【雑記】・「サブカル衰退の話」
オタクがサブカルを嫌いなのは、サブカルが「オタクを馬鹿にして優越感を搾取する文化」だから(自意識高い男子)
おおむね、「世代の違いで状況の感じ方が違う」ということだと思うのですが、1967年生まれの私の思ったことなどを。
・その1
サブカルってのは、「消費センスに優れたオレかっこいい」のナルシシズムを基本とする文化なので*1、「センスの悪いあいつら」という外敵を構造上必要とする文化なんですよね。で、その「外敵」としてターゲットにされたのがオタクだった。
これは、まったく間違っているとは言わないまでも、さすがに言いすぎじゃないかと。
確かに「こんなものが好きなおれかっこいい」というのがサブカル、というのは昨今、よく言われる話ですが、そこまでサブカルが「堕落」してしまったのは00年代に入ってから、というのが私の感覚ですね。
もっと実感として言うと、00年代も半ばを過ぎた頃。
ちなみに「電車男」ブームが2005年です。この「電車男ブーム」が、オタクが「名誉白人ならぬ名誉一般人」として「普通の人々」に受け入れてもらえた出来事だと私は認識していて、これ以降、オタクだろうがサブカルだろうがどうでもよくなっていく印象です。
サブカルを論じるときに面倒なのが、「じゃあサブに対立するメインは何なのか」ってことです。議論はいろいろありますが、日本の場合、簡単に言って「オトナの文化」と言っていいでしょう。
「サブカル」を単体のものとみなすから「アイデンティティとしてオタクが必要なんだろう」ということになっちゃうんだと思いますが、「オトナの文化」に対立するものとして、最初、オタクもサブカルもあったわけです。
正確には、「オタクとサブカルが混然とした何か」がです。
じゃあ「オトナ文化」ってのは何かというと、ことさらに変革を求めない、落ち着いた文化のことだと私は思います。
昼間きちんと働いて、帰りにちょっとバーやキャバレーに寄って、いいオンナに目うつりするけれど、浮気はしない。
ときには寿司の折詰めを子どもたちにおみやげに持って帰って、翌日、ワイシャツに口紅がついてたからって奥さんに怒られる……とか。
まあ「サザエさんの男たち」の享受している文化のことです。
また別の角度から見ると、「トキワ荘」の回想録などを読んでも、登場人物にオタク的、あるいはサブカル的な印象は抱きません。彼らは主に児童マンガの描き手ですから、大人/子どもの区分がハッキリしているところにサブカルもオタクも出てきません。
(余談ですが、その「児童マンガ」の変質に違和感を感じた寺田ヒロオはマンガ家を廃業しますが、やや飛躍した言い方をすれば、大人/子どもの差異がマンガにおいて将来的にきわめて希薄になることを、テラさんは悟っていたのかもしれません。
・その2
そんな「現状」に疑問を呈し、文化状況に混乱をもたらそう、としたのが本来の「サブカルチャー」であると私は考えています。
カウンターカルチャーとも言いまして、カウンターカルチャーとサブカルチャーに厳密な差があるのかもしれませんが、とにかくそういう「現状を破壊するような不穏さ」が見え隠れするのが、サブカルチャーだったのです。
それは当然、60~70年代の「反乱の思想」であった新左翼と強く結びついていました。70年代の東映の映画なんかみると、もうなんでもかんでも常識をひっくり返してバイクに乗ってドスや拳銃を振り回して、警官をぶったたいて女の子とセックスして……の繰り返しです。
歴史的には、1973年頃の学生運動の衰退を境に、そういった「反乱の時代」も縮小していきます。が、サブカルチャーは現在と比べればずっと好景気だったのを背景に、80年代に入ってからは「消費」の中で生き延びようとします。
この辺は、大塚英志の「おたくの精神史」とかに書いてあります。
80年代というのはそういう大量消費社会の中で、新左翼的な主張や態度が「おれらもまだまだ行けるぜ!」って主張してみたり、一方で「あんなこと言ってるけど、サヨクなんてもうダメなんじゃねえか?」とか言われて、グズグズ争っていた時代です。
80年代後半、「西川りゅうじん」というトレンドライターがいて、この人は完全に消費社会側の人というか、無思想なライターだったんです(今もそうかは知りません)。
で、ナンシー関をはじめ、当時のサブカル・コラムニストの何人かが、「西川りゅうじんと一緒にされるのはいやだ」的なことを言っていたことがありました。こういうことが起こるのは「消費社会」を、反体制のきっかけとしてとらえるか、それとも、単に「消費は消費だ」ととらえるか、という見解の相違が「当時の西川りゅうじん」に、如実に出たからです。
話は前後しますが、そのちょっと前の1983年に、中森明夫の「おたくの研究」が出ます。ということは、1982年頃から、「あいつ(おたく)らってちょっとダサいんじゃねえか?」と思われていたということでしょう。
で、この「おたくの研究」での中森氏のおたくについての書き方は本当にひどくて、今だったら「炎上間違いなし!」と言ったところでしょうが、では中森氏は「マウンティング」のためだけにこんな文章を書いたのか? というと、そうではないと思います。
・その3
中森氏は、ざっくり言って「消費社会の豊かさを利用して反体制的に生きる」と言いますか、まあそういったポリシーを持っていたと思います。
彼がはっきりと新左翼と言えるかというとそうでもないところが、80年代前半の地下文化状況を表しているとも言えるのですが、でも反体制的な思想を持っていたことは間違いない。
ところが、「おたく」というのは、基本的にノンポリですから(ここも面倒で、細かく見ていくと本当はそうとも言いきれないのですが。たとえばコミックマーケットの拡大路線には明らかに「思想」が見えますし)、当時の中森氏にとっては、「おたく」が、自分の足を引っ張る存在のように思えたのでしょう。
これに対し、すぐさま大塚英志氏から反論が寄せられたのはよく知られるところです。まあ「どっちが先か」ということで言えば、中森氏(サブカル)が先なのですが、彼に対して、「センスのないやつをやり玉にあげて自分たちをよく見せようとした」と断ずるのは、あまりに乱暴というものでしょう。
当時の大塚氏の批判も、「マウンティング云々」はなかったはずです。むしろ、80年代後半の、大塚英志氏のサブカル批判(正確には「新人類」と呼ばれた文化人批判)は、「おまえらなんだかんだ言ってマッチョ思想で、女の子泣かしたりしてんじゃねーか」というところを突いたりしてましたね。
まあ大塚氏も「おたく」を通して彼なりの「思想」を語っていたので、そこははっきりとイデオロギー闘争だったのだと思いますよ。
で、「サブカル」の背景としてうっすらとあった「反体制思想」がトドメをさされたとすれば、それはバブル崩壊よりも、1991年のソ連崩壊の方が、間接的に影響しているんじゃないですかね。
なんで「サブカル」と「ナルシシズム」が合体してしまったかというと、それまでは「サブカル」とは「反体制」だったわけです。
ということはどういうことかというと、「なんだか作品的にはよくわからないけど、反体制的でこれからこれが世の中を揺るがしていくかもしれないから」といった評価が大幅に後退し、その「なんだかわからないもの」を成立させる理由として、「『私』が好きだから、いいと思うから」ということしか代入できなくなった、ということだと思います。
で、そうは言っても、「反体制」が「ナルシシズム」に入れ替わったとき、もろもろの評価は当然変化します。
たとえば「全裸で泥団子を食うパフォーマンス」とかより、「おしゃれでカッコいいもの、かわいいもの」の方が商業ベースには乗るんで、前者は後退し、後者だけが残った、というのが私の解釈です。
・その4
また、繰り返しますが「冷戦時代」の崩壊もサブカルにとっては大きかったでしょう。それまでは「反体制」とはいっても、アメリカかソ連に文句を言っていればよかったわけで、構造は単純だった。アメリカなんていくらバーカバーカとか言っても、優しく受け止めてくれた(もしくは無視してくれた)わけで。
ところが、冷戦崩壊後は、相手にすると面倒な国と対立することになり、一種の「おとしどころ」がなくなってしまったわけです。
反原発やヘイトスピーチなど、政治的な部分が80年代よりはるかにむき出しになり、だからといってそれをカルチャーの中に落とし込んで行けない。まあ、恐いですからね。敵が具体的になりすぎてしまって、反体制的な態度が取りにくくなってしまった。
しかし、「なんだ、じゃあそれまでのサブカルなんて『なんちゃって』だったんじゃないか」って言われると、それもそうとも言いづらいんですよ。
だって現実に政治運動している人はいっぱいいますから。そして、それを「サブカル」って言っちゃうと、彼らはあまりよく思わないということがある。それは、デモにしろなんにしろ、彼らにとっては「政治そのもの」だからです。
また、前述のとおり、現在の政治状況が必ずしも大人/子ども(青年)という対立軸になっていないことも、かつてのカウンターカルチャーのような盛り上がりがない(と私には思える)一因でしょう。
ではサブカルは本当にただ、「おしゃれサブカル」として衰退していくだけなのかというと、そうではないと私は思っています。
サブカルに残っているフロンティア。
それは、フェミニズムとセックスにまつわる諸問題です。
オタクもフェミとセックスに関しては、あまり言及していません(むろん、「エロマンガ」という広大な分野がありますが、では「エロマンガ」が完全に「オタク的なものか」という議論はあるでしょう。だって、やっぱり山本直樹なんかは「サブカル」陣営に入るじゃないですか)。
オタクはビッチを好まないし、分析もしません。
最近、私が衝撃を受けたものは、
・あやまんJAPAN
・ロボットレストラン
・スプリングブレイカーズ
・テレクラキャノンボール2013
……でして、これらは少なくとも「電車男」以降のオタク的コンテクストでは読みとれないものばかりです。
このあたりに、もろもろのヒントがあることでしょう。
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