ハッカーの遺言状──竹内郁雄の徒然苔
第13回:異分野交流

元祖ハッカー、竹内郁雄先生による書き下ろし連載の第13回。今回のお題は「異分野交流」。

ハッカーは、今際の際(いまわのきわ)に何を思うのか──。ハッカーが、ハッカー人生を振り返って思うことは、これからハッカーに少しでも近づこうとする人にとって、貴重な「道しるべ」になるはずです(これまでの連載一覧)。

文:竹内 郁雄
カバー写真: Goto Aki

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1年経ってもまだ遺言状を書いている。あり得ない! まだ生きていることを言い訳しないといけないという気分になってきた。でも、もう少し付き合ってください。

前回の「フォーミュラ0.5」で、またも「ヘテロ」(第5回「つぶ餡と漉し餡」で話題にした言葉)について蒸し返した。ヘテロは汲めども尽きぬ概念なのである。というか、私はヘテロを栄養にしてこれまで生きてきたような気がする。加藤和彦先生、すいません。

私は、あるシンポジウムで、シンポジウムの趣旨とはあまり合ってなさそうな「異分野交流と異分野漫遊」という講演を行った。詳細はこのタイトルで検索するとすぐ見つかる。本稿はそれベースにしている。異分野はヘテロに相通じる。そして、漫遊は、これも前回の「遊び」に相通じる。これも重要な栄養だ。

魔女は大鍋に怪しい多種多様の物質をぶち込んでグツグツ煮て、秘薬を作り出す。ヘテロが生み出す業だ。私はその大鍋にぶち込まれたほうだ、というか半分、自分で飛び込んだ。

「フォーミュラ0.5」では情報系と物性系の研究室が混交した基礎研究部の中で自然に異分野交流が行われていたと書いた。その数年後、研究部が情報系と物性系に分かれた。情報系の新部長が血気盛んな方だったので、情報系だけに閉じるのではなくお互いにもっと親密に話をするべく「リンケージ」という活動をしろとおっしゃった。研究室の壁を越えて話し合えというわけだ。

私は30歳ちょいだったが、この年代の研究者はそこそこの仕事があって忙しい。彼らに時間を作らせて強制的にどこかの部屋に集めて話し合いをさせるという上意下達、御上製の異分野交流は、結局うまくいかなかった。貴重な時間をつまみ食いされているという感覚のほうが強くて、異分野が交流して新しいアイデアを出すというシナジーに発展しなかったのだ。

科学技術振興機構(JST)が以前主催していた科学技術フォーラムは、やはり御上製の異分野交流なのだが、やり方が異なっていた。何しろ、3年がかりなのである。最初の年はフォーラムと呼ばれ、次の年はワークショップ、つまり自由な議論から徐々に議論を具体化させていき、3年目は人数を絞って領域探索を真面目にするというものだった。私は1980年代後半の「脳」をお題にしたフォーラムと、1990年代半ばの情報と記号に関したフォーラムに参加した。

脳のフォーラムには、外国からも含めて多様な参加者が30人ほど、脳神経科学、ニューロコンピュータ、半導体工学、通信工学、カオス、生物学、動物学など、普段はお互いに話をしないような人たちが集まった。

こういう人たちを、2泊3日、時間無制限、夜食は無限に出しますという恐ろしい宣言のもとで(もちろんアルコールは出る──これ重要!)部屋に閉じ込めて議論させる。これは先ほどの御上製のリンケージとは違って、つまみ食い時間ではない。朝から夜まで。暗い部屋に閉じ込めて羽毛布団を売る、あの商法とほとんど同じで、そのうち興奮のルツボになってくる……、すると、みんながあることないことを喋り出す、催眠商法的な仕組みなのだ。オフレコ話がどんどん出てくるようになり、それに釣られて、さらにいろいろな話が連鎖反応で出てくる。

例えばブリティッシュテレコムの人が、いきなり紙の裏で計算を始めて、ぱっと手を挙げて、人間の五感というか、感覚器官から入ってくる情報の量を計算してみたと言う。紙の裏ですぐに計算できるようなものではないとは思うが、エイヤーッと計算したら7テラビット/秒だったと。催眠商法だから(?)みんなそれを信じる。実際、その程度だろう。

ドイツから来た人だったかな、生物がバイオケミカルで実現している素晴らしいパワーウェイトレシオをメカトロで実現するのは無理だと、確たる根拠なく言い出した。でも、納得させられる。通常の学会じゃ、こんな発言はあり得ない。

私は計算機屋として参加したが、他分野の話はよく分からないけどすごい。私は日ごろ結構複雑なプログラムを書いていたフラストレーションから、何か他分野の方たちを煙に巻くようなことを喋った。それが他分野の方には何か魔法のように受け取られたようだ。お互い隣の芝は青い、の原理だろうか。と言いながら、どんな話をしたのか自分ではまったく覚えていない。困ったものだ。

このごろコンピュータプログラマはあまり尊敬してもらえない。しかし、当時は少なくとも何かコンピュータの先端研究っぽいことを喋ると、すごい世界ですねぇ、とてもついていけないみたいな超弩級の賛辞が来るのである。軸索を流れる神経パルスがニューロコンピュータのモデルとは違うというのは当時ホットな話題だったが、それを聞いた私はなんと素晴らしい深い世界と思ってしまった。お互いさまだったのだ。

このフォーラムが終わったあと、東大生産研の尾上先生がリコーの中央研究所所長になられたとき、私を渋谷駅前のリコーのサテライトビルでサロンをやるのに付き合わないかと誘っていただいた。サロンは、半導体の生駒先生、東大医科研の福田先生、ヤリイカの松本先生、ニューロの田中先生が常連で、ゲストをよく招いていた。これは本当にサロンで、夜、お酒を飲みながら喋る設定だった。毎月誰かが話題を提供し、それをタネに言いたい放題するのである。

印象深かったのは、当時電総研、ヤリイカの軸索の研究で有名な松本元さんの話だ。ヤリイカを生きたたま運搬・保存する、さらにヤリイカの細胞を組織破壊せずに電子顕微鏡で見れるようにする技術を発明したのが松本さんだ。ただ、特許にしなかった。あのとき特許を取っていれば、今ごろ巨万の富を稼いでいたはず、その富があれば、赤坂に3階建てのヤリイカ博物館を作るんだとおっしゃる。実は3階建てには意味があって、1階は博物館、2階は研究室、3階は研究で使ったヤリイカの料亭。実に合理的な建物だ。

ヤリイカは四角い水槽に入れると壁に体をぶつけて傷つき、そこから細菌が入って死んでしまう。ドーナツ型のプールを作って、水が循環するように動かしてやると、ヤリイカは体を壁にぶつけずに泳ぐので少し長くは生き延びる。

それでもヤリイカは、自分の排泄物の毒素、つまりアンモニアの自家中毒でやられてしまうことが分かった。アンモニアをどうするか。アンモニアを食べてくれるバクテリアを入れたらどうか、とまず考えた。ところがうまくいかない。ここでアイデアが閃いた。バクテリアだけを入れて1週間放っておく。するとアンモニア大好きなバクテリアはおなかを空かせる。そこにヤリイカを入れる。するとちょうどいいバランスでイカの出すアンモニアを消化してくれる生態系ができあがるのだ。断食でバクテリアを育てる逆転の発想だ。相撲部屋のチャンコ鍋も似た発想か。

細胞の電子顕微鏡写真を撮るためには、細胞を絶対零度近くに冷やした状態で脱水する。ただし、細胞を正確に凍らすのは難しい。冷凍庫で凍らせると肉や魚がまずくなるのは、氷の結晶が細胞膜を破って、解凍時に細胞内の液体が出てしまうからである。だから、内部組織を壊して、細胞膜を破るのは御法度。つまり、氷の結晶を成長させてはいけない。氷の結晶は刀のような形で成長していくので、いろいろな組織を破壊していく。だから、結晶を作る暇を与えないで凍らせるべし。サロンのアルコールのせいで、松本さんは弁舌さわやか。

松本さんは、近くのスーパーに行き、特売品の電子レンジを買った。彼は元は物理屋なので、それを分解するのはお手のもの。電子レンジのマグネトロンをむき出しにしてしまった。よい子の皆さんは真似してはいけません。マグネトロンは水の分子を選択的に揺さぶって温度を上げる装置だ。

従来、細胞を瞬間凍結するには、液体窒素が入った壺の中に銅板を浮かべ、そこへ小さく切った細胞片をペチャッと落とす。絶対零度近くの銅板の上に落ちると、細胞は瞬間的に凍る。

普通にやると、ペチャッと落ちたところから上の10ミクロン程度までが組織内組織を破壊せずに凍る。そこから先は、氷の結晶が成長してしまう。松本さんは、なんと落とす途中で細胞を温めた。冷やす前に温めるという逆転の発想だ(図1)。

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図1:左が従来のやり方。松本さんは右のように落下途中の管をマグネトロンで挟んで、落下途中の短い瞬間だけ水の分子を揺らして、結晶のタネとなる分子間結合を切るというアイデアを思いついた。

マグネトロンは、水の分子を揺すって水の分子同士の結合をほどく。分子間結合をほどいてから落とすと、結晶成長のタネがなくなる。こうして組織を破壊しないで凍る範囲が一挙に30ミクロンか40ミクロンになった!

こういう目からウロコが落ちるような、教訓に満ちた逆転の発想が聞けるのが、異分野交流の醍醐味である。このサロンでも私が唯一コンピュータ屋だったので、妙に魔術師のように思われてしまった。いまだに不思議だ。1990年代に入る前はバブルの絶頂期であり、こういう異分野交流を支える社会的な風潮があったようだ。バブルじゃなくても、こういう風潮は続けてほしいものである。

さて、当時民営化されたNTTが、NTTフォーラムなるものを開催した。NTT本社ビルの立派な会議室で、外部から10人ぐらいの人を集めてきて議論させるのだ。NTTの狙いは、ただの通信業者から脱皮するために、何かの方策、知恵を出してほしいということだった思う。集まったのはほとんど文系の先生方である。なぜか私はNTT側からのメンバーとして参加することになった。これがメディア論、哲学、社会学などの多彩な文系の先生とお付き合いをするきっかけだった。

文系の先生は、議論の仕方が理系と全然違う。それまで異分野とはいいながらずっと理系の枠内に留まっていたので、文系の人と話をすると格別の面白さがあることに気がついた。彼らが本気で書いた文章は本当に難しい。しかし、対話になると多分同じことを言っていると思うのだけれど、なぜか100倍ぐらい分かりやすい。書かれる言語と話される言語が、あんなに徹底的に違うとはすごい。

そうこうしているうちに「現代思想」という哲学系の雑誌に巻頭エッセイを連載してくれと頼まれた。西田裕一という当時の副編集長、とんでもない編集者だということがあとで分かったのだが、彼が私を選んだとのこと。ともかく、文系の人たちにとっては、この雑誌に何かを書くというのはそれで論文になるという格式の高いものらしい。

巻頭エッセイを連載してくれと言われたとき。予備校の宣伝ではないけれど、「どうしてこの私が?」と、つい言ってしまった。ここに何かを書くのは本当に辛かったが、なんとか6回連載できた。ともかく異分野に進出したことになったか。

西田裕一さんは奇人で、あの強面の「現代思想」の編集長になったあと、いきなり「やめた」と言って「月刊アスキー」の編集者にトラバーユしてしまった。これは業界的には大変な事件だったようで「どうしてまたアスキーに?」と話題になったらしい。アスキーのあとは、これまた飛んで、平凡社の百科事典の編集。生き様ヘテロと言えよう。

そんな彼が何を思ったか、「月刊アスキー」の企画として持ってきたのが「新科学対話」である。これはガリレオ・ガリレイをパクったタイトルだ。こうして「新科学対話」の連載が始まり、単行本になった(写真1)。対談した方は、脳の養老孟司先生、生物誌の中村桂子先生、歌う生物学者本川達雄先生。唯一の計算機屋は、現在ソニーコンピュータサイエンス研究所所長の北野宏明さん。彼は元は物理屋だけど。

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写真1:「新科学対話」(竹内郁雄、アスキー、1997年)。Amazonで中古が35円とある。これは買いでっせ。

対談をする前には必ず先生方の書いた本を1~3冊読んで予習をするのだが、これが結構しんどい。東大経済学部の岩井克人先生の「貨幣論」は最初の1ページから何が何だかさっぱり分からない。でも対談すると、それと多分同じことが100倍ぐらい分かりやすく聞ける。こういうのはけしからんなぁと、いまでも思う。ほかには、免疫ネットワークの多田富雄先生、カオスの金子邦彦先生、ニューロの甘利俊一先生、社会情報学の水越伸先生、東大法学部の石黒一憲先生。哲学者の黒崎政男先生、社会学者の大澤真幸先生。読んでもまったく分からなかった著作が数点あったことを告白しておく。

錚々たる方々と対談していた約1年間、私は仲間とSILENTという名前のコンピュータ(Lispマシン)を開発していて、自作コンピュータ上に独自のOSを書いていた。しかし、SILENTのハードに少しバグが残っていたので、その上のプログラミングはコンピュータのバグの上を綱渡りするという離れ業だった。ちゃんと動くはずのプログラムが動かないときにはコンピュータと、自家製マイクロアセンブラを疑えというすさまじい世界だ。そのとき使っている言語はカッコと16進数だった(写真2)。

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写真2:「新科学対話」の写真家川上尚見さんが撮ってくれたもの。遺言状の写真を撮ってもらっているGoto Akiさんと違い、川上さんは笑いを強要しないが、ときどき変な恰好をさせる。プログラムを書く人は白衣を着ないのに、このときは着せられた。プロジェクタの文字が写るようにする配慮か。要するに人間スクリーン。プロジェクタに写っているのは当時書いていたマイクロカーネルのスケジューラの中心部。「え、何?」「これLispでは?」と思った読者はスルドイ。マイクロプログラムをLispのS式で書くのだ。しかし、この写真の最大のポイントは私の頭の右横に奇しくも投影されたコメント「no process is runnable」。つまり、この頭はなんも考えることできない、と書いてあることだ。まさに「笑わされる」写真だ。いいですねぇ、「笑わされる」のダブルミーニング。

だから、こういう方たちとちゃんと日本語で話ができるのは、いい気分転換になるはずだった。しかし、ときどきすさまじく難しい本を読まされるストレスが逆に溜ったという、だらしないことになってしまった。異分野もはまりすぎると頭が痛くなる。でも、やはり大いに勉強になった。

私はこのころNTTから大学に移った。大学の研究室に閉じこもって気楽にやっていけるかなと思っていたら、NTTから、オープンラボというのをやるんだけど出てくれないかと声がかかった。異分野交流は一度頭を突っ込むと逃れられないものらしい。初台のオペラシティに、オープンラボが開設されて、月に1回集まって何かやれという。先ほど出てきた哲学者の黒崎哲男さん(※1)が「メディアの変容と受容」チームのリーダーで、メンバーは、科学哲学者の村上陽一郎先生(※2)、精神科医の香山リカ先生、デザイン批評家の柏木博先生、社会情報学の吉見俊哉先生、それに私が加わった。毎月1回、ゲストを招いたりして議論するのだが、結構高いテンションを強いられた。何しろ、私には理解できない単語が飛び交ったからだ。

これが3年間も続いて、最後に「情報の空間学」として出版された(写真3)。私はこの中で「メディアと豊かさ」というエッセイを書いた。これは技術論風だが、裏付けのない技術論だ。感覚と憶測だけで書いた技術論風エッセイなので、書くのが癖になるくらい楽しかった。異分野交流で培われた怪しい感覚かもしれない。

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写真3:「情報の空間学 ― メディアの受容と変容」(黒崎政男監修、NTT出版、1999年)

このオープンラボに集まった人たちは後知恵家と超然家とバクチ屋の3種類である。人文系の人は、過去から現在の現象をスパッと切って整理をするという後知恵専門家だ。心理学ですら後知恵的なところがある。だから、文学部にあるのかな。

超然家は、統一場理論など、日付と無関係な事実を整理することを生業としている人たちだ。要するに世の中の流れとはあまり関係ないことを議論している。バクチ屋はエンジニアのことだ。エンジニアは昔を見ずに、未来を見ている。こんなものを作ったら売れるかもしれない、使ってもらえるかもしれないと、いつもバクチをやっている。

「メディアの変容と受容」チームは、後知恵屋と超然家とバクチ屋が集まった見事にヘテロなチームだった。バクチ屋は後知恵屋から学ばなければならない。一時期、技術が世の中を動かすと、バクチ屋である技術屋が信じていたという事実があるが、そんなことはあり得ない。

社会が技術を受容できるようにするためには、社会のことを考えないといけない。つまり技術者だけでは世界を変えられない、という当たり前のことをちゃんと学ぶ必要がある。逆に後知恵屋は、バクチ屋から将来の後知恵のネタを仕入れる。これは後知恵屋にとってとても重要で、他人よりも早く後知恵のタネを手に入れることを競って情報収集に余念がない。超然屋はカスミだけでは生きていけないので、俗世間の空気を吸って栄養を取り、ついでに超然の功徳を施すことが本務だろう。こうして、ヘテロ共存社会が成立する。

異分野交流、ヘテロ交流は、ちょっと疲れるけれど、それ以上に面白い。その「面白い」から、魔女の大鍋じゃないが、何か新しいものや奇妙なものが生まれる。私の場合、人々に役立つ新しい何かを生み出したという実感はないが、かろうじて奇妙なものは生み出せたかもしれない。100%成功保証のあるものはない。皆さんも、隣の青い芝に関心をもって、いまやっていることちょっと違うところに首を突っ込んでみてはいかがだろう。たとえ新しいものが生み出せなくても、楽しいことは保証できる。(つづく)


※1:黒崎さんもオーディオマニアだ。当時自宅には天井にぶつかってしまう巨大な蓄音機(!)が鎮座していたと聞く。
※2:村上先生はチェロをプロと合奏できるレベルで弾ける方である。羨ましい。


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