第75回 石田 弘 氏
3. 伝説の『リブ・ヤング!』
−−お話を伺ってると小学生の頃からのご趣味がそのままお仕事になっていますね。
石田:もともと映画が好きでしたから、中学のときは映画監督に一時憧れたこともあったんですが、やがてエルヴィスの映画ばかり観て、『さまよう青春』なんか20回以上も観てますから、「ミーン・ウーマン・ブルース」や「ゴット・ア・ロット・オブ・リヴィング・トゥ・ドゥ」の歌やアクションを全部覚えちゃって、よくまねしていました(笑)。
−−(笑)。
石田:でも歌が唄えるわけでもないし、初期のエルヴィスの真似してマーティンを買ってきたって手が小さいから上手く弾けなくてね。それでテレビのディレクターになろうと思ったんですよ。
−−高校のときにはもうテレビのディレクターになろうと考えてらっしゃったんですね。
石田:それで日大の芸術学部にでも入ればいいかなと思ってね。でも入ったからって簡単にディレクターになれるわけじゃないですから、大学4年の途中からバイトをして、それで中途採用試験を受けてフジの社員になったんですよ。
−−ちゃんと計算してらしたんですね(笑)。
石田:適当にですけどね(笑)。タイミングが良かっただけですよ。

−−でもそう考えていても、テレビ局にはなかなか入れないじゃないですか。
石田:そうですね。ほとんどは制作会社とかに行って終わっちゃいますからね。よく会社が拾ってくれたと思いますよ。
−−バイト時代はいわゆるADをやられていたんですか?
石田:古い人なら知っていると思うんですが、『三匹の侍』という時代劇のADをやっていました。
−−長門勇さんとかが出ていたドラマですよね。
石田:そうです。丹波哲郎はもう辞めてたけどね。加藤剛、それから平幹二朗。あれはスタジオドラマだったです。最初の頃は下っ端だからダメだったんですが、何年か経ったときにADが予告編を作るんですよ。それで僕が予告編を作ったときに、次週のサブタイトルが「地獄を見た」でチャンバラのシーンと目のアップ写真を持ってきて、音楽にチャーリー・ミンガスを使ったら「なんでモダンジャズなんかかけてんだ! これはフランス映画じゃなくて時代劇なんだ!」ってディレクターにめちゃくちゃ怒られちゃったんですよね(笑)。
−−すごく格好いい予告編だと思いますけどね(笑)。正式にフジテレビに入社されたときは何をされていたんですか?
石田:まだドラマのADをやってました。僕がディレクターデビューするのは26歳のときで、NHKの『ふるさとの歌まつり』みたいなものをフジも生放送でやろうってことで、日曜日の12時に『こんにちは、ふるさとさん』っていうダサいタイトルの番組でデビューしました(笑)。八郎潟の開拓村に坂本九ちゃんとデキシー・キングスを連れていって、開拓村のバンドと坂本九ちゃんが共演するみたいな変な番組でした。
−−フジテレビって昔プロダクション時代とかありましたよね。
石田:そうですね。フジテレビが社内プロダクション化して、フジプロダクションとか色々できたんですが、「これからはビデオの時代だ」と石田達郎さんが言うもんだから、僕はプロダクションには行かないで、番組制作を離れてビデオ製作部という新しくできた部署に行くんです。そこで「ビデオは何が売れるか」というと”How toもの”と”アダルト”しかないんですよ(笑)。だから『裾も乱れて』とか『ヌードポップス』といったタイトルのヌードビデオなんて作っていた時代もありました(笑)。そうこうしているうちに「こんなことをやっていてもしょうがない」と思って、逃げ出したくてフジプロへ出向するんです。
−−なぜフジプロダクションだったんですか?
石田:フジプロには岡田太郎さんがいたんですが、『三匹の侍』の最後のときに太郎さんがディレクターで僕がADだった関係もあったので、「太郎さんがいるところに出向させてくれ」と願い出たんです。それで入るときに「僕はもうドラマはやらない。もともと音楽志望でこの世界に入ったんだから、そういう番組をやらせてくれ」と言って適当にフラフラしてたんですよ。そうしたら太郎さんから「日曜の夕方に競馬の後を繋ぐ若いサラリーマン向けの番組を考えろ」って言われて、『リブ・ヤング!』の企画を考えたんです。
−−『リブ・ヤング!』は競馬の後を繋ぐ番組だったんですか(笑)。
石田:その当時『平凡パンチ』や『週刊プレイボーイ』といった雑誌が出てきて、カジュアル志向の人が増えてきてたので、『平凡パンチ』に載っているような情報を全部画にしちゃえと。メインは『パックインミュージック』で非常にウケてた愛川欽也。あと、『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』からビーバーと、バーターでボンド企画の高杉社長が獨協を出て間もないモデルがいるって、それが柴俊夫。そこに『平凡パンチ』を辞めたばかりの今野雄二を加えて番組を始めました。
『リブ・ヤング!』を始めたときはグループ・サウンズが終焉して歌謡曲の時代に戻っていたんですが、歌謡曲をやっている番組はいっぱいあったので「違う路線でいかないと自分のポジションが作れない」と思って、情報番組だけど洋楽と日本のフォークやロックを専門でやることにして、後は遊びです。例えば、六大学の女の子とかデパガとかを毎週5人位並べて視聴者に電話で投票させて、一番投票の多かった子に投票から一枚選んで逆電話させたりね。あと、「地中海クラブ」とタイアップしてたので、その二人で海外のクラブ巡りをして”そこに恋は生まれるか?”という企画「デート・アラウンド・ザ・ワールド」とか、今で言う『あいのり』ですよ(笑)。それで番組では洋楽あるいは邦楽はフォーク・ロックしか扱わなかったので矢沢永吉がキャロルのテープ送ってきたりしましたね。
−−え? 矢沢永吉さんが『リブ・ヤング!』にテープを送ったんですか?
石田:そうですよ。『リブ・ヤング!』に出たキャロルをミッキー・カーチスが観て、「プロデュースさせてくれ」って言うから、紹介してフォノグラムからキャロルがデビューするんですよ。最初の頃のアルバムの中に「ライブ・イン "リブ・ヤング"」なんていうのもありますよ。拓郎やユーミンもみんなテレビ初出演は『リブ・ヤング!』ですしね。アリスとかチューリップとかもだいたいそうですね。
−−みんな『リブ・ヤング!』を足がかりにしていったんですね。
石田:あとテレビ神奈川の『ヤング・インパルス』ですね。洋楽面で言うと、番組開始当初は「洋楽情報」というコーナーをやっていたんですが、自分達で取材しない限り、なかなか映像が入ってこない時代だったので「洋楽のプロモーションはプロモーター自身で喋ってくれ」とそのコーナーを開放したんです。そうしたら洋楽プロモーターが自分たちの出方を工夫して、番組内でプロモーションし出したんですが、その最たる例が石坂敬一さん(現ユニバーサルミュージック(株) 代表取締役会長兼CEO)ですね。彼はグラムロックのアーティストになりきって、メイクをして生放送の番組でプロモーションしていました。彼がすごいのはTレックスのマーク・ボランを連れてきて、番組に出してくれましたからね。その後もスリー・ドッグ・ナイトやアリス・クーパーとか、色々な人が続きました。
−−要するに来日すると全部呼んでいたということですか?
石田:そうですね。演奏できるアーティストは特にですね。
石田:もともと映画が好きでしたから、中学のときは映画監督に一時憧れたこともあったんですが、やがてエルヴィスの映画ばかり観て、『さまよう青春』なんか20回以上も観てますから、「ミーン・ウーマン・ブルース」や「ゴット・ア・ロット・オブ・リヴィング・トゥ・ドゥ」の歌やアクションを全部覚えちゃって、よくまねしていました(笑)。
−−(笑)。
石田:でも歌が唄えるわけでもないし、初期のエルヴィスの真似してマーティンを買ってきたって手が小さいから上手く弾けなくてね。それでテレビのディレクターになろうと思ったんですよ。
−−高校のときにはもうテレビのディレクターになろうと考えてらっしゃったんですね。
石田:それで日大の芸術学部にでも入ればいいかなと思ってね。でも入ったからって簡単にディレクターになれるわけじゃないですから、大学4年の途中からバイトをして、それで中途採用試験を受けてフジの社員になったんですよ。
−−ちゃんと計算してらしたんですね(笑)。
石田:適当にですけどね(笑)。タイミングが良かっただけですよ。
−−でもそう考えていても、テレビ局にはなかなか入れないじゃないですか。
石田:そうですね。ほとんどは制作会社とかに行って終わっちゃいますからね。よく会社が拾ってくれたと思いますよ。
−−バイト時代はいわゆるADをやられていたんですか?
石田:古い人なら知っていると思うんですが、『三匹の侍』という時代劇のADをやっていました。
−−長門勇さんとかが出ていたドラマですよね。
石田:そうです。丹波哲郎はもう辞めてたけどね。加藤剛、それから平幹二朗。あれはスタジオドラマだったです。最初の頃は下っ端だからダメだったんですが、何年か経ったときにADが予告編を作るんですよ。それで僕が予告編を作ったときに、次週のサブタイトルが「地獄を見た」でチャンバラのシーンと目のアップ写真を持ってきて、音楽にチャーリー・ミンガスを使ったら「なんでモダンジャズなんかかけてんだ! これはフランス映画じゃなくて時代劇なんだ!」ってディレクターにめちゃくちゃ怒られちゃったんですよね(笑)。
−−すごく格好いい予告編だと思いますけどね(笑)。正式にフジテレビに入社されたときは何をされていたんですか?
石田:まだドラマのADをやってました。僕がディレクターデビューするのは26歳のときで、NHKの『ふるさとの歌まつり』みたいなものをフジも生放送でやろうってことで、日曜日の12時に『こんにちは、ふるさとさん』っていうダサいタイトルの番組でデビューしました(笑)。八郎潟の開拓村に坂本九ちゃんとデキシー・キングスを連れていって、開拓村のバンドと坂本九ちゃんが共演するみたいな変な番組でした。
−−フジテレビって昔プロダクション時代とかありましたよね。
石田:そうですね。フジテレビが社内プロダクション化して、フジプロダクションとか色々できたんですが、「これからはビデオの時代だ」と石田達郎さんが言うもんだから、僕はプロダクションには行かないで、番組制作を離れてビデオ製作部という新しくできた部署に行くんです。そこで「ビデオは何が売れるか」というと”How toもの”と”アダルト”しかないんですよ(笑)。だから『裾も乱れて』とか『ヌードポップス』といったタイトルのヌードビデオなんて作っていた時代もありました(笑)。そうこうしているうちに「こんなことをやっていてもしょうがない」と思って、逃げ出したくてフジプロへ出向するんです。
−−なぜフジプロダクションだったんですか?
石田:フジプロには岡田太郎さんがいたんですが、『三匹の侍』の最後のときに太郎さんがディレクターで僕がADだった関係もあったので、「太郎さんがいるところに出向させてくれ」と願い出たんです。それで入るときに「僕はもうドラマはやらない。もともと音楽志望でこの世界に入ったんだから、そういう番組をやらせてくれ」と言って適当にフラフラしてたんですよ。そうしたら太郎さんから「日曜の夕方に競馬の後を繋ぐ若いサラリーマン向けの番組を考えろ」って言われて、『リブ・ヤング!』の企画を考えたんです。
−−『リブ・ヤング!』は競馬の後を繋ぐ番組だったんですか(笑)。
石田:その当時『平凡パンチ』や『週刊プレイボーイ』といった雑誌が出てきて、カジュアル志向の人が増えてきてたので、『平凡パンチ』に載っているような情報を全部画にしちゃえと。メインは『パックインミュージック』で非常にウケてた愛川欽也。あと、『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』からビーバーと、バーターでボンド企画の高杉社長が獨協を出て間もないモデルがいるって、それが柴俊夫。そこに『平凡パンチ』を辞めたばかりの今野雄二を加えて番組を始めました。
『リブ・ヤング!』を始めたときはグループ・サウンズが終焉して歌謡曲の時代に戻っていたんですが、歌謡曲をやっている番組はいっぱいあったので「違う路線でいかないと自分のポジションが作れない」と思って、情報番組だけど洋楽と日本のフォークやロックを専門でやることにして、後は遊びです。例えば、六大学の女の子とかデパガとかを毎週5人位並べて視聴者に電話で投票させて、一番投票の多かった子に投票から一枚選んで逆電話させたりね。あと、「地中海クラブ」とタイアップしてたので、その二人で海外のクラブ巡りをして”そこに恋は生まれるか?”という企画「デート・アラウンド・ザ・ワールド」とか、今で言う『あいのり』ですよ(笑)。それで番組では洋楽あるいは邦楽はフォーク・ロックしか扱わなかったので矢沢永吉がキャロルのテープ送ってきたりしましたね。
−−え? 矢沢永吉さんが『リブ・ヤング!』にテープを送ったんですか?
石田:そうですよ。『リブ・ヤング!』に出たキャロルをミッキー・カーチスが観て、「プロデュースさせてくれ」って言うから、紹介してフォノグラムからキャロルがデビューするんですよ。最初の頃のアルバムの中に「ライブ・イン "リブ・ヤング"」なんていうのもありますよ。拓郎やユーミンもみんなテレビ初出演は『リブ・ヤング!』ですしね。アリスとかチューリップとかもだいたいそうですね。
−−みんな『リブ・ヤング!』を足がかりにしていったんですね。
石田:あとテレビ神奈川の『ヤング・インパルス』ですね。洋楽面で言うと、番組開始当初は「洋楽情報」というコーナーをやっていたんですが、自分達で取材しない限り、なかなか映像が入ってこない時代だったので「洋楽のプロモーションはプロモーター自身で喋ってくれ」とそのコーナーを開放したんです。そうしたら洋楽プロモーターが自分たちの出方を工夫して、番組内でプロモーションし出したんですが、その最たる例が石坂敬一さん(現ユニバーサルミュージック(株) 代表取締役会長兼CEO)ですね。彼はグラムロックのアーティストになりきって、メイクをして生放送の番組でプロモーションしていました。彼がすごいのはTレックスのマーク・ボランを連れてきて、番組に出してくれましたからね。その後もスリー・ドッグ・ナイトやアリス・クーパーとか、色々な人が続きました。
−−要するに来日すると全部呼んでいたということですか?
石田:そうですね。演奏できるアーティストは特にですね。