紙幅の曼陀羅が本門寺「現北山本門寺」では体裁が悪いだろう。
然し、「懸け奉るべし」との教示を無理に読んでも板本尊には読めないのは私だけであろうか。
----------------------------------------------------------------
法太郎反論②

※(笑)、ははは、笑えるのう。「日興が身に当て給う所の」御本尊が紙幅で存在するのであるか。(笑)、宗祖の曼陀羅百数十幅中、日興上人授与の御本尊は一体も無い。(爆笑)、

したがって重須にも無い。授与された目師が次に相伝して現在は大石寺にある。即ち、本門戒壇大本尊である。(苦笑)、

小生反論②
全く法太郎氏は文字の理解ができない方であるとつくづく思う。
>「日興が身に当て給う所の」御本尊が紙幅
>宗祖の曼陀羅百数十幅中、日興上人授与の御本尊は一体も無い。
ここで授与書があればいいというのか?
授与書がなくても、宗祖が渡して譲渡したものは興師の曼陀羅となり得ることくらいわかるだろう。
ここでの疑問は脇書き者に対する方にしか、授与が認められないというのか?
それではこんなことはいいたくないが、大石寺で下附している御本尊には脇書がない。
では偽本尊ということなのか?
それとも偽本尊と書けば法太郎氏は創価学会の本尊でイチャモンをつけてくるか、様子を見ることにする。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 「日興跡条々事四」においては日興が日目を称える文章になっておりこれも師弟子の関係にある日興と日目では有得ない書き方である。
----------------------------------------------------------------
法太郎反論③

※ (苦笑)、文証の箇所も示さずノータリンなことを述べるものではない。そもそもである。日興跡条々事は三箇条から成り立ち、創賊が挙げた文は〝補足〟であ る。ここでは、日興上人の甥にあたる日目上人が、大聖人に給仕して学んだ目師の人生の意義を述べられたものであり、厳格な修行を貫いた日興上人が、厳しい 修行に邁進した日目上人に対し、さらに厳格な法城守護の遺命を命じられたのである。


手元に日興跡条々事がある方は是非とも一読していただきたい。一読するば〝三島の住人〟なる仁が如何に大狂乱を示しているかが理解できるはずである。(笑)、

小生反論③
では、法太郎氏に問う。
「日興跡条々事」の内容に様々な表現の違いを書かれているが、法太郎氏はどの書籍が正しいと思うのか、考究した上で慎重にお答え願いたい。
「興全」、「歴全」、「新編」、「富要」、「御書文段」、「広宣流布抄」、今挙げた書籍の何を法太郎氏が選択するのか、楽しみである。
法太郎反論④
余程、日目の親族が日興に供養したか、日目自身が日興に供養したかの選択が出来よう。
通常であれば、このような文章は残らない。
----------------------------------------------------------------


※では、その文証を示すべきであろう。単なる憶測で史実を論ずるものは、ノータリンの類以外のなにものでもなかろう。(苦笑)、
小生反論④
ここにおいては、史料があるはずなので少し時間を戴きたい。静岡までいかなければなるまい(笑)、、
このような考察から日興跡条々事及び、日興跡条々事示書を対比したが特に大きな接点を見出すことが出来なかった。
書きながらであるが少し残念な気持ちもした。
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法太郎反論⑤

※これこれ、何時?キミが対比したと云うのか。・・・大狂乱と云う以外にあるまい。主師の〝跡条々事示書〟は興尊の〝日興跡条々事〟の講義文である。対比すると云うのであれば、とことん対比して〝相違〟〝共通点〟〝用語の使用例〟等を比較して示すべきであろう。(苦笑)、

小生反論⑤
では法太郎氏に問う。
一、 日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊「五月二十九日」御下文、日目に、授与す。「詳伝一二六頁」
※ (法太郎ちゃん、教えてくれるかな?)「あの園城寺申状とは大聖人御在世当時、禁裏に奉状を捧げてですね。そして、この、それが三井等の長吏にこれを下して、その勘文を検せしめたところが、正しくその時この三時弘教の次第、釈尊一代の施化の次第に合致しておるというゆえんをもって、まあ朕が法華を信ずる時至らば、必ず富士の麓を訪れるであろう、という言葉と共に、下し給わったのが、「お下し文」であるということで、このお下し文は、正しく在った訳であります。お虫払いに、猊下がいつも御披露なさりますが、日興跡条々事の事には別に下書きがありますね。下書きには、お下し文ということが書いてあるんです。それを、またお考えになって、この正規の日興、日目上人への譲り状には、それを削られた訳であります。そして、あの「日興が身に宛てて賜る所の弘安二年の大御本尊、日目に之を授与す。本門寺に懸け奉る可し」というあの御文があるんですね。あのところにお下し文というのが、草稿の方には入っている訳です」

※ の所、大切だからさ、逃げずにきっちり反論してね(笑)

皆が、笑いの渦に入っているぞ、、法太郎君(笑)
 

広布基金・財務について

 投稿者:たけし  投稿日:2011年 2月 5日(土)15時18分49秒
  広布基金・財務とは、創価学会員が、創価学会本部に対する寄付である。この広布基金・財務について考えてみたい。

広布基金・財務の歴史
財務部員制度が、昭和26年7月の臨時総会で、創設された。この年の5月に、戸田が第二代会長に就任し、生涯の願業として「75万世帯の達成」を掲げている。戸田は、会長就任を前後して、聖教新聞の創刊、婦人部の強化、青年部の結成、「折伏教典」の発刊など、誓願達成をめざし次々と布石を打っているが、その一環として、財務の整備を図ったのだ。

なお創価学会は、翌27年8月、日蓮正宗の許可を得て宗教法人として発足した。

当時の創価学会は、会員数5千人余の弱小教団で、その活動資金は、牧口時代から戸田自身の個人資産によって賄われていた。しかし戸田は、昭和25年、事業を破綻し、理事長を辞任した。戸田の個人資産を当てに出来なくなったのである。

そこで有志がお金を出し合って活動の便宜を図ったりしていたが、それらを全て禁止・廃止し、新たに財務部員制度として設けることになったというわけだ。戸田に会長職に専念して貰うという考えがあったと言われている。

創価学会は、こうして財務部員制度が確立し、「賽銭箱(喜捨・寄付)のない宗教」を“売り”に強勢拡大=「折伏大行進」を邁進していったのだ。

ところで財務部員は、信心がしっかりと篤く、身元がはっきりしており、一定の職業に就き、経済的に余裕のある会員に限られ、推薦を受け面接し審査を経て任命された。それだけに「病人と貧乏人の集まり」といわれた学会にあって、財務部員であることは、会内において間違いなくステータスであった。財務部員のバッチがあったくらいである。

このような経緯から創設された財務制度であったので、当初から収支報告はなかった。財務部員の要件を満たす者が、不平不満を言うとは思われないので、収支報告についての検討・話題は出てこなかったのだろう。

納金額は、昭和40年代は、1回1000円で。年4回計4000円の定額制だった。

また戸田は、本山整備と寺院建立を掲げており、この場合は目的を明示して供養の呼び掛けを行っている。一方で、創価学会の経費については必要最小限度にとどめ、無理な金集めはしていない。

会合も、正宗寺院や公共施設で開催し、専従職員もほとんどおらず、自前の旧・学会本部を取得したのも28年11月で、関西本部は30年12月だった。

戸田の死後も、本幹や総会などの大きな会合は、日大講堂や武道館、公設の体育館などで行っており、地方の拠点会館も民家を改造したものや建て増したものだった。

こうした方針が転換されたのは、正本堂建立後のことである。

まず、「これが最後のご供養」と語り、集めた正本堂建立御供養の金額の大きさに、池田をはじめ創価学会幹部が驚いたのだろう。“創価学会員は金を持っている。呼びかければ金は集まる”と認識したのだ。

なお、正本堂建立に並行して、創価大学開学の寄付集めもあり、結構多数の会員が寄付している。創価大学は、池田の個人資産で開学したのではないのだ。その上、創価学会からの資金流用もあったのである。この創価大学開学に加えて、創価文化会館や聖教新聞新社屋の建設があり、この頃の創価学会は経済的に逼迫していた。

そこで、財政状況を立て直しが必要となったのだ。昭和47年の路線変更=「広布第二章」を開始すると、寺院に変わる儀式施設の建設を意図しつつ、「それぞれの地域に相応しい会館を建てる」との名目で特別財務が実施された(49年)。この特別財務により、各地に立派な中心会館や研修道場、墓苑が建てられていった。

特別財務は、在家でも供養が受けられるという「在家供養是認」の新解釈に基づくものである。それで池田専用の超豪華施設も次々と建てられた。しかし国会で取り上げられそうになると、一夜にして取り壊すという醜態を晒し、さらに追及を恐れ、52年5月に特別財務は中止となってしまう。

代わって、財務部員を広布部員と名称を変え、1口1万円、何口でもOKという納金システムにして、広く会員から募るようになった。

財務部員制度の拡充を基本的なスタンスにしていますので、新たな理由づけ・根拠作りは不要との判断があるのだろう。強制ではなく自由意思であり、過去からの指導にも抵触しないということで、金集めの是非については頬被りで実施に至った。

広布部員の要件も緩和し、要するに会員であれば誰でもOKということになった。そのうち、池田大作の総講頭復帰に伴う「200ヶ寺寄進」も名目に使われ、「御供養なのだから納金させてあげるのが慈悲だ」なんて指導が罷り通るようになってく。

当初は、国会での追及や「五十二年路線」収束の影響を考慮して、それほど無理な金集めはしていなかったが、やがて池田が第一線に復帰すると、全国各地でご存知のような凄まじい金集め競争が繰り広げられるようになった(もっとも特別財務の時から、そのような傾向はあった)。

ちょうどバブル景気であった。創価学会本部にしてみれば、面白いように多額の資金が流れ込んできたのである。ミリオン会員とかダイヤモンド会員と呼ばれる、三桁・四桁の財務の会員をいかに多く出すのかが幹部の手腕となった。池田がとても喜ぶのである。ご褒美を賜り、また高額納金者を招待しての会食会も、御大自らが音頭を取って開催していくので、皆が競って煽るようになり、常態化した次第である(銀行振り込み制は、確か平成以後のこと)。

こうして学会は、日本一・世界一の金集め教団となった。

この頃(最高幹部らの離反も相次ぎました)から、本部職員の待遇も大幅に改善された。

金集めの在り様に疑問を呈すると、体よく地方への左遷や閑職(あるいは関連企業)への異動という仕打ちがあるが、そうでなければ恩恵に浴することができるわけだ。

給料が上がり、福利厚生も充実し、年金制度も整えられ、都心一等地の社宅や住宅の取得資金も与えられ、バブル崩壊後の年収300万円時代の今でも、大幹部でなくても配偶者が専業主婦業(婦人部幹部)に専念でき、かつ2人の子供を私立大学(創価大学)に無理なく通わすことができる程度の収入を得ている(反対に職員を辞めると、とても厳しい境遇に陥る)。

広布基金・財務の現在
まず創価学会会則には、会計に関する規定は一切ない。極論すれば、会計責任者が好き放題できるということだ。

そこで宗教法人法を援用することになる。宗教法人法に基づく「規則」(所轄官庁の認証を要する)には、会計に関する規定がある。責任役員会にて予算や決算の承認決議を行うことになっているわけだ(第9条)。また、この責任役員会は、総務および参議の中から総務会で選出された17名で構成され、うち1人が代表役員で理事長が任にあたる(第5条、第6条)。

したがって、創価学会の通常の財務内容を知りえる立場の人間は、責任役員の17名に限られているいことになる。

学会の資産は、①特別財産、②基本財産、③普通財産―に区分され、「特別財産」は宝物および什物で、「基本財産」は、幾多の不動産の中から基本財産として設定したものや指定した寄付金品等である。

そして「普通財産」が「特別財産および基本財産以外の財産、財産から生ずる果実、会員の中から選任される広布部員の拠金ならびにその他の収入とする」(第23条)と定められている。

つまり、12月の財務や日常的な広布基金は、普通財産に該当し、「この法人の経費は、普通財産をもって支弁する」(第27条)により、創価学会の法人活動等に充てら、「歳計に剰余を生じ、または予算外の収入があったときは、これを翌年度歳入に繰り入れる」(第33条)ことになっている。

この「規則」にも、財産目録や収支計算書といった財務諸表を公表するという規定は一切なく、唯一「財産の処分等」について、会員その他の利害関係者に公告する義務を定めている(第26条)。

ところが公告といっても、聖教新聞などで広く周知する必要はなく、学会本部のロビーにA4一枚を一定期間掲示するだけで事が足り、仮に不動産を処分したり、担保に供したり、長期の借入れをしても、まず一般会員は知る手立てがない。

時折、聖教新聞の1面ないし2面の片隅に責任役員会の開催を報じる記事が載ることがありますが、その以後数日間(2週間程度か?)掲示されている場合がある。

なお、昨年の「規則」改正によって、新たに「監査法人または公認会計士の外部監査を受けなければならない」(第34条)規定が設けられたが、監査報告は責任役員会にされるものであり、その上、おそらく会計士も優秀な創価会員でしょうから、第三者が入手できるとは考えられない。

一般会員は、財務内容を見ることができない
創価学会には、収支や財務内容を一般会員に知らせる“決まり事”はなく、また知らせる意向も全くない。一般会員は、ただ「学会はきちんとしている」と信じるしかないのである。

どうしても財務内容を知りたいのであれば、法律の規定に従って、正当な理由と不当な目的がないことを示し、財務諸表の閲覧を請求するしかない。

しかし同時にこれは、創価学会の表の財務のことに過ぎない。単なる任意団体にすぎないSGIへシフトされた財産・金品、まして裏の財務、池田大作の個人資産については把握しようがない。

 

小沢元代表らを告発=「寄付の上限逃れ」と市民団体-大阪

 投稿者:夕刻のラスプーチン  投稿日:2011年 2月 5日(土)12時12分42秒
   小沢一郎民主党元代表の関連政治団体「改革フォーラム21」が2009年7月の衆院解散時、3億7000万円を民主党支部に寄付し、同支部が翌日に元代表の資金管理団体「陸山会」に同額を寄付したのは、寄付の上限規制を逃れるための迂回(うかい)献金だったとして、市民団体「政治資金オンブズマン」(大阪市)が4日、小沢元代表らを政治資金規正法違反容疑で東京地検に告発した。
 ほかに告発されたのは、改革フォーラムの会計責任者だった平野貞夫元参院議員。
 告発状によると、改革フォーラムから寄付を受けたのは、小沢元代表が代表の民主党岩手県第4区総支部。同支部は衆院解散当日の09年7月21日に寄付を受け、陸山会は翌22日に同支部から同額を寄付された。一方、陸山会は21日、衆院選の同党候補者87人に500万円ずつを寄付した。
 オンブズマンは、元代表側には、政党支部を経由させることで、政党や政治資金団体以外の政治団体間の寄付を年間5000万円に制限した同法の規定を逃れる意図があったとしている。
 改革フォーラムは、小沢元代表が代表幹事を務めた新生党が解散した1994年、同党本部などから資金が移された。
 オンブズマンの上脇博之神戸学院大教授は、記者会見で「小沢元代表は党の金を私物化して、党内での影響力を形成、維持するために使った」と批判した。(2011/02/04-18:22)

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011020400641

 

ゴッツァンです

 投稿者:しけた  投稿日:2011年 2月 5日(土)03時59分9秒
  いいな~、日蓮消臭って。
実入りのありそうな外国にお寺や布教所を建立。
そこにお坊さんが赴任。法事なんかをやっちゃって、御供養をゲット。

ある程度、うまくいったら、御ホッスがイカツイSP従え、真っ赤な傘さして派手に御訪問。
アリガタ説法イッパツかまして、御供養がっぽり。
夜は地元一流ホテルで「ゴッツァンです」。

ニッポンでは、アリガタイお寺さんに繁く通って「大震災はソーカガッカイがニセマンダラ
ばらまいたから起こったのです~」とかなんとか、お坊さんのカルトっぽい説法を拝聴、
御供養貢いで、さらに年に何回かお山にえっちら通って、御供養はずんで、ナンミョー
やってりゃ、広宣流布に世界平和。
あっそうそう、けったいなビラ活動も頑張っちゃう。
たまに、駅前でメガホン片手に辻説法もやったりします。

これを全世界で繰り広げりゃ、世界広布ができるって思ってる。

これはビジネスでも社会事業でも、外交の基本だが、外国で本格的になんらかの活動を
展開しようとすると、相手が民主的指導者であろうが、独裁的指導者であろうが、
「責任のある人」と対話をして筋を通しておかないといけない。

その人物が、後で評価が上がれば良いが、独裁色を強めたりして評価が落ちると、交際を
持ってたことがマイナスに働くリスクがある。しかし、それを恐れていては活動の発展は望め
ない。これらは海外で活動したことがある人なら常識。

会っとく人に会っとかないと、理解もクソも無いんよ。

ホケコでムバラクとサシで話つけた方っていらっしゃるんかな~。
柳沢喜惣次さん?とか、オー臭ぁさん、じゃなかった、大草ナントカさん?とか(苦笑)。
 

連続特集 崩壊する創価学会

 投稿者:たけし  投稿日:2011年 2月 4日(金)17時48分59秒
  (「月刊ペン」1976年5月号P28)

室生忠(むろお・ただし) 〈ルポ・ライター〉
学会を滅ぼす池田本仏のスキャンダル
ロッキード事件の児玉誉士夫と創価学会。この隠された関係をはじめ、スキャンダルにおびえ続ける学会と池田大作の内実を暴露し、創価学会崩壊の命運と末路を暗示する。

池田が頭を下げた4人の人物
「共・創和解」の工作について、池田とその若手側近団の敗北が決定的になった、昨年(昭和50年)9月、積極的に流された、興味あるひとつの情報があった。

「共・創和解の不始末について、池田は4人の人物に頭を下げ、陳謝した」というものである。4人の人物としては、秋谷栄之助副会長、矢野絢也公明党書記長、中西治雄秘書室長、塚本素山・塚本総業社長の名前があげられた。はたして池田が、本当にこの4人に陳謝したか否かは定かではない。しかしこの情報は、創価学会の性格づけをめぐって、当時池田と、池田と対立した勢カと、両者のカ関係を正確に表明している。

何故、秋谷、矢野、中西らの名前が出てくるのか、その理由についてはこの連載が繰り返し述べてきた。秋谷は反共・反日共に固執する、戸田門下生団の代表格しての、表・創価学会のリーダーであり、中西は裏・創価学会のリーダーである。さらに矢野は、秋谷、中西と連合を組み、共産党との対決路線を押し進める、公明党と学会のパイプ役である。

緊張緩和(デタント)を志向し、日共との和解をすすめた池田とその若手門下団は、学会の支配権を賭けて彼らと闘い、彼ら戸田門下団の強固な反共意識と結束の前に敗れ去ったのである。

元学会顧問塚本素山
では残る一人、塚本素山とは何者なのか。注意深い読者なら、その名前が最近の新聞、雑誌にたびたび登揚する名前であることに気づかれるに違いない。ロッキード事件の主役、児玉誉土夫の事務所がある、東京・銀座の塚本素山ビルの持ち主がその人物である。塚本総業本杜も、そのビルの中にある。

塚本素山、本名塚本清。明治40年9月1日生まれ、68歳。千葉県出身、昭和10年陸士卒組で、陸軍少佐東部軍、司令官田中静萱大将の専属副官として終戦を迎えた。復員して実業界入りを果たし、昭和31年日鉄中央機械、日新興業、日新実業をまとめて塚本総業を設立し、その代表取締役に就任。

塚本総業は、鋼材、建材、燃料、機械の販売と不動産業などを営業種目とする、非上場会杜。株式の97・3%は塚本素山の持ち株である、完全な個人会社である。全国に11店の支店を持ち、日本製鉄、住友金属、大和製鋼、久保田鉄工、石川島播磨重工などと取引を行なっている。塚本総業に加えて塚本は、塚本不動産、八盛興業各社長。日新興業、大和通運各会長。日本カーフェリー、ニューナラヤ各取締役などを兼任。押しも押されぬ、財界の顔役の一人だという。
 この塚本が、激しい反共思想の持ち主であり、日蓮正宗・創価学会の有カな信者だった。誰に聞いても即座に「塚本は腹のすわった国家主義者、筋金入りの反共主義者だ」という答えがはね返ってくる。立身三京流居合術の免許皆伝、日本刀美術館長。塚本と学会のつながりは、二代会長戸田城聖の時代にまでさかのぼるといわれ、戸田の激しい反共意識と相呼応する戸田門下団、つまり壮年部の代表的信者として位置づけられていたのだった。

塚本の学会内における地位が、並々ならぬものであることは、かつて彼が創価学会・顧問の地位にあったことによってもうかがえる。昭和36年、第三代会長池田は「学会の基盤をより強固なものにする」という名目のもとに、顧問制度を創設し、この顧問に法華講連合会初代会長平択益吉(故人)、戸田城聖の遺児戸田喬久(三菱銀行勤務)、そして塚本の3人を就任させた。
 事実、塚本は顧問の肩書をもって、たびたび学会本部幹部会にも出席し、「池田先生につき従って信心を」と指導した。正本堂供養にも大口で参加し、「億単位の供養者、5人のうちの1人」といわれたのである。塚本を顧問にすえることによって、池田は塚本の財力を最大限に利用するとともに、彼をパイプ役として、前号で詳述した池田の経済活動、財界進出への布石作りを行なったといえるだろう。

しかしこの顧問制度は、いつのまにか廃止されることになる。一説では、昭和44年から45年にかけて発生した「言論問題」のさなか、後述する塚本の“死の商人”性が噂され、これを恐れて池田は、顧問制度を廃止するという形で塚本との縁を切ったという。このために池田と塚本の関係は、感情的にもスムーズにいってはいないといわれるわけだが、しかし仮にそうであっても、塚本が現在でも学会壮年部の有力な信者であり、強烈な反共主義の持ち主であることに変わりはなかった。

共・創和解について、池田が塚本に頭を下げたという話は、そのまま池田が壮年部総裁の反共意識に屈服せざるを得なかった、両者の力関係を如実に示す説話になっている。

児玉誉士夫と学会のつながり
だが、塚本の名前に触れることは、従来一種のタブーとされてきた。何か不気味なカと雰囲気を彼は持っていたらしい。学会会員には多くの財界人がいる。戸田順之助・戸田建設社長、本間嘉平・大成建設会長、堀田光雄・富士急行社長、中川一郎・東洋キャリア会長その他。これらの財界人会員については、多くの学会系資料が触れている。しかし学会顧問の地位にまで就いたにもかかわらず、塚本総業社長・塚本素山については、その名前すら見あたらないのだ。

彼の略歴については前述した。しかし一復員少佐が、いかにして財界の顔役にまでのしあがれたのか、謎は多い。共産党情情報通にいわせれば、彼は“死の商人”なのだという。「彼は小佐野賢治、児玉らと並ぶ日本の黒幕の一人です。現在、赤旗に連載中の『日本の黒幕、小佐野賢治』が終ったら、次は素山がやられる番になっています」という。

さらに、共産党の対極にいる、公安関係者らも「彼は朝鮮戦争、ベトナム戦争によって財をなした。米軍から、型が古くなっただけでまだ新品同様に使える武器、車両などの軍需物資を、スクラップとして払い下げを受け、それを分解して韓国、南ベトナムなどに輸出した。もちろん現地で組みたてられ、新品同様の武器になるわけだ。彼は韓国ロビ一ストの中でも切れ者です」と語る。 これらの話の具体的な内容、活動の全容は、戦後経済裏面史として、やがて明らかにされることもあるだろう。しかしここで重要なことは、こうした活動の過程で塚本が日本の政・財界、そして社会の深層に流れるある特殊な勢力、カと提携していったことだった^今回のロッキード事件で、図らずもその一端が暴露された、児玉誉士夫との親交もそのひとつである。塚本の持っていた不気味な力、タブー性はそうした特殊な人脈によっていた。

児玉の政・財界、右翼、暴カ団との相関図は、ロッキード事件の解明過程で多く明らかにされているし、紙面の都合もあって割愛する。しかし塚本が日本の闇のカの近くにおり、塚本を通して児玉が学会にまでつながっていたのは、隠れもない事実だった。このことが重要なのである。池田は単に財界人としての塚本を利用したのではなかった。日本の黒幕、顔役として塚本を利用し、社会の裏面にまでとどくパイプ作りの布石としたのである。

現在では学会は、児玉と直接に深い触接をとりあう関係にまで入っている。ロッキード事件が発生する以前、昨年(昭和50年)中に、北条浩理事長が児玉邸に出入りしていたことは周知の事実である。さらに児玉が49年9月、脳血栓で倒れて以来自宅療養している間に、児玉邸の居間にあった「創価学会」の名前入りの、見舞い果物籠を目撃している人物も実在する。

塚本素山は、単なる学会壮年部信者の象徴ではなかった。学会信者の持つ反共意識の、単なる具人化でもなかった。10年協定をめぐって、何故塚本の動きがとりざたされるのか。何故学会は児玉とつながらなければならなかったか。あるいは後述するように、児玉を通じて元日大会頭・古田重二良(故人)に、また岸信介に何故つながらなければならなかったのか。そこには学会の性格をめぐる、さらに深い、重要な意味が隠されていたのである。

学会の“反共の砦”化構想
まず結論を先にいおう。児玉、塚本ら日本の右翼指導者たちにとって、創価学会は日本民族の意識の、反共の砦のひとつとして位置づけられていたのである。

児玉は日蓮宗大本山・池上本門寺の檀家総代の一人に列している。児玉の他に永田雅一・元大映社長、萩原吉太郎・北炭会長らも顔をそろえているが、日蓮宗は創価学会(日蓮正宗{しょうしゅう})とは教義的には対立する。たとえば日蓮の意義づけについても、日蓮宗が「日蓮大菩薩」と称して「菩薩」の位置づけを行なっているのに対して、創価学会は「日蓮大聖人」とよび、日蓮を最高位の「末法の本仏」とみるのである。

児玉はその日蓮宗の檀家総代であり、塚本は学会の願問だった。宗教的信条において異るこの2人は、にもかかわらず手を結んだ。宗教的次元で提携したのではなく、反共という思想的次元において提携したのである。つまり日蓮宗、日蓮正宗を含む、日本の全宗教団を動員して、反共の砦として育成することを考えたのだった。

国際勝共連合の黒幕の一人といわれた人物に、元日大会頭・古田重二良(故人)がいる。言論妨害事件のおり、古田は必死になって学会防衛にあたった。「古書を焼く」という名目のもとに、警察、消防署の許可をとり、学会批判書のすべてを集めて、日大グランドで焚書まで行なった。彼は右翼指導者として、学会をつぶしたくなかったのである。

事実、彼は社団法人・宗教センター(現在は崩壊している)を設立し、執拗に反共ラインの建設を試みた。仏教系、神道系を問わず、日本国中のすべての教団、神社、仏閣を大同団結させ「共産主義との対決」にかりたてることをもくろんだのである。この構想は学会と、学会によって邪宗攻撃された他教団の間の握手がなされぬままに挫折するが、この古田の背後には児玉がいた。児玉と古田はじっ懇の間柄で、昭44年のはじめに発生した、日大脱税事件のもみ消しに、児玉が暗躍したと現在でも噂されているのもその例だ。

つまり創価学会が団体の特性としてもつ「反共性、反日共性」は、単に学会員総体の中にある、意識の集約によってのみ生まれたものではなかったのだ。一宗教団体としての傾向、範囲を越えて、さらに広い視野から日本の政治、経済、社会を貫徹する宗教以外の価値観、つまり政治的思想によって、あらかじめ以前から学会に与えられた特性でもあったのである。この“反共の砦”としての性格作りに二代会長戸田城聖もペテン師として参加した。話は終戦直後に遡る。

昭和21年当時、戸田は獄死した初代会長牧口常三郎に代って学会の指揮をとっていた。彼はこの頃、日本婦人新聞の社長、松崎弥造なる人物と組んで、GHQ・マ司令部から新聞用紙の割当を受ける。当時の新聞雑誌の用紙割当は、政府の用紙割当委員会が民間の窓口となり、GHQが最終的に決定することになっていた。さらにGHQ内部では、G2(参謀部第二部・作戦部)直属のCIC(軍諜報部隊)がこの種の情報担当を行なっていた。

当時G2はGHQ内部でGS(総司令部民政局)と苛烈な闘争を展開中で、日本を強固な反共国家に育成しようと画策していた。こうした背景のもとで、CICに対して戸田は自ら反共姿勢を明らかにし、日本帰人新聞を舞台に「反共活動を行なう」という約束のもとに、多量の用紙割当の獲得に成功した。しかし戸田はこれを私し、ヤミに流してボロ儲けをするという重大事件を引き起こしたのである。もっとも、戸田が一貫して反共思想の持ち主であったのは事実であり、特に岸信介に接近を図る。「社会党と共産党をおさえていける人は、岸先生しかいない」と語ったという戸田の言葉は、そのまま学会の性格をも如実に物語っている。

つまり塚本素山という名前は、学会内壮年部の会員の象徴であると同時に、学会外の、しかも社会の深層部分に流れる、右翼指導部の学会に対する圧カの象徴でもあったのだ。

ロッキード醜聞にも脅える池田
池田が共・創和解に踏み切ったことが、いかに重大なことであったかが理解されるだろう。そして何故学会内反共派に極秘を保ったまま、和解工作が進められたかが理解されるだろう。共・創和解が学会内壮年部の強固な反共意識を刺激すると同時に、学会外にあっても学会をまきこんでいる、社会の根強い、旧態たる反共勢カをも刺激することが目に見えていたからである。

池田は学会の支配権を賭けて、学会の内外からシガラミのように束縛してくる保守の手、保守の泥沼から離脱を希求した。田中金脈問題の広がりのなかで、保守の腐敗が暴露されそうになった時、追及の手が学会に延びる前に、彼らとの縁を切っておきたかったのである。だが池田は、その保守の手によって再び引きもどされた。池田の敗北は以前にも増して激しいオールドパワーの台頭、学会の右旋回を許す結果に終ったのである。

しかしその直後、皮肉な社会情勢の激変が再び発生した。ロッキード問題である。このスキャンダルは田中金脈問題以上の激しさで、現在、保守の土台を揺り動かしている。推移を見守る池田の胸中は、複雑なものがあるだろう。池田が好んで手を入れるという聖教新聞『寸鉄』もさまざまに、この事件を扱っている。

「疑惑の児玉邸から脱税の有カ証拠。豪勢な財産も瞬時に色あせる。心の財は絶対に色あせない」「児玉、臨床尋問。“病める怪物”にも啓蟄(けいちつ)の“時”。30年の疑惑解明へ一歩も引くな」「現時点で選挙すれば保革逆転と世論調査。その時流 ― 断じて“75日”に終らせるな」等々。

十年協定問題の時、児玉は健在だった。まだ誰も手を触れることのできない存在だった。しかしロッキード醜聞は、巨大な外圧によって児玉、つまり旧保守体制を、音をたてて崩壊させようとしている。この時、学会内若手容共派によって、再びまきかえしが成功するか、反対に危機意識を持った反共派の結束がより強固になるか、それは予断を許さない。

ただはっきりいえることは、池田がある種の“脅え”をもってこの事件の推移を見守っていることだろう。何故ならロッキード事件は、学会にとって“第2の田中問題”だった。

今後保守の泥沼の、水のかい出しがさらに進み、いつか追及の手が学会にまで及んでくる可能性は、否定できないからである。

国際謀略にも使われる学会スキャンダル
組織活動の観点から見た場合、宗教団体としての特性は、両刃の剣である。政治団体等の持ち得ない有効な特性を持つ反面、非常に脆弱(ぜいじゃく)な部分をあわせ持っている。有効な部分とは、宗教団体の活動という看板を前面に押し出すことによって、主義主張を超越した透明なイメージを、対象に与え得る特性だろう。

一方もろい部分とは、スキャンダル、特に男女の問題に対する極端な抵抗力のなさである。宗教団体であり透明なイメージを持つ反面、それ故にスキャンダルは許されない。十年協定交渉に際して、創・共の仲介役を果たしていた松本清張が、次のように語っているのはその意味で特に興味深い。

「(池田会長と会うと)いつもこちらが恐縮するくらい謙虚な態度なのである。あれくらいになると年齢的にも倨傲になりがちだが、池田さんにはみじんもそれがない。絶えず自戒されているからだろう。陥れようとする勢カが多いので、スキを与えぬよう身辺や環境にはとくに配慮しているという話だった。池田さんの寂しさは、組織上の絶対の人がそうであるように、その孤独にあるのではなかろうか……」

疑似カリスマ池田も、組織末端、外部に対しては“絶対の存在”を維持しなければならない。会長のスキャンダルは、公称765万世帯会員組織を、一瞬にして崩壊させるだろう。つまりスキャンダルは、共産党と肩を並べる組織にまで成長し、日本の政治、経済、社会の動行を左右し得るカまで獲得した学会の、死命を制する、謀略の決めてにもなり得るのである。

池田が共産党との和解を決意したのは、共産党筋にスキャンダルを握られ、その恫喝(どうかつ)に屈したからだという見方が、あながち荒唐無稽(高等むけい)ともいいきれないのはそのためだ。さらに最近盛んに流されている情報に、ソ連訪問の際、池田はソ連女性との情事をKGB(ソビエト保安部)におさえられていたという説がある。またKGBではなく、アメリカでCIA(米中央情報局)に情事をおさえられ、寝言まで収録されて日本の政界再編を狙う彼らの子飼にされた、とまでいう者すらいる。それらの話の真偽のほどはともかく、学会があらゆる勢カから狙われる存在であり、スキャンダルがその狙い目のキーポイントのひとつになっていることに、間違いはありえない。

スキャンダルに神経過敏になる池田
学会二代会長・戸田城聖が、性的羞恥心を欠落させていたのは事実だった。一種異様な露出癖を持っていたようだ。夏になるとフンドシ一本の素裸になって、若い女性信者にうちわで、フンドシの中まであおがせていたという話もそうだが、さらに次のような、ある教師の残した証言もある。

「昭和20年、戸田が豊多摩刑務所から出獄した時のことでした。何かの用事があって戸田の家を訪ねたのです。呼んでもなかなか出てこない。そのうち『あがれよ』という答えがあったので、あがってフスマをあけてみると、戸田が女性と同衾(どうきん)しているではありませんか。驚いて『後で出直してくる』といったのですが、戸田は平気で『いいよ、そのままでいいよ』と話しつづけたのです」

自分の二号についても、戸田は広言してはばからなかった。幾子夫人の他に、二人の第二号夫人がいたことは、当時から学会幹部の間では公認された事実だった。戸田は大蔵商事なる金融会社を営んでいたが、そこに一人を専務理事として送りこみ、指揮をとらせた。その女性は、かつて戸田が中学の受験雑誌の出版業をしていた時習学館時代に、幾子夫人と机を並べていた同僚同士だったのである。

その大蔵商事に、若き日の池田がもう一人の専務理事として出入りしていたわけだが、それはともかく、こうした戸田の性質は良くいえば豪放磊落(らいらく)だった。功成り名を遂げた、事業家の持つ神話としてはふさわしい。だが、一人の宗教家として、しかも世界一の仏法を奉じるという教団の会長として、このようなエピソードを残したことは致命的な汚辱である。戸田自らの汚辱であると同時に、創価学会という宗教団体の命運をいずれは決定する汚辱であることに間違いはない。

戸田時代、学会に対して“淫祠邪教(いんしじゃきょう)”という攻撃が、他宗教からなされたのもそのためだった。さらに会長のそうしたスキャンダルは、必然的に会員内部の、男女関係の乱れをも招く結果になった。昭和30年代、戸田が死ぬまで続けられた大石寺宿坊での男女関係の乱脈を、いまだに懐しく語る老会員もいるほどである。

ここでいいたいことは、外部からひとつの教団を攻撃する場合、最も有効なウィークポイントになるのがスキャンダルだということ、そして学会がそのスキャンダルに身から出た錆(さび)として昔から苦しんできたということだ。

松本清張の言葉が示すように、戸田と違って第三代会長池田は慎重に行動しているようだ。この2、3年海外旅行を行なう場合、かね子夫人同伴で出かけていくのも、海外での女性問題をいわれぬための用心深さだと指摘されている。もっとも、これについても異説があって、「池田は時々異常な発作を起こし、側近同行の者にあたりちらす。夫人の同伴は、そういう池田の発作を鎮めるためだ」ともいう。

池田のスキャンダルについては、従来実にさまざまなことがいわれてきた。しかもその大部分は日蓮正宗内部、たとえば僧侶の間とか法華講内部で囁かれてきたことなのである。それだけにリアリティーが感じられるわけだが、なかには思わず膝をのり出させるほど興味深い、そして詳細な情報もある。具体的な人名の、あるいは関係ができるに至った経過についての証言もある。『深刻化する学会の亀裂と池田大作の終罵②』で述べた、「池田はスキャンダルを種に共産党から脅迫されていた」という怪情報も、『池田の女性問題』として、現存する学会、公明党の女性幹部の名前をあげているのである。

しかし事柄の性質上、それらの情報を百パーセント裏づける確かな資料を持たないため、その内容を公表することは控えるが、しかし、ある政治的目的をもって複数のグループが、池田のスキャンダルを専門に調査していることは事実である。そして、彼らに、そのスキャンダルの全貌を握られていないという保証は、どこにもないのである。

学会内の男女関係
元来、池田の時代になってから、会員同士の金銭貸借、共同事業そして男女関係は、あってはならない、学会のタブーとされてきた。これらを野放しにすると、トラブル、人事の買収、情実が横行し組織活動に影響を与える結果になるからである。タブーというのは、そうなろうとする欲求が強いためにその反作用として成立するわけだが、特に男女関係は深刻だった。

今年(昭和51年)の3月に入ったつい最近も、学会は全国に対して「集会は夜8時半までに終了するように」といういわゆる“8・30運動”推進を通達している。独身者同士の恋愛ならば問題ないが、既婚者の起こすトラブルが後を絶たないという。壮年部の既婚男性と女子部の独身女性、婦人部の既婚女性と男子部の独身男性、あるいは婦人部と壮年部の既婚者同士である。

夜遅くまで集会を行なう。選挙戦(学会では“法戦”と称する)や行事の準備などには、連日の泊り込み。夫婦そろって会員の場合はまだ良いが、片方だけという場合には、家庭にいる時間、つまり夫や妻と一緒にすごす時間より、外部で仲間の会員たちとすごす時間の方が多くなる。信仰を同じくする連帯感もあるだろう。会員間の恋愛は、ある意味で必然ともいえる。

そして女性会員たちの間では、会員同士の恋愛は、常に最も好まれる話題のひとつになっている。それは学会本部会でも同様だった。多田省吾(現公明党参議院議員)男子部長の夫人が病死し、湊時子女子部長と再婚した時、本部職員、特に女性職員の間を「池田先生が女子部長に、多田君の身の回りの一切の世話を見なさいとおっしゃったそうよ」といった情報が、一種の羨望と嫉妬の念をもって席巻した。本部婦人部の間で、多田と湊の関係がさまざまな形で噂され、統制の乱れを心配した池田が、鶴の一声で湊時子に命じたという。

しかもこういった話には、何かと尾ヒレがつく。婦人部の間では「でも多田さんは本当は、湊さんよりみち子さん(現衆議院議員渡部一郎夫人)の方が好きだった」という噂がもっぱらだったとか。

こうした話自体はたあいのない、女性会員のおしゃべりである。しかし問題は、会員たちの結婚についてすら、会長の意向が大きくものをいうことだ。会員、特に幹部の結婚に、池田が特に気を使い、場合によっては相手を指名することもあったことは事実だった。さらに幹部の結婚についての、事前申請、許可は暗黙の了解事項で、これに違反したために、厳しい叱責を受けた者もいるである。

何故ここまで統制し、管理するのか。男女間の乱れ、スキャンダルは別に池田会長一人の危険ではなかったからである。池田ならマイナス効果が最大だということであって、他の学会幹部、公明党幹部のスキャンダルであっても、学会の大きなイメージダウンになることに変りはない。そのことを、池田本人が、誰よりもよく知っていたからだった。

「吠えさせておげばよい」
創価学会という組織は、すでにあらゆる意味からいって、単なる宗教団体としての枠組を越えている。それは公称会員数765万世帯という、数の上での重みではない。今まで詳細に検討してきたとおり、宗教的信条を基盤とした組織でありながら、宗教、社会、政治、経済、つまり社会の“全体”にまたがる、複合的な存在として動いているからだ。

十年協定、共・創和解工作は、そうした学会の存在の、象徴的な表れでもあった。この全体的な広がりの、最終的な姿を称して学会は『広宣流布』という。だが、現在の学会の行なう活動が組織活動である以上、いかに学会の存在が多義的、複合的なものになっていても、最後は宗教組織の問題に帰っていかざるをえないのである。

それは走りつづける自転車に似ている。回りつづける車輪、つまり組織活動が止まるとき、車体は音をたてて倒れる。学会指導部が、常に休みなく新会員獲得、教勢拡大を呼号して、会員たちの尻をたたかなければならないのはそのためだ。765万世帯会員の公称にもかかわらず、学会員は。1960年代後半になって減り始め、今では実数2百万人信者を切って、「150万人前後」といわれるまでに落ちこんでいるという。

つい最近も本部は全国に、新会員獲得、育成を指令した。今年(昭和51年)」3月10日に開かれた方面長会議で、4、5月が訪問指導を軸とした“指導月”にされた。新会員育成のため、幹部が率先して訪問指導を行なう。組織の整備、充実を図り、ブロック幹部の育成にカを入れる。勤行(ごんぎょう)の実践と会合時間の8・30終了を徹底する。座談会を“指導の月”の活動を実現させる場とし、新会員を育成することなどが決定されている。

つまり、学会のかかえる問題を消去していくと、最後に残るのは、やはり宗教組織問題だったのだ。『深刻化する学会の亀裂と池田大作の終焉①②』では、集団の組織問題としての池田の疑似カリスマ性と、青年部対壮年部の確執、権カ闘争の様相を分析した。しかし実は、さらにその上に深刻な宗教組織問題を、学会はかかえていたのである。

内部告発の問題である。池田は機会あるごとに幹部団に対して「外部からの学会批判は大した脅威にはならない。吠えさせておけばよい。しかし内部の敵は重大だ。蟻の一穴のように、やがて堤を崩すことになりかねない」と語ってきたという。一宗派内の内紛は、一般外部からはほとんど見えないが、学会にとっては、最も恐ろしい危険ともいえる。そして、この連載のテーマ、十年協定の謎と内紛は、外部から隔絶した深いところで、密接に関連していたのである。それを解明しよう。

宗門内造反・妙信講問題
学会のかかえる内紛は2つある。その第一は「妙信講(みょうしんこう)」問題といわれるもの。妙信講とは日蓮正宗法華講のひとつで、会員公称1万5千世帯。ちなみにいえば日蓮正宗信者団は、創価学会、法華講全国連合会(初代会長平沢益吉は学会の顧問)、妙信講の3つに大別される。つまり妙信講は、学会は同門ではあるが、学会が言論出版妨害事件を契機に国立戒壇(かいだん)論を放莱したのに対して、「国立戒壇は日蓮大聖人の御遺命。学会は教義の本質を歪曲(わいきょく)した堕落集団だ」と、執拗な学会批判を展開してきたグルーブである。

国立戒壇論は日蓮正宗教学の最終的な結実であったのだ。学会組織の壊滅を免れるためとはいいながら、学会はそれを放棄したことによって、教学の目標を狂わせ、信者の意識を混乱させ活カを喪失させた。妙信講はそこを攻めた。学会的・修正主義と妙信講的・教条主義の闘いである。

両者の闘いは、熾烈(しれつ)を極めた。昭和39年5月3日、第27回学会本部総会で正本堂建立計画が発表され、これを機に両者の組織闘争は本格的なものになる。正本堂の意義づけ、広宣流布の解釈をめぐる両者間の教義論争が展開されるなかで、昭和44年11月言論出版妨害事件発生。翌45年5月3日、学会第33回総会で池田は「国立戒壇否定、政教分離」を宣言する。以後両者の闘いは、憎悪の様相を呈して泥沼化していく。

地方末寺における、妙信講員に対する御授戒(じゅかい)拒否などが瀕瀕(ひんぴん)とおこった。そして昭和49年8月12日日蓮正宗宗務院は、妙信講に対して、講中解敵命令を発したのである。あわせて9月28日、妙信講本部会館の本尊返還が請求される。

これに対して妙信講側は激しく応酬する。9月6日男子部員150名が学会本部前で抗議演説。さらに宗務院におしかけたりしながら、問題の昭和49年10月になだれ込んでいった。

思い起こしていただきたい。昭和49年10月末は、松本清張の仲介によって、学会側からの申し出のもとに共・創和解の交渉がスタートした時期だった。「10月20日ごろ、両氏懇談の最初の具体的校機運が生まれた」と松本は述べている。

10月4日、まず妙信講男子部80数名が、学会本部の北条浩副会長に対する抗議行動を起こす。その過程で妙信講青年部と学会青年部牙城会の間で、激しい乱闘が展開される。

10月21日、宗務院側は妙信講に対して、本尊返還請求の第2回内容証朋を発し、「応ぜざれば法的処置」として、法廷闘争に入る構えをみせた。

そして10月28日ついに、妙信講と宗務院・学会側の間で法廷闘争が開始された。学会側に先立って、妙信講が本部会館の本尊守護のために、仮処分申請を東京地裁に撮出したのである。この訴えに対して11月7日、東京地裁は決定を下し「本尊を使用することを妨害してはならない」「信徒としての宗教活動をすることを妨げてはならない」とした。宗務院側はこの決定に対して即座に異議申し立てを行ない、一方妙信講側はこの決定に基いて、現在本裁判に持ちこんでいる。

こうした最中、10月29日、池田は学会代表役員を辞任し、北条浩が代表役員並びに理事長に就任したのである。理由は「池田会長の以前からの要請」で「平和・文化の推進のため、活動舞台が世界的に広がっており、海外での活動期間が多くなっている」ためだとされた(創価学会ニュース)。池田は翌51年1月、創価学会インターナショナルの会長に就任する。

だが、果たしてそれが本当の理由だったのだろうか。池田は法廷闘争から逃げたのではないだろうか、昭和49年から50年にかけては、学会歴史上はじまって以来の訴訟ラッシュの時期だった。

法廷闘争は前述の、妙信講解敵命令、本尊返還講求に関するものだけではなかった。妙信講関係ではさらにもうひとつある。日蓮正宗宗務院は昭和49年10月15日、富士宮市・要行寺住職、八木直道を、さらに12月25日東京・妙縁寺住職、松本日仁を、妙信講に加担した罪で擯斥した。「擯斥」とは、僧籍を剥奪し、日蓮正宗から追放する、僧侶に対する最大の重罰である。このため宗門からの年金も停止された八木直道は、昭和49年12月9日静岡地方裁判所富士支部に擯斥処分無効確認及び年金支払い講求の訴えを行なう。その後年金支払いに関しては相手が寺族同心会であったため、本訴は切り離され、昭和50年5月地位保全仮処分申請の形で闘われた。

これに対して学会側か提出した陳述書は、次のようなものであった。「妙信讃や債権者(八木)は、正本堂が御遺命の戒壇でないなどと盛んに主張している。本件仮処分が認められると、彼らの言い分を裁判所が認めたかのように宣伝することは、前述のとおり火を見るよりも明らかである」。擯斥処分無効確認訴訟についても「この訴訟の判決が発付されると損害はきわめて甚大であり、回復は不可能に近い」と述べて却下を求めたのである(年金支払いについては50年6月寺族同心会との間に和解が成立。現在は本裁判が闘われている)。

学会内造反・松本訴訟問題
学会をめぐる訴訟は、これだけにとどまらなかった。妙信講グループとはまったく異なる、別の内部告発者の手によっても、過激な訴訟がすすめられている。元学会幹部、松本勝弥・堯美夫妻の提訴した、正本堂寄付金(御供養金)返還請求である。その内容として、総本山大石寺大御本尊の真偽の問題を含む、注目すべき訴訟であった。

松本は、昭和33年12月17日頃に学会入会、42年12月に学会教学部教授の資格をとった、民音(民主音楽協会)に勤務する学会青年部の幹部であった。堯美夫人もまた渋谷地区の、有カな指導会員だった。

昭和46年9月、まず堯美夫人が地区組織の不統一のなかで「大石寺板本尊は御真筆ではない。つまり偽物である」として学会を脱会。あいついで十数名の会員が脱会。学会の組織問題に発展していく。

昭和47年11月11日、民音職員の身分のまま松本は創価学会及び代表役員・池田大作を被告として、「御供養金返還請求」の訴状を東京地裁に提出。「被告は前述のとおり、正本堂は日蓮大聖人の三大秘法の大本尊を安置するためである、そのため会員は供養金を寄付すれば幸福になると称して右寄付を勧誘し、原告は被告の右正本堂に安置するといういわゆる『一閻浮提(えんぶだい)総与の大本尊』が真正な大本尊であると信じたからこそ前記の寄付をしたのである。しかるに、右『大本尊』は次に述べるとおり、『日蓮大聖人の弘安2年10月12日建並した大本尊』ではない疑いがきわめて濃厚となり、右疑問に対して被告は何らこれを解く努カをなさず、このため原告両名は右大本尊を信仰の対象としえなくなり、前記寄付はその要素に錯誤の存在することが明白になった」

こうして御供養金計4百万円の返還が、学会、池田に請求された。学会にとっては、信仰の中心、本尊の真偽を問われる大問題だった。池田は「どんなことをしても松本を学会の外に追い出せ」と、北条浩副会長に厳命したというが、それはこの訴訟が、学会組織の内部崩壊の芽になる可能性をはらんでいたからにほかならなかった。

昭和47年11月25日学会は、聖教新聞紙上で松本夫妻の宗門除名を発表。次いで昭和48年1月13日、民音が松本を配置転換拒否、背任行為を理由に解雇。

1月16日松本はこれに対しても、地位保全の仮処分を行なわぬままに、いきなり雇用関係存在確認請求の本訴に持ちこむのである。被告は民音代表理事・姉小路公経。

これらの訴訟は、現在も進行中である。本尊問題については昭和50年10月6日、「本件の争点は、いずれも純然たる宗教上の争いであって裁判所が審判すべき法律上の争訟とは到底いい得ないから、訴を却下する」とする東京地裁の判決がおりた。「かかる宗教上の本質である信仰対象の賛否や宗教上解決すべき教義の問題は、内心の信仰に直接かかわるものというべきであり、裁判所が法令を適用して終局的に解決できる事柄ではない」

松本はこの判断を不服として、東京高裁に上訴した。一方解雇無効の訴訟は、昭和50年12月までに被告側の立証をほぼ終り、51年3月から原告側の立証に入っている。

これらの訴訟の具体的ないきさつについては、松本原告側の斉藤一好・担当弁護士の執筆による『創価学会・民音との裁判を担当して』(月刊ペン3月号)に詳しく述べられている。

十年協定と造反問題
問題は、昭和49年10月、つまり池田が学会の代表役員をしりぞき、北条理事長にその椅子を渡した時期が、以上のような各種訴訟が、一斉に学会に殺到した時期だったことである。

前述のように、妙信講関係では本尊守護のための仮処分申請、本裁判、さらに僧侶八木直道の擯斥無効確認裁判、地位保全の仮処分申請の用意が動き出していた。一方松本訴訟では、『被告』として明示され、本尊問題裁判の頂点を迎えようとしていた。松本側はこの時期、池田を学会会長として証人申請していたのである。

10月29日、池田は学会の代表役員をしりぞく。これはそのまま、これらの訴訟の矢面からしりぞき、陰にかくれることを意味した。かつて言論問題のおり、民社党代議士塚本三郎は池田を、国会へ証人として喚問することを要求した。さらにさまざまな宗派、教団との論争、討論においても、池田は常に学会を代表して前面に出ることが要求されつづけた。しかし池田はこれを一貫して拒否しつづけ、問題が発生すると必ず何らかの理由を設けて、現場から遁走(とんそう)してきたのである。

池田の小心のなせる業(わざ)であると同時に、絶対に触れることを許されぬカリスマとして、学会は懸命に池田個人を守らざるを得なかったのである。事実、代表役員をしりぞいたことによって池田は、松本裁判においては一応法的には、被告の座をおりることになったのだった。

そしてさらに問題は、この昭和49年10月という時期が、池田が野崎を前面に立てた若手側近団を駆使し、能動的に共産党に対して和解工作を開始した時期だったことだった。宮本共産党委員長は協定発表後の記者会見で、「協定はわれわれが持ちかけたものではなく、また拒否する必要もなかった」と言明した。池田にとって、訴訟問題、代表役員辞任、十年協定の三者は、相互に密接して関連していたのである。

学会の組織活動に。とって、共産党が最大、最強の敵でありつづけてきた事実については、この連載の冒頭で詳述した。共産党は一貫して、学会、公明党の組織を攪乱しつづけてきた。そしてそのためには、手段は選ばれなかった。

池田が最も恐れたのは、まず第一に、学会、宗門の内紛に共産党が介入してきて、間接的に反池田勢カにテコ入れを行ない、当事者たちの気づかぬうちに学会の内部亀裂が拡大されることであった。共産党本部自らが動かなくても、方法はいくらでもあった。宗門内にいる共産党シンパを動かして、反池田勢カヘの援助を行なうこともできたし、カモフラージュされた共産党の外郭団体、往民運動団体その他の機関を動かして、内紛に介入することもできた。

第二には、これらの内紛は社会問題として表面化し、場合によっては政治の舞台に引きずり出される可静性を、常に秘めていることだった。

「獅子身中の虫」として、池田は内部反池田派、反学会派を常に厳しく処断し、その口封じを徹底的に行なってきた。しかしこれらは逆にいえば「信教の自由に対する侵犯」、「第二の言論出版妨害事件」に発展する危険性を常に含んでいたのである。

そしてその暴露の担い手が、共産党だった。田中金権政治に対する総批判の過程で、田中の人脈の中にある学会の問題が再びとりあげられ、共産党の手によって学会内紛が社会に暴露される可能性は、誰に否定できなかった。学会、に対する訴訟ラッシュは、その引き金になり得たのである。

事実、共・創和解の交渉の過程で、妙信講問題、松本訴訟問題が話し合われたことを信ずるに足る、情報、状況証拠がある。池田は万一の場合を考え、共産党との和解を決意し、学会代表役員を辞任し、楯として北条を前面に出した。そして自らは陰に隠れた、というべきであった。

親からさずかった名前を変えた池田
そろそろ総括すべき時がきたようだ。

池田大作にとって『十年協定』とは、どのような意味もっていたのか。十年協定の成立、破産の原因は何かという、素朴な疑問から出発して取材を進めていく過程でいつか十年協定の意味は、協定そのものを突き抜け、創価学会という組織そのもの、池田大作という個人の意識の深層にまでたどりついていった。そのマクロ的なひろがりの中で、十年協定は学会nあらゆる矛盾と結びついていたのである。池田にとって十年協定とは、いわば自らと学会のさまざまな矛盾、内部亀裂の象徴でもあったのだ。

日蓮正宗宗門・学会内の主流派つまり池田体制をめぐっての権力闘争。池田カリスマ化の完成の野望。壮年部と青年部の確執。青年部内の対立。”裏”学会の経済活動と会員の搾取。スキャンダル。宗門・学会内反主流派、反池田反学会派の造反。そして学会を越えて、しかも学会を束縛して離さない旧保守勢力、右翼陣営からの圧力。

こうした矛盾は、学会が単なる宗教団体の枠(わく)をはずれ、社会全体に対する影響カを持つまでに成長した時、学会に対して当然に与えられた属性であり、課題であった。ひとつの団体が多様性を保持すればするほど、そのかかえる矛盾も多様化する。それが政治団体であれば、ひとつのイデオロギーで統制すること可能だった。だが、学会は中身はあやしいものだが、宗教団体である。政治団体、結社に優るとも劣らない組織力、影響カを持ちながら、学会は内部を一義的に統制しきれないまま、外部に対し明確な輪郭と厳しい姿勢を提示できずにきた。学会の矛盾はいわば必然ともいえた。

池田は自ら求めてこれらの矛盾を作りあげながら、それに苦しみ、さらにその上にさす共産党の影に不吉な、組織の崩壊の可能性を読んで脅えたのである。その池田の心理の上に、十年協定は正確に位置していた。

最後に池田大作の“人間”に触れて、終ろうと思う。

昭和3年1月2日、池田は東京府荏原郡入新井町大字不入斗で、池田子之吉、妻一の五男として出生する。本年48歳である。子之吉は、池田に『太作』と命名した。

だが、昭和28年11月25日学会文京支部長の地位にあった池田は、自ら『太作』を『大作』と戸籍改名した。何故か。入会すると、姓名判断を行なって改名する立正佼成会に対して、「インチキ極まる邪義をもって、人々を地獄におとす」と批難した池田なのだ。何故改名しなければならなかったのか。

さらに池田は、夫人をも改名させた。戸籍名までは変えていないものの、戸籍名『かね』を『香峰子』と称している。この行為は、池田の微妙に女性的な心理と、不思議なコンプレックスを証明していた。外見主義である。

「銀行に行くときにもいい恰好をしなさい」
池田が、少年期を病苦と貧困のうちに、もうこれ以上は落ちようもない最低線を歩いたのは事実だった。

羽田第二尋常小学校を卒業すると、すぐに先に兄が勤めていた新潟鉄工所に就職。昭和20年には池田の肺病はさらに進み、6回目の肋膜。結核性痔痩、中耳結核、鼻結核を併発していた。このなかで池田のしぶとい人間性は形成され、しかも彼は人生の野望を捨てることはなかった。

22年春、あまり評判が良くなく「平々凡々で、秀才の行かない学校」といわれた東洋商業学校を卒業。苦学の糧としていた昭文堂印刷をやめて、京浜蒲田駅裏の蒲田工業会に書記として就職する。この年の8月、以前から参加していた森ケ崎の青年グループ協友会のメンバーに誘われて、創価教育学会に出席、入会するのである。

青年部員池田は、東大、慶大、早稲田、学習院の四大学を出た人間を、一種羨望のまなざしで見たという、彼は23年、大世学院(後の富士短期大学)政経科夜間部に入学し、翌24年秋に退学する。そして第三代会長に就任してから後昭和42年、レポート提出だけで富士短期大学を卒業する。卒業後に発刊された著書、『政治と宗教』(潮新書版)の奥付けには、さっそく「富士短期大学卒業」と書き加えられたのである。

彼は病苦と貧困のなかから、学会第三代会長の座まではい上がった。それはいわば「いつまでも貧乏していてたまるかい」という二代会長戸田城聖の言葉、人間のエゴイズム、立身出世への欲望を教勢拡大のエネルギーへと転化した、創価学会の象徴でもあった。

池田は「時計でもカフスでも、身につけるものは良いものを持ちなさい」と語ったという。このため昭和四十年頃、学会本部の大幹部の間にワニ皮ベルトが大流行したそうだが、さらに池田は「銀行へ行くときにも、いい恰好をしなさい。自分に対して自信が持て、相手に劣等感を与えることができる」とも語ったという。

池田は何故、『太作』を『大作』と戸籍改名せざるを得なかったのか。改名された戸籍簿を透し見れば、そこには宗教家というより、立身出世への渇望と、それに反比例する実に小心で女性的な、自已へのコンプレックスに包まれた、政治屋としての池田の相貌が表われてくるのである。

池田の、人間に関する記憶カは驚くほど発達しているという。いつ誰が何をいったか。そして誰は誰とどのような関係にあるのか。どうすればその人間を、味方につけることができるのか。それらについて記億し、見分ける天賦の才能をもっているという。

これはまさに政治屋の資質であった。池田大作と田中角栄の人間像が、かなりの部分でダブるのはそのためにほかならない。しかし田中が極貧の中から立ち上がり、宗教の持つ暖昧性などを一顧だにせず、ひたすら権カと金権に向かってひたむきに突進した時、つまり社会へのコンプレックスを逆手にとって開き直った時、一方の池田は権カヘの意志を宗教という衣で隠し、小心で女性的な外見主義で護る道を選んだのである。

これは池田の人間性にほかならなかった。十年協定、共・創和解は、そのような者の手によって画策され、そして破産したものだったのである

七十年代後半の学会と池田
学会は現在、昭和54年までに公称一千万世帯会員を目途として、組織活動を展開している。さらに衆議降の議席、140議席以上達成という目標もあるという。

だが、積年の病理の果てに発生したロッキード事件は、日本の政治、社会に対して、旧保守体制とその支配構造そのものの解体、清算を迫っている。はたして”保守のシッポ切り”ですむかどうかは疑問である。

保革の緊張が、今後さらに激化していくことは目に見えている。そして「保守とは何か、革新とは何か」という根源的な間い直しがすすめられていくだろう。学会・公明党が唱えてきた保守でもない、革新でもない「中道革新」なるヌエ的な概念が、厳しい試練に立たされていくのである。

学会初代会長・牧口常三郎の『価値体系』の序列は「利・善・美」であった。利益を最高とする、その教えのとおり、保革の優劣が明確であった時、学会はその両者の間を振り子のように動き、常に政局、社会のキャスティングボードを握ろうと努めてきた。

だが、現在進行している政界再編と、社会の政治に対する意識構造の変化は、そうした学会や公明党の思惑、動きを封殺しようとしている。時代は池田のパランス主義、つまり右へ左への御都合主義的揺れ動きを、無価値なものにするところまで追いつめていたのである。

十年協定の破産、つまり学会をめぐる右と左の、かつてない激烈な闘争は、学会指導部やそれに関わる者たちが、いかに本能的に自分たちの危機を感じとっていたかを証明していた。さらに宗教団体(?)学会の中軸である日蓮正宗・創価学会の教義・信仰は、そのすべてが、真正の仏法からみて百パーセントの偽作・インチキであることが本誌の連続特集『崩壊する創価学会』で逐次明白にされつつある。こうして学会は、そのどんづまりに達した時、果たしてどのように変質し、分裂した相貌を表わすのだろうか。

病気説、海外逃亡用意説の乱れ飛ぶなかで、池田は、海外活動強化という代表役員辞任の口実とは裏腹に、現在、活動の主エネルギーのすべてを、国内に向ける決意を固めたという。むろん、その成果は絶望的である。

(文中敬称はすべて省略しました。なおこれまでの執筆にあたり各種雑誌論文、各種新聞、左記の文献を参考にいたしました。筆者に感謝いたします。

創価学会四十五年吏、上野和之・大野靖之編、聖教新聞社
創価学会 原島嵩・世紀書店
政治と宗教 池田大作・潮出版社
人間革命 池田大作・聖教新聞社
池田大作 小林正巳・旺文社
池困大作論 央忠邦・大光社
変質した創価学会 蓮悟空・六薮書房
訴訟された創価学会 松本勝彌・現代ブレーン社
あすの創価学会 浅野秀満・経済往来社
私の見た創価学会 浅野秀満・経済往来社
これでも池田大作を信ずるか 下山正行・暮しのガイド社
これが創価学会だ 植村左内・しなの出版
創価学会を斬る 藤原弘達・日新報道
創価学会・公明党の解明 福島泰照<隈部大蔵>・太陽出版)

 

週間新潮って 民主党並みに

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2011年 2月 4日(金)17時23分55秒
  中身のない記事を平然と売り物にしているようですな(失笑)

朝日新聞の記者に苦情が行くように、イヤガラセしてるんですか週刊新潮。
 

創価学会HPの世界交友録  池田大作とエジプト・ムバラク大統領の会談のページを削除

 投稿者:たけし  投稿日:2011年 2月 4日(金)15時43分41秒
  アクセスしようとしたページが見つかりませんでした。

http://www.sokanet.jp/sokuseki/koyu/mubarak.html



以下グーグルキャッシュ
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:jSGuNUL1Wr4J:www.sokanet.jp/sokuseki/koyu/mubarak.html+%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%A4%A7%E4%BD%9C%E3%80%80%E3%83%A0%E3%83%90%E3%83%A9%E3%82%AF&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&source=www.google.co.jp


エジプト大統領 ムハンマド・ホスニ・ムバラク氏

アレクサンダー大王の造った歴史の古都で、現在の大エジプトを率いる大統領と語り合えることは、本当にうれしいことです」(池田名誉会長)。
1992年6月、ムバラク第4代エジプト大統領と池田名誉会長との会見が、悠久の歴史をとどめるアレクサンドリアで行われた。
「池田会長、バルコニーへ出て、話を続けませんか?」(ムバラク氏)。
眼下に広がる地中海。「素晴らしい海ですね」(名誉会長)??。和やかな潮風がバルコニーを包んだ。
地中海の碧き海原を望む語らいは、エジプト文明、歴史、そして中東情勢へと及んだ。

ムバラク氏の多忙を気づかう名誉会長に、氏は「池田会長と語り合うのは楽しい。
時間は気にしないでください」と。会見は予定していた時間の2倍にあたる約1時間にも及んだ。
今こそ、文明の衝突よりも、文明の対話を、文明の共生の道を??。
氏の理想は、そのまま、名誉会長が目指し、戦う信念でもあった。
「時代は変わりました」「世界の歴史が証明しているように、“力”による問題の解決は、もはや不可能な時代になっているのです」
 

越 洋 

 投稿者:シーズン3  投稿日:2011年 2月 4日(金)11時34分26秒
  平成23年2月1日

創価学会第二代戸田会長の推戴式が昭和26年5月3日、向島・常泉寺で行
われた。その時、戸田会長は、ご自身の存命中に75万世帯の達成を宣言され
た。その場に集ったメンバーは"戸田先生は随分、長生きされるのだ"と思った
そうだ。それ程、誰もが遠い未来のことだと感じた。戸田会長は法華講に対し
ても「学会と同じように法華講も大折伏をしてはどうか」と提案。

だが、宗門も法華講も馬耳東風。あれから60年も経った今頃になって、「
80万達成」の誓願などと焦っているが、掛け声だけに終わることは自明の理
だ。暴力を振るうしか能がない無慈悲の布教部長ら坊主どもや自分では折伏し
ない法華講幹部らが、檄を飛ばすだけでは、千年待っても達成できない。

池田名誉会長の指揮と不惜身命の戦いがあってこそ、75万の達成も、今日、
1千万を越える192カ国・地域への拡大も実現でき得たことは歴史が物語っ
ている。

『勝海舟』の原作者としても知られる、時代小説家の子母沢寬(しもざわか
ん)氏が生誕して、きょうで119年を迎える。子母沢寛氏は明治25年(18
92年)2月1日、厚田で生まれた。厚田村といえば、第二代戸田会長と同郷で
ある。少年期よりの知己で、親交が深かった。後に子母沢氏の出版を戸田会長
の会社が受け持ち、相当数の著作を発刊している。

戸田会長は「子母沢先生は、茶目っけもあり、楽天的な人柄です。つねに、
そう振る舞えるのは、腹がすわっているからです」と語っている。その子母沢
寬氏の人柄が、作風としてにじみ出ている代表作といえば『勝海舟』である。

初代牧口会長は「海国」の資質をもった人物として、幕末・明治期の勝海舟
(1823~99年)を挙げられている。明治維新の際、西郷隆盛と会見して江戸城
の無血開城を実現し、八百八町を戦火の危機から救ったことは有名である。

勝海舟は「(島国の人間は)とにかくその日のことよりほかは目につかなく
って、5年10年さきはまるで暗やみ同様だ。それも畢竟(ひっきょう)度量
(こころ)が狭くって、思慮(おもい)に余裕がないからのことだよ」(勝部
真長編『氷川清話』、角川文庫)と語ったという。

時代に逆行して尊大ぶった日顕はじめ宗門の人間らは、勇気もなく、卑怯に
も、対話を拒否して、逃げ回っていた。折伏・弘教を怠(おこた)り、遊興に
ふけり、本尊と寺院を私物化し、揚げ句の果てには、大聖人の仰せ通りに折伏
・弘教に励む信徒を破門するなど言語道断である。

昭和31年(1956年)の年頭に第65世日淳上人は「これを思うにつけても
創価学会の出現によって、もって起(おこ)った仏縁に唯(ただ)ならないも
のがあると思います」と学会を讃歎されていた。先師に違背する五逆罪の破和
合僧・日顕とその一派は滅び去るのみである。
 

海外通信 

 投稿者:シーズン3  投稿日:2011年 2月 4日(金)11時23分50秒
  2011-01-31

フィリピン・マニラの閑静な住宅街に、過剰警備の異様な光景
一流ホテルに泊まり、宴会に興じる日如らは「法師の皮を著たる畜生」

1月23日、フィリピン・マニラの布教所が寺院に昇格した。住職は、布教所の
責任者であった山澄信玉である。山澄は奥番時代、周りの仲間に「御前様が勤
行をしないんだよ」とボヤいていたが、そういう山澄自身は、東京・宝浄寺に
在勤していた時に、3日に1回の割合で川崎の高級ソープランドに通いつめて、
信徒の浄財を月50万円も"泡"にしていたソープボーイである。

山澄はマニラでも「フィリピン人はあまり御供養しない」とボヤいているらし
い。ある檀徒は、「あそこに行くと、金の話ばかり。金ばかり払わされる。も
う二度と行かない」と憤慨して、脱講している。

宗門がマニラに寺院を開いたのは、中華系の人々をターゲットにしているか
らだ。彼らは「檀徒が千人いる」と言っているが、実際に会合に来るのは、二
百人程度で、その半数近くは子供である。彼らの言い分では、貧しい現地のフ
ィリピン人の供養ではとても布教所は維持できない。だから、経済的に余裕の
ある中華系を狙っているのだ。

23日、閑静な住宅街にある布教所に、過剰警備の中、真っ赤な日傘をさされ
て、日如が現れた。顔は作り笑いをしているが、若い頃に真っ白なスーツで池
袋の街を肩で風を切っていた〃ブクロの寛ちゃん〃の目つきは、相変わらず、
獰猛である。なんとも異様な光景に、付近の住民は不安な表情をしていたとい
う。

その日の夜、いつものごとく、日如らは一流ホテルに泊まり、宴会を行なっ
た。彼らの楽しみは、信徒の供養で贅沢な食事に舌鼓を打つことだ。

日如は相変わらず「折伏は、やればできる」などと、馬鹿の一つ覚えのよう
に繰り返している。自らが率先して範を見せることなく、信徒にけしかけるだ
けだ。この姿は、宗祖が「出家せる者も・仏法を学し謗法の者を責めずして徒
らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり」と喝破され
ている通りであり、日如は「法師と云う名字をぬすめる盗人」である。
 

池田名誉会長の「脳梗塞」報道 「朝日編集委員が講演」の波紋

 投稿者:???  投稿日:2011年 2月 4日(金)10時57分45秒
  2011/2/ 3 18:59

   公の舞台に姿を見せなくなり、その動静が注目されている創価学会の池田大作名誉会長(83)について、週刊新潮が「創価学会名誉会長『池田大作』は『脳梗塞で車椅子』と講演した『星浩』朝日新聞編集委員」との見出しで報じた。創価学会によると、週刊新潮編集部に抗議したという。

   首都圏の書店などに2011年2月3日に並んだ週刊新潮最新号(2月10日号)は、朝日新聞編集委員の星浩氏が、「1月28日」にあった「内閣情報調査室(内調)の懇談会」で講演し、池田名誉会長の健康状態について話した、とする「ある内調職員」の話を伝えている。

「創価学会の知人からの情報」?

週刊新潮が池田名誉会長の健康問題を報じた    新潮記事によると、星氏の講演内容について、「ある内調職員」は「肝心の池田大作名誉会長の病状ですが、目下、脳梗塞を患い、車椅子に頼っている状態だと言うのです」「星さんによると、創価学会に知人がいて、この情報はそこから直接聞いたとのことでした」などと語っている。また、「(池田名誉会長の健康情報について)似た話を昨年の12月ごろ聞いたことがあります」とする「古参の創価学会員」も登場する。

   池田名誉会長の動静については、新潮記事は「8カ月以上も、一般信者の前から姿を消している」としている。11年1月27日付の聖教新聞に「香峯子夫人と仲睦まじく並ぶ姿など」を掲載したことにも触れつつ、「一般信者の入りにくい場所で撮影され、池田氏の姿もとても小さく写っています」などとする「創価学会ウォッチャー」の話を伝えている。同写真と記事は、1月26日の池田名誉会長の活動を伝える形で、2月3日夕現在、聖教新聞ネット版でも確認できる。

   新潮は、星氏とのやりとりも伝えており、「脳梗塞で車椅子」発言については、星氏は「いや、そんな話はしていませんよ」と答えている。「質問を重ねる」と、星氏は「何であなた、そんなことを知っているの? というか、何で話さなければならないの!」と話したという。懇談会へ行ったかどうかも「行ったかどうか、それは分かりません」と否定も肯定もしなかったようだ。また、創価学会広報室の「ノーコメント」談話も載せている。
創価学会は「事実ではありません」
   星氏を講師に招いて懇談会を開いたのか、内調の総務部にきいてみると、「懇談会の有無を含め、一般的に具体的な活動内容についてお答えはしておりません」とのことだった。

   新潮記事では、「(懇談会を)主催するのは形式上、内調の外郭団体」との指摘もある。複数あるとみられる同種団体のうち、その法人年間収入の大半を内閣官房からの「情報調査委託費」としての補助金で賄っている東京都内のある団体にも質問してみた。星氏を講師に招いた懇談会を実施したことがあるかと聞くと、「ない」との答えだった。ただ、内調関係の懇談会自体は比較的頻繁に行われているようで、今回の新潮記事を読んで「オレも内調関係者に頼まれて講師をしたことがある」と話すマスコミ関係者もいる。

   また、「池田名誉会長が『脳梗塞を患い、車椅子に頼っている状態』という指摘は事実なのか」について、創価学会広報室にきくと、「事実ではありません」と否定した。週刊新潮や星氏に対する対応を質問すると「本日、創価学会広報室として週刊新潮編集部に抗議いたしました」とだけ回答した。記事のどの点についての抗議なのかについては明かさなかった。

J-CAST ニュース
http://www.j-cast.com/2011/02/03087249.html




 

阿呆法太郎への反論

 投稿者:三島住人  投稿日:2011年 2月 4日(金)09時25分14秒
  弘安二年で留まり然も大御本尊ではなく、「大本尊」と呼称され、本門寺に懸けなさいという「教示をされていることは紛れも泣く板本尊ではなく、紙幅の曼荼羅本尊を指す決定的な文ではないだろうか。
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法太郎の反論①
※こらぁ!!、また、勝手な妄想で妄論を述べておるのう。(苦笑)、「大御本尊」が板で、「大本尊」が紙幅であるという文証・道理・現証を挙げよ。(笑)、
小生反論①
物理的な話に反論で文証・道理・現証が必要か否か、まずそこへの確固たる文証が法太郎には必要であるにも関わらず、何等反論的内容に触れていない。
こういうのを無知者の愚問というのである。
法華講と自ら明かしたならば歴史的な根拠、論証して始めて反論となるだろう。
そのくらいのことは小心者の法太郎氏も理解出来るものと思い、長い目で見てあげようと思う。
板本尊を絶対とする大石寺としては紙幅の曼陀羅が本門寺「現北山本門寺」では体裁が悪いだろう。
然し、「懸け奉るべし」との教示を無理に読んでも板本尊には読めないのは私だけであろうか。
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法太郎反論②

※(笑)、ははは、笑えるのう。「日興が身に当て給う所の」御本尊が紙幅で存在するのであるか。(笑)、宗祖の曼陀羅百数十幅中、日興上人授与の御本尊は一体も無い。(爆笑)、

したがって重須にも無い。授与された目師が次に相伝して現在は大石寺にある。即ち、本門戒壇大本尊である。(苦笑)、

小生反論②
全く法太郎氏は文字の理解ができない方であるとつくづく思う。
>「日興が身に当て給う所の」御本尊が紙幅
>宗祖の曼陀羅百数十幅中、日興上人授与の御本尊は一体も無い。
ここで授与書があればいいというのか?
授与書がなくても、宗祖が渡して譲渡したものは興師の曼陀羅となり得ることくらいわかるだろう。
ここでの疑問は脇書き者に対する方にしか、授与が認められないというのか?
それではこんなことはいいたくないが、大石寺で下附している御本尊には脇書がない。
では偽本尊ということなのか?
それとも偽本尊と書けば法太郎氏は創価学会の本尊でイチャモンをつけてくるか、様子を見ることにする。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------「日興跡条々事四」においては日興が日目を称える文章になっておりこれも師弟子の関係にある日興と日目では有得ない書き方である。
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法太郎反論③

※ (苦笑)、文証の箇所も示さずノータリンなことを述べるものではない。そもそもである。日興跡条々事は三箇条から成り立ち、創賊が挙げた文は〝補足〟であ る。ここでは、日興上人の甥にあたる日目上人が、大聖人に給仕して学んだ目師の人生の意義を述べられたものであり、厳格な修行を貫いた日興上人が、厳しい 修行に邁進した日目上人に対し、さらに厳格な法城守護の遺命を命じられたのである。


手元に日興跡条々事がある方は是非とも一読していただきたい。一読するば〝三島の住人〟なる仁が如何に大狂乱を示しているかが理解できるはずである。(笑)、

小生反論③
では、法太郎氏に問う。
「日興跡条々事」の内容に様々な表現の違いを書かれているが、法太郎氏はどの書籍が正しいと思うのか、考究した上で慎重にお答え願いたい。
「興全」、「歴全」、「新編」、「富要」、「御書文段」、「広宣流布抄」、今挙げた書籍の何を法太郎氏が選択するのか、楽しみである。
法太郎反論④
余程、日目の親族が日興に供養したか、日目自身が日興に供養したかの選択が出来よう。
通常であれば、このような文章は残らない。
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※では、その文証を示すべきであろう。単なる憶測で史実を論ずるものは、ノータリンの類以外のなにものでもなかろう。(苦笑)、
小生反論④
ここにおいては、史料があるはずなので少し時間を戴きたい。静岡までいかなければなるまい(笑)、、
このような考察から日興跡条々事及び、日興跡条々事示書を対比したが特に大きな接点を見出すことが出来なかった。
書きながらであるが少し残念な気持ちもした。
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法太郎反論⑤

※これこれ、何時?キミが対比したと云うのか。・・・大狂乱と云う以外にあるまい。主師の〝跡条々事示書〟は興尊の〝日興跡条々事〟の講義文である。対比すると云うのであれば、とことん対比して〝相違〟〝共通点〟〝用語の使用例〟等を比較して示すべきであろう。(苦笑)、

小生反論⑤
では法太郎氏に問う。
一、 日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊「五月二十九日」御下文、日目に、授与す。「詳伝一二六頁」
※ (法太郎ちゃん、教えてくれるかな?)「あの園城寺申状とは大聖人御在世当時、禁裏に奉状を捧げてですね。そして、この、それが三井等の長吏にこれを下して、その勘文を検せしめたところが、正しくその時この三時弘教の次第、釈尊一代の施化の次第に合致しておるというゆえんをもって、まあ朕が法華を信ずる時至らば、必ず富士の麓を訪れるであろう、という言葉と共に、下し給わったのが、「お下し文」であるということで、このお下し文は、正しく在った訳であります。お虫払いに、猊下がいつも御披露なさりますが、日興跡条々事の事には別に下書きがありますね。下書きには、お下し文ということが書いてあるんです。それを、またお考えになって、この正規の日興、日目上人への譲り状には、それを削られた訳であります。そして、あの「日興が身に宛てて賜る所の弘安二年の大御本尊、日目に之を授与す。本門寺に懸け奉る可し」というあの御文があるんですね。あのところにお下し文というのが、草稿の方には入っている訳です」

※ の所、大切だからさ、逃げずにきっちり反論してね(笑)

皆が、笑いの渦に入っているぞ、、法太郎君(笑)







 

えっ!?

 投稿者:講員O  投稿日:2011年 2月 4日(金)08時28分41秒
  私が、この場をお借りしてあなた(サ●キ氏)に疑問を提示してから、数日が経ちました。が、一向に答えの片鱗すら示そうとされていません。
とても残念です。悲しいです。あなたには、(昔からの)妙観講員の思いと言うのが聞こえてこないのですか?

学会から移って来たあなただからこそ、私達の疑問に答えるべきです。

一、今回の「右翼」の方々へは折伏されましたか?

二、深夜、警察沙汰になるような危険を犯す「ビラ配布」が正当な信仰活動なのでしょか?
(あなたは先頭に立ってビラ配布した経験はありますか?)

三、あなたはなぜ、「対論」の場に臨もうとされないのですか?

そして……私達、妙観講員はミイラなのですか!?
 

暇ですか…うらやましい

 投稿者:クロさま~ん  投稿日:2011年 2月 3日(木)18時02分38秒
  クロさまって、お・ひ・ま(笑)。

毎日、聖教と創価ネットをチェ~ック!蛍ック譲りのアラサガシ。
ムバラク、ムバラクっと…。あ!消えてる!消えてる!よ~し、書くゾ、書くゾ~。シコシコシコシコ。

消したら消したで「都合悪いから消えてまんな~」って文句言う。
残してたら残してたで「独裁者とオトモダチでんな~」って文句言う。

会合から姿が消えたら「重病や~、危篤や~」って文句言う。
会合に出てはったら「いつまで出てんねん~」って文句言う。

どっちにしても気になって気になって、文句&文句。

自分はといえば、世界の指導者とはまったく無縁の、夜警のバイトにいそしむ単なる一爺。それが現実。

夜警の仕事って、そんなにヒマなんかな…。

いっぺん、見に行ってみようっと。
 

池田先生の輝かしい功績?

 投稿者:???  投稿日:2011年 2月 3日(木)17時57分17秒
  「大統領は愛国主義者であり、平和主義者であり、民族主義者であることが、よく理解できました。」
(「池田大作と、チャウシェスク・ルーマニア大統領〈当時〉との会見」昭和58年6月8日)
「(チャウシェスク)大統領は若く、偉大なる指導者であり、独自の哲学をもち、また魅力をもった
方であると認識しています。私はその大統領に将来見習っていかなくてはならないこともよく知悉し
ているつもりである」(昭和五十年三月二十五日、聖教新聞社で駐日ルーマニア大使のニコラエ・フ
ィナンツー氏と会談にて)
「大統領のような聡明な指導者をもったお国は幸せであると申し上げたい。もはや大国の指導者はみ
んな年輩者ばかりです。しかしお国は若い」(同)



チャウシェスク氏は独裁者として、6万人以上の自国民殺害に関与した件で、
平成元年12月、銃殺(じゅうさつ)刑に処された。
その後・・・



「民衆の総意による新生ルーマニアの誕生を私は、両手をあげて祝福いたします。(中略)『民衆が
勝った』『人間の叫びが勝った』。 私どもはもちろん、権力悪と戦う世界の民衆勢力に、強い勇気
を与えてくれました。」(「池田大作と、新生ルーマニアのブラッド駐日大使との会見」平成2年1月6日)
「貴国の不幸は、指導者が一族主義による『独裁者』に、いつしか陥ってしまったことにあったとい
えます。権力の腐敗にどう対処していくか――ここに将来にわたっての大きな課題があると思うのですが」(同)
「残念なことに、変革以前の貴国には独裁体制があり、その統治が強固なだけに、識者の間には、政
権交代は暴力革命になるかもしれないとの指摘もあった。ところが、貴国の民衆は、混乱はあったも
のの、できる限り暴力の拡大を防ぎ、自由を勝ち取りました」(同)


 

妙観講はミイラ

 投稿者:北斗A  投稿日:2011年 2月 3日(木)14時47分1秒
  ♪黙り狸の醜一君(笑)

静かじゃないかぁ、全てが図星で、冬眠を決め込んでいるのかな?(苦笑)

それとも、禅宗が好きな日顕に見習って「ダルマ」でも拝んで
手も足も出なくなっちゃったか?
もしかして、右翼工作で内部分裂の大恥掻いて毎夜毎夜、やけ酒か?

あっ!そうか……お前、昔、反逆直後に「ミイラ取りがミイラになっちゃった」なんて言ってたから
とうとうミイラ状態で口も手も足も思考能力もストップしたかぁ!はっはははは…(爆笑)

質問→お前にとって日顕宗妙観講はミイラってことか!?(笑)
 

創価学会はいつから誤っていたのか!?

 投稿者:夜太郎  投稿日:2011年 2月 2日(水)11時46分25秒
  資料集

戸田会長の〝忠誠〟と、行き過ぎた〝宗門批判〟
     〝強信者〟といえど仏法の裁きは厳然

 創価学会が今日のような大謗法団体となってしまった原因について、
これまで様々な分析がなされてきた。
その大半は、第三代会長・池田大作の無信心・大慢心に起因する、
との見方であるが、はたして、それが全てといえるだろうか。
「源にご(濁)りぬればなが(流)れきよ(浄)からず」(御書八二七)
との御金言もあるように、真に清浄なる源から突如として
濁流が流れ出す、ということは考え難い。
やはり池田の大謗法を生む要因は、それ以前から学会の中に
伏在していた、と見るべきであろう。
この対談は、今まで触れられなかった、二代会長当時の
誤りについて言及したものである。

【対談】

話し手
    元・創価学会広報部副部長 小川頼宣氏

    元・聖教新聞社職員      原島昭氏
(※原島昭氏は、創価学会理事長・公明党初代委員長を歴任した
原島宏治氏の長男で、元・学会教学部長だった嵩氏の兄)


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「師匠が地獄の相で死んで」と池田

         真の追善供養は正邪を峻別してこそ

小川  それから、これを述べることは私としても本当に断腸の思いですが、
仏法の因果を覆い隠すわけにはいかないので、お話します。
 池田大作が三代会長に就任した翌日、原島嵩氏に
 「君は、私の弟子になるか!弟子というものは、師匠が地獄の相で
死んでいったとしても、疑わずに、自分も共に地獄へついて行く
というのが弟子だ!」(『前進』昭和五十二年五月号)
と語った、というのは有名な話ですが、私はこの内容に引っ掛かりました。
 というのは、池田大作が語ったのは、単に「師匠が地獄に堕ちても
疑わずについて行く」という、一般論的なものではなく、
「師匠が地獄の相で死んでいったとしても」という、極めて具体的な表現です。
 原島嵩氏も、この衝撃的な表現が印象に残ったからこそ、そのように
記録したと思うんですが、私は、これは池田の実体験に基づく発言では
ないか、と感じたわけです。
 そして、いろいろ調べていったところ、原島さんのお父さんである
原島宏治氏(※故人。学会理事長・公明党初代委員長を歴任)が
戸田会長の臨終の相を拝見しており、それによると、
口が大きく開いてしまっていた、と……。

原島  ……。

小川  このことは関係者も固く口を閉ざしていますし、私も数年前に
知って以来、途方に暮れて、口外せずにきました。
しかし、大聖人は、「此の人は地獄に堕ちぬ乃至人天とはみへて候を、
世間の人々或は師匠・父母等の臨終の相をかくして西方浄土往生とのみ
申し候。悲しいかな、師匠は悪道に堕ちて多くの苦しのびがたければ、
弟子はとゞまりゐて師の臨終をさんだん(賛嘆)し、地獄の苦を増長せしむる。
譬へばつみ(罪)ふかき者を口をふさいできうもん(糾問)し、はれ物の口を
あけずしてや(病)まするがごとし」 (妙日尼御前殿御返事)
と仰せられています。
いたたまれない思いではありますが、このことをどこかで明らかにしなければ、
学会初期からの宗門誹謗が、あたかも正しい信仰として罷り通ってしまい、
かえって、いつまでも戸田会長の苦を増長させることになって、
真の追善供養にならない、と思うのです。

原島  そのとおりですね。私もそう思います。
……父がそのように述べていた、ということは知りませんでしたが、じつは、
私も見ているんです。
 戸田先生の葬儀において、斎場でいよいよ最後のお別れということになり、
棺の蓋が開けられた時に拝見しました。他にも私の前後に、棺の傍らで
お別れの対面をした本部職員が数人いました。
 それは、大聖人様が仰せられているような成仏の相や、私の身内が
亡くなった時の色白で半眼半口で柔らかな相とは、全く違う、苦悶の相
でした。口が大きく開いて、色も黒くなっており――。
 私は、それで当時の創価学会の在り方に疑問を持ち、もう、心からは
従えなくなったんです。

小川  やっぱり、そうでしたか。
 私は、池田が原島嵩氏に話した内容からみて、この戸田会長の臨終を
池田がどう捉えたか、というと、池田は、戸田会長の信心の瑕瑾に
気付くのではなく、むしろ、「あれほど信心一筋に頑張ってきた師匠でも
地獄の相で死んでいった、
地獄も仏も無かったのだ」と受け止めたのだろうと思います。
 つまり、この瞬間に、池田大作の中にわずか残っていたかもしれない
信心のカケラも、根本的に吹き飛んでしまった。
 だからこそ、池田は、御本尊模刻・血脈否定・戒壇大御本尊蔑視・
宗門誹謗等々といった大謗法を、恐れ気もなく犯し、
自身の〝天下盗り〟という野望に突っ走ることができたのに違いありません。

原島  そのとおりだと思いますね。

小川  「源にご(濁)りぬればなが(流)れきよ(浄)からず」(御書八二七)
との御金言もありますが、私はこの際、創価学会の謗法化の原因
を全て明らかにして、二度と再び同じことを起こさない、
その指標とすることが大切だと思います。
 そのために、明らかにしたくないことも、あえて明らかにせざるをえない、
というのは、やむをえないことだと考えます。
 そして、戸田会長の大きな遺徳は遺徳として、その恩を被っている者が、
今度は正しい日蓮正宗の信心をもって仏祖三宝に御奉公していく、
その功徳が全て戸田会長に巡っていくものと信じます。

原島  そうですね。それが『報恩抄』にも示される報恩と追善供養の
在り方だと思います。
 私としても、戸田先生は父母が長年、師と仰いだ方です。
これまで一言も他人に洩らさずに来た、戸田先生の臨終について述べるのは、
身を切られるように辛いものがありますが、令法久住のために、
また戸田先生に対する真の追善供養のためになるなら、
きっと先生も喜んで許してくださるものと信じています。

小川  ともあれ、創価学会ができた昭和初期の頃は、
まだ本宗信徒の中に正しい信心の在り方というものが徹底しておらず、
そのため、時として、宗門軽視や在家中心主義を叫ぶ
法華講員も出てきたようです。
 それは今日で見れば異端ですが、そうした中の突出した一人として
牧口常三郎氏が現われ、また、その思想的影響を、
そのまま全てとはいいませんが、かなり戸田会長も受けていたのだと思います。
 したがって今日の私達は、過去に創価学会で教えていたことなどに
一切捉われることなく、あくまでも、日興上人の御遺誡置文や
日有上人の化儀抄に示される、本宗の正しい信心の在り方を一から学び、
身に付けていくことが大切でしょうね。


戸田城聖氏の不成仏の因は謗僧

「凡そ謗法とは謗仏謗僧なり、三宝一体なる故なり」(御書『真言見聞』)

小川  いろいろお伺いする前に、私の想いを申し上げておきたいのですが、
私は戸田城聖会長を心から尊敬しています。
それは牧口氏や池田大作と違って、戸田会長は、戒壇の大御本尊を
唯一絶対と信奉し、代々の御法主上人を大聖人と仰いで忠誠を
尽くしたからです。

原島  そうですか。

小川  ところが、どうしても引っ掛かる点があって、いつかはハッキリ
させなければいけない、と思ってきました。
 それは、戸田会長の数多くの論述の中で、ただ一つ
「創価学会の歴史と確信」と題する論文の中に、日蓮正宗宗門を
揶揄し批判した内容があること。
 また、当時の『聖教新聞』の「寸鉄」欄に、宗門御僧侶方に対する
酷い悪口が、それこそ口を極めて書いてある。
 たとえば、学会がこれだけ折伏したのに宗門は大事にしてくれない、
という感情から書き殴ったと思われるものの中には、
「生臭坊主」「糞坊主」「狐坊主」から始まって「化物坊主」「第六天坊主」
などという書き方がしてあります。
 それから、学会で御書全集の発刊を発願した時に、諸般の事情で
宗門を挙げて協力してもらえなかったことについては、
 「御山でゴシュ(御酒)は作ってもゴショ(御書)は作れぬ坊主が居るってね」
などと揶揄していますし、昭和二十七年のいわゆる〝狸祭り事件〟と
呼ばれる騒動で、いかに謗法行為を憎んだからといっても、
すでに反省悔悟している某御僧侶に対し、総本山内で大勢の学会員が
暴行に及び、後日、その行為について、宗門から厳しく処分があったところ、
「寸鉄」では、
 「忠義を尽くして謗法を責めて御褒美(ごほうび)あるかと思うたに、おほめはなくて
『登山まかりならん』とおしかりさ。
弟子一同『俺達も一緒に登らんわい、フン』だってさ」
 「宗会議員の諸公は三類の敵人中、第二類か第三類か、ニヤリ」
などと不遜極まりないことを書いています。
 また、その翌年の「寸鉄」では、
 「坊主の仕事は衆生を成仏させる事だが、自分が成仏出来るかどうか
考えた事があるのか」
等、さらに口汚ない悪口誹謗がなされています。
 これらは、記名記事ではないものの、学会の中では
「戸田会長が執筆した」というのが通説となっていますし、
仮にそうでないとしても、こんな内容を
機関紙に連日のように載せていた、責任者としての失は免れないと思います。

原島  そうですね。じつは昭和二十五年頃の学会の座談会で、
「歌を忘れたカナリア」という童謡を歌っていたことがあるんです。
それは、辻武寿理事が幹部会で皆に歌わせ、戸田先生も認めたことから
始まったそうですが、歌を忘れたカナリアというのは、
折伏を忘れた日蓮正宗の御僧侶と法華講のことを指している、とのことでした。
 いくら学会が大折伏をしている、といっても、これは信心の姿勢から言えば
傲(おご)り、驕慢(きょうまん)ですよね。
 それから、先程の「ゴシュ」と「ゴショ」というのは、
戸田先生が好んで用いていた洒落(しゃれ)ですね。
私の家には、戸田先生から戴いた
「御書会も御酒会も同じ法の友 霊山までも飲みに行かなむ」
という色紙もあります。
このことから見て、先程の「寸鉄」を書いたのは、やはり
戸田先生なのでしょうね。

小川  ですから私は、戸田会長の信心は、根本のところでは立派で
あったと思うんですが、同時に見過ごすことのできない瑕瑾もあった、
というのが事実だと思います。
 おそらく、それは、戸田会長が心底から敬愛した牧口常三郎氏の獄死に
対する無念の想いと、講義の最中でもウイスキーをガブ呑みしていた程の
酷いアルコールの影響が相俟って、時折に宗門誹謗の言動が
飛び出してしまったのではないか、と考えます。

原島  なるほど。


この偽らざる真相について如何思われるだろうか。
創価学会戸田第二代会長においては、宗門外護・発展の為の
様々な功績があったことは動かしがたい歴史である。
しかしその反面上記の如くの御僧侶軽視の思想や問題発言が
あったこともまた否めない事実でもある。
・・・ともあれ、その後、御法主上人と多くの御僧侶に追善供養された
功徳によって、必ずや救われたと信ずるものである。


toyoda.tvからの転載

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フェイク 第1173号

 投稿者:シーズン3  投稿日:2011年 2月 2日(水)11時18分15秒
  (発行=11.02.01)
宗祖の教えに違背する箱上泰学
行く先々で悪事を働く日顕宗のビラ坊主
「少欲知足は昔の事、今は贅沢して良い」?

日顕宗法華講が性懲りもなく各地で日寛上人御書写の御本尊を誹謗するビラ
を撒き散らしているが、最近、神戸市・妙本寺の関係者も、連絡先として同寺
の電話番号を記した下手な手書きのビラを配布している。

同寺の坊主は箱上泰学(写真)で、以前、売文屋の内藤国夫(故人)が代表世話人
になっていた「民主政治を考える会」なる怪しげな団体が、学会中傷ビラを約六
千万部も作って広範囲にバラ撒いた時、徳山市の妙頂寺にいた箱上も帽子を深く
かぶってコソコソと配って歩いていた。

このビラ坊主の箱上は、地元の人々から「死の塔婆商人」「衣をつけた餓鬼
坊主」と呼ばれる程の守銭奴。教学の質問をされると逃げ、宗史にも疎いため
「泰学」ではなく「怠学」と改名した方がよいと嘲笑されたこともある。

本名は箱上省吾で、昭和三十六年に得度した。師僧は青山諦量。広島の福王
寺を経て同五十七年に徳山市の妙頂寺に異動、平成十七年に現在の妙本寺に移
って悪事を働いているのだ。

日顕が「C作戦」を強行した平成二年十二月二十七日の二日後、箱上は早速、
総代の家を訪ねた。総代を寺の味方する魂胆だったが、総代の夫人が届いたば
かりの「大白蓮華」新年号を手に糾弾。「学会や池田名誉会長を称賛する『新
年の辞』を寄稿する一方で、総講頭罷免とは、どういうことですか」と追及し
た。

すると箱上は「あの新年の辞は単なる社交辞令だ」と珍弁解。日顕の公の原
稿や発言も、いい加減なものだということになる。

また、箱上は平成三年の御講の席で「少欲知足」について「大聖人の時代は
貧しかったので、僧侶は『少欲知足』の生活だったが、今は時代が違う。生活
も豊かになったから贅沢をしてもいいんだ」と語っていた。

日蓮大聖人は「但(ただし)正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なる
べけれ」と仰せである。「時代が変わって豊かになったら贅沢してよい」等と
いう御文はない。

箱上の贅沢の実例が徳山の妙頂寺の大改装だった。

昭和六十二年、箱上は約八千万円を投じて寺の工事を行ったが、費用の大部
分を庫裏に費やした。

本堂は少し広げただけで、平屋だった庫裏を二階建てに新築し、地元の人達
から「妙頂寺は本堂より庫裏のほうが立派だ。あれで信心していると言えるの
か?」と非難の声があがった程だ。

庫裏の新築後の台所は約二十畳の広さでシステム・キッチン、ガスレンジ、
流し台、収納庫も全て二組、業務用の特大冷蔵庫や大型テレビも備えていた。

 最近、配布しているビラには戸田二代会長の指導を無断で引用しているが、そ
の戸田会長は「寺院は坊主の寝床ではない」と指弾されていた。この指導も引
用してはどうだ!

 更に、箱上は「御書根本は増上慢だ」とも発言したことがある。日顕や箱上
らは、所詮、御本尊、御書を独り占めにし、御本尊への仲介料として信徒から
供養を巻き上げようとする商売坊主の魂胆が丸見えだ。
 

法太郎氏への反論と妄説についての見解

 投稿者:三島住人  投稿日:2011年 2月 2日(水)03時35分10秒
  法太郎氏の挙げた■日主上人 「日興跡条々事示書」

「富士四ヶ寺之中に三ヶ寺は遺状を以て相承被成候。是は総付嘱分なり。大石寺は御本尊を以て遺状被成候。是 れ則ち別付嘱・唯授一人の意なり。大聖より本門戒 壇御本尊、興師より正応の御本尊法体付嘱、例者上行サツタ定結要付嘱大導師以意得如此御本尊処肝要なり。従久遠今日霊山神力結要上行所伝の御付嘱、末法日 蓮・日興・日目血脈付嘱、全体不色替其侭なり。八通四通は総付嘱か、当寺一紙三ヶの付嘱、遺状は文証寿量品儀なり、御本尊は久遠以来所未手懸付嘱なり。」  「歴代法主全書一巻四五九頁」

への取り上げ方に私は問題指摘しているのであり、私が最初に挙げた日主上人 靈寳蟲拂日記に対する反論すら成立していない。

斯様に思わば、次のような見解が法太郎氏の主張が見えてくるのである。
それを文上で明かしていきたい。
※日興跡条々事「一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と爲し、日本国乃至 一閻浮提の内、山寺等に於て、半分は日目嫡子分として管領せしむべし。残るところの半分は自余の大衆等之を領掌すべし。
一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を 相伝す。本門寺に懸け奉るべし。
一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。

 右、日目は十五の歳、日興に値ひて法華を信じて以來七十三歳の老体に至るも敢えて違失の義無し。十七の歳、日蓮聖人の所に詣で(甲 洲身延山)御在生七 年の間常隨給仕し、御遷化の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞の功他に異なるに依つて此くの如く書き置く所なり。仍つて後の爲証状件の如 し。

  十一月十日
  日興 花押」
とある。
では、日蓮正宗大石寺法主十四世日主上人が「日興跡条々事示書」を書き留めたかということを考究する余地があるだろう。
私はそのような疑問点から「靈寳蟲拂日記」「歴代法主全書一巻四六0~四六一頁」を取り上げたのである。
冒頭には「靈寳蟲拂日記」の影版が収められている。
どう見ても偽書には到底思えないので、後に考究したいと思う。
では法太郎氏の挙げた「日興跡条々事示書」と「日興跡条々事」を対照しながら日興の思想があるのか、どうか、或は後世の偽作であったのか、観察したいと思う。
「日興跡条々事示書」の冒頭では「富士四ヶ寺之中に三ヶ寺は遺状を以て相承被成候。」とあり※富士山四ヶ寺の中に三ヶ寺は遺状「相伝書」を以て相承成リ候。
とあり、是は総付嘱分なり。と日主上人は説明されている。
確か大石寺では総付属と別付属とあり、大石寺には総付属ではなく曼荼羅本尊を以て遺状と成ると説明をしている。要するに相伝書がなくとも曼荼羅御本尊さえあれば別付属唯授一人相承が成立するのであり、曼荼羅御本尊のみをとって別付属といって更には唯授一人相承の意となるのであると解説している。
本題は総付属はなく、曼荼羅本尊を以て別付属になる宗派ということはわかった。然し、その後に続く文は疑ってかからなければならない。
「大聖より本門戒 壇御本尊、興師より正応の御本尊法体付嘱」とあり、更に末文には「当寺一紙三ヶの付嘱、遺状は文証寿量品儀なり」
文全体からは本門戒壇大御本尊「弘安二年十月十二日御図顕」を指しているようには到底思えない。
日主上人は「日興跡条々事示書」と記されているわけだから、当然通常で考えれば「日興跡条々事」をベースに示書としている。
反論を受けてもいいように現代では「示書」というのはどのような意味を持つのか一旦書置きしておこうと思う。
「示書」の意味としては書き示すや、禅宗などでは「垂示」ということがあり教え示めすなどの意味もあるようである。両義の解釈としても何等不自然なことではないから問題はないだろう。
然し富士山四ヶ寺の中、三ヶ寺は総付属「相伝書」に対して、大石寺は本門戒壇大御本尊があるにせよ、正応の御本尊があるにせよ、曼荼羅御本尊さえあれば相承が出来るという点では相承に面倒な手続きがなくスムーズであったに違いないし、悪く言えば面倒臭いというイメージも受けなくはない。
御覧の皆様はどのような印象を受けるだろうか。
では末文に挙がった「「当寺一紙三ヶの付嘱」とは何を指すのであろうか。
一、 本門戒 壇御本尊
二、 正応の御本尊法体付嘱
三、 文証寿量品儀
「日興跡条々事示書」での「「当寺一紙三ヶの付嘱」とは上記に挙げた三つであったであろうかと推察する。
では、この三つが日興跡条々事に当然ながら反映されなければならず、その反映がどのような点にあったのか、「日興跡条々事」に触れてみたい。

「一」、「一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と爲し、日本国乃至 一閻浮提の内、山寺等に於て、半分は日目嫡子分として管領せしむべし。残るところの半分は自余の大衆等之を領掌すべし。」

「二」、「一、日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を 相伝す。本門寺に懸け奉るべし。」

「三」、「一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。」

「四」、「右、日目は十五の歳、日興に値ひて法華を信じて以來七十三歳の老体に至るも敢えて違失の義無し。十七の歳、日蓮聖人の所に詣で(甲 洲身延山)御在生七 年の間常隨給仕し、御遷化の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞の功他に異なるに依つて此くの如く書き置く所なり。仍つて後の爲証状件の如 し。」

  「十一月十日」
  「日興 花押」

このように「一~四」の四段階にして分別を行なってみた。

大石寺十四世法主日主上人「日興跡条々事示書」と対照するために「日興跡条々事」と見比べてみる。

「日興跡条々事一」においては、「日興跡条々事示書」の「末法日 蓮・日興・日目血脈付嘱、全体不色替其侭なり。」との文意を汲み取ることは出来ようか。代々に渡り、相伝が正しき言葉か分からないが、蓮、興、目と伝わったという文としては読み込めるのではないだろうか。

次に「日興跡条々事二」については、やや問題がある。
弘安二年で留まり然も大御本尊ではなく、「大本尊」と呼称され、本門寺に懸けなさいという「教示をされていることは紛れも泣く板本尊ではなく、紙幅の曼荼羅本尊を指す決定的な文ではないだろうか。
板本尊を絶対とする大石寺としては紙幅の曼陀羅が本門寺「現北山本門寺」では体裁が悪いだろう。
然し、「懸け奉るべし」との教示を無理に読んでも板本尊には読めないのは私だけであろうか。
私は弘安二年十月十二日の本門戒壇大御本尊と称する曼陀羅「紙幅」は存在しなかったことをこの日興跡条々事より見出したい。

「日興跡条々事三」においては、日目に寺の責任を書いたものであるからここにおいては論外とする。

「日興跡条々事四」においては日興が日目を称える文章になっておりこれも師弟子の関係にある日興と日目では有得ない書き方である。
現在もよくあることだが、師と弟子に関して言えば非常に厳しくこのようなことを遺す御僧侶というのはまずいない。
余程、日目の親族が日興に供養したか、日目自身が日興に供養したかの選択が出来よう。
通常であれば、このような文章は残らない。
理由は弟子が師に御給仕するというのは、当時から上納と称したり御志であったり寄進などがあったのは今も日興当時も似たりよったりの歴史が数多く遺されているからである。

※このような考察から日興跡条々事及び、日興跡条々事示書を対比したが特に大きな接点を見出すことが出来なかった。
書きながらであるが少し残念な気持ちもした。
それは創価学会では本門戒壇を否定し、日蓮正宗法華講や御僧侶方は信じていてもその「信」に値する遺文が少ないのか、大石寺が公開していないのかはわからないが、資料不足という点から残念に思う。
信じたい気持ちなどもわかるのだが、然し事実なかったことを今あるから信じろというのは少し無理があるのかもしれない。
途中で年月日の問題、文筆の問題、歴史上の問題、法主の本来残されている遺文の問題、上行院、住本寺との問題、数あることも確かだがここにおいては又の機会に一つずつ触れていきたい。
創価学会諸氏が、二箇相承、両巻血脈、他多数偽書扱いのスタンスをとっているので私は別の角度からアプローチしたものである。
しかしこの結論はあくまで私の見解でしかなく、正しいと言えるかどうかは、御覧の皆様の範囲で御叱正戴きながらまた考えていきたい。

写真は「靈寳蟲拂日記」










 

(無題)

 投稿者:釈子・創価門流  投稿日:2011年 2月 2日(水)00時14分4秒
  東京地方裁判所の判決を見るに、矢野氏・矢野氏側弁護士も巧みな戦法を取ったなあ。
 
 

腰抜けの法太郎への反論

 投稿者:三島住人  投稿日:2011年 2月 1日(火)23時15分59秒
  http://6001.teacup.com/qwertyui/bbs/5451に対する法太郎からの反論。

http://www3.ezbbs.net/04/hotrokaka/ no.292

法太郎への反論

>【概要・法太郎】
日目上人の弟子であった日尊が、上行院に板御本尊を造立した文証である。富士門流ではかなり古い時代から板御本尊は造立されていたものである。

■(笑)

>オレたちなんかたいした者じゃないんだから、相手にするの、止めたほうかいいよ。

時間がもったいないと、思わないのかね。

■(大爆笑)、、、、


結論

■法太郎という男は、持論に陥り、何等反論としての見解を示さない男ということが出来の悪い文章から伺うことが出来る。

訳においてもデタラメで、全く自己解釈による違釈することしか出来ない哀れな男である。

ここに我々、日蓮正宗教義研究会の圧勝としたい。

法太郎氏へ

教学の研鑽とは、読みきることからスタートするのです。

然し、貴方は漢文の読みさえ出来ない状態での反論では、違う貴方の都合のよい解釈で他の方々に大きな影響を与えます。

私は貴方の程度を理解して、今後レベルの違いにより相手にはしません。

骨のある男と思いましたが、軟弱男を私は相手にするほど暇人ではありません。

では、あしからず。

※ちゃんとした訓読がかかれておりましたら、再度反論申し上げます。

それまで宿題として、訓読を覚えてください。
 

やっぱり、おもしろくないな…

 投稿者:クロちゃんファン  投稿日:2011年 2月 1日(火)21時23分24秒
  おい、小池!

じゃなかった、

おい、クロ! くだらん、カキコしてるんじゃないよ~。

なんて、指摘したら、そのカキコ、消えてるやんか?
消されたんか?あまりの内容のなさに、自らコッソリ消したんか?

まっ、ドッチでもいいケドぉ…。もうちょっち、オリジナルな内容のある
カキコをしてね。

「大聖人は初代法主だ!論」も、もっと掘り下げて聞きたいよ。
指導教師のM岡先生のご意見も聞かせてもらっていいかな?

今夜は出勤か?南扇町の夜は寒いぞ!仮眠の時に風邪引くなよ!
 

矢野絢也、新潮社らに賠償命令

 投稿者:寅吉  投稿日:2011年 2月 1日(火)20時30分41秒
  名誉毀損裁判で谷川副会長が勝訴

東京地裁

 「週刊新潮」(2008年5月22日号)が掲載した事実無根の捏造記事で名誉を毀損されたとして、創価学会の谷川佳樹副会長が同誌発行元の新潮社(代表取締役・佐藤隆信)と編纂長・早川清(当時)、記事中で虚偽の発言をした元公明党委員長・矢野絢也を相手に損害賠償等を求めていた裁判の判決が20日、東京地方裁判所(浜秀樹裁判長)で下された。
 判決は、記事の重要な部分について、「真実性の証明がされているとは認められない」として、矢野ら3者に連帯して33万円を支払うよう命じた。
 問題の新潮記事は、を鵜呑みにして、05年5月に谷川副会長、青年部の代表と矢野の懇談の席で、あたかも同副会長が矢野に対し、「人命に関わるかもしれない」などと脅したという、虚偽を掲載したもの。同副会長がそのような脅迫を行った事実は一切なかった。 裁判の過程で谷川副会長側は、懇談の内容を録音したテープを証として提出したが、拠その中にもそのような発言は存在しなかった。
 判決は捏造記事を掲載して、谷川副会長の名誉を毀損した新潮社及び編集長の不法行為責任を認定するとともに、矢野についても「新潮社が創価学会に対して批判的な論調の記事を掲載することとなることをあらかじめ予期していた」「記事にあるような発言等を行い、意図してこれに加担した」と認定。「名誉毀損につき、共同不法行為の資任を負う」と断じた。
 そして、3者に対して、連帯して損害賠償の支払いを命じたのである。

「聖教新聞」平成23年1月21日2面掲載
 

谷川佳樹副会長が勝訴した矢野裁判判決文(抜粋)

 投稿者:寅吉  投稿日:2011年 2月 1日(火)14時50分49秒
  2 争点(1)(名誉毀損性の有無)について
(1)雑誌の記事あるいは広告によって人の名誉を毀損したことになるか否かを
  判断するに当たっては,その記事等の意味内容が人の社会的評価を低下させ
  るものであるかどうかにつき,当該記事全体の趣旨,目的等の諸般の事情を
  総合的に斟酌した上で,当該記事等についての一般の読者の普通の注意と読
  み方を基準として判断すべきである。
   ところで,雑誌の記事中の名誉毀損の成否が問題となっている部分につい
  て,当該部分が特定の具体的事実の存在を述べる第三者の伝聞内容を紹介,
  引用する形式を採用している場合にあっても,引用事実に対する修辞上の誇
  張ないし強調の有無・程度,引用事実部分の前後の文脈,記事の公表当時に
  一般の読者が有していた知識ないし経験,引用事実部分に対する筆者自身の
  論評の表現方法等を考慮し,当該記事についての一般の読者の普通の注意と
  読み方を基準として判断すると,筆者自身が間接的ないしえん曲に引用事実
  の存在そのものを主張するものと理解されるならば,当該記事は,引用事実
  そのものについて事実を摘示したものと見るのが相当である(最高裁判所平
  成9年9月9日第三小法廷判決・民集51巻8号3804頁参照)。
  そこで,上記基準に従って,本件記事によって原告の名誉を毀損したか否
  かについて,検討することとする,
(2)前記前提となる事実及ぴ証拠(甲1)によれば,本件記事は,被告矢野が
  創価学会員らから脅迫を受けたこと及び被告矢野が創価学会員らから脅迫さ
  れ謝罪と評論活動をやめることを約束させられたこと等につき,被告矢野ら
  への取材等を通して,主に,別件訴訟の訴状や被告矢野のコメントなどを紹
  介・引用し,被告新潮社が,論評を加えるという形式で構成された記事であ
  るといえる。
   そして,本件記述1は,原告が被告矢野に対し,「人命に関わるかもしれな
  い」,「息子がどうなってもいいのか」という趣旨の発言をして,被告矢野を
  脅迫した事実を,本件記述2は,被告矢野が,「息子がどうなってもいいのか」
  などと脅迫され,家族にまで危害が及ぶ恐怖を感じた事実,文藝春秋に書い
  た本件手記についての謝罪と,今後,評論活動は行わないと約束させられた
  事実を摘示している。
   たしかに,本件記述1の直前には,「学会青年部の幹部らによって矢野氏が
  吊し上げられた様子は,訴状にこう記されている」と記載されていることか
  らすると,被告新潮社及び被告早川は,別件訴訟の訴状を引用する形で原告
  らが被告矢野を脅迫した事実を摘示しており,本件記述2も被告矢野の発言
  を引用する形で記載され,直接的に原告らが被告矢野を脅迫したとの事実や
  被告矢野が謝罪と評論活動はしないとの約束をさせられたとの事実を記載し
  ているわけではない。
   しかし,本件記事の本件見出し部分には,「『矢野絢也』を窮鼠にした『創
  価学会』の脅迫と誹謗中傷」と大きな活字で記載され,被告矢野が創価学会
  から脅迫を受けたことを強調する表現方法を採用していること,本件記事の
  小見出し部分には,「『土下座しろ」『息子がどうなってもいいのか」-創価学
  会から脅迫と誹謗中傷を受けていたという元公明党委員長の矢野絢也氏(7
  6)。執拗な威迫による苦痛は限界を超え,身体の危険を感じて学会と訣別。
  窮鼠と化した矢野氏はついに,損害賠償を求めて提訴した。」と記載され,被
  告矢野から聞き取った原告らの発言の一部を取り上げ,被告矢野が原告ら創
  価学会員から脅迫を受けたという事実の存在を読者に強く印象付ける表現方
  法がとられていること,本件記事の大部分は,被告矢野のコメント及び別件
  訴訟の訴状の引用で占められ,その内容も創価学会員が被告矢野らを脅迫し
  たり,品性下劣な言葉で誹謗中傷をしているというもので,創価学会側の言
  い分は,本文中わずか「訴状が届いていないので,コメントできません」と
  の2行にすぎないこと,本件記事の最終行は,「追い詰めた猫が,手ひどく噛
  まれる日も近いのである」と締めくぐられ,被告矢野の発言内容が真実であ
  ることを前提とし,本件記事全体として,原告ら創価学会側を批判するよう
  な内容になっていること等に照らすと,本件各記述は,一般読者からすれば,
  筆者である被告新潮社ら自身が間接的に引用事実の存在そのものを主張して
  いるものと理解されるのが通常であり,被告矢野は原告らに脅迫され,謝罪
  や評論活動をやめさせられたことを摘示するものといわざるを得ない。
   そして,本件各記述は,本件週刊誌の発行により,一般読者の知り得る状
  態に置かれ,一般読者に対して,被告矢野は,原告らによって脅迫され,謝
  罪と評論活動はしないということを約束させられたのではないかという印象
  を与えるものであって,これにより,原告の社会的評価を相当程度低下させ
  たというべきである。
(3)なお,被告らは,本件記事は,紛争報道と言われるもので,紛争状態にあ
  る一方当事者の主張を記述しただけで,名誉毀損となるというのであれば,
  一切の紛争報道はできなくなる等と主張する。
   たしかに,社会に存する様々な紛争を一般の読者に伝えることは,民主主
  義社会において,重要なことであることは間違いない。しかし,一般の読者
  が紛争を的確に理解し判断するためには,紛争当事者の双方の言い分等につ
  いて,一正確かつ十分な情報が提供されることが前提であり,当事者の一方の
  みに偏った情報を報道するだけでは,民主主義社会において,尊重されるべ
  き紛争報道であるとはいえないというべきである。
   これを本件についてみると,前述したとおり,本件記事は,被告矢野のコ
  メントを中心として構成されており,紛争の他方当事者である創価学会側の
  主張についてはほとんど触れられていないのであって,公正中立性を維持し
  ているとはいえないのであるから,本件記事が公正中立的な紛争報道に当た
  ることを前提とする被告らの主張は理由がない。
3 争点(2)(本件記事の真実性の有無)について
(1)民事上の不法行為である名誉毀損については,その行為が公共の利害に関
  する事実に係り,その目的が専ら公益を図るものである場合において,摘示
  された事実がその重要な部分において真実であることの証明があるときは,
  不法行為は成立しないと解される(最高裁判所平成15年3月14日第二小
  法廷判決・民集57巻3号229頁,同裁判所昭和41年6月23日第一小
  法廷判決・民集20巻5号1118頁参照)。
(2)本件記事は,被告矢野が,創価学会から誹謗中傷を繰り返し受けたことな
  どに対し,創価学会らを相手取り,損害賠償請求訴訟を提起したという事実
  を中心に,その誹謗中傷の具体的内容等を認識しているものであり,公明党
  の元委員長である被告矢野と,公明党の支持団体であり,巨大かつ著名な宗
  教団体である創価学会との間の紛争について,社会に対し,広くその実態や
  問題点を提起するという目的で掲載されたものと認められるから,公共の利
  害に関する事実について,專ら公益を図る目的で掲載されたものと認めるこ
  とができる。
(3)そこで,本件記事において摘示された事実が,その重要な部分において真
  実であることの証明があるか否か(真実性)について,以下,検討する。
   なお,前述したとおり,本件記事は,いわゆる紛争報道とは認められない
  ので,不法行為の成立が否定されるためには,報道された紛争当事者の発言
  の存在そのものについての真実性が立証されるだけでは足りず,その発言内
  容等摘示された事実について真実性が立証される必要があると解すべきであ
  る。
(4)本件記述1について
 ア 本件記述1では,原告が「人命に関わるかもしれない」,「息子さんは外
  国で立派な活動をしている。あなたは息子がどうなってもいいのか」とい
  う趣旨のことを言って被告矢野を脅迫した旨記載されている。
 イ 前記1(2)ウ(オ),(カ)のとおり,本件面談において,原告は,被
  告矢野に対し,創価学会の敵であると思っていた時期があり,その疑念は今
  でもある旨述べた上で(480項),またどこかに書くのではないか尋ねると
  ,被告矢野は,絶対に書かない旨述べたので,さらに,本件手記のようなもの
  は絶対書かないか再度確認したところ,被告矢野は,書かないと述べた(4
  85項)。
   しかし,その後,原告は,「で,一方,本当に矢野さんが,学会員として
  一緒にやっていきたいというお気持ちをお持ちであれば,息子さんも頑張
  っておられるし,」(486項)と述べ,森井が,「伸ちゃん,同級生です。」
  (487項)などと述べ,被告矢野が,「息子も,まあ,息子の嫁もね,私
  の家内も,まあ,私は,あー,私のね,こういう問題のために,可哀想な
  ことしていると。これは本当にそう思ってます。・・・まあーつ,僕は,あ
  ー,皆さん方にどう言われてもいいですけども,まあ僕は,ね。その連中
  だけは,一つ。」(490項)と述べたところ,杉山が,「だからこそ,やは
  り,そのー矢野さんがきちっと決着つけて。」(492項〉と述べたのに続
  けて,原告は,「ただですね,やっぱりこれは,奥様も息子さんも,矢野さ
  んの奥さんであり,矢野さんの,息子さんなんですよ。」(493項),「です
  から,矢野さんがどうされるかってことで,それは,みんな,これはもう,
  避けられないですよ,これは。」(495項)などと述べた。
   その後,原告は,「まあ,今日ごく一部紹介させていただきましたけども,
  現実にはこの5月9日の時点の,関西青年部,明日は青年部総会なんです
  が。これだけの怒りが渦巻いてる中で,関西青年部長がですね,一人で会
  ってお前,何してきたんだと,いうことに,まあ,なるわけで。」(568
  項)と述べ,森井は,「もう,こういう声もありました。明日,あの関西青
  年部総会,やるんですけどね。関西青年部総会の会場に来て謝罪せよと,
  もっとひどいメンバーは土下座しろと。そうしないと,言葉だけだと信用
  しないと,これがみんなの,おー,おお,大きい声なんですよ。また誰も
  が思ってるんです。」(569項),「いや,でも本当にね,矢野さん,言っ
  たとおりされないと,僕は,伸ちゃんかわいそうです。子どももかわいそ
  う。僕ら関西青年部,当時みんなどう思っているかっていうのはやっぱり,
  この時は反逆者だったと,思ってるわけです。」(587項)と述べ,さら
  に,原告は,「まっ,現実のところですね,あのー,ま,全国青年部長,男
  子部長ですが。まあ,その立場で,お語をしに来ること自体が,まあ,あ
  る意味じゃ危険ていうかですね。あのー,東京の,男子部は,もう除名し
  ろっていうふうに,言ってるメンバーが数多くいまして。」(588項)な
  どと発言している。
 ウ 上記によれば,原告の被告矢野に対する「あなたは息子がどうなっても
  いいのか」という発言自体を認めるに足りる証拠は存在しない。
   しかし,前記のとおり,原告は,本件手記のようなものを絶対に書かな
  いことを被告矢野に確認した直後,突然,「息子さんも頑強っておられる」
  といって被告矢野の息子の話を持ち出し,被告矢野は,「その連中だけは,
  一つ」と述べている。原告がどのような意図で,突然,被告矢野の息子の
  話を持ち出したのかは,原告の供述によっても判然としないが,当時73
  歳である被告矢野が,海外からの帰国直後に,30代から40代の原告ら
  5人の創価学会員に囲まれ,本件手記について,逐一問い質され,本件手
  記のようなものは絶対に書かない旨述べさせられたなどの状況下であるこ
  となども考慮すれば,突然,このような話を持ち出されれば,被告矢野の
  対応次第では,息子ら家族に何らかの影響が及ぶ事態となると受け取るこ
  とは,ごく自然であり,被告矢野は,「その連中だけは,一つ」と述べてい
  ることからしても,原告らの発言から,被告矢野は,原告らの要求に従わ
  ないと,家族に何らかの危害が及ぶ恐怖を感じたことが推認される。
   さらに,被告矢野が「その連中だけは,一つ」と述べた後も,原告は,「た
  だですね,やっぱりこれは,奥様も息子さんも,矢野さんの奥さんであり,
  矢野さんの,息子さんなんですよ。」,「ですから,矢野さんがどうされるかっ
  てことで,それは,みんな,これはもう,避けられないですよ,これは。」
  などと述べており,これら発言の意図は原告の供述等からも必ずしも明ら
  かではないが,客観的には,被告矢野の家族がどうなるかは被告矢野の行
  動次第であるといった,被告矢野の不安・心配を煽るような発言であると
  いわざるを得ない。
   そうすると,原告らの発言から,被告矢野が,息子ら家族に危害が及ぶ
  恐怖を感じたことが認められ,原告が「あなたは,息子がどうなってもいい
  のか」といった趣旨のことを言って被告矢野を脅迫したという点は,真実
  であると認められる。
 エ また,被告らは,原告が「人命に関わるかもしれない」との発言をした
  と主張し,被告矢野は,それに沿う供述をしている,
   しかし,本件面談を録音したテープ(甲92の1,92の2)には,そ
  のような発言は確認できず,また,被告矢野も,どのような文脈でそのよ
  うな発言がなされたかについては,正確に答えることはできないと供述し
  ている。
   たしかに,被告矢野の手帳(乙1)には,「人命にもかかわるのもしれず」
  との記載がみられるものの,上記録音テープ等に照らしても,そのような
  発言自身が存在したことを認めるに足りる証拠とはいえず,前述のとおり,
  被告矢野が,突然,息子の話を持ち出されたことから,家族に危害が及ぶ
  恐怖を感じ,その被告矢野自身の受け止め方や不安を記載した可能性など
  も十分に考えられ,この手帳の記載をもって,原告が「人命に関わるかも
  しれない」と言って,被告矢野を脅迫したと認めることはできない。
 オ 以上のとおり,本件記述1については,原告が「息子がどうなってもい
  いのか」といった趣旨のことを言って,被告矢野を脅迫したとの事実につ
  いては,真実であると認められるけれども,原告が「人命に関わるかもし
  れない」と脅迫したとの点は,真実であることの証明がなされているとは
  いえず,本件記述1を全体としてみた場合,一般の読者の普通の注意と読
  み方を基準とすると,「人命に関わるかもしれない」との発言が,殺人さえ
  も想起しかねない印象的な表現であり,この点について真実であることの
  証明がないことからすれば,全体としては,摘示事実の重要な部分におい
  て,真実であるとの証明がなされているとまではいえない。
(5)本件記述2について
 ア 本件記述2では,被告矢野が,「息子がどうなってもいいのか」などとい
  う趣旨のことを言われ,家族にまで危害が及ぶ恐怖を感じたこと,それに
  より,本件手記についての謝罪と,今後,評論活動は一切しないとの約束
  をさせられたこと等が記載されている。
 イ 前述したとおり,被告矢野が,「息子がどうなってもいいのか」などとい
  った趣旨のことを言われ,家族にまで危害が及ぶ恐怖を感じたとの点は,
  真実であると認められる。
 ウ 本件手記について謝罪させられたとの点について,検討する。
 (ア)本件面談では,前記1(2)ウのとおり,被告矢野は,本件手記の内容に
  ついて,間違いであったと認める発言を何度か行っている。
   しかし,本件面談の機会を設けるに至ったのは,前記1(1)工及びオの
  とおり,被告矢野が,本件手記について,西口らに謝罪し,池田会長あ
  ての謝罪文を提出し,前記1(1)キのとおり,平成17年4月28日付け
  聖教新聞には,「公明党元委員長の矢野氏が謝罪『文藝春秋』(93,
  94年)掲載の手記をめぐって矢野氏“私の間違いでした”“当時は
  心理的におかしかった”と題する見出しの記事が掲載されたにもかかわ
  らず,被告矢野が海外旅行に出掛けたことから,同年5月9日付けの聖
  教新聞には,「公明党矢野元委員長が海外!?行動で示せ!口先だけの
  「謝罪」は要らぬ」と題する見出しの記事が掲載され,創価学会側,特
  に,青年部は,被告矢野が本件手記について謝罪したにもかかわらず,
  夫婦で海外旅行に出掛けたことに納得できず,原告らは,被告矢野と直
  接面談することとなったものである。そして,原告ちは,被告矢野の真
  意を確認し,訥罪させる内容を検討して,あらかじめ本件謝罪文を準備
  して,本件面談に臨んでいる。
   そして,本件面談の経緯をみても,被告矢野は,お詫びの言葉を何度
  か口にしている。しかし,原告が,「「文藝春秋」の手記についてですね。
  あの「大変な騒ぎになり・・・政教一致と受けと,とられても致し方
  ない面があるということについては,これは間違いだったということで
  お詫びをされていると。あのー,本来はそういう趣旨で書く,つもりは
  なかったんだけれども,あのー,編集部の方で,えー,そうなっていた
  と,いうことで,これは聞違いだったんだというふうに話しておられる
  ということなんですが。これは,そういうことなんでしょうか。」(39
  項)と尋ねたところ,被告矢野は,「校正の段階で,えー,最初の校正で
  も,そうなっておったんですが,最終稿で抜けておった。ですから,私
  の不注意です。」(42項)などと,校正上の手違いを詫びるなどの応答
  であったのに対し,原告は,「それから,ま,関西長にもお詫びされたこ
  とがある。けれども私たちは,あの時期に,週刊,あ,月刊「文藝春秋」
  にこの手記を出したこと自体どうなんだと。利敵行為であり,いー,同
  志を裏切る,先生を貶める,広宣流布に弓を引く,そういう行為じゃな
  いかと思ってるわけです。」(318項),「そのことについて,矢野さん
  は今はどう思われてるのか。「数ヵ所の,不注意な」ということなのかと,
  ということです。」(320項),「それが,「数ヵ所の不注意な」,その程
  度の話ですか。」(386項),「足らんと言われればじゃなくて,どう思
  われるんですか。足りていると思われているんですか。」(388項),「だ
  から,なん,何回も謝っておられると言われる,その,あや,謝罪,謝
  りが,本当に謝ってるのか,っていうふうになっちゃうんですよ。」(4
  03項)などと,被告矢野が,間違いを認め,お詫びの言葉を述べてい
  るにもかかわらず,それでは十分ではないとし,また,「数ヵ所の不注意」
  の問題ではなく,そもそも本件手記を出したこと自体が間違いであった
  として,長時間にわたって,繰り返し,被告矢野に謝罪を求めているこ
  とが認められる。
 (イ)このように,そもそも本件面談の目的は,本件手記について,同年4
  月に被告矢野にさせた,西口らへの謝罪や,池田大作会長あての謝罪文
  の提出では足りず,被告矢野に直接面談して,本件手記について,問い
  質し,謝罪させ,本件謝罪文に署名をさせることであったというべきで
  あり,実際の面談も,前記1(2)ウのとおり,本件手記の内容や,本件手
  記を出したこと自体が間違いであったことなどを繰り返し被告矢野に言
  わせるなど,あらかじめ用意した本件謝罪文の内容どおりに被告矢野に
  言わせる形で進められたと認められるのであって,これらの事実からす
  れば,被告矢野が自ら任意に本件手記について謝罪したというよりも,
  被告矢野は,原告ら創価学会側の意図するとおりに謝罪させられ,その
  旨の謝罪文に署名ざせられたと受け取っており,また,そのように客観
  的に評価することができるというべきであり,本件手記について謝罪を
    させられたとの点は,真実であると認められる。
 エ 次に,今後,評論活動は一切しないとの約束をさせられたとの点につい
  て検討する。
(ア)前記1(2)ウ(オ)のとおり,森井が,「だけど,あのとき矢野さんがおっし
  ゃったのは,「私も,最後議員引退したら,必ず地元に帰って皆さんとと
  もに戦います。」と,そうおっしゃった。その言葉を信じて,皆頑張った
  わけです,あの時。だけども,引退したあと,音沙汰も全くない。…」(3
  62項)と述べたのに続けて,原告は,「私もこれ,あのー,ちょっと読
  ましてもらったんですけれども。あのー,みんな覚えてます,矢野さん
  が,「私も議員をやめたら,皆さん,同志の皆さんと一緒になって戦いま
  す」と,切々と訴えられた。覚えてます。矢野さん覚えておられますか。」
  (363項),「実現してませんね。」(365項)と言ったのに対し,被
  告矢野は,「私は,これ,ちょっと生意気な言い方になって。お許しいた
  だきたいんです。まあ,十分,大阪へ帰って,皆さんと共に戦う。そう
  いう気持ちも,今だってありますよ。」(366項)と言いながらも,「そ
  のかわし私は,まあ本当に生意気な言い方で勘弁してほしいんですけど
  ね。これでも根性はあるつもりですし。もし仮に,私が世間から見て,
  多少なりとも客観性のあることをいう人間だと,もしもですよ。そうい
  う評価がもし,自分のカでできるものであるならば,私は,そっちの道
  を選ぼう。」(368項)と述べ,原告らが,被告矢野に対し,大阪に帰
  って地元の者と一緒に戦うことを求めたのに対し,評論活動の道を選ぶ
  旨応答しており,被告矢野は,本件面談の当初は,評論活動を継続する
  意思であったことがうかがわれる。
   それに対し,本件面談において,前記1(2)ウ(イ),(オ)のとおり,原告は,
  「この手記が,どれほど学会員苦しめたか。先生の喚問,当時の政教一
  致批判。えー,あの,関西の男子部が,まあ,怒っているのはですね,
  えー,「一生懸命支援活動に行くと。と,矢野っていう評論家が,学会と
  公明党の関係について何か言っていると。友人は,「あの人,元委員長だ
  ろうと公明党の,どうなってんだよ」と言われる。それを,私たちは一
  生懸命,説得しましたと。なんで味方のはずの人が足を引っ張るんです
  か。なんで敵に塩を送るようなことをするんですか。この悔しさは言い
  ようがありません,と。何者なんだと,あれは」と。」(298項)と述
  べて,関西男子部の被告矢野に対する怒りの声を紹介し,杉山は,被告
  矢野が「要するに,あらゆるところで評論活動をしながら,結局,いろ
  んな形で,その,元公明党の委員長でありながら,公明党のことを批判
  してる。」(307項)と指摘し,森井は,(青年部の)「「声」の中で一番
  多いのが,その矢野さんが評論活動していることそのものが,公明党の
  元委員長でありながら,第三者的な評論の,かつ,繰り返していると。」
  (372項)などと述べて,被告矢野が評論活動をしていることについ
  て,創価学会員らは,好ましく思っていない旨を述べ,原告は,青年部
  の声として,被告矢野が創価学会批判とも取れる発言をしていることに
  ついて,本当に創価学会員なのかという感想を持っていたり,政治評論
  家を名乗っているのだから笑わせるなどといった意見などがあることを
  紹介した上で(437項),原告は,「これが,会員が求めている声なん
  ですよ。矢野さんが,自分のできることをやっていく,評論家としてや
  っていくというふうにお考えかもしれませんけども,それを望んでない
  んです」(439項)と述べ,これを受けて,被告矢野は,「やめましょ
  う」(440項)と応答して,評論活動をやめる旨の発言をした。
   しかし,その後,森井が,「一切?」と尋ねたところ,被告矢野は,「ま
  あ,一切になるかどうかはね,それはー,あー,少なくとも,おー,お
  ー,いろんな週刊雑誌等の取材は,断ります。・・・急にここで一切何も
  かもやめたら,また妙な,ことになりますから。段々,もうそれこそ,
  急,急速ですけども,明日から一つも出るなよ,という意,意味で言っ
  てるわけではありません。しかし,やめます。」(446項)と,一切の
  評論活動を直ちにやめることについては明言を避けた。
   その後,弓谷が,「やめますと言ったと,そういうふうに青年部に伝え
  ていいですね。」(453項)と尋ねると,被告矢野は,「そうですねー,
  その」(454項)といった受け応えなので,弓谷は,「それは,約束し
  たら,約束したら。」(455項)と述べたが,被告矢野は,「しかしそう
  いう,そういう言う方をされると,かえってまずいんじゃないんでしょ
  うか。私は言ってもらって結構ですよ。」(456項)などと答えていた
  ところ,弓谷は,「そう決めて,そう決めて評論活動やめたんだと,そう
  はっきり言ってもらいたい。」(465項)と詰め寄ったので,被告矢野
  は,「結構です。言って下さい。」(466項)と応えたが,弓谷は,「い
  や,言って下さいじゃなくて,矢野さんとこに取材が来たら,矢野さん
  自身がそうはっきりおっしゃっていただきたいんです。」(467項)と
  述べ,被告矢野は,「言う,言う,皆さん方が言えば,私が言ったことは,
  もう天下周知になりますから,僕のとこにくるでしょうがー,そら,そ
  んなこと否定しませんよ。そう言いましたよと言いますよ。」(468
  項),「これも,まあ,まあ,自然な言い方は,俺も歳だからな,と言っ
  ておけばいいわけですよ,それはね。ね,そう,世間的にはね。」(47
  4項)と述べたところ,弓谷は,「いやいや,憶測をね,増,増幅させる
  ような,そういう中途半端なお答えは,やめてもらいたいんです。私た
  ちが言ってる,評論活動をやめるというのは,そういう次元の話じゃな
  いんです。」(475項)と反論したが,被告矢野は,評論活動をやめる
  ことを自らから積極的に公表することについても,明言を避け続けた。
   そして,前記1(2)ウ(オ),(カ)のとおり,原告は,「僕は,あのー,当時,
  男子部長から青年部長,なりましたけども。・・・その時に矢野さんがい
  た位置は,・・・明らかに敵だと,学会を売った,というふうに思ってた
  時期があるわけです。・・・だけども,あのー番大変な時に,あの手記を
  出した。敵に塩を送った,ていうか,むしろ,敵の一番ど真ん中にいる
  ような,材料を出した。ということについての疑念てのがあるわけです
  よ,いまだに。」(480項)と述べ,「ですから,こうやってお話しても,
  またどっかに書くんじゃないかとか。」(482項)と述べ,「絶対書かな
  いですね。」(484項)と詰め寄り,被告矢野に,「書かないです。」(4
  85項)と約束を取り付けた後,話は,被告矢野の妻や息子夫婦のこと
  に及んだ。
   その後,原告は,「この手記が,まあ,一つ大きな喉に刺さったトゲ,
  になってます。で,まあ,矢野さんは,ま,書いてしまったものだから
  仕方がないという言い方をされますが。いずれにしても,これがまあ最
  大の問題。で,これを,書いたこと自体間違いだという思いを持ってい
  るんだということを,やっぱり伝えない限りですね,これはもう,前へ
  進まないと思います。」(599項)と述べた後,あらかじめ準備してい
  た本件謝罪文に被告矢野に署名させることとした。そして,本件謝罪文
  には,「一,関西とのお約束は必ず果たします。」と項目が記載されてい
  た(甲50)。
(イ)以上のとおり,原告らから,被告矢野に対し,評論活動をやめること
  を求める直接的な言辞は認められないけれども,原告らは,被告矢野が
  評論活動をしていることについて,味方のはずの人が足を引っ張る行為
  であるとか,敵に塩を送る行為であるとかの青年部の意見を伝え,青年
  部で一番多い声が評論活動をしていることが望ましくないということで
  あるとか,創価学会員は,被告矢野が評論活動をすることを望んでいな
  いなどと,被告矢野に対し,創価学会員は,被告矢野が評論活動をして
  いることを好ましく,思っていない旨の発言を繰り返し,被告矢野が評論
  活動をやめると言い出した後は,それを青年部に伝えてよいかと確認し
  たり,一切の評論活動を直ちにやめるかどうかを確認し,被告矢野自ら
  積極的にその意思を表明することを求めるなどしており,また,あらか
  じめ準備していた本件謝罪文には,「関西との約束は必ず果たす」旨の項
  目が記載されていたこと,被告矢野は,本件面談の当初は,評論活動を
  やめる意思がなかったことも併せ考えると,原告らは,被告矢野に対し,
  評論活動をやめることを強く求める青年部の動向等を利用しながら,被
  告矢野に対し,同被告が原告らの求めに応じるまで,事実上面談を打ち
  切らない様相で,評論活動をやめることを迫らたものと認められ,また,
  被告矢野自身も,そのように受け取ったものと認められる。
(ウ)そうすると,本件面談における被告矢野の対応には,やや迎合的とも
  取られる言動が見受けられるけれども,本件面談が行われた場所,原告
  側関係者の人数,被告矢野の年齢,同被告は海外旅行から帰国後面談場
  所に直行することを余儀なくされたものであること,本件面談前には,
  被告矢野が評論活動をやめることを考えていたとは認められないことな
  どを併せ考えると,被告矢野が評論活動をやめると述べたのは,原告ら
  から評論活動をしていることが好ましくない旨の発言を繰り返され,評
  論活動をやめることを迫られたことによると認めるのが相当であり,し
  たがって,今後,評論活動は一切しないとの約束をさせられたとの点は,
  真実であると認めることができるというべきである。
 オ なお,本件記述2では,息子がどうなってもいいのかと脅迫され,家族
  にまで危害が及ぶ恐怖を感じ,それで,謝罪と評論活動を一切しないとい
  う約束をさせられたという構成になっている。
   そして,前記1(2)ウ(オ)のとおり,本件面談において,被告矢野の息子に
  関する話(486項)が出たのは,被告矢野が評論活動をやめるという発
  言(440項)をした後であり,論理的には,息子がどうなってもいいの
  かと脅迫されたから評論活動をやめると約束させられたという筋道は成り
  立たないようにも思える。
   しかし,被告矢野は,原告から,「これが,会員が求めている声なんです
  よ。矢野さんが,自分のできることをやっていく,評論家としてやってい
  くというふうにお考えかもしれませんけども,それを望んでないんです」
  (439項)と迫られ,「やめましょう。」(440項)と応えたものの,前
  記のとおり,その後,一切の評論活動を直ちにやめることは約束せず(4
  46項),また,評論活動をやめることを自ら積極的に公表することについ
  ても明言を避けるような応答(468,474項等)に終始していた中で,
  話は,被告矢野の妻や息子夫婦のことに及び(486項等),原告は,「や
  っぱりこれは,奥様も息子さんも,矢野さんの奥さんであり,矢野さんの
  息子さんなんですよ。」(493項),「ですから,矢野さんがどうされるか
  ってことで,それは,みんな,これはもう,避けられないですよ,これは。」
  (495項)などと被告矢野に迫っているのであり,被告矢野は,原告ら
  の意向に応じながらも,やや曖昧な形で終始しようとしていたところ,原
  告らは,被告矢野の妻や息子らのことに話を及ばせながら,被告矢野に対
  し,明確な意思表示や態度決定を迫ったものであり,被告矢野は,これを
  拒否することができず,曖昧な形にとどまることが許されず,原告らの意
  向に従わざるを得なくなり,また,本件謝罪文に署名せざるを得なかった
  ものと認められる。このように,曖昧な形で終始しようとしていた被告矢
  野は,家族に何らかの危害が及ぶ恐怖を感じて,評論活動をやめると最終
  的に確約することを余儀なくされたと評価することができる。
   また,本件記述2の掲示事実の重要な部分は,被告矢野が息子がどうな
  ってもいいのかと脅迫されたから,評論活動をやめると約束させられたと
  いう前後関係そのものにあるのではなく,本件面談における原告らの一連
  の言動の内容や,被告矢野が謝罪や評論活動をやめることを余儀なくされ
  たという事実にあるというべきであり,厳密に本件記述2における文脈上
  の細かな前後関係が異なるからといって,記述の真実性が否定されるとい
  うものではなく,本件記述2においては,前述したとおり,その摘示事実
  の重要な部分において,真実であると認めることができるというべきであ
  る。
(6)以上のとおり,本件記述2については,真実性の証明がされていると認め
  られるが,本件記述1については,真実性の証明がされているとは認められ
  ない。
(7)よって,被告新潮社及び編集人である被告早川は,原告の名誉を毀損した
  点について,不法行為責任を負うというべきである。
   なお,被告新潮社の取材に応じて情報を提供した被告矢野は,被告矢野の
  本件記事における発言部分や創価学会らに対する訴訟の提起などの事実から
  すると,報道機関を通じて,原告ら創価学会の問題性を訴えようとしていた
  ものと認めるのが相当であり,本件記事の内容も被告矢野の意図に沿うもの
  となり,被告新潮社が創価学会に対して批判的な論調の記事を掲載すること
  となることをあらかじめ予期していたものと認められる。そうすると,被告
  矢野は,本件記事の掲載につき,その内容及ぴ結果を認識した上で,被告新
  潮社の取材に対し,本件記事にあるような発言等を行い,意図してこれに加
  担したと評価すべきであるから,被告新潮社及び被告早川とともに,原告に
  対する名誉毀損につき,共同不法行為の責任を負うというべきである。
4 争点(3)(損害額)について
(1)慰謝料 30万
   前記第3の1で認定した事実,本件記事の内容,その内容には真実と認め
  られる部分も相当あること等,本件に顕れた諸事情を総合考慮すれば,本件
  記事の掲載によって原告に生じた損害として,30万円を認めるのが相当で
  ある。
(2)弁護士費用 3万円
   事案の内容,損害の認容額など本件における諸事情を考慮し,被告らの不
  法行為と相当因果関係のある損害として,3万円の弁護士費用を認めるのが
  相当である。
5 争点(4)(原告の名誉を回復するのに適当な処分の要否)について
(1)原告は,本件記事により原告が名誉を毀損されたことに対し,これを回復
  するには,金銭の支払だけでは足りないとして,謝罪広告を命ずることを求
  める。
(2)たしかに,前記のとおり,本件記事により,原告らの社会的評価は相当程
  度低下したもみと認められるが,本件記事の内容及びその真実性の評価等か
  らして,その回復のためには,金銭の支払のみで十分というべきであり,そ
  れを超える内容の処分を命ずるまでの必要性は認められないというべきであ
  る。
   したがって,原告の主張は採用できない,
第4 結論
   以上によれば,原告の請求は,主文の限度で理由があるからこれを認容し,
  その余は理由がないので棄却することとし,主文のとおり判決する。


    東京地方裁判所民事第35部

         裁判長裁判官 浜     秀 樹
            裁判官 手 嶋 あ さ み
            裁判官 味 元 厚 二 郎
 

谷川佳樹副会長が勝訴した矢野裁判判決文(抜粋)

 投稿者:寅吉  投稿日:2011年 2月 1日(火)14時49分34秒
  被告矢野 「言う,言う,皆さん方が言えば,私が言ったことは,も
    う天下周知になりますから,僕のとこにくるでしょうがー,そら,
    そんなこと否定しませんよ。そう言いましたよと言いますよ。そ
    んな,皆さん方とここで話し合ったことをね,違うようなことを
    言うようなことはしませんよ。
     ね,ただ僕があえて言っているのは,「なぜなんだ」と,いう詮
    索がある,ということを心配しているだけのことなんです。私は,
    なにも悪びれて,未練がまししく言っているわけではないんです。
    そんな,あのー,ケチな人間じゃありません。それは。」
  杉山 「で,そのときは,あの,あれですか。その,「なぜなんだ」と
    言われたら,どのように,お答え」
  被告矢野 「俺の決意でやめたと。」
  杉山 「うん。」
  丹治 「それを,そのまま伝えただけだと。」
  森井 「今,連載中のものもありますからね。」
  被告矢野 「これも,まあ,まあ,自然な言い方は,俺も歳だからな,
    と言っておけばいいわけですよ,それはね。ね,そう,世間的に
    はね。」
  弓谷 「いやいや,憶測をね,増,増幅させるような,そういう中途
    半端なお答えは,やめてもらいたいんです。私たちが言ってる,
    評論活動をやめるというのは,そういう次元の話じゃないんで
    す。」
  原告 「あのー,ちょっと失礼な物言いになっているかもしれません
    が。」
  被告矢野 「いやいや,いいんです。」
  原告 「あのー,まだ,本当にご理解いただけてるかどうか分かりま
    せんけれども,あの,平成5年,6年,7年。秋谷会長が国会へ
    行った,参考人招致ですよね。」
  被告矢野 「はい。」
  原告 「僕は,あのー,当時,男子部長から青年部長,なりましたけ
    ども。先生の喚問,最後ギリギリのところにいって,会長の参考
    人招致がテロップで流れました,テレビに。その時に矢野さんが
    いた位置は,山友,内藤の位置なんですよ。正直言うと。私たち
    の心証はそうだったんです。先生の喚問の材料に使われたわけで
    すから,明らかに敵だと,学会を売った,というふうに思ってた
    時期があるわけです。それを長谷川副会長や,そのー,西口副会
    長,藤原さんが,「そうじゃないんだ」と,言われるんで。それは
    そうだろうなと,元委員長で先生にお世話になって,政治家にな
    った,矢野さんなんだから,そうじゃないんだろうな。だけども,
    あのー番大変な時に,あの手記を出した。敵に塩を送った,てい
    うか,むしろ,敵の一番ど真ん中にいるような,材料を出した。
    ということにづいての疑念てのがあるわけですよ,いまだに。」
  被告矢野 「分かりました。」
  原告 「ですから,こうやってお話しても,またどっかに書くんじゃ
      ないかとか。」
  被告矢野 「んなことしません。絶対に,」
   原告 「絶対書かないですね。」
  被告矢野 「書かないです。」
  原告 「で,一方,本当に矢野さんが,学会員として一緒にやってい
    きたいというお気持ちをお持ちであれば,息子さんも頑張ってお
    られるし。まあ,森井君も。」
  森井 「伸ちゃん〔矢野の長男清城の妻伸子〕,同級生です。」
  被告矢野 「あっそう。彼女も」
  森井 「彼女もねえ,明電工,ま,結婚してね,僕がほんと久しぶり
    に一年ぶりに会うたときに,大学でね。まあ,ちょうど明電工の
    事件の後でもあった。平成2年の選挙もあった。あのとき彼女,
    遊説やってたと思うんですね。女子アナウンサーとして。」
  被告矢野 「本当に,あの,息子も,まあ,息子の嫁もね,私の家内
    も,まあ,私は,あー,私のね,こういう問題のために,可哀想
    なことしてると。これは本当にそう思ってます。まあ今日も,し
    ょぼーんとしているからさ,元気出せと,言うて。まあ,ただ,
    彼女たちは,あの,身内のこと言うわけではありませんけどね,
    本当に,何があっても,学会員として,頑張っておるし,これか
    らも頑張ると思います,僕は,そうあってほしいと,願ってます。
    まあーつ,僕は,あー,皆さん方にどう言われてもいいですけど
    も,まあ僕は,ね。その連中だけは,一つ。」
  原告 「そうですね。」
  杉山 「だからこそ,やはり,そのー矢野さんがきちっと決着つけて。」
  原告 「ただですね,やっぱりこ。れは,奥様も息子さんも,矢野さん
    の奥さんであり,矢野さんの息子さんなんですよ。」
  被告矢野 「そうですね。」
  原告 「ですから,矢野さんがどうされるかってことで,それは,み
    んな,これはもう,避けられないですよ,これは。」
  被告矢野 「そういうことです,ねー。ですから,今日,私は,皆さ
    んにお会いして,まあ,あのー,おー,言葉だけだと言われれば
    それまででしょうけども,率直にお詫びもし,それは間違いであ
    るということも,私は今日明確に申し上げた。」
  弓谷 「書いたことも間違いですと。」
  被告矢野 「はい。で,評論家活動については,すぐっていうことは
    ちよっと避けていただきたい。やっぱり,これは,あのー多少の
    経過もありますから。しかし,もうテレビにも出ないようにしま
    すよ。いや,もうね,今までだってバラエティーショーやみんな
    あんなやつはもう,断っているんです。おもしろおかしくされる
    から。でー,ま,最近は,随分。」
  (362ないし498項)
(カ)原告 「まあ,今日ごく一部紹介させていただきましたけども,現実
    にはこの5月9日の時点の,関西青年部,明日は青年部総会なん
    ですが。これだけの怒りが渦巻いてる中で,関西青年部長がです
    ね,一人で会ってお前,何してきたんだと,いうことに,まあ,
    なるわけで。」
  森井 「もう,こういう声もありました。明日,あの関西青年部総会,
    やるんですけどね。関西青年部総会の会場に来て謝罪せよと,も
    っとひどいメンバーは土下座しろと,そうしないと,言葉だけだ
    と信用しないと。これがみんなの,おー,おお,大きい声なんで
    すよ。また誰もが,思ってるんです。何度も詫びてこられたでしょ
    う。また過去にも聖教新聞にも詫びたという事実は,記事は載っ
    てた,だけど,その後,何も行動として見えてこない。ましてや,
    この間,このゴールデンウィークの閲の記事が載りましたけれど
    も,みんなの中では明確に謝罪せよと,関西青年部総会の会場に
    来いと,いうぐらいの,今,気持ちを持っているという,今の状
    況も分かってもらいたいんです。」
  被告矢野 「分かりました。」
  森井 「ですから,矢野さんの受け止め方として,本当にどうなんだ
    っていうのが,率直の,僕は,本当に言葉を聞いても,実際の行
    動を見ないと,信用できないです。」
  被告矢野 「まっ」
  森井 「当時は」
  被告矢野「そのー,土下座せよと,言われたら,私は,お断り致し
    ます。そういうことは,するべきじゃありません。」
  原告 「気持ちの問題ですよ,矢野さん。具体的に土下座するかどう
    かじゃなくてですね。」
  被告矢野 「ですから私は,それも申し上げたように。ただ,気持ち
    を申し上げても,それは言葉だけだと,私は,こ,困っちゃうわ
    けですよ。」
  原告 「まあ,あの,今日,初めてお会いしまして。今日,初めてお
    会いしまして,えー,いくつかの点について確認をさせていただ
    いて,えー,潔く,ある意味では,あー,誤りであると。この手
    記を」
  被告矢野 「ある意味もこの意味もありません,完全に,誤ってます
    から,」
  原告 「ええ」
  被告矢野 「はい,」
  原告 「この手記を出したこと自体が間違いだったと,いうお話,も
    いただきましたし。」
  被告矢野 「はい,そうです。」
  原告 「またあの,限られた時間で,海外,お帰り,お疲れのところ
    でもありますので,これを第1回にして」
  被告矢野 「はい。」
  原告 「是非何回も,お話をさせていただいて。で,ま,あー,いろ
    いろ障害もあるかもしれませんけれども,一つ一つ乗り越えなが
    らやっていきたいと。」
  被告矢野 「まあーつ,本当にあのー,おー,今更ながら,あー,皆
    さんに本当に,申し訳ないことをしたと,こう思っております。
    で,おっしゃるように言葉だけでどうのこうのちゅうことでも
    ないことも,分かっております。ですから,ま,どういう形にな
    るかは,年々,まあ,私のこれからの生き様を見ておって下さい。
    私もそんな,あー,根性のない人間じゃありませんから。これま
    あ,本当に,叱られそうだけど。」
  森井 「いや,でも本当にね,矢野さん,誓ったとおりされないと,
    僕は,伸ちゃんかわいそうです。子どももかわいそう。僕ら関西
    青年部,当時みんなどう,思っているかっていうのはやっぱり,こ
    の時は反逆者だったと,思ってるわけでず。」
  原告 「まっ,現実のところですね,あのー,ま,全国青年部長,男
    子部長ですが,まあ,その立場で,お話をしに来ること自体が,
    まあ,ある意味じゃ危険ていうかですね。あのー,東京の,男子
    部は,もう除名しろっていうふうに,言ってるメンバーが数多く
    いまして。で,まあ,あの,矢野さん地元,新宿,ですけれども。
    うー,どうやって手続するんだと,言ってるような男子部もいる
    もんですから。そこでお会いして,えー,まあ,と,今度は,ま
    あ,今になって藤原さんとか西口さんの気持ちが,何となく分か
    るような気もしますけれども,会ってどうだったんだと」
  被告矢野 「ふっふっふっふ。」
  原告 「いうふうにもなるわけですね,今度は。」
  被告矢野 「なるほど,ふっ。まあ,評論家活動,別に皆さんとか,
    やめろと言われたからやめる,と言いませんが,やめますよ。と
    にかく。」
  弓谷 「是非そうして下さい。」
  被告矢野 「これはね,やめろと言われたからやめたとか,そういう
    問題じゃない。皆さんのお気持ちが分かったと。私が自分でそう
    決心した,ということです。そうしましょう。」
  弓谷 「はい。」
  被告矢野 「でないと,話がまたややこしくなる。」
  弓谷 「そうですね。はい。」
  原告 「で,まあ,あのー,繰り返しで大変恐縮なんですが」
  被告矢野 「いえいえ。」
  原告 「この手記が,まあ,一つ大きな喉に刺さったトゲ,になって
    ます,で,まあ,矢野さんは,ま,書いてしまったものだから仕
    方がないという言い方をされますが。いずれにしても,これがま
    あ最大の問題。で,これを,書いたこと自体間違いだという思い
    を持っているんだということを,やっぱり伝えない限りですね,
    これはもう,前へ進まないと,思います。」
  被告矢野 「このー,そういう気持ちを持っておるということを,も
    し皆さん方がお伝えいただけるんであれば,是非お伝えいただき
    たい,と思います。」
  原告 「それで,まあ,やや失礼かもしれませんけれども,今日,こ
    うしてお話をし,させていただいた第1回目の,確認ということ
    で,で,まあ,あのー,確認の内容」
  杉山 「あの,私がですね,ここは,あの」
  被告矢野 「ちょっと失礼,老眼鏡かけないと。」
  杉山  「ええ,あっ,見ていただいて。是非ともここに,あの,お名
    前いただきたいと。」
  被告矢野 「はい。」
  杉山 「あの,思うんですね。えっとー,一つは,「一,全国の学会員
    の皆様に多大な,め,ご迷惑をお掛けし,心の底からお詫び申し
    上げます」と。このことは」
  原告 「で,まあ,当たり前の話ですが,「私は創価学会員です」と。」
  杉山 「やっぱりこう疑問を,本当にそうなのかっていう人は」
  原告 「いや,これ1枚だけです。で,これも,今までも,まあ,関
    西長,総関西長,おー,等に言われた内容です。」
  被告矢野 「ここにしていいですね。」
  杉山 「確認の意味です。」
  原告 「それから,あの」
  杉山 「で,えー,ー」
  被告矢野 「池田先生にも,そういうふうに,あの,お詫び状を書い
    ておりますし,何遍もこの気持ちで,書いてきておりますから,
    で,これはどこに」
  杉山 「あっ,ここに,あの日付と,お名前を。」
  原告 「おー,5月の14。ちょっと狭いですね。」
  杉山 「すいません,狭くて,はい。お名前を。」
  被告矢野 「矢野絢也でいいですね。」
  杉山 「はい。」
 〔被告矢野が署名をする〕
  被告矢野 「下手な字ですけど。」
  杉山 「いいえ。」
  弓谷 「矢野さん,恐縮なんですけど,あの,評論家,やめるってい
    う。」
  原告 「いいよ,いいよ,ま。」
  被告矢野 「いや,それはね,やめるっていうよりも。」
  原告 「それは変だから,内容が。」
  被告矢野 「そのー」
  原告 「ご自身の決意でやめられるっていうことだから。」
  被告矢野 「現象,現象としてね,やめるっていうことに,あのー,
    して下さい。あのー,いろいろ,そ,その辺は,いろんな,て,
    手続もありますし。ですから,これは私の自発的意志において,
    もちろん皆さんの気持ちを受け止めた,ていうことが大前提です
    けどね。それでやめます。
  杉山 「あの」
  被告矢野 「はい。」
  杉山 「ちょっと,確認ですけども,この間違いの点は,政教一致と
    いう批判をいただいた点と,」
  被告矢野 「これはもう,さきほどで,もう。」
  杉山 「芦屋の自宅,盗聴事件の件。それから,えー,手記に,を出
    したこと,自体間違いだった。それから,明電工事件では,多大
    な迷惑を掛けた。」
  被告矢野 「ええ。」
  杉山 「で,学会の御恩を仇で返す真似は,しませんと,これは」
  被告矢野 「ええ。」
  杉山 「関西とのお約束。これは,また今後の,矢野さんのあり方で,
    やっていただくと。」
  被告矢野 「僕は,あの,本当に,あのー,気持ちはよく,あのー,
    本当にあのー,申し訳ないという気持ちで。ただー,現実問題と
    してね,できないことをできると言ったら,いけないから。その,
    大阪へね,戻ってやるっていうことについては,あの,あのー,
    現実問題は,すぐできそうもありませんので,それはそう申し上
    げておきます。ただ,私は十分あのー,分かったつもりでおりま
    すし,将来,できればそうしたいと思いますが。ちょっと,あの
    ー,住宅の問題もありますし,それから仕事の関係も,あります
    しね。申し訳ないんですけども。」
  森井 「まあ,しかし,先ほどおっしゃった,その,評論家活動する
    こともあって東京に来られたと。じゃあ,その,もし,もしです
    よ」
  被告矢野 「はい。」
  森井 「そんな,あの,すぐとは,あれですけども,評論家,評論家
    活動をやめた時には,もう東京にいる必要もないわけですよ。で,
    もしあれであれば,東京の家も売って,本当に東大阪,地元に戻
    ってきて,最後を一学会員として戦うと,それが学会への恩返し
    だと,いう気持ちはあるんですね,」
  被告矢野 「あります。」
  森井 「ありますね。」
  原告 「じゃあ,これを第1回にして」
  被告矢野 「そうですね。」
  原告 「また。」
  被告矢野 「あのー,おー,できれば,あのー,私の方から,声掛け
    るのは,大変僭越に思っておりましたんで。」
  原告 「またあの,長谷川副会長を通じて,はい。」
  被告矢野 「まだ,あのー」
  原告 「まだ,あのー,随分用意しておりますので。」
  被告矢野 「はっはっは。まあ,あのー,あれです。あのー,ご注意
    いただくとともに。あのー,本当にねー,あのー,どうしたらい
    いんか分からないってとこもあるんです,正直言って。」
  原告 「ただ,あのー,大変恐縮な言い方ですが,そのどうしたらい
    いかは,誰かが考えるというよりも,やっぱり,矢野さんがお題
    目をあげて」
  被告矢野 「そりゃそうです。」
  原告 「考えられる以外。」
  被告矢野 「それは,もう,おっしゃられるまでもなく分かっている
    つもりです,それは。ただ具体的に」
  原告 「そうですね。」
  被告矢野 「具体的に。」
  原告 「はい。」
  被告矢野 「ね,あのー,じゃあ,一学会員として,とか,選挙の遊
    説でも行くかとかさー,ま,例えばの話ですよ。そういう具体的
    なことになると,どうしたらいいか分からない,ということを言
    っているんであってね。」
  原告 「それはもう,会長,おー」
  被告矢野 「教えていただきたいんです。」
  原告 「長谷川副会長もいらっしゃいますし。」
  被告矢野 「あのー,それであのー,おー,こうやって皆さんとお会
    いする以上は,私なりに,腹を決めて来ておるつもりですし。で,
    大変,生意気な言い方ですけども,本当にあのー,よーく腹に入
    りましたから。そのつもりで,これからもやります。で,あのー,
    大阪の皆さん,本当に,申し訳ない。」
  森井「はい。」
(568ないし664項)
 エ 被告矢野がこの時署名した謝罪文(以下「本件謝罪文」という。)は,原
  告らがあらかじめ用意してあった書面であり,そこには,「一,全国の学会
  員の皆様に多大なご迷惑をお掛けし,心の底からお詫び申し上げます。
  一,私は創価学会員です。一,私の文藝春秋手記において,次の点は間
  違いです。①「政教一致というご批判をいただいているが,確かに状況を
  みると,そう言われても致し方ない」(同誌1993年10月号)②「芦屋
  の池田名誉会長宅」(同)③「盗聴事件有罪の判決」(同誌94年5月号)
  一,文藝春秋に手記を出したこと自体が間違いでした。一,明電工事
  件では,多大なご迷惑をお掛けし,心の底からお詫びいたします。一,
  学会の御恩を仇で返す真似はいたしません。一,関西とのお約束は必ず
  果たします。」と記載されていた。(甲50)
(3)本件面談後の経過等
 ア 同月15日,公明党のOB議員である大川清幸(以下「大川」という。),
  伏木和雄,黒柳明が,被告矢野宅を訪れた。同月17目,30日も来宅し,
  被告矢野が政治家時代に重要事項の備忘などのために付けていた手帳等を
  持ち帰った。(乙2,9)
 イ 同月16日,聖教新聞に,「矢野絢也公明党元委員長が心から謝罪『文
  藝春秋手記(93・94年に掲載)は間違いでした』『創価学会員に心から
  お詫びします』」と題する見出しの記事が掲載された(乙6の5)。
 ウ 同月18日,被告矢野は,日刊ゲンダイの連載記事の打ち切りを申し出,
  その後・週刊誌の取材やテレビ出演などをやめていった(乙9)。
 エ 同年7月,週刊現代に上記手帳奪取の記事が掲載され,これを理由に,
  大川らは,被告矢野及び株式会社講談社を名誉毀損で訴えた。これに対し,
  被告矢野は,大川らに対し,手帳返還を求めて提訴した。当該訴えについ
  ては,平成21午3月27日,東京高等裁判所は,被告矢野の主張を認め,
  大川らに手帳の返還と損害賠償を命じた。(乙2,9)
 オ 平成20年5月1日,被告矢野は,創価学会に退会届を提出した(乙,9)。
 カ 同月12日,被告矢野は,創価学会から人権を蹂躙するような行為があ
  ったとして,創価学会らに対し,損害賠償を求める別件訴訟を提起した(甲
  1,乙9)。
 キ 被告新潮社らの記者は,被告矢野に取材を行い,本件記事を作成し,同
  月15日,本件記事を掲載した本件週刊誌を発刊した。「『矢野絢也』を窮
  鼠にした『創価学会』の脅迫と誹謗中傷」とのタイトル等を記載した本件
  週刊誌の広告が,同日付け朝日新聞,毎日新聞,読売新聞,産経新聞,日
  本経済新聞の各広告欄に掲載された。(甲1,134の1ないし134の
  5)
 

谷川佳樹副会長が勝訴した矢野裁判判決文(抜粋)

 投稿者:寅吉  投稿日:2011年 2月 1日(火)14時43分24秒
   第3 争点に対する当裁判所の判断
 1 事実認定
   証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
 (1)本件面談に至る経緯等
   ア 平成5年10月号(平成5年9月10日発売)から,被告矢野は,文藝
    春秋に本件手記を連載するようになり。その中に「私たちはとかく政教一
    致というご批判をいただいているが,確かに状況をみてみると,そう言わ
    れても致し万ない面はある。」,「芦屋の池田名誉会長宅」などといった表現
    があった。(甲30,乙9)
   イ 平成17年初めころ,創価学会関西青年部は,被告矢野の本件手記の存
    在を知り,創価学会に対する重大な背信行為・裏切り行為であり,見過ご
    すことができない重大な問題と考え,森井は,弓谷に対して,その問題意
    識を訴え,同年3月,弓谷は,原告に対し,関西青年部が,被告矢野に対
    して,上記のような問題意識を持っていることを伝えた。(甲89)
   ウ その後,原告は,青年部から被告矢野のことで相談があったことを,当
    時の秋谷栄之助会長(以下「秋谷」という。)に報告した。
     平成17年4月6日,秋谷,関西の西口良三副理事長(以下「西口」と
    いう。),長谷川副会長,弓谷,森井,杉山及び原告との間で面談が行われ
    た。この席で,弓谷及び森井は,秋谷らに対し,関西青年部で被告矢野と
    面談し,本件年記について,被告矢野の認識や掲載の意図等について,直
    接確認させてほしいと要望した。これに対し,秋谷から,まず,西口と藤
    原武関西長(以下「藤原」という。)が被告矢野に会って,青年部が本件手
    記を問題としていることを伝え,謝罪を公表するこ。とについて,被告矢野
    が了解ずるかどうかを確認してくるということが提案され,青年部も最終
    的に了解した,秋谷からは,被告矢野に求める謝罪の内容について,青年
    部の方で文案をまとめておくようにとの指示があり,青年部がその文案を
    事前に用意することとなった。(甲89)
   工 同月20日,創価学会戸田記念国際会館にて,西口,藤原及び被告矢野
    との間で面談が行われた。
     西口及び藤原は,被告矢野に対し,青年部が本件手記について大変怒っ
    ていることを伝え,謝罪文を書いてほしい趣旨の発言を繰り返した。被告
    矢野は,当初反論をしていたものの,最終的には謝罪文を書くことを了解
    し,内容については,青年部の作成した文案を持ち帰って自分なりに表現
    を考える旨述べ,同月22日に持参することを約束した。(甲89,乙9)
   オ 同月22日,被告矢野は,「お詫びと決意」と題する池田大作会長あての
    謝罪文を戸田記念国際会館に持参し,西口及び藤原が受け取った。その謝
    罪文には,本件手記に間違いや不適切な表現があり,創価学会に迷惑をか
    けたことについて反省し謝罪する旨の内容が記載されていた。(甲49,8
    9,乙9)
   カ その後,被告矢野がゴールデンウィークに夫婦で海外旅行に行くという
    話が浮上し,創価学会員らの間で波紋を広げ始めた。
    同月23日,秋谷は,被告矢野に電話をかけ,間近に都議選を控えてお
    り,会員の感情を考えれば時期が悪く,旅行を中止すべきであると説得し
    たが,被告矢野は,仕事で行くのでキャンセルはできないことを伝えた。
    同日午後,被告矢野は,秋谷にあててファックスを送信し,都議選を控え
    た時期の海外旅行であることを詫びる一方で,相手方に対し,一度は断っ
    たが強い要請がありキャンセルはできず,できるだけ日程を短縮して参加
    する旨を伝えた。(甲45)
   キ 同月28日,聖教新聞に,「公明党元委員長の矢野氏が謝罪『文藝春秋」
    (93,94年)掲載の手記をめぐって矢野氏“私の間違いでした”“
    当時は心理的におかしかった”」と題する見出しの記事が掲載された(甲6
    6,乙6の1)。
     同日,被告矢野は,海外へ出発した(乙9)。同年5月9目付けの聖教新
    聞には,「公明党矢野元委員長が海外1?行動で示せ!口先だけの「謝
    罪」は要らぬ」と題する見出しの記事が掲載された(乙6の4)。
   ク 青年部は,被告矢野が本俸手記について謝罪したにもかかわらず,夫婦
    で海外旅行に出掛けたことに納得できず,改めて,被告矢野と直接面談し
    たい旨,秋谷に要望した。秋谷は,長谷川に対し,被告矢野が海外旅行か
    ら帰国後に,青年部との面談に応じるよう連絡をとることを指示した。(甲
    89)
   ケ 長谷川は,被告矢野の息子である矢野清城を通じて,被告矢野と連絡を
    とり,青年部が怒っていること,青年部に会ってほしいことなどを伝え,
    被告矢野は帰国予定の同月14日の夜に青年部との面談を行うこととなっ
    た(甲89,乙9)。
 (2)本件面談の内容
   ア 同日,被告矢野は,海外から帰国し,青年部との面談場所である戸田記
    念国際会館に向かった。戸田記念国際会館の玄関では,長谷川が待ってお。
    り,面談の直前,被告矢野は,長谷川から,青年部に冷静に対応するよう
    助言された,(乙1,9)
   イ 面談は,原告,弓谷,杉山,森井,青年部主事の丹治正弘(以下「丹治」
    という。),被告矢野との間で行われた。被告矢野の正面に原告,その左に
    弓谷,右に森井,被告矢野の左に杉山,右に丹治が座った。(甲89,10
    0,乙9)
   ウ 初めに,原告らから簡単に自己紹介がなされた後,原告らの方から被告
    矢野に質問するという形で進められ,本件面談は,約90分間にわたって
    行われた,そこでは,概要,以下のようなやり取りが行われた。(甲50,
    92の1,92の2。以下,括弧内には,甲92の2の対応する項数を示
    す。)
   (ア)原告 「で,あのー,まぁ,西口,藤原,あー長谷川副会長から伺っ
        ている点で。あのー,まあ,まず,「文藝春秋」の手記についてで
        すね。あのー,大変な騒ぎになり,まあ,あのー,平成5年,6
        年ころは,まぁ,私も青年部の幹部として,えー,もう激動の中
        にあったわけですけれども。あのー,政教一致と受けと,とられ
        ても致し方ない面があるということについては,これは聞違いだ
        ったということでお詫びをされていると。あのー,本来はそうい
        う趣旨で書く,つもりはなかったんだけれども,あのー,編集部
        の方で,えー,そうなっていた,ということで,これは間違いだ
        ったんだというふうに話しておられるということなんですが。こ
        れは,そういうことなんでしょうか。」
   被告矢野 「と言われても仕方がない面もあると。そういう見方もあ
     るが,それは違うと。そういうふうに書いたんです。」
   原告「なるほど。で,それから。」
   被告矢野 「ところが,あー,校正の段階で,えー,最初の校正でも,
     そうなっておったんですが,最終稿で抜けておった。ですから,
     私の不注意です。」
   原告 「そうすると,出た手記は,間違い,その部分は間違いだとい
     うことですね。」
   被告矢野 「そうです。」
   (39ないし43項)
 (イ)原告 「この手記が,どれほど学会員苦しめたか。先生の喚問,当時
      の致教一致批判。えー,あの,関西の男子部が,まあ,怒ってい
      るのはでずね,えー,「一生懸命支援活動に行くと。と,矢野って
      いう評論家が,学会と公明党の関係について何か言っていると。
      友人は,「あの人,元委員長だろうと公明党の,どうなってんだよ」
      と言われる。それを,私たちは一生懸命,説得しましたと。なん
      で味方のはずの人が足を引っ張るんですか。なんで敵に塩を送る
      ようなことをするんですか。この悔しさは言いようがありません,
      と。何者なんだと,あれは」と。」
   被告矢野 「私は,テレビで,政教一致だとか,学会を誹謗したよう
     な発言はしておりませんよ。」
   弓谷 「いや,誹謗してないとかじゃないですよ。」
   原告 「はっきりと,そうじやない,という発言をされましたか,テ
     レビで。」
   被告矢野 「政教一致であるとか,政教分離であるとか,はっきり言
     ってます。」
   原告 「世間で,そういうことを言われていることはおかしいと言わ
     れましたか。言えませんよ。だって手記にその,そういうこと書
     かれてるんですから。」
   被告矢野 「私は言ってきてます。テレ,テレビに限るならばですね。」
   杉山 「例えばですね。その,あの,日刊ゲンダイの「一刀両断」,ご
     ざいまずけれども,99年の段階でもこういうふうに言ってるわ
     けですよ。」
   被告矢野 「はいはい。」
   杉山 「「政権の中枢に食い込む創価学会の意図を,だ,意図を代弁し
     たと。単なる,そういう,自自公にこだわるのは選挙狙いじゃ,
     だけじゃない。」
      要するに,あらゆるところで評論活動をしながら,結局,いろ
     んな形で,その,元公明党の委員長でありながら,公明党のこと
     を批判してる。支援活動を一生懸命やっているメンバーに,どう
     なのかと。それだけじゃない。創価学会に対して,いろんな意図
     が,あるんじゃないか。それを代弁したものじゃないか。ま,こ
     ういうふうに,載ってるわけです,例えば,
      で,一事が万事で,やっぱりこういう,ことを傾向性としてで
     すね。」
   被告矢野 「はい,はい,そりゃ分かる。」
   (298ないし308項)
 (ウ) 森井 「ちょっと待って下さい。矢野さん,もう一回聞きますけども,
       これは本当に書いたこと自体が間遠いだったと,そうじやないと
       今でもおっしゃるわけですか。」
   被告矢野 「そうじやない。というのは,お詫びしてるわけですから
     ね。」
  (314,315項)
 (エ)原告 「いや。あ,今,森井が言っているのは,今の,お考えはどう
     なんでしょうと。あのー,事実の指摘を受けて,あ,それは確か
     に間違いだったと,いうことを言われてる。それから,ま,関西
     長にもお詫びされたことがある。けれども私たちは,あの時期に,
     週刊,あ,月刊「文藝春秋」にこの手記を出したこと自体どうな
     んだと。利敵行為であり,いー,同志を裏切る,先生を貶める,
     広宣流布に弓を引く,そういう行為じゃないかと思ってるわけで
     す。」
   被告矢野 「なるほど」
   原告 「そのことについて,矢野さんは今はどう思われてるのか。「数
     カ所の,不注意な」ということなのかということです。」
   被告矢野 「あのー,あれは,私は,秋谷会長に,いかようにも,こ
     の辺のところは直しますということは,申し上げております。」
   原告 「矢野さん,そうじやなくてですね,会長に直してもらうこと
     が大事じゃなくて,矢野さんがどう書かれるか,矢野さんがどう
     思われてるかっていうことを聞きたいんですよ。」
   被告矢野 「なるほど」
   原告 「こう自分で書いて,それは会長が直してきたんだと」
   被告矢野 「いや,そうじゃない」
   原告 「会長の直しだと。それは逃げですよ,それは。」
   被告矢野「いや,そういう意味じゃありません。」
   原告 「矢野さんがどう,言われてんのかっていうことを聞きたいって
     いうことなんです。」
   被告矢野 「まぁ,皆さんの,今日の気持ち,よく分かりましたし,
      私の認識が,まだ浅かったということだろうと,思うんですが。ま
     ぁ,要するに,そこでの,この新しい方の文章ですね。私は,あ
     の,そこまで皆さん方が,この文章のことでね,お怒りであると,
     という認識がなかったんだということだと思いますね。」
   弓谷 「ていうか,だから,それは要するに,要するに,これ書いた
     こと自体まずかったと,悪かったと,お思いになるということで
     すか。」
   被告矢野 「今日今,皆さんからの,痛切にお話を聞いて,悪かった
     と思います。」
   弓谷 「これ書いたこと自体まずかったと。」
   被告矢野 「思います,明確に申します。」
   (318ないし333項)
 (オ)森井 「…あの明電工の時も,本当にみんなしんどい思いをして,平
     成2年の寒い時期の2月の選挙やりました。だけど,あのとき矢
     野さんがおっしゃったのは,「私も,最後議員引退したら,必ず地
     元に帰って皆さんとともに戦います」と,そうおっしゃった。そ
     の言葉を信じて,皆頑張ったわけです,あの時。だけども,引退
     したあと,音沙汰も全くない。挙げ句の果てはこんな,手記が出
     てくる。みんな小さい頃から,苦しんでる親父やおふくろの姿を
     見てきましたよ。それでも,矢野さんまだ,この手記自体の,本
    当に当時の誤りを認められないかどうか。要するに,みんなの中
        には,矢野さんが反逆したんじゃないかと,関西の同志を裏切っ
    たんじゃないかと,その気持ちしかないんですよ。だから,これ
    だけの声が1日で上がってきたんです。」
   原告 「私もこれ,あのー,ちょっと読ましてもらったんですけれど
    も。あのー,みんな覚えてます。矢野さんが,「私も議員をやめた
    ら,皆さん,同志の皆さんと一緒になって戦います」と,切々と
    訴えられた。覚えてます。矢野さん覚えておられますか。」
   被告矢野 「覚えております」
   原告 「はい,実現してませんね,」
   被告矢野 「私は,これ,ちょっと生意気な言い方になって。お許し
     いただきたいんです。まあ,十分,大阪へ帰って,皆さんと共に
     戦う。そういう気持ちも,今だってありますよ。」
   森井 「今でもありますか。」
   被告矢野 「そのかわし私は,まあ本当に生意気な言い方で勘弁して
     ほしいんですけどね。これでも根性はあるつもりですし。もし仮
     に,私が世間から見て,多少なりとも客観性のあることを言う人
     間だと。もしもですよ。そういう評価がもし,自分のカでできる
     ものであるならば,私は,そっちの道を選ぼう。」
   原告 「なるほど,うん。」
   被告矢野 「そして,根性あるというのはそういう意味であって。で,
     本当の敵には,私は,二度でも三度でも,命捨てる覚悟がありま
     す。ただ,今おっしゃったことについては,私,弁解もしません。
     お詫びするしかない。が,しかし私は私なりの根性あるつもりで
     す。だから,私は,今おっしゃったように,大阪を離れて,別,
     別にこれ金儲けしているわけでも何でもないんです。で,これが
    いかんと,言われりゃ,それはそれまでのことで。そうでしょう。」
   弓谷 「いや,それがいかんのですよ。いかんのですよ,それ,そこ
    がそこが我々青年部が通じてへんと思ってるところなんですよ。」
   森井 「「声」の中で一番多いのが,その矢野さんが評論活動している
    ことそのものが,公明党の元委員長でありながら,第三者的な評
    論の,かつ,繰り返していると。」
   被告矢野 「まあ,それはね,だから,もちろん,皆さんもそういう
    意見があるということは,前提でね,私の考えを申し上げたわけ
    で。」
   原告 「あのー」
   被告矢野 「私はその道で。」
   原告 「矢野さんの気持ちは,そういうお気持ち。」
   被告矢野 「まあ,あの,増上慢と言われりゃそれまでの話です。」
   原告 「いやいや」
   弓谷 「「それまで」とかいうね,そういう,そういう吐き捨てて終わ
    るような話じゃないんです。」
   被告矢野 「はい。」
   原告 「あの,お気持ちかもしれませんが。まあ,あのー,この手記
    を書かれて,一番喜んだのは,山崎正友,内藤国夫。不愉快な,思
    いしたのは学会員なんです。」
   森井 「そうなんです。」
   被告矢野 「それは,よく分かりました。」
   原告 「で,世間がどう思うかもありますが,学会員がどう思うかっ
    ていうことが一番大事なんです。矢野さんを手弁当で支持してき
    た人たちが不愉快な思いしてんですよ。不愉快な,思いを。そのこ
    とについて,どう考えられてるかってことを聞きたいんです。人
    生をかけて支持してきた人たちが,不愉快な思いをしても関係な
    いんですか。」
   被告矢野 「そんなことないです。それは申し訳ないことです。」
   原告 「それが,「数カ所の不注意な」,その程度の話ですか。」
   被告矢野 「それはね,そういうふうに言われれば,もう俺も弁解の,
     言葉の言いようもないです。ね,そこで,あのー,今日のお話の
     ような趣旨を踏まえてね,書けとおっしゃれば書けます。しかし,
     私は,その文章〔秋谷に渡した手記〕で,私なりの思いを込めて
     書いたつもりです。それが足らん,と言われりゃそれまでです。」
   原告 「足らんと言われればじゃなくて,どう思われるんですか,足
     りていると思われているんですか。」
   弓谷 「今の話を聞いてどう思われてるんですか。」
   被告矢野 「えっ」
   弓谷 「今,我々が話した話聞いて,どう思っていらっしゃるんです
     か,矢野さん自身は。」
   被告矢野 「だから,もっともだと。何遍も先ほどから,申し上げ,
     悪かったと申し上げているわけでしょう。」
   原告 「ただですね,あのー,悪かったっていう,ことは,ずっと言
     われてるんですよ,矢野さん。」
   被告矢野 「言ってますねー。」
   原告 「もうね,手記を,掲載して,その月に,関西の幹部に,申し
     訳ないことしたと,こんな大きな反響が出るとは思わなかったと,
     言われるまで文春に載せることが罪だとは思わなかったと言われ
     てんですよ。そう言われながら3回連載をされて,翌年また4回
     連載されてるんです。」
   被告矢野 「契約だったんですねー。」
   原告 「契約が優先したわけですか,申し訳ない思いよりも。」
   被告矢野 「いや,いや,そうじゃなくて。これはやはり,この世界
     では,契約っていうものがやっぱり。」
   原告 「いろんなこと言われてますよ,その当時。」
   弓谷 「「この世界」ていうのは,それはですね,私たちに,い,に,
     言わせれば,要するに学会を売っちゃった,てことですよ。」
   被告矢野 「いやっ,ま,ま,言いません。はいはい,分かりました。」
   弓谷 「学会との関係の中で,党で戦ってきた矢野さんの,そのメモ
     もとにして書いてる。学会のことを売っちゃったんじゃないかと。
     違うとおっしゃるだけの論理ないじゃないですか。首横に振られ
     るだけの論理ないじゃないですか。」
   原告 「だから,なん,何回も謝っておられると言われる,その,あ
     や,謝罪,謝りが,本当に謝ってるのか,っていうふうになっち
     ゃうんですよ。」
   被告矢野 「確かにそれは,そういうもんでしょうね。ええ。」
   原告 「で,支持者が不愉快な思いしても関係ない。」
   被告矢野 「そんなことは言ってません。」
   原告 「そうですが。でも行動が,関係ない行動になってますよね。」
   被告矢野 「まあ,あのー,おっしゃられれば,そのとおりです。で
     すから,まあ,あの,まだまだおっしゃりたいこと沢山あるだろ
     うし,いくらでも承ります。あのー,お前は悪いやつだ,悪いこ
     とをした。間違いだ。私としては,まー,遅ればせで申し訳ない
     ことだけども。これは,ま,事実として残ってるわけです。」
   弓谷 「これをだから,消してもらいたいんです。」
   被告矢野 「といって,これは消えるわけじゃないんです。出てしま
     ってるわけですから。ね。」
   弓谷 「そんなことない。そんなことないです。」
   被告矢野 「これからの,これからのね,いろんな文章を通じて消す
     しかないわけでしょう,ね。これ,あのー,この」
   杉山 「だから,まず,あれですね,あのー,えー,これについては,
     この書いたこと自体は,今となっては誤りだったと。そのことは
     先ほど認められましたね。このことは認めると。」
   被告矢野 「はい。」
   杉山 「このことは,やっぱり関西はじめ,青年部に伝えても,よろ
     しいですね。これは。」
   被告矢野 「いいです。」
   杉山 「よろしいですね,はい。」
   被告矢野 「そのつもりで来ていますから。」
   杉山 「ま,ちょうど,えー,明日,あのー,関西の会合もあります
     し,いろんな意味でやっぱりきちっと。」
   被告矢野 「本当に,あのー,どう言うていいんかな。あのー,一番,
     年齢的な違い,世代の違いもあるでしょう。でも,僕は本当に,
     あのー,謙虚な気持ちで来ております。で,何も皆さん方にね,
     異論を言うとか,あー,いう気持ちもありません。
      でー,あなたおっしゃるように,えー,大阪の皆さん方が,不
     愉快だと,けしからんと。申し訳ないと。そりゃ,言葉だけだと
     言われりゃ,それまでですけどもね。そう言っておると言っても
     らって結構です。
      今,あのー,私はね,あのー,悪びれた気持ちでは来ておりま
     せんしね。しかも,こうやってお会いする以上は,まあ,あー,
     力はありませんけども,是非これから皆さん方に,教えてもらい
     ながらね,私なりに,やれることはやりたい。これは,本当にそ
     う思ってきてるんですよ。でなきゃ来ません。」
   森井 「ま,言葉お受け取りしましたけれども,要するに「一学会員
     として戦う」と,そう約束された。「一緒に自転車に乗って地元を
     走ります」と。」
   被告矢野 「そうです。」
   森井 「そうおっしゃった。」
   被告矢野 「そうです。」
   森井 「そうですね。明確におっしゃいました。」
   被告矢野 「そりゃあ事実上,もう大阪に家はありません。」
   森井 「たくさんの方がおっしゃいました。じゃあ,もう大阪には戻
     ってこられるつもりはないんですね。」
   被告矢野 「今のところは,戻れませんね。」
   森弁 「戻らない。」
   被告矢野 「はい。」
   森井 「戻れないじゃ」
   弓谷 「戻れないじゃなくて,戻らないんですね。」
   被告矢野 「戻らないですね。申し訳ないです。あのー,ただ,私は
     私なりに,そのー,うー,一生懸命,どういう形であれ。」
   弓谷 「矢野さんね,「私なりに」って言っている限りね,通じないん
    ですよ,そのお詫びが。」
   被告矢野 「いや,通じる通じないったって,通じる通じない,て言
    ったって,私には,私ができることしかないわけです。」
   原告 「そうですね。そうだと思います。」
   原告 「それでー,あの,これだけ声が来ましてですね。えー,まあ,
     関西の,男子部の率直な声,今日は,青年部の声を聞いていただ
     くってことで,紹介しますけども。
     えー,豊中の〔メンバーからの声で〕,「明電工事件による引退
    の後,私たちの前に久しぶりに登場した矢野氏は,公明新開や聖
    教新聞ではなく,テレビニュースに政治評論家の肩書きで登場し,
    公明党と創価学会の関係を面白おかしく語り,マスコミ受けを狙
    った評論を続けてきました。学会批判にとれるようなコメントを
    用いて,言葉巧みに評論する姿は,もう完全に第三者としての評
    論家でありました。個人的な感想は,「で,あんた本当に学会員な
    の」でした。選挙の際,運動員として活動したことのある知人が,
    「矢野は選挙期間中,他の候補や議員と連絡を取る際に,横柄で
    礼儀もわきまえず,大声で電話をするなど非常識甚だしかった」
        と言っていたことを思い出しました。矢野も形だけ学会員に謝罪
    し,じきにみんな忘れてしまうだろうとタカをくくっているので
    はないか,憤りをおさえられません。」,「学会から受けた恩を平気
    で忘れるような人間を,公明党OBなどと思いたくもない。「民衆
    と共に生き,民衆と共に戦い,民衆の中に死んでいく」との結党
    精神のかけらも感じられない。ましてや,あれで政治評論家を名
    乗っ,名乗っているのだから,笑わせます。以前,池田先生が言
    われていた話を,ある男子部員に訴えました。もしも,政治家が
    人間としての謙虚さや人格的強さを持っていないときは,こんな
    環境の中で本来の理想を忘れたり,信念を捨てて,捨ててしまう
    ものだ,と。矢野は,政治家になって立場を利用して,大物ぶっ
    て大げさに大風呂敷を広げて,うぬぼれているだけ。あげくに,
    都議選の最中だというのに,夫婦で海外旅行とは呆れてモノも言
    えません。もう一度,私たち一人一人がもっと賢明に,権力を監
    視し,していきたい。」これだけ来ているんですよ,声が。」
   被告矢野「分かりました。」
   原告 「これが,会員が求めている声なんですよ。矢野さんが,自分
    のできることをやっていく,評論家としてやっていくというふう
    にお考えかもしれませんけども,それを望んでないんです」
   被告矢野 「やめましょう。」
   原告 「関西の学会員は。」
   丹治 「おやめになる。」
   被告矢野 「やめます。」
   弓谷 「評論家を」
   森井 「一切?」
   被告矢野 「まあ,一切になるかどうかはね,それはー,あー,少な
     くとも,おー,おー,いろんな週刊雑誌等の取材は,断ります。
     テレビについて,例えば,今回も,まあ,聖教新開にいろいろ,
     ま,載っとって,まあ面白おかしく,また,今日も,成田で,1
     0人ぐらいの連中が束で,私を追っかけておりました。私は,も
     うノーコメントを貫きました。おそらく今帰れば,待ってると思
     います。まあ,その,言いません。ですから,急にここで一切何
     もかもやめたら,また妙な,ことになりますから。段々,もうそ
     れこそ,急,急速ですけども,明日から一つも出るなよ,という
     意,意味で言ってるわけでばありません。しかし,やめます。」
   森井 「それは以前,西口・藤原と話をされた時にも,同じようなこ
    とをおっしゃっているんです。」
   被告矢野 「すいませんねー。」
   森井 「急にやめたら,様々憶測もあるから,徐々にやめていくと。」
   被告矢野 「ですから私が」
   森井 「明確におっしゃってましたよ。」
   被告矢野 「私が,自分の名前で,このー,どっかに載っけていただ
    くと。それ〔秋谷に渡した手記〕を書いた瞬間から,私は,そう
    いう決意をしているわけです。そら,謝り方が,あー,足らない,。
    けしからん,と言われれば,はい,としか言い様がありませんが。
    どうあれ,これは,評論家,決別宣言と同じことです。」
  弓谷 「同じことというか,じゃあ,ど,あの,はっきりと,むしろ
    伝えていいですね。」
  被告矢野 「そうですねー,その」
  弓谷 「それは,約束したら,約束したら。」
  被告矢野 「しかしそういう,そういう言う方をされると,かえって
    まずいんじゃないんでしょうか。私は言ってもらって結構です
    よ。」
  弓谷 「構いませんね」
  被告矢野 「あなた方が,あのー,そう言った方がいいと言うんなら,
  原告 「あのー,私たちはですね。」
  被告矢野 「それはまずいんじゃないでしょうか。」
  原告 「私たちは,あのー,週刊誌にも,良く言われたことありませ
    んしね,いろんなことを潜り抜けてきてますから。」
  被告矢野 「いや,わたし,私の方にね,逆に「何かあったんか」と,
    来ると。私は何もコメントしませんよ,一切。」
  弓谷 「コメントしないどころか,はっきり言っていただきたいんで
    すよ。矢野さん自身の,やっぱり学会員としての信念で,生き抜
    きたいと,最後。」
  被告矢野 「ああ,そう言ってもらって結構です。」
  弓谷 「そう決めて,そう決めて評論活動やめたんだと,そうはっき
    り言ってもらいたい。」
  被告矢野 「結構です。言って下さい。」
  弓谷 「いや,言って下さいじゃなくて,矢野さんとこに取材が来た
    ら,矢野さん自身がそうはっきりおっしゃっていただきたいんで
    す。」
  
 

まったく、おもしろくないな…

 投稿者:クロちゃんファン  投稿日:2011年 2月 1日(火)03時51分58秒
  おい、小池!

じゃなかった、

おい、クロ! くだらん、カキコしてるんじゃないよ~。

「『休眠』宗教法人が増加」の朝日記事を引っ張って来て、たいした根拠も示せずに、
そこらのオッサンレベルの感情的な悪口。最近、レベル低すぎない?あまりにアンチョコ。
もうちょっと、ましなカキコをしてよ~。こんなこと書いてるから「住●高校中退」とか言われ
ちゃうんだよ。

指導教師様に低劣カキコを注意されて、得意の「クロちゃん・三大秘法」=「下ネタ」「スカト
ロ」「変態ネタ」を封印してるのはわかるんだけど、もうちっと…ネ…。ましな内容で書こうよ。
失笑もんだよ。オリジナリティのカケラもないんよな~。昔の絶頂期の変態クロちゃんが懐かしい。

ところで、「大聖人は初代法主」って持論は、その後、どうなったんかな?
他の「三天王」のご意見も伺ってみたいもんだ。

なにより、指導教師のM岡御住職に「大聖人って『初代法主』ですか?」
「日蓮正宗で公式見解はあるんですか?」って、御指南を伺いに訪ねてみるか…。

おい、クロ!寒いから、夜勤に行くときゃ、パッチを2枚はいていけよ!
風邪でも引いたら母上が悲しむからな。
職場のビルの1Fのうどんはおいしいぞ。たまには奮発して食ってみな。
風邪を引いたら、うどん屋の隣の内科で早めに診てもらえよ。
「スーパー●出」の安弁当ばっかり食べてたら体が冷えるぞ。

 

谷川副会長が勝利した矢野裁判での尋問

 投稿者:寅吉  投稿日:2011年 1月31日(月)12時17分46秒
  被告矢野代理人(弘中惇一郎)
本件では,面談の状況は録音されているわけですが,これを録音するという
   のは,いつ決めたことなんですか。
      前日か,前々日に,青年部から面談の目的が平成5年当時,矢野氏が
      どういう意図でこの手記を書かれたか,そしてそのことを,今,どう
      考えているのかということが面談の目的なので,青年部としては正確
      な記録を残しておきたいので録音したいという話がありまして,そう
      かということで了解をしました。
   事柄が,やりとりを正確に記録するべきことだったわけですね。
      いや,青年部が正確に記録しておきたいというふうに,私に言ってき
      たということです。
   谷川さんも,そのことをそうだというふうに理解されたわけですね。
      まあ,青年部がそう言うなら,それでいいんではないかというふうに
      思いました。
   つまり,録音すべきだと思ったわけですね。
      録音していいというふうに考えました。
   録音機の種類について,原告から出ている書類ではSONYのMZ-B10
   0とありますが,それはご存じでしたか。
      いや,私は機種までは知りませんでしたけれども,録音するというふ
      うに聞いておりました。
   これは,だれの所有の録音機なんですか。
      これは,弓谷氏のものだと思います。
   それは,どうして分かるんですか。
      弓谷氏が持っておりましたので,だれからか借りたものかもしれませ
      んけれども,弓谷氏が持っていたので,弓谷氏のものというふうに,
      私が思っているということです。
   1台だけだったわけですね,録音に使ったのは。
      そこで1台だったかどうかということを,そのときは知りませんでし
      たけれども,音声録音は,関西の森井氏も関西の記録としてというこ
      とで,録音したというふうに言っておりました。
   森井氏と弓谷氏と別々に2台で録音したんですか。
      というふうに聞きました。
   本件では,反訳の説明として,SONYのMZ-B100とありますが,ど
   ちらも同じ機種なんですか,そのもう片方の森井氏が使ったのは違う機種な
   んですか。
      いいえ,ですから,私は機種までは分かりません。
   見て同じものかどうかというのは,分かりませんでしたか。
      いや,私は現物は見ておりませんので。
   これは,テーブルの上に置いて録音したんですか。
      テーブルの上には置いてありませんでした。
   どういう方法で録音したんですか。
      いや,そこまではちょっと私,確認をしませんでした。
   矢野さんには,録音しますよと,これは重要濠やりとりですからということ
   はおっしゃったんですか。
      いいえ,申し上げておりません。
   なぜですか。
      録音をするということを申し上げると,固くなってなかなか率直な話
      合いができないんじゃないかなというふうに思いましたので,録音し
      ないでいいというふうに思いました。
   今日,法廷なんかでも証言は録音されてますが,重要なことを責任をもって
   言うというのと,別に録音するとは矛盾しないんじゃないですか。
      今回の面談について,率直に話合いをするために申し上げる必要はな
      いというふうに私は思いました。
   それでは,面談が終わった後で,実は録音してますと,2台ありますと。で
   すから,矢野さんのほうでも1台お持ちになって,確認していただいても結
   構ですとか,あるいはコピーしても結構ですということはおっしゃったんで
   すか。
      いいえ。
   矢野さんのほうでは,録音されたことも分からない,それから,それはその
   後,どうなったかも分からないという状況ですか。
      私たちは,率直な面談のためには録音をすることを申し上げないほう
      がいいと判断しましたけれども,話合いが極めて有意義に終わりまし
      たので,録音したことを後からどうこうというようなことは思いつき
      ませんでした。
   発言内容がねじ曲げられて伝えられると困るということが録音の一つの目的
   だとおっしゃったわけですが。
      いいえ,私はそうは申し上げてません。
   録音しとかないと,後から矢野さんが発言内容をねじ曲げて伝えると,危険
   性があるということは思わなかったんですか。
      いや,それで私はねじ曲げて書くことはしませんねと,今日の面談の
      内容について,また文春手記のようにねじ曲げて書くことはありませ
      んねと,それで念を押させていただきましたので,それについてきっ
      ぱりと書きませんというふうに明言をされましたから,それはその矢
      野氏の言ったことを信じたということです。
   矢野さんも,その日は疲れているわけですから,後で何を言ったか思い出せ
   ないと,では困るから,ちゃんと録音してありますからよく聞いてください
   ねと,そういうようなことは配慮しなかったんですか。
      ですから,申し上げたとおり,率直に話合いをするためには,申し上
      げる必要はないと思ったということです。
   終わった後も,そういうことを考えなかったわけですね。
      はい。
   この録音機が,どういう機能がついているものかと,例えば,一時停止の機
   能があるかとか,会議用と,それからインタビュー用との切替えができるか
   とか,そういったどういう機能があるかということは,ご存じでしたか。
      いや,私録音機にはそんなに詳しくないものですから,それから,
      現物を見ておりませんので,どういう機能がついてたかというのは,
      ここで申し上げる知識ありません。
   内蔵マイクを使ったのか,それとも,外に出すタイプのマイクを使ったのか
   ということも分からないわけですね。
      分かりません。
   この録音物は,弓谷さんと森井さんが,それぞれご自分で持ち帰られたわけ
   ですか。それとも,どこかにお出しになったわけですか。
      杉山青年部長が保管したというふうに聞きました。
   2つともですか。
      はい。
   それは,どうしてなんですか。
      どうしてか分かりませんが,杉山青年部長が,青年部長ですので,青
      年部の責任で保管したということだと思います。
   さっき,森井さんですか,ご自分で翌日の青年部総会に使いたいと。
      いいえ,翌日の青年部総会に使いたいというふうに申し上げたことあ
      りません。
   森井さんは,何のために録音したんですか。
      関西として記録をとっておきたいと。
   とすると,森井さんは,杉山さんに渡さないで,自分が持っていくというこ
   とでもないんですか。
      私が聞いたのは,杉山青年部長が責任をもって保管していますという
      話を聞いただけで,具体的に,どこにどういうふうにとか,だれが持
      っているとかいう話は聞いておりませんので,その問の経緯は分かり
      ません。
   この録音したものを,再生して聞いたことは,谷川さんはあるんですか。
      私は,今回の反訳書が5月末に私のもとに届けられましたので,その
      ときに,取り寄せて聞きました。
   その間は,聞いたことないわけですね。
      はい。
   その間,杉山さんがずっと持っていたのか,あるいはだれかほかの手に渡っ
   たかというのは,ご存じなんですか。
      いや,杉山君が保管しているというふうに聞いていたということです。
   裁判所に出てる録音データ並びにその反訳は,録音者は弓谷さんになってい
   るんですが,弓谷さんというのは,今,学会にいらっしゃるわけですか。
      別の会社に勤めております。
   学会にいらっしゃるんですか。
      学会員としては。
   学会の何とか部長とか,そういう役職にあるわけですか。
      いや,職員ではなく,一般の会社に勤めております。
   当時の役職ではなくなったということですか。
      ええ,もう5年たっておりますので。
   弓谷さんを呼んで,さっきおっしゃった録音の仕方とか,録音機の機能とか,
   そういうことを確認することは可能なんですか。例えば,裁判所に呼んでき
   てお聞きすることは可能かどうか,今の職場の状況とか,現在の学会との関
   係からお伺いしているわけですが。特に学会との関係は,当時と変わらない
   ということですか。
      ちょっと質問の趣旨がよく分かんないんですけども,学会との関係と
      いうのは,会員でなくなったとか,そういう意味ですか。
   それも含めてです。
      いえ,学会員として,学会員でおります,そういう意味でいえば。
   あなたは,弓谷さんから録音の状況とか,録音機能についてこの法廷に出る
   に際して聞いたことはないわけですね。
      はい。
   こういう録音物が2つあるということは,原告の訴訟代理人にはお伝えして
   あったんですか。それとも,そのことをあなたは知らないんですか。
      いえ,代理人にも2つあるということは,申し上げました。
   いつごろおっしゃったんですか。例えば,この本件訴訟提起のときには,お
   っしゃったわけですか。
      はい。
甲第92号証の2(反訳書)を示す
   41ページ,480の谷川さんの発言として,「矢野さんがいた位置は,山
   友,内藤の位置なんですよ。」とか,「明らかに敵だと,学会を売った,と
   いうふうに思っていた時期がある」とか,さらにその次の42ページ,「む
   しろ,敵の一番ど真ん中にいるような,材料を出した。ということについて
   の疑念というのがあるわけですよ,いまだに。」,こんなことおっしゃって
   ますね。ここで,おっしゃっている山友というのは,山崎正友氏のことです
   ね。山友と,あなたはご発言されてますが。
      この3行目のところですか,はい,そうです。
   山崎正友氏が学会からどういうふうな追及をその後受けたかということにつ
   いては,矢野さんは,知っておられたわけですね。
      いや,それは私がお答えすることじゃないかもしれませんけれども.
   だって,矢野さんがいた位置は,山友の位置なんですよということは,意味
   を持っためには,山友というのは,学会とどういう関係であったかというこ
   とを知ってなきゃ会話は通じないと思います。
      それは,ご存じだったでしょうね。
   山友の位置なんですよと言われたら,矢野さんとすると,山崎正友のような
   ことをされるのかと,こういう不安を持つとはお考えになりませんでしたか。
      それは,かなり意図的にねじ曲げた話であって,この面談の中で,月
      刊文藝春秋の連載の順番,それから,その山崎正友氏が文藝春秋の手
      記の中で矢野氏のことを取り上げているということを申し上げている
      わけですね。そういう総合的な客観状況を勘案すると,そのときに矢
      野さんがいた位置ですよ,今いる位置じゃなくて。そういう手記を書
      いたということを考えると,そのときの位置は,一緒に月刊文藝春秋
      の反学会批判キャンペーンの中に,3回矢野さんが手記を書いて,2
      回山崎正友氏が手記を書いて,しかも9月号をご覧になると,編集後
      記に書い七ありまずけれども,内藤氏の話が書いてあるんですよ。そ
      うすると,編集者の意図,この反学会のキャンペーンの意図に沿って,
      この手記を掲載されたというふうに,そういう意味で,この当時のそ
      のときに矢野さんがいた位置は山友,内藤の位置なんですよ,正直言
      うとと。それで,それに対して,私たちの心証はそうだったんです,
      そのとき。で,明らかに敵だと,学会を売った,そういうふうに思っ
      ていた時期があるわけですと言ってますね。それで,それは長谷川副
      会長や,その西口副会長,藤原さんが,そうじやないんだと。そうい
      う位置じゃないんだと。青年部に言われるので,それで,どうなんだ
      ろうと。しかしながら,委員長でお世話になって政治家になった矢野
      さんなんだから,そうじやないんだろうなと,はっきり判断がつかな
      い,そういう疑念を持っていたということを言ってるんであって,ど
      こに山崎正友と同じように攻撃するというふうに言ってるんですか。
   さらに続けて,さっきお示ししたように,むしろ,敵の一番ど真ん中にいる
   ような疑念があると,いまだにと言ってるわけですね。
      そうですよ。ですから,今,お話ししたように。
   いまだに敵ではないかという疑念があったわけでしょう。
      そうですよ。疑念が晴れないということを言ってるわけです。
   この場合の敵って何なんですか。
      学会を公然と攻撃してくる,また悪意を持っていろんな策略をめぐら
      す,ということが敵という意味です。
   敵かどうかというのは,どうやって認定するんですか。
      一般的にそう言われてもなかなかお答えしにくい質問ですけども。
   学会としてですよ。あるいは,青年部として。
      公然と虚偽の事実であるとか,それから悪意を持った言論とかいうこ
      とで学会に攻撃をしてくれば,それは敵というふうに言えるというふ
      うに考えております。
   それは,組織的な認定なんですか,それとも個人的な感想なんですか。42
   ページの480項のことで申し上げてますが。
      これは私たち青年部がそう思っていたと。私たちの心証がそうだった
      と,その時期,というふうに言ってますよね。
   相手が敵の場合には,どうするという趣旨なんですか。
      言われていることがよく分からないんですけれども。
   だって,相手に対して,あなたは。
      敵であれば戦うということじゃないでしょうか。戦う相手が敵という
      ことじゃないんですか。
   どういう方法で戦うんですか。
      それは言論であるとか,いろんな方法があると思いますけど。
   敵かどうかという疑いをかけられたら,その疑いを晴らすためにはどうすれ
   ばいいんですか。
      それは,事実をきちっとご説明されれば,敵でないということが明ら
      かになるんじゃないでしょうか。
   敵かどうかの最終判断は,組織のトップが決めるということではないんです
   か,最終的には。
      違います。
   青年部が決めるんですか。
      違います。
   だれが決めるんですか。
      それはもう公然と攻撃してきたという事実があれば,だれが決めると
      いうことなく,敵であるということははっきりすると思いますし,そ
      うでないものを攻撃することはありません。
   戦いをするんですから,組織として戦いをするわけですから,やっぱり組織
   的に認識を持たないとおかしなことになりませんか。
      それは,ですから,そういう事実があるということをもって,みんな
      認識するわけですから,ありもしないことを言って学会を攻撃してく
      れば,敵であることは明らかじゃないヂしょうか。
   42ページの480項から486項の流れなんですけど,そういう敵のど真
   ん中にいるという疑念があるということに続けて,家族のことを持ち出した
   わけなんですね。
      いいえ,違います。
   だってそうじやないですか。
      ですから,疑念があると,これは先ほども申し上げましたけども,ど
      うしてこの,またどっかに書くんじゃないかというふうに念を押した
      かというと,矢野氏は,手記について謝罪をされましたけれども,途
      中で,皆さんの前で言ったことと違ったことを言うようなことありま
      せんと,非常に含みのあるようなことを言われましたので,念押しを
      したわけですね,ここで。今日の会談について,書くようなことはし
      ませんねと。どうしてそう言うかというと,そういう疑念を持ってい
      た時期があるわけですと。
   いまだにでしょう。
      ですから,476項で,私はこの段階でこう申し上げるのに,「ちょ
      っと失礼な物言いになっているかもしれませんが。」というふうにお
      断りをして,これまでさまざま確認をしてきて,手記を書いたことに
      ついては謝罪をされましたけれども,しかし,どうしてそういうふう
      に言うかというと,これまでの経過の中で深い疑念を持っていた時期
      があるんだと。で,その謝罪が本当に真摯かどうかということについ
      ても,その疑念というものが払拭しきれないものがあると。だから,
      ここでねじ曲げたことを,今日の面談についても率直に語り合ってい
      るけれども,ねじ曲げて書くことはしませんねと,書きませんねとい
      うことで,書きませんと,書かないですというふうに言われたんで,
      で,しかもその念を押したときに,きっぱりと「書かないです。」と
      こう言われたんで,それでは一緒に学会員としてやっていく上でご家
      族も喜ばれるでしょうという話題になっていったという会話の流れで
      す。
   これは,文書の読み方ですから,評価に当たる議論は避けますが。
      いや,私はその場にいたわけですから。
   486項で,「で,一方」という言葉で家族の話に入っているわけですね。
      そうですね。
 

スーパー玉出マニア

 投稿者:阪南中学校卒  投稿日:2011年 1月31日(月)02時52分8秒
  ここのスーパー玉出も便利です!出勤途中によく利用してます!

(アドレスの頭ににhを足してね)
ttp://maps.google.co.jp/maps?oe=utf-8&hl=ja&client=firefox-a&ie=UTF8&q=%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E6%A9%8B%E7%AD%8B%E5%95%86%E5%BA%97%E8%A1%97&fb=1&gl=jp&hq=%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E6%A9%8B%E7%AD%8B%E5%95%86%E5%BA%97%E8%A1%97&hnear=%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82&ll=34.704704,135.510845&spn=0.001239,0.00284&z=19&brcurrent=3,0x6000e6c6e0af4e9b:0x2315e2f333d61646,1&layer=c&cbll=34.704629,135.510842&panoid=vL3wQh7mHpYE3k9FbrH17Q&cbp=12,94.27,,0,-6.56

 

日主上人と日就上人の御虫払いの相違

 投稿者:ケンケン  投稿日:2011年 1月31日(月)00時09分25秒
  ■日主上人 「日興跡条々事示書」

富士四ヶ寺之中に三ヶ寺は遺状を以て相承被成候。是は総付嘱分なり。大石寺は御本尊を以て遺状被成候。是れ則ち別付嘱・唯授一人の意なり。大聖より本門戒 壇御本尊、興師より正応の御本尊法体付嘱、例者上行サツタ定結要付嘱大導師以意得如此御本尊処肝要なり。従久遠今日霊山神力結要上行所伝の御付嘱、末法日 蓮・日興・日目血脈付嘱、全体不色替其侭なり。八通四通は総付嘱か、当寺一紙三ヶの付嘱、遺状は文証寿量品儀なり、御本尊は久遠以来所未手懸付嘱なり。
※ ここでの考察及び見解としては日主上人の御正本と拝していけるかどうかが、非常に疑義を挟む余地があろう。
私は靈寳蟲拂日記において、日記と記されていることも文上にも記しているが「日興跡条々事示書」においては何一つ論証する根拠や経緯にあたる文献として取り扱うことが非常に難しい。
理由は誰に、何の目的で「日興跡条々事示書」を書き残しているかがわからないのである。
靈寳蟲拂日記においては、下文にあるように日記と記してどのようなことを行い、出席された方が誰なのか、刻銘に記されている。
宗祖日蓮大聖人の御遺文でもお手紙にも花押がないものや、月日のないものが現存されているが、然しその中に多く見られるのは富木常忍に対するお手紙が多い。
日興跡条々事のことがそこまで重要な書置きに値するならば代々歴代法主は書き留めることが唯授一人相承の証にもなるだろう。
つまりは、本門戒壇大御本尊の意識などは日主上人には全くなく更には「日興跡条々事示書」において、記されたのは、他書物の紛失などの経緯などがあり、そのような観点から示書として遺されたのではないかと推測する。
更に奥に入り、雑感としていえることは過去に本門戒壇大御本尊があったのか、或は他山に本門戒壇大御本尊があったのかということも考えられる問題ではないだろうか。
唯一言えることは、大石寺には日禅授与模写された本門戒壇大御本尊は存在せずに大本尊と称した曼荼羅大本尊が時代を超えて成立したものと考えられる。
歴代法主全書では、年月日はないものの「日興跡条々事示書」が先に掲載されてその後に年月日の入った「靈寳蟲拂日記」が掲載されている。
つまりは、年月日による時系列問題、また唯授一人相承の思想からも考えられない文と見るべきであろう。
口伝相承は、法門の上での問題であり、本門戒壇を内々で秘していく問題は見受けられない。
そうであるならば、公で行われた靈寳蟲拂であれば当然日記に記されていい問題ではなかろうか。
また大石寺十六世日就上人「靈寳蟲拂日記」元和八年七月 正本 大石寺蔵

御直判合十二通、但貳輔外ニアリ
  元和「壬戌」暦七月吉日

とあり、曼荼羅本尊の靈寳蟲拂は行われた様子はなく御遺文等の靈寳蟲拂は行われたように思われる。
大石寺十四世日主上人と大石寺十六世日就上人の相違といえば、しっかりと記録として遺しているが、残念なことにあろうことか日就上人においては但貳輔外ニアリと言われており、ほかに二つ外に重宝が出ていることを自ら告白している。
その後に日精上人の登座があるから当然ながら、本門戒壇大御本尊の成立は日精上人以降か日精上人「当時」からと見ることが妥当であろう。






 

フェイク 第1172号

 投稿者:シーズン3  投稿日:2011年 1月30日(日)23時49分20秒
  (発行=11.01.28)
現証の面で仏法の正邪は歴然
退転者は堕地獄の相、学会員は成仏の相
法妙寺の講頭・田中一栄の哀れな末路

福井県大野市内の法妙寺講頭で法華講連合会北近畿地方部理事の田中一栄が、
去る一月四日、肺炎のため六十二歳の若さで死んだ。

今から約二十年前、宗門問題が表面化した直後の平成三年四月二十八日、地
区部長をしていた田中は約三十世帯の学会員を引き連れて脱会した。以来、大
野・勝山方面の檀徒の中心者として暗躍していた。

この間、地元の学会員は悔しい思いを抱きつつも、不屈の精神を胸に秘めて
懸命に広宣流布の聖業に邁進してきた。

田中に騙されて邪宗門に付いた者達は、殆どが日顕ら極悪坊主共の醜態を知
り、学会から離れたのを反省して脱講した。そのため田中一族は孤立状態だっ
た。

特に許し難い田中の悪行は、学会員宅に押し掛けてきては学会の悪口を繰り
返して「地獄に堕ちるぞ」「罰が当たるぞ」等々と感情的になって口汚く罵詈
雑言を浴びせていたことである。

そのような田中の反社会行為を邪宗門・法華講は高く評価し、平成十七年十
月に同寺の講頭、同十八年四月には北近畿地方部理事に就任させたのであった。

昨年十二月二十五日にも副圏長のY氏宅に来た田中は顔色が悪く、背も曲が
って弱々しく見苦しい姿になっていながらも、名誉会長に対する見当違いの批
判を口走っていた。

そのためY氏は鋭く反撃して「では、お前の師匠は誰なのか?」と追及した。

すると田中は答えられず、暫く沈黙したあと「高橋住職だ」と応えていた。

対論に負けた田中は「一年以内に罰が出るぞ」と捨て台詞を吐いて立ち去ろ
うとしたので、Y氏は「待て、その言葉をそのままあんたに返す」と切り返し
た。

その二日後、田中は緊急入院し、年明けの一月四日、あっけなく死んでしま
った。

八十歳代の母親はショックのあまり、通夜にも告別式にも出席できないほど
憔悴していたという。葬儀に参列した親戚の人の証言によると、死相はどす黒
く、ふた目とは見られない酷い悪相だったとのことである。

怠け坊主の高橋思道

同時期に同じ地域で純真な信心を貫いた学会の地区副婦人部長が亡くなった
が、その見事な成仏の相が参列した人々の間で話題になった。息子さんは母親
の成仏の姿に感動して「学会の皆さんにお礼を言いたい」と座談会に出席。婦
人部員の素晴らしい成仏の相と法華講幹部の堕地獄の相の現証により仏法の正
邪は歴然と証明されたといえよう。

田中が師匠だと言った高橋思道は、遊び好きの怠け坊主である。

高橋は昭和五十九年七月、ハワイ本誓寺の住職になったが、赴任して以来、
法務を怠けて「ハム無線」に興じていた。本誓寺には巨大アンテナが立ってい
て、さながら軍事基地のような感じで、そのうえ「ハーレー・ダビッドソン」
のバイクを乗り回して遊んでいた。

そのことを密告され、日顕の逆鱗に触れて平成九年六月、本誓寺住職をクビ
になり、寮住まいの囚(とら)われの身になっていたが、四年後の平成十二年
十一月、法妙寺住職になった。

こんな遊蕩坊主が師匠では、師弟共に堕地獄は絶対、間違いない。
 

話になりませんね!

 投稿者:おい!小池!  投稿日:2011年 1月30日(日)22時18分39秒
  http://8223.teacup.com/koumanoken/bbs/66517

訓読されたものを訳もわからず、更に解釈されると読めません。

れいな氏は、アホタンやからどうしてもコピペに依るしかないようです。

日興跡条々事と日主の御虫払いの接点は関係ありません。

更に日興条々事にある弘安2年とは、楠木腐敗板本尊ではありません。

 

サ○キの手

 投稿者:北斗A  投稿日:2011年 1月28日(金)20時45分0秒
  お前は、本部長時代に「男子部は常に御書を手に持って活動しなければいけない」なんて得意気に話していたが、やる事為す事丸でダメな、落ちぶれたお前が、今、手に持っているのは、嘘で塗りつぶした「ビラ」と坊主に媚を売る「提灯」かぁ!?(爆笑)

お前の程度の低い教学力では、せいぜい相手にできるのは(目糞鼻糞関係の)顕正会くらいが精一杯ってことだよ(笑)

お前は「創価の正統教学」には所詮、太刀打ちできない六師外道の末流ってことが天下に証明されたな。

正邪が明らかになった以上、地獄に堕ちる前の置き土産に
①創価学会への「謝罪文」を書く
②今後一切、日顕宗害毒を社会に撒き散らさない「誓約書」を書く
③日顕宗と縁を切る「脱退届け」を書く
のいずれかを記して置くように!!
※アル中で手が震えて文字書けるか?(笑)
 

本門戒壇は可笑しい(笑)

 投稿者:三島  投稿日:2011年 1月28日(金)17時36分45秒
  「弘安二、三(一二七九、八0)年」日蓮書状

伊予房は学生になりて候ぞ、つねに法門きかせ給い候らえ、はるかにみまいらせ候らわねば、おぼつかなく候、当時とてもたのしき事は候らわねどん、昔はことに侘しく候らいし時より、やしなわれまいらせて候らえば、ことに恩重く思いまいらせ候、それについては、命は鶴亀のごとく、幸は月のまさり、潮の満つがごとくとこそ、法花経には祈りまいらせ候らえ、さては越後房、下野房と申す僧を伊予殿につけて候ぞ、しばらく不憫にあたらせ給えと、富城殿には申させ給え、
         十一月二十五日    日蓮(花押)
 富城殿女房尼御前

本書状は、日蓮から富城入道常忍の妻に送られた書状である。執筆年次は内容、筆跡から弘安二(一二七五)あるいはその翌年と推定され、日蓮はこの時甲斐国身延山「山梨県身延町」にあった。
内容は、富木尼の長きにわたる重恩を謝し、寿命が長く久しくあるようにと祈念をしていることを述べる。さらに、弟子二名の庇護について、常忍に口添えを依頼する。この弟子二名は、弘安二年に駿河の弟子、信徒が弾圧された事件(熱原法難)の中心におり、一応の事件終結後、下総に向かったのであろう。なお、追伸では、子息の成長ぶりについて述べている。
富木氏は下総国八幡庄若宮(市川市)に在住し、日蓮が建長五(一二五三)年に開宗宣言をして布教を開始した頃からの有力な信徒であり、子息二人も日蓮の弟子となっている。常忍は下総守護千葉頼胤の被官であり、教義の理解も抜きん出ていた。
 文永十一年(一二七四)年佐渡流罪を許された日蓮は、いったん鎌倉へ帰着するが、同年五月には鎌倉を退出して身延山に入り、以後、弘安五(一二八二)年九月に病篤く湯治のために下山するまで同地を離れなかった。
そのため、各地の弟子や信徒は、身延山の日蓮の元へと直接足を運ぶばかりではなく、しばしば使いを派遣した。それに応えて、日蓮は、数多くの書状を差し出している。本書状と同日付けで常忍へも書状を差し出しており、日蓮の筆まめぶりがうがわれる。
■ このような状況下にありながら宗祖日蓮大聖人が如何様に本門戒壇大御本尊を顕す「図顕」ことが出来ようか。
文章にもあるように、大聖人の身体の衰弱ぶりは明らかで身延山よりは一歩も出ていないことも明らかで身延山で給仕をする最中に本門戒壇大御本尊を書くことは道理的や物理的に不可能に近い。
それどころか、今までの法難や見守って下さった方々への御礼をひたすら繰り返し書状を送られている。
このような状況下においては本門戒壇大御本尊を顕すことは論外であると言いたい。
どうかんがえても熱原法難が本門戒壇大御本尊を書いた理由にもならないし日法が彫刻するなどは更に可笑しい行為ではないだろうか。


 

宗内人事

 投稿者:シーズン3  投稿日:2011年 1月28日(金)00時40分14秒
  東京・大宣寺の副住職に、東京・妙観院主管の菅野道渉(44)が就くことにな
った。同寺住職で菅野の父親・日龍(77)の体調が思わしくないためだというが、
宗内関係者によると「日龍が死んだとしても道渉が大宣寺の住職になる目は無
い」とのこと。妙観院の後任には茨城・正善寺の岩永悦道(55)が異動し、正善
寺には熊本・正宣院の佐藤道達(47)が、正宣院には本山・大坊より倉林法隆(4
0)が入る。
 

信彰の寺の講頭が突然辞任

 投稿者:シーズン3  投稿日:2011年 1月28日(金)00時28分49秒
  布教部長・阿部信彰が昨年10月に異動したばかりの常在寺(東京・豊島区
)の講頭Yが辞任した。Yは一昨年9月に任命されたばかり。任期を3年近く
も残しての突然の辞任劇に寺は騒然としている。Y以外に辞めた法華講役員は
数名に上るとの情報もある。

信彰が常在寺の住職となって以降、信彰と信者との間にトラブルが絶えなか
った。たとえば、「10時間唱題会事件」。寺の惨たんたる折伏状況に怒った
信彰は「唱題が足りない」と一喝。不満顔の信者たちを尻目に「10時間唱題
会」を敢行した。しかし、言い出しっぺの信彰本人が直後、体調を崩してダウ
ン。揚げ句に「『10時間』はやめて『5時間』にしよう」と言い出すや、そ
の身勝手な言動に信者たちが猛反発していた。今回の講頭辞任が寺の内紛にま
つわるものであるならば、同様に信彰も責任を取って住職を辞すべきである。

親の七光りで、執行部の要職をあてがわれ、大寺院を渡り歩いてきた信彰だ
が、その人間性について一貫して疑問符が投げ掛けられている。暴言、暴力等、
問題行動には枚挙にいとまが無く、3年前の末寺住職への暴行は刑事事件にま
で発展した。今回の寺の内紛に加えて、昨年の常在寺異動後、前住職・細井珪
道の未亡人を新居が決まらないうちから追い出したとして、「親譲りの血も涙
も無い冷酷男」との非難を浴びている信彰。こんな輩が"次期法主の最右翼"―
―日顕宗の異常さを物語る現実である。
 

訂正致します。

 投稿者:三島  投稿日:2011年 1月27日(木)17時15分40秒
  http://6001.teacup.com/qwertyui/bbs/5438

歴代法主を間違えて書きましたので、ここに訂正を致します。

大石寺13世 日院上人 ○

大石寺14世 日主上人 ○

ここにお断りと訂正を致します。

 

おもんないよな…

 投稿者:住●高校中退  投稿日:2011年 1月27日(木)03時26分7秒
  クロちゃんさぁ、
なんかの理由で、脱退した人間の一方的な証言なんて、何の証拠にもなんないよ。
自己を正当化するために、いいこと言わないに決まってんじゃんか。

しかも、クロちゃん得意のコピペ。
しかも、「表沙汰になっている」って、キッチリ逃げを打った臆病表現。

「表沙汰」って?(笑)「事実」とも「ウソ」とも言えない玉虫色なんだよな~。

テードの低い書き込みやめようよ。もっと、おもしろいこと書いてよ。

それに比べりゃ、クロちゃんの、実の娘さんの名前をハンネにした卑猥書き込みなんて、
日蓮正宗信徒「四天王」の宗教的発言として、価値が高いよ~。

日蓮正宗で、しっかり信仰にハゲめば、こんな人格にまでなれる、っていう、偉大な証明
なんだから。「身口意一致」だからね。

こんなこと言ってるってことは、そんなことを日頃から考えてて、まるごと、そんな人間
なんだろうよ。

日蓮正宗の題目、朗々と!(@妙輪寺・連日唱題会/くだらんオカルト法話に…苦笑)

 

大本尊と本門戒壇大御本尊は同一か?

 投稿者:三島  投稿日:2011年 1月27日(木)02時32分44秒
  私は犀角独歩氏、金原明彦氏が本門戒壇の偽作論について書いているが、本来であれば本門戒壇大御本尊が出世の本懐ならば全面的に古文書に遺されなければいけない大問題だとおもうのである。

然し、近世のものには本門戒壇大御本尊についての記述は載るが、宗祖滅後滅前にその本門戒壇についての記述を見ることは当然出来ないし、日蓮正宗の苦肉の偽書を真蹟とする考えがさらに本門戒壇大御本尊の究明が難しくなった原因でもないだろうか。

富士年表を見ても、当時の歴史背景を見ても、本門戒壇大御本尊が存在していたと仮定して護持することは困難であったと思う。

それは富士年表と歴全から抜粋する。

■1573 天正 1 癸酉 7.28 正親 足利義昭 滅後 292年 日主
2.15  日主左京阿日教著穆作抄を写す(2ー288)4月 日主陸前柳ノ目完蔵坊の常住本尊を中将日伝に授与(8ー198)8.19 日主霊宝虫払を修す(8ー 43)9月 保田日我・日侃奏聞せんとして果さず(8ー379)12.26 武田勝頼諸役免除等の保護状を西山本門寺に与う(8ー172) 3月 常楽院日経常陸山崎において浄土宗と問答(毒鼓)○要行寺日統下総飯塚光福寺に講肆〔飯高檀林の前身〕を開く(福書) 1.11  義昭信玄をして信長・家康と和せしむも信玄拒む(甲鑑)2.26 義昭・信玄、信長を撃たんとす(信長記)4.4 信長義昭を二条第に囲む(信長記)4.12 武田信玄卒53(甲鑑)8.20 信長兵を遣わして朝倉義景を囲み之を自殺せしむ(信長記)8.28 近江小谷城主浅井長政自殺す29(信長記)11.19 信長三好義継を河内若江城に攻めて之を殺す(信長記)「富士年表」

■日主上人 靈寳蟲拂日記
天正元年八月十九日 正本 大石寺蔵


御筆、數十二通
御筆之大本尊、一包 同三包
 元亀四年癸酉八月十九日
御つつらのうち、むしはらいの人數事



      當貫       儈日主  花押
      隠          日院  花押
         久成坊    日悦  花押
         寂日坊    日譽  花押
   御代   理鏡坊    日順  花押
  御中居   積中居    日出  花押

「歴全1」

■1580 天正 8 庚辰 正親 織田信長 滅後 299年 日主
▽長遠院日祇出雲今市に慈眼寺を創す(寺誌)▽宇部弘政保田妙本寺に田地を寄す(保文) 閏3.7 本願寺光佐信長と和す(信長記)▽教蔵院日生京に帰り松ケ崎に檀林を創し法華文句を講ず(別統) 1.17 秀吉三木城を陥る城将別所長治自殺す23(信長記)「富士年表」

■日主上人 靈寳蟲拂日記

    天正八年七月七日 正本 大石寺蔵

   天正八年七月七日

御直筆御判  十五通

御正筆御本尊  四包

御つつらのむしはらい人數

          當貫            日主  花押
          隠居            日院  花押
        寂日坊             日譽  花押
        久成坊             日盛  花押
        方壽坊             日精  花押
        眞如坊             日賢  花押
        積善坊             日出  花押
     中居當成圓坊            日慶  花押


     代々御判共ニ如先日記 「歴全1」

◇このように天正元年八月十九日 正本 大石寺蔵との記述は記録された月日であり実際執り行われたのは元亀四年癸酉八月十九日に執り行われたと書かれている。

元亀四年の歴史記述が富士年表からは確認出来ない「電子版と平成二年版」

では元亀四年に行われた御虫払いの大本尊は万年救護なのか、本門戒壇大御本尊だっかのか、大変興味深い。

では元亀から天正まで何年あったのかといえば凡そ22年間である。「富士年表より」

然しこの間、元亀4年説にある大本尊は姿を消していいる。

この点は、とても疑わしい。

更には堀氏が富士学林研究教学書の中でも大本尊の箇所に二重線を引いていて更には加筆を行っている。

そうなればこの元亀3年から4年にかけて大きな変化が宗門内、宗門外に起こり大石寺にも大きな波乱が起こったんではないかと推測する。

そして元亀4年に行われた御虫払いより約八年後に更に御虫払いが行われている。

然し、第十三代日主上人の時代であり、同じ法主でありながら、大本尊の御虫払いを元亀4年に執り行いながら花押をしているにも関わらず大本尊の目録が消えるのかが大変疑問になるところである。

※ 元亀四年 御筆之大本尊、一包 同三包

※ 御正筆御本尊  四包

とあり、元亀四年の大本尊を含めば同じく天正八年の御虫払いも四包となる。

「ここでの疑問」

※ ここで数年の間に現在の本門戒壇大御本尊が確立された疑いがあること。

※ 大本尊が万年救護大本尊で保田妙本寺の勢力に大石寺が対抗しようとした疑い。

※ 本門戒壇大御本尊が第十三世日主上人前には存在していても重宝として取り扱われていなかった疑い。

このような点から、本門戒壇大御本尊の歴史的後世作を今後、考えていきたい。
 

ドロ船からは鼠も逃げ出す

 投稿者:阿部日ケ~ン(院政)  投稿日:2011年 1月26日(水)18時14分35秒
  フェイク 第1171号

フェイク 第1171号(発行=11.01.25)
常在寺の柳沢講頭、阿部信彰と対立
寺に奉仕した者を平然と使い捨てる日顕宗
今月の御講で挨拶もさせずお払い箱に

 日顕宗常在寺の阿部信彰と柳沢正信講頭との対立が激化し、柳沢講頭は辞表
を提出、これを信彰が受理したということである。常在寺講中の有志によると、
今年一月三日の法華講初登山の際、柳沢講頭は日如への目通りに参加せず、周
囲の者に信彰への怒りをぶちまけて「おれは、もう講頭を辞めたんだ」と漏ら
していたが、過日、行われた同寺の一月度御講の席で、信彰は「柳沢講頭本人
からは昨年十一月に辞めたいという申し出がありました。今までは引き止めて
いましたが、この度、その辞表を受理しました」と話した。

 そして冷たい表情で「長い間、お疲れ様でした」と一言、付け加えただけで、
辞任の理由などは一切、明かさなかった。

 しかも、同講頭には挨拶をする時間も与えず、そのため同講頭は仕方なく、
信彰の話の時に立ち上がって一礼したのみであった。

 したがって、同講頭の辞任に至る背景など詳しいことは分からないが、健康
上の問題などではなく、信彰との感情的な対立のようだと見られている。
信彰にしてみれば、柳沢講頭が御講の席で、辞表を出した理由を喋ると、余程、
困ることがあるのだろう。

 講中有志の面々は、長年、寺に尽くしてきた柳沢講頭に対する信彰の態度は、
何とも冷淡だと感じたようである。

 同講頭は平成元年五月に同寺法華講の幹事になって以来、同十一年七月に副
講頭、同十五年七月には講頭に就任した。以来、同十七年、同十九年、同二十
一年と留任し、昨年の三月には総代にもなって、前任の細井珪道住職のもとで
奉仕してきた。

 そんな講頭を、前住職が死んだ途端にお払い箱とは、実に冷たい仕打ちでは
ないか。信彰によると、役員の中には他にも辞める幹部が何人かいるとのこと
であるが、その氏名、役職などは公表しなかった。

 細井前住職は昨年九月三十日に死亡し、通夜は十月三日に行なわれたが、あ
る寺族の話によると、この時、既に関係者の多くが、次は信彰が常在寺の住職
になることを知っていたとのことである。

 ということは、細井前住職がガンのため闘病生活していた時から日顕が決め
ていた人事であった。そして細井前住職の死を待っていたかのように日如に人
事を指示したことが分かる。

 講中が心配していたのは「瞬間湯沸かし器」という異名を持つ父・日顕に似
た信彰の短気なうえ凶暴な性格で、いずれ信徒との関係が悪化すると懸念され
ていたが、こんなに早く表面化するとは想定外であった。

異常人格の阿部信彰

 入院式の席で祝辞を述べた総監の八木日照が「時折、(信彰は)声のボリュー
ムが急に上がる時がある」と言った際、場内に冷ややかな笑いが起こったが、
信彰の異常人格を皆、知っているのだ。こんな坊主が次期法主の候補とは驚く
ばかりだ。

 柳沢一族の総講頭・喜惣次が常在寺から本行寺に移ったように柳沢講頭も移
籍するのではなかろうか。
 

ハゲも法華講も ガタガタ

 投稿者:宿坊  投稿日:2011年 1月26日(水)17時05分1秒
  阿部信彰が常在寺に移った途端、早くも法華講との間に

問題を起こした。

講頭(喜惣次の甥)が辞表を叩き付けたとのこと。
 

どうした?

 投稿者:北斗A  投稿日:2011年 1月26日(水)14時23分6秒
  サ●キ君、講員O氏からの疑問に答えないのか?
それとも答えられないのか?

せっかく大切な妙観講員からの質問だぞ。
みんな注目しているんだから、ここは正々堂々と答えてみろよ。

そんな体たらくでは、「新・山友」には程遠いなぁ(笑)

右翼工作に失敗したサ●キ君。起死挽回のチャンスじゃないのぉ!?

頑張らないとぉ…
日如のお目にも留まらず破門されて妙観講と自爆するよ。


人の目は誤魔化せても、サ●キ、お前が積んだ悪業・謗法の山は
仏法の厳しき因果の理法からは逃れられないぜ。

お前が独身時代、部屋全体に積み上げたゴミの山よりも高い謗法の山がな(笑)
 

カズオちゃんへ

 投稿者:ドラマ  投稿日:2011年 1月25日(火)19時07分9秒
  ダメですよ!

ハンネ変えてカキコは正々堂々から違反してんじゃないの?

もったいぶらないで、早く爆発させちゃいなよ(笑)

みんな、待っているんだよ!
 

横道それてます!

 投稿者:講員O  投稿日:2011年 1月25日(火)18時38分26秒
  昨日来、この掲示板を見ていると、私が純粋に伺いたいことを横から訳の分からない資料を投稿してくる方がいます。やめてください!
(もし、その方々が妙観講員ならばこれ程、悲しく情けないことはありません)

私がサ●キさんに求めているのは学会に対してではなく、私達、妙観講員に対しての答えなんです。

素朴に(大多数の)妙観講員が抱いていて、しかし、決して質問ができないで悶々としている仲間達を代弁する意味も込め、この場を借りて投稿しているのです。

答えてください。
 

下ネタの爆発日はいつですか?

 投稿者:ドラマ  投稿日:2011年 1月25日(火)17時50分49秒
  □カズオちゃんへ

別府・寿福寺での信徒総代(学会員大B長)の発言 昭和51年12月
投稿者:れいな  投稿日:2011年 1月24日(月)23時20分21秒 p6073-ipbfp3704osakakita.osaka.ocn.ne.jp 返信・引用
   よくまぁ、このようなことをノウノウト寺院内部で言えますね。

「日蓮正宗では成仏はできませんよ」と、池田先生はこう言っておりましたよ。

◇間違ってないでしょ。

日蓮正宗では成仏できない、的をついた意見でしょう。

カズオちゃん、自分が成仏できると思っているの?

出来ないでしょう(笑)

だってカズオちゃんは、もう既に現罰もらったでしょ!

40万円の支払い命令(笑)

ネットで下ネタ書いたほうが、安上がりかもよ(笑)
 

谷川副会長、矢野絢也・新潮社に大勝利!!

 投稿者:信濃町界隈  投稿日:2011年 1月25日(火)16時13分4秒
  平成23年1月20日判決言渡 同日原本領収 裁判所書記官 櫻井博三
平成20年(ワ)第13385 損害賠償等請求事件
口頭弁論終結日 平成22年11月18日
判決
東京都新宿区信濃町●●●●●●
原告 谷川佳樹
同訴訟代理人弁護士  宮原守男
同          倉科直文
同          佐藤博史
同          金澤 優
同          福島啓充
同          桝井眞二
同          吉田麻臣
同          成田吉道
同          大澤栄一
同          新堀富士夫
同          海野秀樹
同          小川治彦
東京都新宿区矢来町71番地
被告         株式会社新潮社
同代表者代表取締役  佐藤隆信
東京都新宿区矢来町71番地 株式会社新潮社内
被告         早川 清
上記2名訴訟代理人弁護士 岡田宰
同            広津佳子
同            杉本博哉

東京都新宿区●●●●●●●●
被告         矢野絢也
同訴訟代理人弁護士  弘中惇一郎
同          久保田康史
同          川端和治
同          弘中絵里
同          河津博史
同          大木 勇
同          品川 潤
同          山縣敦彦
主文
1 被告らは,原告に対し,連帯して33万円及びこれに対する平成20年5月
 15日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用は,これを33分し,その1を被告らの負担とし,その余は原告の
 負担とする。
4 この判決は,第1項に限り,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 請求
 1 被告らは,原告に対し,各自1100万円及びこれに対する平成20年5月
  15日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
 2 被告株式会社新潮社及び被告早川清は,原告に対し,別紙1記載の謝罪広告
  を,朝日新聞,毎日新聞,読売新聞,産経新聞及び日本経済新聞の各全国版朝
  刊社会面広告欄に,別紙2記載の条件にて各1回掲載せよ。
 3 被告株式会社新潮社及び被告早川清は,原告に対し,別紙1記載の謝罪広告
  を、被告株式会社新潮社発行の週刊誌「週刊新潮」に,別紙3記載の条件にて
  1回掲載せよ。
 4 被告矢野絢也は,原告に対し,別紙4記載の謝罪広告を,朝日新聞,毎日新
   聞,読売新聞,産経新聞及び日本経済新聞の各全国版朝刊社会面広告欄に,別
   紙2記載の条件にて各1回掲載せよ。
 5 被告矢野絢也は,原告に対し,別紙4記載の謝罪広告を,被告株式会社新潮
   社発行の週刊誌「週刊新潮」に,別紙3記載の条件にて1回掲載せよ。
 

「デマビラ」ならぬ「デマ新聞」ってこれ?

 投稿者:たかし  投稿日:2011年 1月25日(火)14時57分23秒
  『聖教』の悪口座談会に司法の鉄槌下る!

―学会及び秋谷・青木らに損害賠償命令―

(『慧妙』H18.4.1)

 去る3月13日、東京地裁(原敏雄裁判長)は、創価学会が発行する『聖教新聞』に掲載された記事が、日蓮正宗御僧侶の名誉を毀損(きそん)している、と認定、宗教法人創価学会および、同会会長・秋谷栄之助、理事長・青木亨、副理事長・原田稔、副会長・奥山義朗、青年部長(事件当時)・杉山保、男子部長(事件当時)・弓谷照彦に対し、連帯して80万円を賠償(ばいしょう)するよう命じた判決を言い渡した。
 問題の記事は、平成16年2月13日付『聖教新聞』4面に掲載された、創価学会最高幹部らによる紙上座談会。
 といえば、読者諸賢には、これがかの悪名高き(学会員からさえ嫌悪〈けんお〉されている)悪口座談会のことであると、すぐにお分かりになったに違いない。
 「正義と勝利の座談会」と銘(めい)打たれた一連の悪口座談会は、同年1月23日より連載が開始され、ほぼ連日、日蓮正宗僧俗をはじめ、創価学会が敵対者と見なす人物・政党・マスコミ等を挙(あ)げつらい、好き勝手に悪口誹謗(ひぼう)を浴びせつけてきた。
 しかして、問題となった記事においては、前に挙げた秋谷ら6名が、日蓮正宗の御僧侶を名指しして悪口誹謗を浴びせる中で、本山妙蓮寺塔中・本妙坊住職の樽澤道広尊師が、"平成6年(※実際には平成7年)に葬儀の依頼を受けた際、戒名料として2百万円出せ、と高額な金員を要求した"と断定。そして、
 「〈杉山(青年部長)〉日顕宗は末寺も大石寺も、こんなろくでなしの坊主だらけだ。本妙坊の樽沢道広も強欲のクソ坊主で有名だ」
 「〈青木(理事長)〉卑(いや)しい"商売根性"丸出しのやつだな!」
 「〈青木〉(樽沢尊師が、要求を拒否され戒名料の額を下げた、との発言を受けて)バナナの叩き売りじゃあるまいし」
 「〈原田(副理事長)〉(青木の発言を受け)バカバカしい。(中略)『ボッタクリ』そのものだ」
 「〈秋谷(会長)〉要するに坊主にとって戒名や法事というものは、ただの『商売道具』にすぎない。だいたい戒名なんか、何の元手もいらない。タダじやないか。(中略)本当にバカバカしい限りだ」
 「〈青木〉『法を食らう餓鬼』そのものだな」
等々と、樽澤尊師を指して、口汚なく罵倒(ばとう)。
 加えて、見出しにも大きく
 「樽沢道広 葬儀で開口一番"戒名に200万円出せ"と強要」
などと書き、樽澤尊師の名誉を著しく毀損したのである。
 ところが、樽澤尊師が本妙坊の住職になったのは、平成11年5月10日のこと。つまり、樽澤尊師が、平成6年(7年)に本妙坊住職として"戒名に200万円出せ"などと発言することは、客観的事実の上からも、絶対にあり得ない。明らかに虚偽(きょぎ)のデッチ上げだったのだ。
 そもそも学会の宗門誹謗報道というのは、このように、いいかげんで嘘が多いが、余りにバカバカしく、それに多大の労力と時間を使うことの無駄を考えて、訴訟に持ち込む人は多くなかった。
 だが今回は、客観的事実に争う余地はないので、樽澤尊師は、「記事は事実無根であり、『聖教新聞』の報道により、名誉を著しく毀損された」として、平成16年3月、創価学会ならびに前記6名を被告として、東京地裁に提訴。
 それから2年の審理を経て、東京地裁は今般、
 「被告秋谷らが本件各発言をし、被告創価学会が本件記事を新聞紙上に掲載し、同新聞を頒布(はんぷ)した行為は、原告に対する名誉毀損として不法行為を構成する」
とし、創価学会をはじめとする被告に対し、樽澤尊師に賠償金を支払うよう命じたのである。
 創価学会の最高幹部らが、発行部数550万部(公称)を誇る、いわゆる「3大紙」に匹敵するほどの巨大メディアである『聖教新聞』の紙面を使い、敵対者を悪口・誹謗する。その『聖教新聞』を、学会員が全国津々浦々、一般人の家庭にまで頒布して歩く―。
 この、創価学会の組織ぐるみの行為が名誉毀損にあたる、と、司法が明確に認定した今回の判決は、非常に大きな意義があった、といえるであろう。
 しかし創価学会は、判決後においてもなお、敵対者を口汚なく罵(ののし)る、秋谷・原田ら学会最高幹部による悪口座談会を、『聖教新聞』に掲載し続けている(別掲「粉砕!『聖教』の誑惑報道」参照)。
 無慙(むざん)なり!創価学会。

※創価学会広報室からは、「判決は遺憾であり、控訴を含め検討しています」との回答が返ってきた。ちなみに、『聖教新聞』は、この判決について1行も報じていない。(『週刊新潮』H18.3.16)
 

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